『ドヴォルジャークの生涯』について

私は今から38年ほど前にクラシック音楽に親しむようになり、ドイツの作曲家を中心にたくさんの楽曲を聴いてきた。最近はドヴォルザーク、チャイコフスキー、グリーグ、シベリウスなど民族主義的な音楽を中心において、さらに普遍的な音楽も作曲した国民学派と呼ばれる作曲家の音楽にも興味を持っている。ドヴォルザークで普遍的な音楽と言うと、チェロ協奏曲、交響曲第8番、交響曲第9番「新世界から」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などである(交響曲第7番、弦楽セレナーデ、スラブ舞曲第8番などの名曲もあるが、民族色が濃い)が、実は私は以前から、この裕福でない肉屋の子息がどうして音楽に興味を持ち、作曲家になろうと思ったのか。また晩年に作曲した上記の曲以外に普遍的なものがあまりなく、壮年の頃はどのように過ごしていたのか。またブラームスと親しい間柄にあったと聞くが、当時の他の作曲家、特に大先輩であるスメタナとの交流はどのようなものだったのかを知ることができる図書はないものかと思っていた。そう思い続けていたが、ある日ふと2、3年前に風光書房で、『ドヴォルジャークの生涯』ブリアン著 関根日出男訳 新時代社刊を購入していたことを思い出した。段ボール箱に入れてあったこの本を取り出して最初にある写真のページを見ているだけで、この作曲家に対する興味が益々出て来て、伝記、評伝をあまり読まない私も早速この評伝を読むことにした。そこには誠実な、友人と家族を大切にする誠実な人物の生涯が書かれてあった。
アントニン・ドヴォルザーク(私は普段からこちらの表記に慣れているので、こちらで以下記載する)は、1841年にプラハの北30キロのネラホゼヴェスに生まれた。生家は肉屋だったが、父親がツィターの名手で音楽好きだった。父親に影響されてか、幼い頃から音楽が好きだったドヴォルザークは音楽家を志す。小学校の先生にヴァイオリンを学び、9才でアマチュア・オーケストラの一員になるが、肉屋を長男のアントニンに継がせるつもりだった父親はドヴォルザークをズロニツェに修行に出す。ところが、この町でドイツ語教師(肉屋の修行にドイツ語は必修科目だった)で音楽教育に熱心なリーマンで認められ、リーマンから、オルガン、ヴィオラ、ヴァイオリンの指導を受けたり、音楽理論の基礎を学んだりする。ドヴォルザークの実家の経済状況が悪化して、父親に一緒に働くよう言われるが、リーマンの説得により、父親は息子が音楽家になることを認め、ドヴォルザークはプラハの音楽学校で学ぶことになる。ドヴォルザークの学生生活は経済的に苦しいものだったが、リーマンや親友ベンドルなどの援助や激励で無事優秀な成績で学業を終える。卒業後、恐らくはいろいろな器楽曲も作曲されたのだと思うが、この本には、チェコ語の歌詞の歌曲、オペラの作曲を中心に音楽活動をしていたと書かれている。
オペラの作曲で才能を認められた、ドヴォルザークが世間の注目を集めるようになったのは、当時指揮者もしていたスメタナがドヴォルザークが作曲したオペラの序曲を取り上げてからである。スメタナはその後も自分の演奏会でドヴォルザークの作品を取り上げ、この豊かな才能の作曲家の作品が少しでも多くの人に接することができるよう骨を折っている。またヤナーチェクとは音楽だけでなく、一緒に旅行をして親交を深めている。ドヴォルザークは同じ国民学派のチャイコフスキーとも親しくしていたが、ブラームスとの親交はどの作曲家より長く深いものだった。ドヴォルザークがブラームスと初めて会ったのは、ドヴォルザークが初めてウィーンを訪れた時で、鉄道愛好家のドヴォルザークが乗って来た機関車のことを迎えに来たブラームスに話しているところは微笑ましい。この本ではさらに、ブラームスがドヴォルザークを訪ねてプラハに行った時のことが詳細に書かれている。ふたりの作曲家の絆を強くしたのはドヴォルザークが作曲した「モラヴィア二重唱」で、その楽譜を見てブラームスがそれまで以上にドヴォルザークの音楽に興味を持ったことに始まると思われるが、その後、何度もふたりの作曲家は行き来し、ブラームスの死の3日前にもドヴォルザークはブラームスと言葉を交わしている。
ドヴォルザークは音楽学校を卒業してからは、オーケストラのヴィオラ奏者をしながら作曲家活動をすることになる。それと同時に裕福な商人の姉妹に音楽を教えていたが、最初に恋心を抱いた姉のヨゼフィナとはうまく行かず、妹のアンナと結婚する。最初の数年間で三子を儲けたが、病気や事故で三子とも失い、失意のどん底にあったが、創作意欲が衰えることはなく、名曲「スターバト・マーテル」を残している。その後もドヴォルザークは七子を儲け、オティルカはスークと結婚するが、チェコのヴァイオリニスト、ヨゼフ・スークはドヴォルザークの曽孫(ひまご)である。
ドヴォルザークは、破格の報酬でアメリカの国民音楽院の院長に迎えられるが、静養のため一度帰国している。この帰国後、ドヴォルザークは二度目のアメリカ訪問をしているが、最初と違って高揚した楽しい気分になれず、すぐにホームシックになり、父親が病気になったこともあり、チェロ協奏曲を作曲してすぐに1年足らずで帰国している。またこの時の激務が身体に堪えたのか、帰国後、6年してドヴォルザークは62才で亡くなっている。
このアメリカ訪問で、ドヴォルザークは、新世界交響曲、弦楽四重奏曲「アメリカ」、チェロ協奏曲を完成させることができたが、長生きしてあといくつか大曲を残してくれていたらなあと私は思う。ただ、この3曲はいずれもアメリカでの体験(新世界交響曲、「アメリカ」)や辛い気持(チェロ協奏曲)から齎されたものなので、アメリカ訪問がなければ、愛国者のドヴォルザークは国民学派としてチェコ(ボヘミア)の人々への音楽をずっと書き続けていたかもしれない。