『白鯨』(田中西二郎訳)について

今から50年余り前、親戚の家で少年マガジンを見ていると、構成梶原一騎、画影丸穣也の「白鯨」が連載されていた。私が読んだのは5回のうちの1回だけだったが、クジラがほぼ真上に跳び上がり、海中から飛び出している様は非常に印象的で、当時小学3年生の私の記憶にも鮮烈に残った。それから5、6年してテレビの洋画劇場でグレゴリー・ペック主演の「白鯨」を見た(ちょっと脱線するが、この映画にオーソン・ウェルズが神父の役で出演している)。こちらはエイハブ船長の風貌が強い印象を残したが、それよりも最後のところで、白鯨(モオビィ・ディック)がピィクォド号と3隻のボートを破壊し、乗組員を恐怖のどん底に陥れる(30メートルもある巨大な岩のようなものが、牙をむいて襲いかかるのだから、100人中100人がそうなるだろう)ところが強く脳裏に刻み込まれた。
そんな少年時代の「白鯨」体験があったので、大学に入って、メルヴィルの『白鯨』は書店で何度も手に取った。しかし購入することはなかった。理由のひとつは長編小説で難解という話を聞いていたからで、またディケンズ、モーム、オースティンなどの英文学が好きだったので、アメリカ文学の冒険物やSF物を呼んでいる余裕はなかった。それでも50才を過ぎると英文学に限らず、アメリカ文学の名作や冒険小説などと呼ばれるものも積極的に読んでいこうと思った。そうは言っても、ディフォーの『ロビンソン・クルーソー』やウェルズの『タイム・マシン』『宇宙戦争』『透明人間』やヴェルヌの『海底二万里』はこれからも読むことはないと思うが。
今回読んだ『白鯨』は昭和42年に発刊された新潮文庫で、旧仮名遣いで、不適切用語というものにチェックが入っていないものである。なので主人公イシュメルの親友になるクイークェグの表現やニューギニア近辺の国々のことを表現するときにしばしば不適切な表現が見られる。思うに不適切な用語に対してチェックが入るようになったのは、大阪万博の頃からで、この頃から日本人も世界に向けて発信するようになり、外国旅行も頻繁となったので、先進国だけでなく、低開発国の人たちとも仲良くする、そのためには相手のことを慮って発言する、引いては差別的な言葉やもの(だっこちゃんのような愛らしいものも含めて)は決して口にしたり公にしないということになったのではないかと思う。
『白鯨』はメルヴィルが書いた長編小説のひとつで映画「白鯨」のおかげで物語はよく知られているが、ポー、ホイットマン、ホーソンの作品のような高い評価は受けていない。私もこの小説の余談(うんちく)が余りに多いので、うんざりしながら読んだ。余談というのはクジラと捕鯨船についての知識の披露であるがこれがえんえんと続く、多分専門的な英語や俗語が使われるので、田中氏も翻訳に苦労されたと思う。何のことだかわかりにくいところがたくさんあった。
それでもエイハブ船長をはじめ登場人物はよく描かれていて、一等運転士(航海士)のスターバックの葛藤、エイハブ船長との対立などは緊迫感がある。二等運転士のスタブ、三等運転士のフラスクはエイハブ船長と対立することはない。銛師(1840年頃は大砲のような銛を打ち込む狩猟銃はなく、人力で槍のように銛を突き刺していた。またボートはカッターのように手こぎだし、捕鯨船は帆船なので、風が止むと動かなくなる)も3人いて(クイークェグの他、タシュテゴとダグーがいる)、3人とも経験豊富な銛師である。主人公イシュメルが、捕鯨船に乗ることを決心し、ナンタケットの宿でクイークェグと知り合い、友人になり、捕鯨船ピイクォド号に一緒に乗り込み、冒険が始まる。船長、運転士、銛師の紹介、捕鯨船の中の装備の紹介など最初のうちは楽しんで読み進んでいたが、メルヴィルのクジラ学についてのうんちくが微に入り細を穿つようになると語り部イシュメルの説明とすると違和感が出て来るようになる。それで第104章「化石鯨」のところで、「わたしのやうな鯨文士」と言って、著者が顔を出したりする。そんなクジラ学についての著者の知識が披露される中で、ピイクォド号は徐々にモオビィ・ディックがいるところへと引き寄せられていく。それはエイハブ船長の執念なのか、異教徒の呪術師フェダラアが役割を果たしたのかはわからないが、この大きな地球の海で奇跡的に両者が遭遇することになる。
最初、何人もの熟練した捕鯨船の乗組員が銛や槍を打ち込み、自然の驚異モオビィ・ディックに打ち勝つかと思われたが、クジラに引きずられ、ぶち当たられ、あっけなくピイクォド号が撃沈し乗組員は海の藻屑となる。クイークェグが大工に作らせた棺桶に入り、イシュメルだけが難を逃れて生き残り、レイチェル号に救出されてピイクォド号の惨事の語り部となる。
劇画や映画で懐かしい思い出のある作品(これを機に両方アマゾンで入手した)だが、ごつごつした男っぽい印象(女性が話す場面がなかったと思う)の、私には馴染めなかった冒険小説である。