『大いなる遺産』(加賀山卓朗訳)について

『大いなる遺産』はたくさんの翻訳書が出ていて、私も、山西英一訳を3回、日高八郎訳を2回、佐々木徹訳を2回、石塚裕子訳を2回読んでいる。加賀山氏の訳を一度読み終えたので、計10回『大いなる遺産』を通して読んだことになる。私が何度も読むのは、何度読んでも面白いからで、新たな発見をすることもある。特に加賀山氏の訳は読みやすく、登場人物の会話が自然で、楽しんで読んでいるうちに読み終えてしまったという感じである。いつも思うことだが、ピップが重傷を負ってその後体調を崩して動けなくなりどうなるかと思ったところで、ジョーが現れてピップを助けるところになると、『大いなる遺産』ももう少しで読み終えてしまうんだなと思って、さみしくなる。ピップとエステラの恋愛や脱獄囚プロヴィスとピップの話も重要な部分ではあるが、素朴で勤勉なジョーとのやり取りはこの物語の最も重要な部分であると思う。

私が最初にこの小説を知ったのは児童文学全集で、それは偕成社版少年少女世界の名作の第48巻(北条誠訳)だった(書店に勤めていた母親が20冊ほど一度に購入した中にこの本があった)。本文の中にいくつか挿絵があったが、それよりもよく見ていたのは、登場人物を紹介する2ページだった。残念ながらこの本は中学生になったばかりの私には難しく、本文を読むところまで行かなかった。次に『大いなる遺産』に興味を持ったのは、浪人時代だった。この時に読んだのが、当時唯一文庫本で出ていた山西英一訳だった。しかし外国文学に興味を持ってすぐだったので、ほとんど内容を理解できなかった。ピップという主人公がエステラという美しいけれど意地悪な女性を好きになるが、夢破れて(その時は失恋の話だと思った)故郷に帰ってジョーと共にさみしい余生を送る(間違った内容で記憶に残った)という漠然とした理解しかできなかった。プロヴィス(マグウィッチ)やハーバートやミス・ハヴィシャムのことは頭に残らなかった。次に読んだのが、今から10年ほど前(初めて通して読んだ時から25年以上経過していた)だったが、この時も文庫本では山西訳しかなかったので、同じ本をもう一度読んだ。この頃『高慢と偏見』や『ジェイン・エア』を再読して、少しイギリス文学が理解できるようになったので、わかりにくいディケンズもじっくり読んでみたら、わかるのではと思った。じっくり読んでみるとジョーとピップの関係が変遷を経ることや脱獄囚プロヴィスが突然ピップの前に現れて、物語が急展開することがわかった。
2011年ディケンズ・フェロウシップに入会してすぐに京都大学で秋季総会があり、『大いなる遺産』についての講演をされた佐々木徹前支部長の新訳をすぐに読んだ。佐々木氏が詳しくわかりやすい解説を付けておられるので、特にジャガーズ、ウェミック、オーリック、ピップの姉の存在も浮かび上がって来た。何より挿絵が入れられてあったので、情景を理解するのに役立った。それからしばらくして石塚訳が出たが、ミス・ハヴィシャムが「ピップちゃん」と呼ぶのに戸惑ったが、ミス・ハヴィシャム邸でのミス・ハヴィシャムやエステラとの会話に親近感が持てた。またマシュー・ポケット(ハーバートの父)宅でたくさんの子供たちが遊び回る場面を楽しく読ませてもらった。そうして今から6、7年前に日高訳(第二部は小池滋氏が翻訳)を読んだが、エステラの両親のことやマグウィッチの敵コンペイソンやオーリックの悪事や心優しいビディのことがわかり、80パーセントくらい物語が理解できるようになった。それから5年ほどして60才となった私は、山西訳、佐々木訳、石塚訳、日高訳の順でもう一度通して読み直してみた。それで100パーセント理解できたかと言うとそうではないことが、加賀山訳を読んでわかった。第44章でピップがエステラに告白する場面があるが、その場面は屋外をエステラと二人で歩きながらピップが語るのだと思っていたが、加賀山訳を読むと、「幽霊めいた姿のミス・ハヴィシャムが相変わらず胸を手で押さえ、憐情と悔恨をたたえた不気味な視線に全存在を集中させていた」と書かれてあり、今までの思い込みを改めることになった。また加賀山訳のジャガーズが話すところは明快で、難しい法律の(法的な)話も理解できた。
このように見て来ると、私の場合、未だに物語をすべて理解できていないのかもしれない。そんな私が何度読んでも面白いのは、なぜかということだが、それは加賀山氏があとがきに書かれているように、『大いなる遺産』が、ピップの成長を描いた教養小説、恋愛小説、ミステリー小説、犯罪小説、冒険小説でもあるからである。理解度とどのカテゴリーに属するかとの観点により、読者それぞれの頭の中で醸成されるものが違ってくるのだと思う。私が最初に『大いなる遺産』を読んだ時に、ピップとエステラの恋愛小説と思ったのは、理解度が低いとは言え、恋愛の部分を楽しんで読んだということが頭の片隅に残ったからで、2度目に読んだ時にはその記憶が何らかの影響を及ぼしている。
これはディケンズの他の小説にも言えることだが、多くの興味深い人物が登場し、ここしかないというところで選ばれた人物が登場し、その場面で重要な意味がある会話を交わすというのに何度も遭遇するというのが、『大いなる遺産』という小説のすぐれたところだと思う。興味深い場面をいくつか挙げると、まず思い浮かぶのが、ピップが自分の誤りに気付きプロヴィスに尽すところ、この場面は『大いなる遺産』の名場面の中でも最高のものだと私は思っているが、映画や歌劇では重視されていないのが残念である。「とても美しいレディになっていて、ぼくは彼女を愛しています!」のところを読むと私の涙腺は緩むのである。次に思い浮かぶのが、ジャガーズがピップにエステラの秘密について厳しい口調で話すところ、他にも、ピップがエステラに告白するところも、名場面だと思っていたが、ハヴィシャムさんの前で話しているということが今回分かったので、最後のピップとエステラの対話を補完するために重要なものと考えることにした。
このように翻訳家の考えが入ったり読者それぞれの受け止め方が異なるため、微妙なところで解釈が違ってくる(私の場合は、明らかに間違った思い込みの方が多いが)。新訳を読むと、分かりにくい細部が消化でき、よりよく『大いなる遺産』を理解できるので、これからも加賀山訳を再読することはもちろん、新しく訳された『大いなる遺産』を読んでいきたいと思う。
先に書いたように、この物語の重要な場面は、ジョーが登場するところである。最後の近くでジョーが登場していてとても印象に残る場面があるので、紹介する。

「そして最後に、ふたりがそれぞれ親切な心のなかですでにそうしてくれてるのはわかってるけど、どうか、ぼくを赦すと言ってほしい。ふたりからそのことばを聞かせてほしい。ぼくがその響きを胸に抱いて立ち去れるように。そしたら、いずれ自分は信頼してもらえ、いい人間だと思ってもらえると信じることができるから!」
「ああ愛しいピップ、相棒」ジョーが言った。「おれがおまえを赦すのは神様もご存じだ!何か赦すべきことがあったらだけど」

もしかしたら、ジョーの温かい言葉に癒されるために、私は『大いなる遺産』を何度も読み返しているのかもしれない。