『ベートーヴェン研究』(山根銀二著)について

私は浪人時代になって俄かにクラシック音楽ファンとなったのだが、その原動力となったのが、苦悩を突き抜けて歓喜に至るベートーヴェンの音楽だった。ちょうどその時私はそんな音楽を渇望していたのである。良い機会なので、私が恩恵を受けたベートーヴェンの音楽を列挙してみたい。
チェロ・ソナタ第1番(op.5-1) チェロ・ソナタ第2番(op.5-2) ピアノ・ソナタ第4番(op.7) ヴァイオリン・ソナタ第2番(op.12-2) ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」(op.13) ピアノ協奏曲第1番(op.15) 七重奏曲(op.20) ヴァイオリン・ソナタ第4番(op.23) ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(op.24) ピアノ・ソナタ第14番「月光」(op.27-2) ピアノ・ソナタ第15番「田園」(op.28) ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」(op.31-2) 交響曲第2番(op.36) ピアノ協奏曲第3番(op.37) ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」(op.47) ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(op.53) 交響曲第3番「英雄」(op.55) 三重協奏曲(op.56) ピアノ・ソナタ第23番「熱情」(op.57) ピアノ協奏曲第4番(op.58) 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(op.59-1) 弦楽四重奏曲第8番「ラズモフスキー第2番」(op.59-2) 弦楽四重奏曲第9番「ラズモフスキー第3番」(op.59-3) ヴァイオリン協奏曲(op.61) 交響曲第5番「運命」(op.67) 交響曲第6番「田園」(op.68) チェロ・ソナタ第3番(op.69) ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(op.73) 弦楽四重奏曲第10番「ハープ」(op.74) ピアノ・ソナタ第26番「告別」(op.81a) 交響曲第7番(op.92) ピアノ三重奏曲第7番「大公」(op.97) ピアノ・ソナタ第30番(op.109) ピアノ・ソナタ第31番(op.110) ピアノ・ソナタ第32番(op.111) 交響曲第9番「合唱付き」(op.125)
ベートーヴェンが演奏家としてデヴューしたのが1795年と言われている。そしてこの頃に作品1(op.1)の3つのピアノ三重奏曲が作曲されている。1824年に交響曲第9番を作曲してからも後期の有名な弦楽四重奏曲を作曲しているので、ベートーヴェンはその後生涯渡って作曲していると言えるが、私の好みの楽曲は、デヴューして間もなくの頃から、交響曲第7番やピアノ三重奏曲第7番「大公」を作曲した1811年から12年頃、この16年間で作曲された曲に集中しているように思う。
ベートーヴェンはピアニスト(当時はフォルテピアノ)としても人気があり、自身が作曲したピアノ曲や室内楽曲のピアノのパートを自ら演奏して、彼の音楽の愛好家を増やして行き、経済的な援助をする貴族もたくさん増えて行った。しかしながらいくつかのことが綻びとなって、それが拡大して行く。『ベートーヴェン研究』は手紙、会話帳などを資料として、ベートーヴェンの栄光と気の毒な状況を詳細に明らかにしている。
ベートーヴェンの気の毒な状況の最初に上げられるのは、20代後半、デヴューして間もない頃からの耳の疾患(40歳の頃にはほとんど聞こえなくなる)、腹部の疾患(しばしば下痢に襲われた)であるが、他にも時の情勢、恋愛のこと、家族のこと、友人のこと、経済的事情など気の毒なことがベートーヴェンには多々ある。
まず時の情勢としては、当時はナポレオンの脅威にヨーロッパ全体が曝されていた頃であるのに、ベートーヴェンは英雄交響曲をナポレオンを讃える交響曲として作曲しておきながらそれを取り下げ、献辞が書かれた表紙を破り捨てている。この翌年にフランス軍はウィーンに進行していることを考えると、下手をするとナポレオンの目に留まり何か悲劇的なことが起きてもおかしくない状況であったように思う。
