リトル・ドリットについて
私が読んでいる小説にのめり込めるかどうかは、偏に主人公あるいはそれに準ずる登場人物に共感できるかどうかにある。従って悪人が主役の小説や華やかな世界で活躍する人が主人公の小説にはどうも馴染めない。そういう意味では、この小説に出て来る、アーサー・クレナムは、少しハンサムである意外にはこれといって魅力のない、平凡で財力も余りないありふれた中年(40才)男性であるのでとても共感できる。そして私が共感を持った主人公や準主人公がどのような人と出会って、どのようにかかわっていくかを楽しみながら読み進むのであるが、クレナムは本当にたくさんの人と出会い、そしてその人たちと深くかかわって行く。小説では最初に主人公である、エイミー・ドリット(リトル・ドリット)と出会い、その家族と深くかかわって行く。次に仕事のパートナーとなる、ダニエル・ドイスと迂遠省を訪ねた際に出会い、それと同時に旅の途中マルセイユで知り合いになったミーグルズ氏と親しくなる(ドイスとミーグルズ氏は知り合いで迂遠省に発明の特許申請に来ていた)。またクレナムは昔の恋人である、フローラ・フィンチングと再会するが、それと同時にフローラの父親であるクリストファー・キャスビー氏の使用人である、明るい性格でヴァイタリティー溢れるパンクス氏と出会う。クレナムは物語の中で一貫してエイミー・ドリットを愛したのではなく、一時ミーグルズ氏の愛娘ペット(ミニー)に恋心を抱くが、裕福なヘンリー・ガウワンのように自分はペットを幸せにできないとペットのことをあきらめてしまう。
私は1980年に発刊されたこの本を大学生の時に購入し読み始めたが、すぐに読むのをやめてしまった。しおりが残っていてそれを見ると第1巻の第3章の最初のところに挟んであったので、多分第2章まで読んでやめてしまったものと思われる。理由はいくつかあったと思う。1.本邦初訳で読むに値する本なのか疑問に感じたこと。2.第2巻に入るまでドリット一家の監獄暮らしが続くと知ったこと。3.ハードカバーの持ち運びに不便な本であったため、他の携帯に便利な文庫本に興味が移って行ったことなどがある。実際、この物語に対する評価は余り高くなく、この本の解説の中にもその旨の記載がある。
読み終えてみての感想はと聞かれると、クレナム夫人、ウェイド嬢が出て来る場面は楽しいものではないが。監獄のシーンも含めて比較的明るい雰囲気の場面が多い。また登場人物にも興味深い人物がたくさん出て来るので、興味を持って読み始めるとあっという間に読み終えてしまえる本だと思う。興味深い人物を列挙してみると、フローラ・フィンチング(アーサー・クレナムが以前交際していた女性。話し方が特異で、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」に同様の話し方(意識の流れ)をする人物(レオポルド・ブルームの妻、マリオン・ブルーム)が出て来る)、ジェネラル夫人(ドリット一家が裕福になってから雇われた教育係。「プルーンズ、プリズムは口の格好がよくなる言葉」をしばしば口にする)、パンクス氏(蒸気タグボート、蒸気機関車に例えられ、しゅっしゅっ、ぽっぽと力強く動き回る)、ジョン・チヴァリー(マーシャルシー監獄の門番の息子、エイミーを愛していたが片思いに終わる。愛するエミリーのために涙ぐましい献身をする)、タティーコーラム(ミーグルズ氏が孤児院で引き取った孤児。ウェイド嬢に騙され、ミーグルズ夫妻を憎むようになる)、ウィリアム・ドリット(エイミーの父、「ええと」「その」が口癖で、第2巻の第17章の最初のところでは、先にあげたフローラとの対決(?)が楽しめる)その他、エイミーの兄(エドワード)と姉(ファニー)は叔父(フレデリック)のように善良で優しくないが、個性的で際立つ人物である。
この小説を読み終え、翻訳をされた小池滋氏の解説を読んだが、「この小説の登場人物はすべて何らかの意味で牢獄に入っており、この小説のあらゆる舞台は監獄なのだ」と分析されているところやノーボディ(誰でもない人)の意味するものについての説明は、興味深く読ませていただいた。また、官僚批判や投機の危険性を指摘している社会派作家ディケンズの面目躍如の作品という話しも聞くが、私のようにそのあたりのことが余り分からなくて、ただ登場人物の行動を追って行くだけでも十分に楽しめる作品である。