『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(礒山雅著)について

私がJ.S.バッハ(以下、バッハ)という作曲家を知ったのは、G線上のアリアをラジオで聴いてだったと思う。中学生の頃だったが、匠の技でありながら馴染みやすい旋律だなとぼんやり考えた記憶がある。バッハを本格的に聴くようになるのは、それから7、8年後になるが、それまでに小フーガ、トッカータとフーガ 二短調、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番からガボット、ヴィヴァルディの「調和の霊感」第8番を編曲したBWV593のオルガン曲を聴いたくらいだった。バッハの音楽の根幹となる教会音楽(声楽曲)はラジオ番組で耳にする機会はほとんどなくレコードをいきなり購入することもなく、「主よ、人の望みの喜びよ」のオルガン編曲を耳にして、ようやくバッハの声楽曲を聴いてみようという気になったのだったと思う。そうして最初に購入したレコードが、リヒターの結婚カンタータだったと思う。だがこれは、狩りのカンタータ、コーヒー・カンタータや農民カンタータなどと同様の世俗カンタータで、バッハが生涯を通して魂を込めて作曲した教会カンタータとは少し異なる音楽である(当時は世俗と教会の違いもわからなかった)。それでも合唱、二重唱、独唱がすばらしく、他のカンタータを聴いてみようと思った。
140番と147番(アーノンクール盤のように一緒になっていればいいが、リヒター盤は別のレコードだった)のレコードを購入したが、それぞれのカンタータの有名な旋律以外は馴染めず、リヒターのカンタータを聴くことはなくなった。しばらくバッハの声楽曲を聴かなかったが、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲などのオーケストラ曲、ヴァルヒャが演奏するのオルガン曲、カザルスが演奏するチェロの曲(無伴奏チェロ組曲、チェロ・ソナタ(ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ))、シェリングの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴いていた。再び、バッハの声楽曲を聴いたのは、バッハ音楽の最高峰が「マタイ受難曲」でリヒターの旧盤(1958年盤)であることを音楽誌で読んでからだった。たまたまその当時通っていた中古レコード店でそのオリジナル盤を見つけたので、思い切って購入したのだった。このレコードは感情移入が過多との批評もあるが、最初から最後まで続くこころに沁みる歌唱と演奏はそれまで聴いてきた器楽曲とは明らかに違う世界だった。これを機に他の作曲家の宗教曲も聴くようになった。もともと宗教曲は、合唱音楽の愛好家でなければなかなかそのレコードを聴くことはないのではないかと思う。ブラームスのドイツ・レクイエムは別として、そのテキストのほとんどはキリストの受難の物語であり、キリスト教徒でない私たちがどのような気持ちで臨めばよいか(どのように聴けばよいか)迷うところである。ところがこのリヒターの「マタイ受難曲」はそういった迷いを振り払ってしまうくらい普遍性がある優れた演奏である。一度、このレコードを聴けば、バッハの声楽曲の素晴らしさに魅せられ、さらに教会カンタータ、世俗カンタータ、モテット、「ヨハネ受難曲」も聴いてみようという気持ちになるのである(この本を読んでから、リヒターの教会カンタータ集(26枚組)を購入した)。
『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』は、大作曲家バッハの生涯と音楽を知るために必須の著書であると思う。礒山雅氏は、『マタイ受難曲』という名著も著されていて、こちらも必読の書であると思う。バッハが恵まれた天才的な素質を持ちながらも、希望したポストに着くために苦労し、活動の場所を変える度に目上の人に気を遣って仕事をしていたかがこの本を読むとよくわかる。晩年には、「ゴルトベルク変奏曲」「音楽の捧げ物」「ロ短調ミサ」などの名曲を作曲しているが、バッハが一番輝いていたのは、「マタイ受難曲」を作曲した42才(1727年)の頃だと思う。タイトルに魂のエヴァンゲリストとあるが、エヴァンゲリストとは福音史家のことであり、礒山雅氏にとってバッハは、大作曲家ではあるけれども、それ以上に音楽を最大限に活用してキリスト教の布教活動を行うキリスト教の熱心な信者と位置付けたのだと思う。
礒山雅氏は、モーツァルトについての著作もたくさん残されている。次は礒山氏のモーツァルトの評伝を読んでみたい。