『真実なる女性 クララ・シューマン』について

初期ロマン派の作曲家の中心人物は、やはりロベルト・シューマンだろう。彼は、彼自身の作曲活動だけでなく多くの作曲家を演奏会や評論で紹介している。例えばひとつ年上のメンデルスゾーンとともにバッハ、ベートーヴェンの音楽を演奏会で広く紹介するだけでなく、彼が書く評論の中で、シューベルト、ショパン、ブラームスを紹介している。
シューマンは、ピアノ曲では、「謝肉祭」「子供の情景」「クライスレリアーナ」、歌曲では、「詩人の恋」「女の愛と生涯」の名曲を残しているが、さらに交響曲では第1番、第3番、第4番、協奏曲ではピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲という心に残る彼らしい作品を残している。シューマンは精神的に不安定になり46才でその生涯を閉じたが、その配偶者となったクララの生涯を明晰な文章で綴ったのが、『真実なる女性 クララ・シューマン』という原田光子氏が昭和16年(1941年)に著した評伝である。
私は、著者のこともこの本のことも知らなかったが、風光書房の店主に、クラシックファンで初期ロマン派に興味があるのなら是非読んでくださいと言われ、『失われた時を求めて』の第1巻を読み始めたところだったが、中断してこちらを先に読んだ。原田氏の評伝と多くの手紙で構成されているが、特に結婚する前のシューマンとクララの手紙はふたりの熱い思いにあふれ、どんな恋愛小説よりもリアリティがあり(もちろん実際にあったことなのだから)、クララの父親の反対があったということによって、まるで小説を読むように心を動かされる手紙がしばしば出て来ることになる。ピアノ教師のフリードリッヒ・ヴィークの娘として生まれたクララは幼い時から父親の英才教育を受け、8才の時にはゲヴァントハウスで最初の公開演奏を行う。一方ロベルト(この本ではロバートとなっている)はライプチヒ大学の法学部に入学をしたのを機にヴィークにピアノを習うことになる。9才の少女と18才の大学生の出会いの最初は大きな進展はなかったが、クララが<ヘル・シューマン>(シューマンさん)と慕っているうちに、好意、愛情へと発展して行ったようである。クララが16才の頃に恋愛感情が高まって結婚を前提とした付き合いが始まるが、その頃になるとクララの父親はシューマンの才能を認めはするが、自分の娘の夫としてはふさわしくないと思い始め、あらゆる妨害を試みる。家への出入りを禁じたり、手紙を受け取れないようにしたり(クララに忠実な召し使いのおかげで手紙のやり取りは続けられるが)、シューマンをライプチヒで活動できなくしたりする。そんなときシューマンとクララはその苦境を乗り切るために手紙で励まし合い、絆を強くして行く。二人が晴れて夫婦となれたのは、シューマンがライプチヒの裁判所に結婚許可を求める訴訟を起こして勝訴したからであるが、当然、クララの父親のヴィークとの間に大きなしこりが残り、延いてはシューマンに大きな精神的負担を与えることになったと思われる。やがて二人の間に子供ができて(彼らの間には結局8人の子供が生まれた)、父親の態度も軟化し明るい兆しが見えるかに思えたが、経済的困窮と過度の創作活動のための精神集中がシューマンの精神に悪い影響を与え、精神的に不安定な状態に追いやることになる。
そうしてシューマンは43才の頃にライン川に投身自殺を図ってからは、回復することなく施設で亡くなることになる。シューマンが不安定になる少し前にヨアヒムの紹介でシューマンとクララがブラームスを知ったのは、幸運なことだったと言える。もちろんシューマンの紹介によってブラームスは多くの人に有望な音楽家であることを知られることになったが、それよりも大きかったのは、クララと知り合いになれたことで、彼の多くの作品をクララが演奏会で取り上げたことだろう。現在、『ブラームス』ガイリンガー著という評伝を読んでいるが、ブラームスはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトのような天才ではなく、自分の作品が演奏されるのを聴いて手直しをしょっちゅう行ったようである。ブラームスの作品が職人の熟練の技のようなものになったのはクララを始め多くの音楽仲間の意見を入れてより内容の充実したものにして行ったからであるが、特にピアニストであるクララの意見は重要であった。ブラームスの作品が後世に残る作品となったのは、このクララとの出会いがあったからで、なんでも相談に乗ってもらえる、しかも演奏会で自分の作品を取り上げてくれるピアノの達人のクララはなくてはならない存在であったと言える。
ただ、クララに対してブラームスが結婚願望を持ったかどうかについては疑わしい。むしろクララの娘のユーリエやアガーテ・フォン・シーボルトとの結婚の方が可能性があったが、前者はクララに受け入れられず(というのもブラームスが「ドイツ・レクイエム」で成功してユーリエに気持を打ち明けようとした矢先に、クララから、娘はイタリアの貴族マルモット伯と結婚すると告げられた)、後者は最終的にブラームスが拒んで結婚には至らなかった。それでもクララとブラームスの結びつきは音楽を媒介として晩年まで続けられ、ブラームスはクララの子供たちの世話(金銭的な援助)まで引き受けた。1896年5月22日死後2日してクララの訃報を受け取ったブラームスは、ウィーンからかけつけ告別式に参加している。
ブラームスはクララの葬儀が終わり、ウィーンに戻って来たが、友人たちは彼が急に老け込んだと感じた。それからしばらくしてブラームスは重篤な肝臓病を患っていることがわかり、1年も経たない1897年3月3日に、その音楽家としては偉大であったが、孤独な生涯を終えた。
この評伝は、クララと交流があった作曲家や演奏家とのやりとりや手紙もあるが、やはり前半は夫のロベルト・シューマン、後半は夫の死後、心の支えとなり自らも積極的に作品を取り上げて支援したヨハネス・ブラームスとのやりとりが中心となっている。シューマンにとってもブラームスにとってもクララはなくてはならぬ存在であった。またショパン、リストなどの作曲家兼ピアニストとも交流のあったクララの生涯を知ることは、ロマン派についての理解を深めることになる。そしてそのクララを知るための本として最初に挙げられるのが、この味わい深い評伝ということになるだろう。