『モンテ・クリスト伯』について
この小説を初めて読んだのは私がまだ30代の頃で、その頃は本屋さんに長時間いて店内を徘徊し物色してイギリス文学とフランス文学の名作の文庫本の面白そうなものを読んでいました。といっても、上下2巻までが限界で『人間の絆』『デイヴィッド・コパフィールド』のように4巻本以上の小説の敷居は高いと思っていました。それでも今から30年くらい前私が当時勤めていた医療機関の60代の内科の医師から、『モンテ・クリスト伯』は面白いから一度読んでみたらと言われたのでした。私は変なところで意固地になるので、この先生からの勧めがなければ全7巻のこの長大な小説を読まなかったと思います。しかしこの小説を読んだために長大な小説にも同等に興味を持つようになり、『ダルタニャン物語』『チボー家の人々』それから当時はハードカヴァーしか出版されていなかった『リトル・ドリット』『荒涼館』『バーナビー・ラッジ』『骨董屋』などのディケンズの著作も時間がかかってもいいからどんどんどしどし読んで行こうと思ったのでした。『リトル・ドリット』と『荒涼館』を読んで西洋文学に魅せられた私は長編小説を読むことにのめり込んでいくのですが、『モンテ・クリスト伯』はその切っ掛けとなった小説と言えます。その切っ掛けを作ってくれた小説でしたが、なにせ長編小説を読み始めた頃で当時はネット検索などという便利なものはなく当時とても楽しく読んだという記憶はありますが、今回読み直してみてどれほど理解できていたのかと考えると1回目の通読では30パーセントくらいしか理解できてなかったと思います。多分その時は、ファリャ神父との出会いが余りに不幸だったダンテスの人生を180度転換させたことに感動したこととノワルティエ氏の仕草や「そうだ」と言うのが際立っていて面白い人物だなと興味を持ったことだけだったと思います。しかし『モンテ・クリスト伯』を読むことで、長編小説にそんな人物が出て来るのなら頑張って読んでみようかという強い意志が生まれたと思います。
主人公エドモン・ダンテスが4人の悪人に嵌められて脱出不可能な牢獄シャトー・ディフに幽閉されますが、彼の不屈の闘志と稀有な知識と人格を持つファリャ神父との出会いにより人間らしさを取り戻します。またファリャ神父からは莫大な財宝も譲り受け、ダンテスは知恵とその財宝を使って4人に復讐していきます。ただ幽閉されている期間が14年、財宝を探し手に入れて復讐の準備ができるまでに10年がかかり、それまでに4人の悪人のうち3人は家族を持ち社会的な地位を築いていきます。エドモン・ダンテスもモンテ・クリスト伯と名乗り復讐を始めて行きますが、それまでに船乗りシンドバットと名乗ったり、ウィルモア卿、ブゾーニ司祭などと偽名を使ったりしていてしかもそれが複雑に絡み合いますから、読んでいてわけがわからなくなることがしばしばです。でも今はネット検索というものがあるので何とか通して読み終えることができましたが、相当な読書力がなければそれなしでは読めない作品と言えます。特に5番目の悪人のベネデットの場合はとても複雑です。ヴィルフォールとダングラール夫人との間に出来た不義の子供で生後すぐにヴィルフォールに生き埋めにされますが、ヴィルフォールに恨みを持つベルトゥッチオに助けられます。ベルトゥッチオは後にモンテ・クリスト伯の家令になりますが、その前にベルトゥッチオは義姉とともにベネデットを育てます。ベネデットはヴィルフォールから悪人の遺伝子を受け継いだのか物心ついた頃から悪事を繰り返し義姉を殺して逃亡します。その後も悪を繰り返し投獄されますが、なぜか(多分、復讐の手駒として利用するためだったと思うのですが)モンテ・クリスト伯に保護されてアンドレア・カヴァルカンティ伯爵と名乗って、モンテ・クリスト伯の謀で破産しかけてるダングラールの娘ユージェニーに接近します。ユージェニーがベネデットを好きになることはなかったのですがユージェニーと婚約し、婚約してすぐにベネデットは牢獄仲間のカドルッス(4人の悪人のうちの1人)を殺害したため告発されます。裁判が始まる前にベネデットはベルトゥッチオからヴィルフォールの悪事を聞いていたため、裁判の際に検事総長のヴィルフォールがベネデットの罪状を読み上げた後にヴィルフォールが今まで行った悪事をすべて明らかにします。このようにしてベネデットはダングラールの破産とヴィルフォールの発狂に深くかかわるわけですが、カドルッスだけでなく何人もの殺人を犯したにもかかわらずベネデットは情状酌量(その場にいた警官の評価)となります。
