盛夏に      

 

祥子が京都府立植物園に来たのは20年振りだった。20年前のそのときは京都市出身の祥子に案内してほしいと当時付き合っていた彼氏にせがまれ、弁当を持参して出掛けたのだった。祥子の彼氏は、季節を待たずに常に何か美しい花を楽しませてくれる植物園が好きだといつも話していた。

祥子の彼氏は石井という名で同じ大学に通う学生だったが、京都の大学に憧れて入学しては見たものの元々希望していた学部でなかったため、授業にもほとんど出席しないでアルバイトに明け暮れていた。祥子は石井と会うたびに、大学の授業に出席するようにと懇願していた。

その日ふたりは、朝から植物園へと出掛けた。そして温室で熱帯植物や仙人掌を見たり、屋外で今盛りのサルビアカンナの花を見たりした。連日35度近くの猛暑が続いていたが、その日はその暑さも一段落という感じがする日だった。ふたりは小さな頃の花にまつわる思い出を話しながら、植物園の中央にある芝生の広場の芝生に腰を下ろした。
祥子は石井に言った。
「もうすぐ夏が終わるわ。あなたもそろそろ、気持ちを切り替えて学校へ出て来たら」
祥子が弁当を開くと、石井は何も聞こえなかったように、弁当に手をつけた。祥子が余りに強くその手を振り払ったために、弁当の中身のほとんどが、彼らが腰を下ろしていた芝生に散乱してしまった。
「あっ、どうしてくれるんだ」
思わず、石井は大きな声を出して睨みつけた。祥子は、
「お弁当なら、いつだって作ってあげるわよ。私はあなたのことが心配で...」
そう話すと、手で顔を覆って下を向いてしまった。
しばらくしてから、石井は話し出した。
「弁当を食べてから話そうと思っていたけれど、俺、とりあえず出直そうと考えているんだ。大学に届けを出すつもりだ。一旦故郷に戻ってこれから先のことを考える。勉強をし直して別の大学に入るかもしれないし、いろんな仕事をしながら全国を回るかもしれない。今どうするのかと言われると困るけど、今から20年先には充実した20年だったと振り返ることができるような日々にしたいと考えているんだ」
「私を置いてきぼりにするの」
と祥子が話すと、石井は少し声を上ずらせて言った。
「明日には、出発しようと思う。お前には世話になった。ありがとう。10年先では、まだ志し半ばというところだから、20年後に、よかったらこの時間この場所で会おう。お前への感謝の気持ちはそのときにも損なわれていないと思う」
祥子が話そうとすると石井はそれを制して、
「今は社会を知らない未熟者だけれど、今度お前に会う時には気に入ってもらえる人間にきっとなっているから」
と言うと、石井は芝生の広場を東に歩き出しすぐに見えなくなった。

祥子は、大学を卒業しOLとなった。祥子は器量の良い、明るい女性だったので、多くの男性が祥子に誘いの言葉を掛けた。しかし祥子は多くの同僚が参加する催しには積極的に参加したが、特定の男性と親しくなるような集まりに参加することは極力避けた。やむを得ず参加しなければならないときは、中座した。祥子は仕事にまじめに取り組んだので、上司の信頼は厚かった。いつしか祥子は会社にとってなくてはならない人間となり、寸暇を惜しんで仕事をするようになった。いつしか20年の歳月が経過した。

そして祥子が待ち望んでいたその日がやって来た。

祥子は両親と同居していたので、自分で料理することは余りなかったが、運命の日には自らが料理した弁当を持参することにした。その日の午前中は晴れ間も見える天候であったが、お昼前には雲が広がり、今にも泣き出しそうな天候になっていた。祥子は普段スーツを着ていたが、その日は久しぶりにジーンズにTシャツ姿で出掛けた。植物園の入場券売り場の券売機に硬貨を投入しようとすると、石井の声がした。
「祥子さんですね」
しかしそこには祥子が想像していた石井の姿は、なかった。石井はどちらかというと色白の細面の美男子であったが、そこにいた石井は筋肉質で四角い顔の日に焼けた男性で長年の苦労のためか年より10才は老けて見え、頭髪も薄くなっていた。

祥子が動転していた心を落ち着かせ、持参した弁当を一緒に食べて近況報告をして別れようと決めたのは、それから1分ほどしてからだった。
「石井さん、入場券買いました。買っていないのなら、もう1枚買いますから」

石井と祥子が芝生に並んで座り、祥子は用意した弁当を広げた。しばらく昔を懐かしんでいる石井の横顔を祥子は眺めていた。石井は別に祥子に頼まれたわけでもないのに祥子と別れてから今までの出来事を話し始めた。最初の2、3年は他の大学への進学も考えたが結局果せず、全国を廻りながら生涯の仕事を探すことにした。今から10年前に立寄った北海道の酪農家でとりあえず1ヶ月使ってほしいと頼んで仕事をさせてもらったが、主人に気に入ってもらい、その後ずっとそこで仕事をさせてもらっている。主人は今70才で後継者がいないために石井に後を継いでほしいと言われている。石井としては祥子との約束を終えた後で、北海道に戻り後継者として酪農家の主人になるつもりだと話した。

祥子が食べ終えた弁当を片付けていると、石井は少し残念そうな顔をして話した。
「君がまだひとりでいるのは、複雑な気持ちだ。僕としては君に北海道に来てもらいたいが、君のことを考えるとそれで君が幸せになるのか疑問に思う。北海道の自然は厳しい。2、3年すれば仕事になれるだろうけれど、きっと君も自然に曝されて別人のようになってしまうだろう」
祥子が何も話さないので、石井は続けた。
「君はご両親と同居している。きっとご両親は君が...」
祥子はそれを遮って話した。
「あなたのお気持ちは本当にありがたいのですが、北海道には行けません。それは両親の世話をしなければならないとか、会社を辞めたくないとかの理由ではありません。また余りにあなたの容貌が変ってしまったからでももちろんありません。今まで私があなたを待ちつづけたのは、その先にあるあなたとの幸せを期待できたからです。人生いくつかのわかれみち(分岐点)があってそのたびにいくつかの選択肢が用意されるように思います。あなたは今回その分岐点で現れたわけですが、私がそれを選びたくなるようなすばらしい生活を提示して下さいましたか。北海道の自然は大変だの、しばらくすれば老いさらばえてしまうなんて。それでは、さようならとしか言えないのではないのでしょうか」
祥子の話しが終わる頃には、石井は祥子と最後に会ったときの顔に戻っていた。石井の顔に希望が満ち、青年特有のはにかんだ笑みが浮かんだ。
「わかった。わかった。間違いなく君を幸せにするから、今から北海道に行こう」
祥子にも当時の明るい笑顔が戻った。
「はーい。その一言を待っていました。これからどうするか学生時代によく行った喫茶店で話しをしない。さっきは心にもないことを言ってごめんなさい」
そう言って立ち上がると、祥子は石井の手を取った。ふたりは、芝生の広場を東へと向かった。

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