『緑のハインリヒ』について

大学のドイツ語の文法のテキストに「ゴットフリート・ケラーの『緑のハインリヒ』」と出ていて、それ以来ずっと読みたいと思っていた小説である。そこに『緑のハインリヒ』が教養小説と書かれていたかどうかは覚えていないがまずカテゴリーに入れられている教養小説について説明したい。ドイツ発祥のビルドゥングスロマン(教養小説)は主人公の人格形成(成長していく過程)を描いた小説と言われている。私はつい最近まで教養小説の筆頭はモームの『人間の絆』でその次にディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』や『大いなる遺産』といったイギリス文学が来ると思っていたのだが、よく調べてみると筆頭はゲーテの『ヴィルヘルム・マイステルの修業時代』でゲーテ以後の代表的な教養小説は、シュティフターの『晩夏』、ケラーの『緑のハインリヒ』、トーマス・マンの『魔の山』、ヘッセ『デミアン』など主にドイツの小説があがるらしい。ただ、イギリスの教養小説として『人間の絆』があげられることはよくあることで、ビルドゥングスロマンという言葉を引っ張り出さないで、教養小説で留めるなら用語として問題はないと思う。人間形成の過程でどんな出来事が起きるかを考えてみると、恋愛、友情、社会に出るための教育、ライバルとの争い(切磋琢磨)、技術を身につけるための修行、親の愛情、親との別れなどの場面が思い浮かぶ。『緑のハインリヒ』にもこのあたりの人格形成の過程のいくつかが描かれているが、特に3つの恋愛(アンナ、ドロテーア、ユーディト)についての描写は丹念に描かれていて他の同類の小説の追随を許さない。
幼き日の恋愛として、叔父の娘アンナとの恋愛があり、ふたりは大自然の中で誰にも邪魔されることなく(叔父も容認していたと思われる)愛情を発展させていく。また叔父の指導で画家の修行をしているハインリヒは長い時間を掛けてアンナの肖像画を書いている。自然の中で無邪気に駆けまわる場面と共に印象に残る場面である。そうしたふたりに別離の時がやって来て(2年間アンナはハインリヒの前から姿を消す。フランスの学校に行っていた?)戻ってからも交際は続いたが、故郷に戻って来てしばらくしてアンナは不治の病に犯されてしまう。幼い頃夢中になって楽しい日々を過ごしたふたりの恋はアンナの死により終わってしまう。失意のハインリヒは画家になるための修行に没頭するが、完全主義者のハインリヒは自分の作品に自信が持てない。旅に出てその途中でリースとエリクソンと出会い彼らからよい影響を受けるかに見えたが、結局、リースの横暴(自分の恋人アグネスを捨て、エリクソンの恋人ロザーリエを我が物にしようとする)を許してしまう。恋人が奪われそうなのにエリクソンが何もしないので、ハインリヒはリースの行動を非難して決闘を申し込む。決闘はリースが断ったため回避することができたが、一緒に絵画を学んだリースは姿を消す。ロザーリエは無事エリクソンと結ばれ、アグネスは以前から彼女に好意を持っていたラインホルトと結ばれる。
ハインリヒはエリクソン、ラインホルトと別れ、画家の修行を続けるが絵が売れず、食事もできないような赤貧の状況になる。仕方なく自分の持ち物を売ったり、別の仕事に手を付けたりする。そうして本業以外の仕事で生活が落ち着いたハインリヒは画業で身を立てることは諦めて、故郷に戻って別の仕事に就くことを考えるようになる。そうして今までの作品などすべてを売り払って故郷に向かうが、途中で立ち寄った教会でドロテーアと出会う。ドロテーアはたまたま見たハインリヒの作品の素晴らしさを褒め上げる。ドロテーアの養父である伯爵とも繋がりが出来てハインリヒは伯爵の勧めもあり再び画家を志すが、ドロテーアとの恋愛が思うように行かないためか(助祭がしばしばちょっかいを掛ける)、母親のことが気になるのか習作の整理が終わると伯爵に帰郷することをほのめかす。それから出発するまでに伯爵の強い遺留、ドロテーアの誘惑があるが、ハインリヒの意志は強かった。
ハインリヒは伯爵に送られて故郷に帰ったが、故郷を離れた時にいた人はほとんどおらず玄関から家に入ろうとした時にようやく親しくしていた親方から声を掛けられた。親方からの説明を受けてハインリヒは母の状態がかなり悪いことを知り亡くなる直前に会うことが出来たが、意思疎通はもうできない状態になっていて母親から言葉が発せられることはなかった。母親の死後1年してハインリヒは役場に勤めることになり2、3年すると郡長を命じられた。ある日仕事で訪れたところが故郷の一角であることに気付いてしばらく物思いに浸っていると、かつて親しくしていたユーディトと偶然巡り合う。ユーディトは昔と変わらずハインリヒに好意を持っていて、以前と同様に隠さずにそのことをハインリヒに伝える。女性に対して臆病なところがあったハインリヒもユーディトの優しい心遣いを受け入れる。ふたりは結婚はしなかったが、それから20年不慮の事故でユーディトが亡くなるまで楽しい日々を過ごした。
教養小説とは主人公が人格形成をして行く過程を描いたものなので、その過程で好ましくないと考えられることを主人公がすることもある。例えば、ハインリヒは自分が成功するまで母親と顔を合わせることが出来ないと考えたのか、自分に身を削ってお金を捻出している母親に定期的な連絡をしていない。ハインリヒは世話になった親方にどん底だったことを打ち明けたが、親方と会った後亡くなるまで母親に手紙を出さなったのはどう考えてもおかしい。またアンナ、ドロテーアとの恋愛についてもハインリヒの行動は疑問に思うところがしばしばある。アンナ、ドロテーアに率直に自分の気持ちを打ち明けていれば彼女たちはハインリヒの願いを笑顔で受け入れてくれたと思われるが、彼は逡巡し時期を逸してしまう。こういった主人公の失敗は読者への教訓となるし、主人公への愛着(嫌悪感を持つ場合もあるかもしれないが)に繋がる。また主人公が結ばれなければ次の恋愛で主人公は新鮮な気持ちで女性と一から始めることができるので、その物語が終わることはない。そう考えると小説家が主人公に愛着を持つと人間形成に時間が掛かり恋愛もすんなり行かず波乱万丈の人生となりなかなか物語が終わらないということになるのかと悟った気になるが、ケラーは『緑のハインリヒ』の主人公に対して自分の分身として愛着を持って描いたんじゃないかと思う。そうして愛着があるから、彼の喜怒哀楽を丹念に描くことができ、しかも暗い結末では可哀そうと思って、十数年してハッピーエンドに書き換えたんだと思う。