4番目の悪人と言えるのがカドルッスで、ダンテスを陥れる相談をダングラールとフェルナンをしている時に側にいただけ(制止もしている)とも言えるので、ダンテスがブゾーニ司祭に変装して陰謀の経緯を聞いた時にはダンテスはお礼にダイアモンドを贈ります。ところがその後カドルッスは宝石商を殺害して投獄され、獄中でベネデットと出会います。この後ダンテスが変装したウィルモア卿の手引きで脱走したり、アンドレア・カヴァルカンティ伯爵と名乗って裕福になったベネデットを強請ったり、モンテ・クリスト伯の屋敷に盗みのために入ったりしますが、ベネデットに刺されて虫の息の時にダンテスからブゾーニ司祭の正体を聞きます。
このように3人の悪人ダングラール、フェルナン、ヴィルフォールの他の悪人であるカドルッスとベネデットでさえも他の登場人物と深く絡み合って物語が進行していくので、最後まで読み終えるのは本当に大変であると言えます。しかも3人の悪人にはそれぞれ家族があり詳細な人物描写が見られます。特にフェルナン(モルセール伯爵)の妻メルセデスとアルベールの描写については他の2人に比べて多くの記載があります。というのもかつてのダンテスの恋人メルセデスは対面してすぐにモンテ・クリスト伯がダンテスであることに気付き、フェルナンへの復讐に気付き息子に危害を加えることはしないように訴えたからで、このあとアルベールがそれまで親しくしていたモンテ・クリスト伯に決闘を申し込んだりしますが、結局生活の糧を失ったふたりはモンテ・クリスト伯の父が生活していた家で暮らすことになります(その後アルベールは軍隊に志願します)。
ダングラールへの復讐は、他の2人に比べて早く始まったと言えます。モンテ・クリスト伯は信号手を買収してニセの情報を送って、ダングラールを騙して公債で大きな損失を出させます。ダングラールは自分の銀行が破産するのを避けるために有名な貴族との政略結婚を考えますが、こちらもモンテ・クリスト伯に騙されてアンドレア・カヴァルカンティ伯爵と娘との結婚を考えます。アンドレア・カヴァルカンティ伯爵が告発されて身元が明らかになり、ダングラールの信用は益々なくなっていきます。そうしてさらにモンテ・クリスト伯からお金の督促を行けて不渡り手形を発行してしまい。夜逃げをしてしまいます。逃亡先で拘束され餓死寸前まで追い詰められますが、モンテ・クリスト伯が正体を明かしてダングラールは釈放されます。自殺したフェルナン、発狂したヴィルフォールに比べると復讐が不十分と考えられますが、借金に苦しめられ餓死寸前まで追い詰められたので、エドモン・ダンテスはそれで充分だと考えたのでしょう。
ヴィルフォールはヴィルフォール夫人が複数の毒殺の犯人で医師からの警告にもかかわらず放置したため、最愛の娘ヴァランティーヌが服毒してしまいます。またヴィルフォール夫人に責任を取れと強く迫ったために妻と最愛の息子を失います。さらにモンテ・クリスト伯といろんな面で関りがあると言えるベネデットから裁判の席で過去の悪事を暴かれ発狂しますが、過去の悪事を暴かれ、妻子からも見捨てられて自殺したフェルナンと比べると存命しているので健康が回復するとも考えられ、フェルナンの方がより厳しい復讐だったとも考えられます。策謀で陥れしかもその恋人を奪ってしまったのですから、単に陥れただけのダングラールとヴィルフォールはそれに比べると罪が軽いとダンテスが判断したとも考えられます。
物語が終わる前にマクシミリアン・モレルが頻繁に登場してモンテ・クリスト伯とのやり取りが繰り返されます。マクシミリアンはヴァランティーヌを助けられなかったことでモンテ・クリスト伯を責めますが、結局はモンテ・クリスト伯に助けられていてモンテ・クリスト島にかくまわれていることがわかります。ヴァランティーヌはどうなったのかとはらはらさせますが、モンテ・クリスト伯とエデとの結婚と共にダブル・ハッピーエンドでこのとてつもなく暗い復讐劇の幕は閉じられます。それから作者のアレクサンドル・デュマはもう一つ読者の心を和ませる贈り物をしています。それは最後にモンテ・クリスト伯がマクシミリアンに送った手紙の中に出て来ます。「待て、しかして希望せよ!」とモンテ・クリスト伯が語っていますが、これはヴァランティーヌが説明しているように「人間の智慧は、ただこの二つの言葉に含まれている」と考えられ、これは「待てば海路の日和あり」ということではなく、「辛抱強く待って、時期が来たら強い意志で自分の人生行路を切り開いて行け」と言っているのだと思います。