「ボロディン その作品と生涯」(ゾーリナ著)について

今から20年くらい前に、私はジゼル・マッケンジーという女性歌手のCDを購入した。「ムーランルージュの歌」が収録されていて、なんとなくユーモラスな雰囲気のジャケットの本人の似顔絵(肖像画)に魅かれたからで、店に陳列されているのを見て購入した。自宅に帰り、聴いてみると最初の「ストレンジャー・イン・パラダイス」が心に染みて、何度も聴いたことを覚えている。この曲は、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」よりダッタン(ポロベッツ)人の踊りの中にある旋律の美しいところを取り出し歌詞を付けたものだが、ジャズの演奏家や歌手がポップス曲のように取り上げている。他にボロディンの曲で有名なのは、交響詩「中央アジアの草原にて」があり、アンセルメ指揮のレコードをよく聴いていた。ボロディンは交響曲を3曲作曲している(第3番は未完)が、私の好みに合わず、ゲルギエフのCDはお蔵入りとなってしまった。私がボロディンの曲で一番好きなのは、弦楽四重奏曲第2番で特にその第3楽章は美しい夜想曲(ノクターン)である。
ボロディンはわずか54年の人生で、これらの曲を作曲しただけではなく、化学者、医師として国家に多大な貢献をしている。それは幼い頃から、並外れた記憶力があったからで、この本に「私たち(ボロディンとミーシャ(12才の頃の友人))はベートーヴェンや他の作曲家のすべての交響曲を暗記していて、特に、メンデルスゾーンに夢中になり、うっとりとしていました」という記載がある。
「勉強をし、音楽に興ずるほかに、サーシャ(ボロディン)には他のことをする時間もあった。例えば、化学の実験も拡大され、ますます真剣に行われるようになった。すでに、サーシャが14才になった頃には、家中が実験室のようになっていた。ありとあらゆる化学薬品の臭い、化学反応によって生じる発火、爆発等でアブドーチャ(ボロディンの母)は笑い事でなく本当に心配した。」とこの本に記載があるが、ボロディンは17才でサンクトペテルブルクの内科・外科アカデミーの医科に入学した。サンクトペテルブルク大学の医学部を経て、26才の時には化学の研究のためにハイデルベルク大学に入学している。それからしばらくしてボロディンはロシアを代表する学者として化学の研究をするようになるが、好きな音楽も続けた。特に30才の頃にバラキレフと知り合ってからは五人組と親密に意見を交換するようになり、より一層音楽との関わりを深めて行った。チャイコフスキーは一時、五人組と接近して、「ロメオとジュリエット」「テンペスト」のような名曲を作曲したが、荒々しい印象のロシアの国民性を前面に押し出したような音楽が合わなかった(これは私の想像に過ぎないが)のか、彼らと袂を分かっている。その後、チャイコフスキーは五人組のひとりのキュイから、交響曲第5番に対して辛辣な批評を浴び、打ちのめされてしまう(ラフマニノフもキュイから辛辣な批評を受けている)が、人の良い温和なボロディンは彼らのグループの中にとどまり、交響曲第2番のような荒々しい交響曲を作曲したり、「イーゴリ公」のような愛国的な歴史オペラを出口が見えないまま、彼らの指導に従って、完成を目指した。
弦楽四重奏曲第2番についてこの本に詳しい解説があるので、引用する。
「1881年の夏をボロディンはトゥーラ市郊外のロドィジェンスキー家のジートフ屋敷で送り、大きな庭に囲まれた古い木造の家に住んだ。ここで、ボロディンは、1年前から構想を練っていた弦楽四重奏曲第2番を作った。彼にとっては大切な日、20年前にハイデルベルクで彼がエカテリーナに愛を告白した8月10日までに作品を完成させたいと願った。この弦楽四重奏曲は彼女に捧げられたのである。これは、驚嘆すべき音楽で、優しい情熱的な感情に満たされていて、その感情は自然にのびのびと音で吐露されている。この曲には、1877年の夏にハイデルベルクに短期間滞在したことと、彼が初めて未来の妻と会った場所を訪ねたことによって受けた印象が反映されていることは疑いもない。
 この作品では特に鮮明にボロディンの才能の抒情的面が発揮されている。強烈なコントラストも比較もなく、曲の前半の三部分を支配しているのは、事実上抒情的イメージだけである。」
もしボロディンがバラキレフやキュイの好みに従わず自分の好きな音楽が作曲できていたら、そしてもし作曲の仕事だけに専念できたら、チャイコフスキーと並び称されるような作曲家にボロディンはなっていたかもしれない。