『オリヴァ―・ツイスト』(加賀山卓朗訳)について
大学生の頃に、小池滋訳を読み、4、5年前に中村能三訳の『オリヴァ―・ツイスト』(小池滋訳は、『オリヴァ―・トゥイスト』となっているが)を読んだが、3年前に『二都物語』を翻訳された加賀山卓朗氏が5月1日(2017年)に『オリヴァ―・ツイスト』の新訳を出されたということを知り、さっそく読ませていただいた。
中心に来るのは、フェイギンを首領とする窃盗団から傷を負いながらも奇跡的に脱出できた、オリヴァ―が多くの善意の人(社会的弱者を見たら、分け隔てなく手を差し伸べる人)の援助を得て、出生前後の不幸な出来事を克服していくという物語である。小池訳や中村訳を読んだ時は、私は窃盗団との対決の筋を追うことで精一杯であった。モンクスとオリヴァ―はどういう関係(異母兄弟)なのか、モンクスとバンブルがどのような取引をしたのか(オリヴァ―の出生の秘密がわからないようにするため、隠蔽工作をした)などはほとんど理解できずに読み飛ばしてしまったということを覚えている。またブラウンロー氏とグリムウィック氏は目立つ存在であるが、ロスバーン医師、ハリー・メイリーはローズやメイリー夫人の陰に隠れて印象が薄かった気がする。加賀山氏の新訳はわかりやすく、そのあたりの細部を丁寧に描出することで、あまり目立たなかった登場人物についても存在感を持たせている。
フェイギン、サイクス、モンクスが登場するピカレスク小説のような場面もじっくりと読ませていただいたが、今回はロスバーン医師に命を助けられたオリヴァ―が、ローズやメイリー夫人の看病で回復していくところやブラウンロー氏がモンクスの悪事を暴き出すところをその場に立ち会っているような気分になって、細部までわかるよう心行くまで読ませていただいた。この本の最後のところの「訳者あとがき」の中で加賀山氏は、「成長しないオリヴァ―はいわば”触媒”であり、彼が加わることで、それまで安定していた世界が思いがけない化学反応が起きたと考えればいいのかもしれない」と述べておられるが、終盤になってもオリヴァ―はおとなしい少年のままで、ローズに熱い思いを持つくらいで、自分を辛い目に遭わせた、フェイギンやモンクスに激しい感情を露わにするということもない。ただこの小説の中盤までは、オリヴァ―の立つ舞台が変わる度にまさに化学反応が起きたように登場人物に大きな影響を与えるのである。救貧院、葬儀屋、窃盗団、ブラウンロー氏の住まい、メイリー夫人宅のそれぞれで大なり小なりの化学変化を起こすが、窃盗団の一員のナンシーに与えた化学変化は最も大きなものであるように思う。悪党サイクスの情婦にすぎなかった女性が、オリヴァ―を助けようと奮闘する。自分の話を聞いてくれるかわからないのにローズを訪ねるのである。
ディケンズの小説には、ローズのようにしっかりした考えを持つ、純真な女性がしばしば登場する。『デイヴィッド・コパフィールド』のアグネス・ウィックフィールド、『荒涼館』のエスタ・サマソン、『リトル・ドリット』のエイミー・ドリット、『二都物語』のルーシー・マネットなどであるが、ナンシーのように清らかな心と出会うことで、改心する女性は『荒涼館』のデッドロック夫人くらいであろうか(娘エスタの純真な心に触れ、昔の純真な心を取り戻す))。ナンシーの最期はあまりにも惨いが、その後の精神的に追い詰められた殺人者サイクスの心理を描く上で必要なことだったのだろう。
このどちらかというと暗い場面が多い小説も、メイリー夫人の息子ハリーとローズ(オリヴァ―のおばであることがブラウンロー氏によって明らかにされる)の結婚でハッピーエンドとなっている。ディケンズはこの愛らしい女性をことのほか愛情をこめて描写している気がする。
そういうわけで、最後は、ローズの清らかな言葉で締めくくることとさせていただく。
「幸せですって!」オリヴァ―は叫んだ。「ああ、なんてやさしい人なんでしょう!」
「ことばで言い表せないほど、あなたはわたしを幸せにするの」令嬢(ローズ)は答えた。「心のきれいな愛しいおばさまが、あなたの話してくれたような悲しくてみじめな状況から、誰かを救い出すきっかけを作ったというだけでも、わたしにとっては言いようもない喜びなのですよ。でも、おばさまが善意と同情を向けた相手が心から感謝して、それでわたしたちに親しみを感じてくれれば、あなたがとても想像できないくらいうれしい。言っていることがわかる?」(第31章から)