『決定版 ショパンの生涯』(スモレンスカ=ジェリンスカ著)について

映画「愛情物語」の中で編曲された、ノクターン第2番(作品9の2)を聴いたのは高校生の頃だったが、ショパンを本腰を入れて聴き始めたのは大学生になってからだった。最初に夢中になったのは、グルダが演奏する、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズだった。大学時代は他に、アルゲリッチの前奏曲集やポリーニの英雄ポロネーズをよく聴いた。社会人になってしばらくして廉価でCDが購入できるようになり、ショパンのスペシャリストと言われるフランソワのショパン演奏が手軽に聴けるようになり、2つの協奏曲、ノクターン全集をよく聴いた。社会人になってしばらくしてお金に余裕ができるとオリジナル盤でコルトーの前奏曲集、バラード全曲、練習曲集やリパッティのワルツ集を購入した。
ピアノ曲の独自の境地を開いた作曲家はベートーヴェンとショパンだと思うが、私もこの偉大な2人の作曲家のピアノ音楽をよく聴いた。ベートーヴェンは協奏曲とソナタがその作品のほとんどだが、ショパンはそれ以外にもポロネーズ、マズルカ、バラード、スケルツォ、夜想曲、練習曲、前奏曲、ワルツ、即興曲など多岐に亘っている。2人のピアノ作品に共通して言えるのは、孤独な芸術家の魂の叫びをピアノという音域が広い、様々な技巧を駆使できる楽器で表現したものというのが私の認識である。
2年ほど前、原田光子著『天才ショパンの心』という本を購入し読んだが、同じ著者の『真実なる女性 クララ・シューマン』ほど夢中になって読めなかった。『真実なる女性 クララ・シューマン』はクララとロベルトの手紙のやり取りが心温まるものであったからだが、『天才ショパンの心』は母国ポーランドにいる家族や友人たちとの手紙のやりとりやサンドとの付き合いは心惹かれるものがあまりなく、ショパンのひどい孤独というものだけが心に残った。
作品についてたくさんの記載があり、ショパンが生まれた時から成長の過程が辿れるような評伝がないかと探していたところ、ポーランド語で書かれた評伝を翻訳した『決定版 ショパンの生涯』という本を見つけ購入した。
ショパンは16才の時にフランスからポーランドに移住した父親とポーランド人の母親の二人目の子供として生まれた。幼い頃からピアノに異常な興味を示した。この本に次のようなことが書かれている。
「この4才の男の子が音楽、ピアノに示す興味のいわば異常さに気づかぬ者はいなかった。男の子は、そのときそのとき奏でられる旋律に、年齢からすればただならぬ集中力で聞き入り、心を震わせた。そしてそれは時に涙に、時に笑いとなって表にあらわれた。どんなに面白い遊びの最中でも、ピアノの音がすれば、彼はぱたりと遊びをやめた。音は、夜になっても彼につきまとった。ショパン家の家政婦を夜な夜なおどかす幽霊は、何のことはない、すその長い白い寝巻きを着たフレデリック坊っちゃまで、昼間聞き覚えたダンスの旋律を弾いてみようと夜中のサロンに出没していたのだった。」
7才でポロネーズを作曲したショパンはサロンでも寵児となり、やがて大きな劇場でもコンサートを行うようになっていった。16才でワルシャワ音楽院に入学し、19歳で同音楽院を首席で卒業したショパンはウィーン演奏会を開き成功を収める。このままウィーンに留まり何度か演奏会をしていたら、ウィーンに定着できたかもしれないが、ショパンがピアノ音楽しか作曲しないということで十分な助成金が得られなかったため、2度の演奏会をしただけで、プラハ、ドレスデンなどを経由してワルシャワに戻った。翌年にもう一度ウィーンを訪れた際には、ショパンが「自分の芸術に対するウィーン人の無関心は、十一月蜂起問題が、欧州にまた一つ、「不必要な」革命的混乱要因をもたらした民族に対する全社会的な敵意が原因であると考えた」ように、成果は得られなかった。
ショパンはロシア軍に攻略、占領されたワルシャワに戻ることができず、亡命者を受け入れる避難所ともなっていたパリに向かうことになる。パリでは当時のパリで人気のあったピアニストで音楽院の教授でもあったカルクブレンナーの知遇を受けることができ、ショパンは徐々にパリの音楽界に定着して行った。メンデルスゾーン、リストやシューマンと交流があり、シューマンは彼が音楽新聞で熱狂的な文章を書き、「諸君、脱帽したまえ、天才の登場だ」と讃えた。
30代後半になってショパンは結核で衰弱し、パリの政情も不安定になって行った。1847年には10年にわたるサンドとの交際も終止符がうたれたため、1848年にはスターリング姉妹の積極的誘致がありイギリスで何度かコンサートを行っている。この時に「ショパンはいきなりロンドン最上級のサロンに入り込んで、(中略)パーティに招かれ、演奏し、ディケンズに会った」との記載があるが、結核で衰弱しサンドと別れ、心身ともに疲弊していた天才の演奏が文豪ディケンズの耳にどのように鳴り響いたかのかと思う。
この小説の中でショパンは幼い頃から身体が弱いのに、雨でずぶ濡れになったり、身体に負担が多い馬車での旅行を何度もしている。身体を大切にしてねと声をかけてくれるポーランド人の女性が側にいたら、ショパンは孤独でなくなり、作品もまったく違ったものになったかもしれないし、第一もっと長生きしていただろう。