『ラフマニノフ その作品と生涯』(ソコロワ著)について

私が最初に聴いたラフマニノフの作品は、「ヴォカリーズ」(1915年作曲)だった。しかも最初のところ(冒頭の3分程)だけであった。今から38、9年前にクラシック・ファンだった方は覚えておられると思うが、日曜日の夜にNHK-FMで放送されていた「夜の停車駅」という番組の最初のところでこの曲が使われていた。江守徹さんの味わいのある朗読の合間にクラシックの小品が掛けられるという、心に染みる内容の番組だった。FM雑誌で番組の中で掛けられる曲は分かったが、冒頭の「ヴォカーリーズ」は誰が演奏しているのか番組が終了するまでにはわからなかった。番組が終わって10年程して、京都の中古レコード店ラ・ヴォーチェで、「ヴォカリーズ」が入ったレコードを見つけ、店主に、これはもしかして「夜の停車駅」で使われたレコードと同じものですかと尋ねたところ、店主は頷かれたのだった。ソプラノ独唱アンナ・モッフォ、レオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団が演奏したものだが、私が知っている限りでは、オーケストラをバックにソプラノ歌手が歌うというものは他に知らない。ピアノ伴奏で様々な楽器が独奏するというのがほとんどである。このレコードで、初めてソプラノ独唱で最後まで「ヴォカリーズ」を聴いた時、ラフマニノフの他の曲を聴きたいと思い、まずはピアノ協奏曲第2番(1900-1901作曲)のリヒテル盤(ルビンシュタインの日本盤は持っていた)がほしいと思い、東京、大阪の中古レコード店を回ったが、入手できなかった(当時はじっくり味わって聴きたい曲はオリジナルに近い外国盤で聴くという私の鉄則があった)。それから5年ほどして、チューリップラベルのリヒテル盤を入手して聞いたが、素晴らしい演奏だった。その後、ピアノ協奏曲第3番(1909年作曲)をアシュケナージ盤(指揮はフィストゥラーリ)、交響曲第2番(1906-1907年作曲)をプレヴィン盤で聴いて、ラフマニノフの音楽に心酔したものだった。
それに続いてピアノ協奏曲第1番、同第4番、交響曲第3番、前奏曲集を聴いたが、いずれも心を高揚させてくれるものではなかった。またパガニーニの主題による狂詩曲は何度も聴いたが、散漫な印象が強く残り好きになれなかった。それでも唯一チェロ・ソナタ(1901年作曲)のトルトゥリエ盤だけは心に残るよい演奏だった。
わかりやすくするために作曲した年を上げたが、これを見てみると私がよい曲を思う曲は、1900年から1915年までに作曲されており、1917年の十月革命以降は、ラフマニノフは祖国を離れて北欧、ドイツ、スイス、アメリカを渡り歩いて演奏活動を続けたが、作曲活動はまったく低調なものだったと言わざるをえない。それでも評伝を読めば、隠れた名曲が見つけられるかもしれないと思い、『ラフマニノフ その作品と生涯』(新読書社)を読んでみることにした。
ラフマニノフは、1873年に音楽の才能で名声を博していた貴族の家に生まれた。12才の頃にモスクワ音楽院でズベレフの指導を受けるようになってから頭角を現し、18才でモスクワ音楽院を首席で卒業した。同年にはピアノ協奏曲第1番を完成させた。しかし1895年に完成した交響曲第1番は不評で五人組の一人のキュイに容赦のない批判(非難)を受けた。ここからしばらくは、精神状態が非常に深刻なもので、仕事ができるような状態ではなかったとこの本に書かれている。1901年にピアノ協奏曲第2番を完成させ、作曲活動に本腰を入れるようになるが、先程も述べたように1917年以降は演奏活動に力を入れるようになったため、作曲はほとんどしなくなったといえる。特にアメリカを活動の拠点としてからは、演奏レパートリーを増やすための練習に忙しくほとんど作曲に費やす時間が取れなかったように思われる。またこの本を読むと奥さんや2人の娘と過ごす時間を大切にし、家族のためにスイスに別荘を建てて長期滞在していた話が紹介されているが、実際のところ、ラフマニノフは42才の頃に「ヴォカリーズ」を作曲して、もう自分は作曲家としてはお役御免と引退を宣言して、西欧やアメリカで好きなピアノ演奏で莫大な財産を蓄え、気ままな生活をしていたようにしか思えない。厳しいことを言ったが、ピアノ協奏曲第2番のようなすばらしい曲を作曲できるのだから、演奏活動は少なめにして、もう少し作曲に力を入れてほしかったと思う。
それでもラフマニノフのピアノ協奏曲第2番はこれからもずっとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と並び称されるロシアのピアノ協奏曲の最高のものと言われるだろうし、モッフォが独唱する「ヴォカリーズ」はいつまでも私の心に浪人時代の暗く沈んだ心情を思い起こさせることだろう(この本には残念ながら、「ヴォカリーズ」についての記載はない)。