恋愛のことについていえば、テレーゼ、ヨゼフィーネ姉妹以外にもいくつかの恋愛があったようだが、いずれも結婚には至らなかった。何が原因なのかは謎であるが、良き伴侶を得られなかったということが晩年のベートーヴェンの生活を致命的な状況にする。
家族については成人してからもずっと親交があったのは2人の弟であったが、特にガスパール・アントン・カール(以下、カール)に対しては経済的な援助もしていた。1815年にカールが亡くなってからは、甥カールの親権を主張しカールの妻のヨハンナと争うが、ベートーヴェンの言い分が通り、甥カールの面倒をベートーヴェンが見ることになる。自らの手で育てることができないため、寮生活をさせたり、有名な教授に教えさせたりしたが、甥カールはそれを嫌い、結局、ヨハンナの元に戻ってしまう。その後もベートーヴェンはカールを援助しようとするが、カールは反発するばかりである。
友人のことについては、『ベートーヴェン研究』に詳しく書かれているので、それを引用させていただく。
「貴族や音楽家たちが、こういった形で、表面はベートーヴェンのことをちやほやしながら、陰では相当な悪口をいって、ことあらば足をひっぱって引き倒してやろうと考えている連中が、決して少くなかったようだ。音楽家でも多くの先輩音楽家で、彼の方ではかなり高く評価し、尊敬していた人たち(中略)サリエリを筆頭に(中略)ついにベートーヴェンとの友好の関係に入らなかった。それはなぜかなれば、すでにハイドンでさえそうであったように、どの人もベートーヴェンによって押しまくられ、ベートーヴェンのうちに巨大な力を認めれば認めるほど、それを敵として意識せざるをえなかったからである。
しかしそういうことになったのには、ベートーヴェンの方にも多少の原因はあるといえる。必要以上に、それらの人たちの敵意を挑発した疑いがあるからだ。それは親しい仲の友達に対してさえも、彼は自分の心の中の本当のものからみて意にみたない点があると、原則的に容赦しないばかりでなく、それを人に公言したりする癖がある。そのような微妙なところの心の問題は、自分にとどめておいて深く検討すべきだし、また人には語らなくてもすむものなのだが、ベートーヴェンはそこを我慢することができない。気にかかりだすと些細なことも重大事となり、原則に照らして裁断しないではいられないし、またもっとわるいことに、それを誰かにきいてもらわないと気が済まない」
このような形で友人と接したわけだから、腹を割ってとか対等の立場とかの真の友人関係というのが生まれる余地はなかったように思う。
以上のようなことだから、ピアノ三重奏曲第7番「大公」を献呈した、ルドルフ大公との関係もだんだん悪くなって行き、経済的にさらに悪い状況になって行ったように思われる。
山根氏は、この著書でも、『孤独の対話 ベートーヴェンの会話帳』でも、晩年の大作として、ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」、ミサ・ソレムニス、交響曲第9番「合唱付き」を挙げておられるが、私個人的には、ミサ・ソレムニスとハンマー・クラヴィーアは、特に取り上げるほどのよい作品とは思えない(確認のため、ミサ・ソレムニスのクレンペラー盤、ハンマー・クラヴィーアのグルダ盤とケンプ盤をもう一度聴いてみた)。ミサ・ソレムニスについて言えば、バッハのマタイ受難曲やブラームスのドイツ・レクイエムのような精神的な崇高さが感じられないし、メロディ、ハーモニーもいまひとつである。実際、この曲は、演奏会でなかなか取り上げられなかったようである。ハンマー・クラヴィーアについては、ベートーヴェンの三大ソナタと比べると見劣りしてしまう。第一楽章だけが肥大していて、あとは盛り上がりがないまま終わってしまう。ピアノ・ソナタ第32番の方が、個人的には好きである。
このような二進も三進も行かなくなった状況のベートーヴェンが、交響曲第9番「合唱付き」を作曲する。ほとんど耳が聞こえない彼も指揮者としてステージに上がり、本当の指揮者の横で大げさな身振りで指揮をした。演奏会は成功であったが、称賛の拍手が聞こえなかったという話はよく知られている。
このようにベートーヴェンの生来の性格によるとはいえ、ベートーヴェンは自分の音楽を愛する聴衆からの称賛を唯一の励みとして、あまりにつらい人生を生き抜いたという感じだった。並大抵の人間だったら弱音を吐いていたが、彼は最後まで弱音を吐かずに生き通した。そんな彼が作曲した曲のいくつかはこれからも多くの人を力づけるのだろうが、この本を読んで彼の音楽がなぜ人を力づけられるかということが少しは理解できた気がする。へこたれないで、さらなる向上心を持って歩き続けた。やはりベートーヴェンは偉大な人と言えるだろう。