『シベリウス 生涯と作品』(菅野浩和著)について
私は以前からシベリウスのファンであるが、楽しめる作品がモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどに比べて極めて少ないことを残念に思っている。私の場合は最初に「フィンランディア」と「トゥオネラの白鳥」を聴いたのが始まりだった気がする。そして交響曲第2番、ヴァイオリン協奏曲、小品の「悲しきワルツ」を聴いて、さて次に何を聴いたらいいのかということになった。自分で調べてレコードを聴いてみて、交響曲第1番、第5番、第7番がすばらしいことはわかったが、その後が続かなかった。交響曲を得意としたシベリウスであったが、7曲しか作曲しておらず、第3番、第4番、第6番はどうしてもそのよさが私にはわからず(オーケストラに問題があるのかと思い、2、3聴いてみたが、同じだった。ウィーン・フィルなら魅力を引き出せるかもしれない)、これも彼が得意だったとされる交響詩も「フィンランディア」や「トゥオネラの白鳥」ほどの名曲を見つけることはできなかった。彼は国民学派の音楽家であるしどうしてもフィンランド語やスエーデン語の声楽曲をたくさん作曲することが多く、、年金をもらっていて生活のためにお金を稼ぐ必要がなかったので、大曲を作曲する必要がなかったと考えることも可能である。しかしシベリウスの評伝を読んでもう一度彼の業績を洗い出して、彼の特長である弦楽器と管楽器が交互に繰り出す美しいハーモニーや金管楽器の咆哮が聴ける佳曲が見つからないものかと思い、以前から読んでみたいと思っていた『シベリウス 生涯と作品』(菅野浩和著)を読んでみた。
この本の序文にもあるとおり菅野氏は大変なシベリウス・ファンで、「これを契機として、シベリウスがもっとわが国で愛好されるようになることが願わしい」とも書かれていて、様々の文献も取り寄せられ、完成させた力作と言える。前半はその生涯について詳しく書かれてあり、その後で彼の作品について書かれてある。
シベリウスは1865年フィンランドの内陸部の中都市ハメーンリンナに生まれる。5才の頃に叔母のユリアからピアノを習い、音楽に興味を持つ。14才でヴァイオリンを与えられたシベリウスは演奏に夢中になり、一時はヴァイオリニストになろうと思ったこともあった。この幻想感の表現にふさわしい楽器にシベリウスは魅力を感じて、腕前をめきめきと上げていった。作曲でも非凡な才能を見せたシベリウスは職業的音楽家への道に進みたいと主張したが、まともな生計を営むことが難しいと判断した家族や親類から強く反対された。それでシベリウスはヘルシンキ大学の法科に入学したが、音楽以外に興味がないことを知ったシベリウスの叔父が親戚を説得して、シベリウスが音楽の道に専念できるようにした。シベリウスは、20才にしてようやく音楽院で音楽の勉強に専念できるようになったのである。
音楽院を卒業したシベリウスは、ベルリン、ウィーンに相次いで留学するが、当時の音楽の中心地でたくさんの芸術家との交流ができ、刺激を受けたようである。ウィーンから帰国したシベリウスはヘルシンキ音楽院の教授の職に就くが、それは1892年のことである。同年にシベリウスは「クレルヴォ交響曲」を完成させ、演奏会が行われ、大成功を収める。フィンランドの民族的叙事詩『カレワラ』に基づいて雄大な交響的作品を作り上げたということで、熱狂的な喝采を浴びたようである。シベリウスはその後も『カレワラ』に基づいた交響的作品を作曲し続けるが、その初めが、「クレルヴォ交響曲」だった。この年にシベリウスは結婚している。翌年、シベリウスは、「カレリア組曲」「4つの伝説曲」を作曲するが、こちらは「クレルヴォ交響曲」と違って、今日、日本でも時折演奏される。1894年には、シベリウスはイタリアやバイロイトに行き、イタリアオペラ、ワーグナーのオペラを鑑賞したが、ワーグナーのオペラは好きになれず、「タンホイザー」と「ローエングリン」を見ただけだったようである。1897年にはシベリウスは功績を認められ、国家的作曲家として政府から終身年金を与えられるようになった。これは当時のロシア領下のフィンランドが民族的な自覚に目覚め、精神的な旗印を求めていたという事情もあった。シベリウスは教授の仕事を1901年まで続けるが、それ以降は作曲に専念することになる。1899年には「フィンランディア」、1902年交響曲第2番が発表され大成功を収める。この第2交響曲の初演の指揮をしたのはシベリウス自身で、シベリウスは求められて、しばしば外国で指揮をしたようである。イギリスでは特に熱狂的に迎えられ、それが今日もイギリスで盛んにシベリウスが演奏されることに繋がっている。1904年に田園での生活を始め、その後は不定期に交響曲を作曲する他にはいくつかの交響詩
を残しただけだった。
シベリウスは先にも書いたが、自分の作品を海外で紹介するために自ら指揮をした。この他、フィンランドを代表しての外国訪問というのもあったかもしれない。しかし作曲家としては、第3番〜第7番の交響曲、交響詩の「ポヒョラの娘」「夜の騎行と日の出」「タピオラ」他を残したくらいで、私が聴いた印象では、自身の生誕50年を記念して作曲した交響曲第5番と同第7番は金管楽器のハーモニーが極めて美しいすばらしい曲であるが、他には心に残る名曲というのはない。菅野氏はこの本の最後で「第三版の際しての補記」というのを書かれていて、そこには、「転居の理由は、耳疾と、それに加えて、パリ演奏旅行の成功によって名士となったシベリウスの身辺が社交などに忙殺され、彼は神経を消耗し、憂鬱症に陥ったので、こうした心身の危機からの脱却のために、田園の閑居に生活の場を変えたとされてきた」と書かれている。確かに、作曲家として国民から大きな期待をされ、耳の疾患はあったのだろうが、37才で交響曲第2番を作曲してからのシベリウスは余りに寡作すぎる。田舎に籠らず、積極的にウィーンで刺激を受け、交響曲第2番、同第5番、同第7番の規模の曲を1曲でも多く作曲してほしかった。スメタナも耳の疾患を患ったが、その60年の生涯でドヴォルザークや多くのチェコの音楽家を育てた。
シベリウスは、1957年、91才でこの世を去った。