『チャイコフスキー その作品と生涯』(クーニン著)について

私が最初にチャイコフスキーの作品を聞いたのは、「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」の組曲のレコードでだった。私が小学校高学年の頃に、書店に勤めていた母親が購入したもので、カラヤンの指揮でオーケストラは多分、ベルリン・フィルだったと思う。「白鳥の湖」は好きになれなかったが、「くるみ割り人形」の方はたまに聴いた。「くるみ割り人形」は趣向を凝らした小品が並んでいて、まだ小学生だったが、楽しく聴いていた。高校生の頃にウィスキーのCMでピアノ協奏曲第1番の冒頭の部分がかかり話題となったが、「白鳥の湖」の冒頭部分となんとなく似ているなと思ったくらいで、全曲を聴きたいと思うことはなかった。
しかし大学受験に失敗して浪人生活に入り、チャイコフスキーの交響曲第5番をストコフスキー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏で全曲を聴いた時には、ミュンシュ指揮パリ管弦楽団のブラームス交響曲第1番とともに生涯を通して聴くことができるレコードに出会うことができたと思ったものだった。美しいメロディーに溢れ、最後は凱歌で終わるというこの2つの交響曲は苦しい時には勇気づけてくれ、悲しい時には温かな感情を呼び起こしてくれるという、ありがたい曲で、今でも愛聴している。第5番が素晴らしいと思ったので、浪人時代には第4番、第6番もよく聴き、ヴァイオリン協奏曲もお気に入りの曲となった。
大学に入って、1年ほどして、友人の友人が下宿に立派なオーディオ機器を置いて、クラシックを聴いているということを聞いた私は私の友人に頼んで、彼の友人を紹介してもらった。一度だけ下宿でレコードを聴かせてもらったが、その時に掛けてくれたのが、幻想曲「テンペスト」だった。彼はチャイコフスキーのファンだった。これ以降、幻想序曲「ロメオとジュリエット」、弦楽セレナード、序曲「1812年」、スラヴ行進曲なども聴くようになった。
その他、弦楽四重奏曲第1番第2楽章のアンダンテ・カンターヴィレやメロディという小品などチャイコフスキーは素晴らしい曲をたくさん残しているが、他に名曲はないのか、また彼が曲を付けた歌劇、「エフゲニー・オネーギン」「マゼッパ」「スペードの女王」はどんな曲なのかと思い、評伝を読んでみることにした。新読書社からロシア、ソビエトの作曲家シリーズというのが出版されており、『チャイコフスキー その作品と生涯』を読むことにした。
チャイコフスキーは1840年にヴォトキンスク(モスクワから東へ600キロほど)に生まれた。10才の頃にグリンカのオペラ「イワン・スサーニン」を聴いたチャイコフスキーはその音楽に心酔し、グリンカを自らの音楽の手本とするようになる。19才の頃までは法律を学び、法務省に勤めることになる。チャイコフスキーは家族からの要望に応えて即興的に歌の伴奏などをすることはあったが、専門的な教育は受けたことがなかった。しかしグリンカの音楽を聴いて以来の音楽に対するあこがれは勤めを始めてからも捨て難く、1961年になってようやく音楽理論を学ぶためにロシア音楽協会ペテルブルグ支部付属の音楽学校に入る。翌年にペテルブルグ音楽院に入り、本格的に音楽の勉強を始める。この音楽院でアントン・ルービンシテインに、その後にモスクワ音楽院でニコライ・ルービンシテインに教えられたことがチャイコフスキーの作曲家としての知識を高めただけでなく、ルービンシテイン兄弟を師事することで、多くの友人、彼の音楽を理解してくれる人と出会うことができた。26才で交響曲第1番「冬の日の幻想」(この本では、「冬の日の夢想」となっている。この曲はロシア民謡からが多くの旋律が取り入れられている)を発表して、成功を収める。ここでチャイコフスキーは作曲家が心血を注ぐ歌劇の作曲を始めるが、「地方長官」「オプリチニク」は思ったような成果は得られなかった。交響曲第1番「冬の日の幻想」を発表した頃から、五人組(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン)からの容赦のない批評がチャイコフスキーの発表した作品に浴びせられるが、幻想序曲「ロメオとジュリエット」を発表するとバラキレフはチャイコフスキー側につくようになる。心強い仲間の勧めで、幻想曲「テンペスト」、幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」という交響的作品を作曲する。「ロメオとジュリエット」「テンペスト」「フランチェスカ・ダ・リミニ」はバラキレフ、キュイから激賞されるが、幻想曲「テンペスト」を作曲した翌年にピアノ協奏曲第1番を作曲すると、ムソルグスキーが「音楽協会は良い作品をあれこれ聞かせようとしている。だが、ピアノ協奏曲とは何ごとだ!」と指摘したのをはじめ、師匠のニコライ・ルービンシテインからもよい評価は得られなかった。しかしやがては斬新なピアノ協奏曲も人々に愛されるようになり、ラフマニノフのピアノ協奏曲へと繋いでいくのである。
歌劇については、「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」についてこの本に詳細な記述があり、どちらも高い評価を得たということになっているが、今聴くことができるれレコード、CDではこれといった優れたもの(私が一度聴いてみたいと思うもの)は残念ながらない。やはりチャイコフスキーは管弦楽の交響的作品に優れたものを数多く残しているが、歌劇は台本に恵まれなかったこともあって良い作品ができなかった気がする。
1977年に交響曲第4番で大成功を収めたが、1988年に作曲した交響曲第5番では成功しなかった。その理由のひとつは当時チャイコフスキーは自作を自分の指揮で演奏会を行ったが、それがうまくいかなかったということである。「何度か行われた演奏会はどれもすっかり興奮し、自信を失ってしまった作者が指揮したのだ」とこの本に書かれている。またキュイが、「この交響曲は全体として思想がないこと、古めかしいこと、音楽と不釣り合いに音が幅をきかせすぎている」などとひどい評価をしたのをはじめ、たくさんの批評家の餌食となってしまったということも理由にあげられる。。これですっかり自信をなくしたチャイコフスキーは、交響曲第5番と同じ頃に作曲した「眠りの森の美女」で成功を収めたものの、白鳥の歌となった交響曲第6番「悲愴」を作曲するまで、極端に寡作になり、幻想序曲「ハムレット」、歌劇「スペードの女王」、バレエ「くるみ割り人形」などを作曲したに留まる。彼の死の原因は友人が止めたにもかかわらず、生水を飲んで、コレラにかかったからと言われるが、辛辣な批評がチャイコフスキーの繊細な神経に大きな痛手を負わせた(積もり積もった上に最後の一撃を浴びてしまった)というのが根本的な原因だったのではないかと私は思う。
チャイコフスキーの音楽は、批判ばかりしていた五人組よりたくさんの素晴らしい作品を残した。五人組が人のことばかり言わずに地道に作品を書いていれば、ロシアの音楽はもっと豊かになったかもしれない。