『荒涼館』(佐々木徹訳)について                   

 私は、今まで2度『荒涼館』(青木雄造・小池滋訳)を読んだことがある。一度は、1969年に出版された筑摩書房版世界文学全集第22巻と第23巻で、もう一度は、1989年にちくま文庫全4巻として出版された『荒涼館』でである。二度読んだのは、面白かったからであるが、理解できていないところがかなりあり、文豪の伝えたかったことを少しでも多く掬い上げたいということもあった。
 正直言って、最初に読んだ時には、三人称で物語が展開する部分はほとんど理解できず、エスターの物語(ジャーンダイスとの交流、ウッドコートとの恋愛、デッドロック夫人の愛情、ガッピーの不誠実)を理解できたと喜ぶ程度だった。それでも二度目になると、エスター・サマソン、ジョン・ジャーンダイス(こちらの訳では、ジャーンディスとなっている)の交友関係まで理解が及び、ジュリビー夫人、ダービードロップ、スキンポールなど際立つ登場人物との会話を楽しむことができた(スキンポールは悪い人なので、私は冷めた目で見ているが)。
 しかしこの小説の肝心な部分の民事裁判(ジャーンダイス対ジャーンダイス訴訟)と刑事裁判(ジョージが犯人として疑われる殺人事件の裁判のことであるが、裁判までは至らなかった)の部分が難解で、特にバケット警部が名探偵のように殺人事件の謎を解くところは、ほとんど理解できなかった。その大きな原因は登場人物の多さで、どうしてもジェリビー夫人、ダービードロップなどに私の目が行ってしまい、スナグズビー、ネモ、ジョージは地味な人物であるため、記憶に残らなかった。また民事裁判に係るカーストン、フライト、ヴォールズも同様だった。佐々木訳はそのあたりのことをよく考えられていて、四巻とも巻頭にその巻で登場する人物の簡潔明瞭な紹介がしてある。これなら私のようにヴォラムニアとランスウェル夫人とオルタンスの違いがわからなくなるようなことは解消され、どういう人物かがわからなくなった時には適宜参考にさせていただいた。また佐々木訳はエスターの物語の部分が特にわかりやすいが、三人称で書かれている部分もわかりやすく翻訳されていて、三度目の読了にして、この小説のほぼすべてを理解することができた。

 ディケンズの14の完成された長編小説のうち12は男性が主人公であるが、『骨董屋』と『荒涼館』は女性が主人公である。『骨董屋』のヒロインのネルは控えめな思いやりのある少女のまま、最後は亡くなってしまう。エスターも控えめで思いやりがあるが、様々な試練を乗り越え、理想の男性と結婚するという結末となっている。『荒涼館』は女性が主人公の恋愛小説とも言えるが、ヒロインがいろいろな人と出会って成長していくという小説なので、教養小説と言えるのではないかと私は思う。現代人からすれば、エスターは余りにも控えめで、古風な女性に写るかもしれないが、それゆえにかえって新鮮な印象を与えるかもしれない。もしかするとディケンズはネルの生涯(物語)を余りに気の毒と思い、エスターが周りの人に支えられて最後は幸福な結婚をするという小説で埋め合わせようとしたのかもしれない。

 この小説は、一人称(エスターが自分の周りで起きる出来事を語る)と三人称を使い分けて、物語を客観的に描いて行くだけでなく、主人公の心の中がまるで美しい水彩画のように描かれているが、よく言われるのは、バケット警部が活躍する、推理小説の趣向を凝らした部分が興味深いということである。弁護士タルキングホーンが殺され、殺人が行われるすぐ前にタルキングホーンと口論していたジョージが疑われ、バケット警部に被疑者として逮捕される。ここからバケット警部が推理を駆使して真犯人を追い詰めていくのであるが、ただ解明していくだけでなく、もし被疑者として疑われた場合にどうするかも、ディケンズは親切に読者に開示している。長くなるが、ここでジョージの発言を引用させていただく。
 「弁護士をやとってたでしょうな。そして弁護士は、よく新聞に書いてあるように、「依頼人は黙秘します、依頼人は答弁を留保します ― 依頼人はああします、こうします」なんて御託をならべるんです。おれのみるところ、あの連中は通常まっすぐことをはこびませんし、ほかの人間がそうするともかんがえません。今度はおれが無実であって、弁護士をやとったと仮定します。弁護士は五分五分か、もっと高い確率で、おれが有罪だと信じるでしょう。信じる、信じないはともかく、弁護士はなにをするでしょうか?おれが有罪であるかのようにふるまうんです。しゃべってはいけない。言質をあたえてはいけない、と命じます。そして、事情の釈明などせずに、証拠を隠滅し、相手の揚げ足をとったりしておれを無罪放免にしてくれるんです!しかしサマソンさん、おれはそんなやりかたで放免してもらうのをのぞむでしょうか?それとも ― 淑女のまえでこんな不愉快なことを口にしてよいならば ― じぶんの道をつらぬいて縛り首になるのをのぞむでしょうか?」
 ジョージは追い詰められて、上記のような発言をしてしまう。ジョージが頑固者で考えを改めさせるのは、ドーヴァーの城を動かすのより難しいとジョージの親友バグネットのおくさんは言うが、同時におくさんはもしかしたらジョージのおかあさんなら動かすことができるかもしれないと、自らがランスウェル夫人を捜しに行く。こういった困窮した人に周りにいる善良な人々が手を差し伸べる場面はディケンズの小説によくあるが、私はこういった場面にいつも勇気づけられている。結局、ジョージは母親の説得で心を落ち着かせ、後に兄とも再会を果たすことになる。

 民事裁判ジャーンダイス対ジャーンダイス訴訟についても、少し引用させていただく。
 リチャードはさらにやせおとろえ、毎日大法官裁判所に幽霊のようにあらわれました。自分の訴訟が審理される可能性などすこしもないとわかっているのに一日中落ち着かなくすわっている彼は名物になっていました。裁判所のかたがたのだれか一人でも、はじめのころの彼のすがたをおぼえているだろうか、とわたしはおもいました。(中略)リチャードの無気力ぶりは日がたつにつれてだんだん目立つようになっていきました。エイダのいうとおり、彼がまちがった方向に必死になってすすんだのは彼女のためをおもってのことでした。うしなったものをとりかえしたいというのぞみは、わかい妻の身のうえをかなしみなげく気もちによっていっそうつよまり、彼は気のふれたばくち打ちのようになっていきました。
 このようにしてリチャード・カーストンが長期の裁判によって心が蝕まれ、訴訟費用でジャーンダイスから与えられた蓄えを使い果たし、失意のまま亡くなる。リチャードは荒涼館にやって来た時に、ジャーンダイスに職を身につけるよう勧められたが、ジャーンダイス対ジャーンダイス訴訟で勝訴することで莫大なお金を手にすることができると固く信じ、医師、弁護士などの勉強に身が入らず、職に就くことができなかった。最後は悪徳弁護士ヴォ―ルズにリチャードの権益のためと言われて、わずかに残った蓄えも奪われてしまう。ジャーンダイスやエスターの忠告を無視して、エイダを幸せにするためと訴訟のためにお金も時間も無駄にしてしまったリチャードは、幼い子供を残して短い一生を終えてしまう。
 ディケンズは作家になる前に法律事務所で事務員をしたり、法廷の速記記者をしていたので、自分が知り得た読者のためになる裁判に関することを『荒涼館』で伝えたかったのだと思う。一つは、長期の民事裁判は当事者にとって大きな負担となり、心身を疲弊させる可能性があること、また刑事裁判で被疑者となった場合は弁護士(代理人)を立てて、裁判で守ってもらうことが大切なこと、当事者が代理人を受け入れない場合は家族の説得が有効であることを示唆している。

 この佐々木訳の『荒涼館』を第3巻が出る(2017年10月17日)少し前に読み始めたが、読み終えたのは2018年1月2日であった。その間、エスターが喜ぶと私も嬉しくなり、エスターが悲しい気持ちになると私も沈んだ気持ちになり、エスターがスキンポールやヴォ―ルズに怒りを表明すると腹立たしい気持ちになったものだった。つまりこの80日間ほどは私の生活のすぐそばにエスターの喜怒哀楽があり、この本を開くのが楽しみであった。最後にエスターのすばらしい台詞をひとつ紹介させていただきたい。エスターを心から愛する、ウッドコートの台詞が間に入っている。
「ああ、おねがいです、どうか、おやめください!そのようなほめことばはもったいないです。あのころ、わたしはわがままなかんがえをたくさんもっていました、ほんとうに!」
「わたしは心からあなたを愛しています。でも、これは愛する男のおせじではなく、真実です。神さまはごぞんじだ。あなたはわかっておられないのです ― まわりの人間があなたをどうみているか、どれだけおおくの人間が心をうたれ、目をひらかれ、あがめうやまい、愛しているか」
「ひとに愛してもらえるのはすばらしいことです。ほんとに、ひとに愛してもらえるのはすばらしいことです!わたしはほこりにおもいます。名誉におもいます。そんなふうにおっしゃっていただくと、よろこびとかなしみのまじったなみだがながれます ― 愛してもらっているというよろこびと、じぶんはそんな愛情にあたいしないというかなしみです。でも、あいにく、わたしはあなたの愛情にこたえられる身ではありません」
こうしてエスターはウッドコートのプロポーズを一旦は断るが、そのあとおひとよしのジャーンダイスがエスターの愛情を自分からウッドコートへと導き、物語は誰もがよかったなあと思う、ハッピーエンドで終わるのである。