『完訳千一夜物語』(一)(五)(岩波文庫)について

今年4月13日に亡くなられた小池滋氏は英文学者・翻訳家で多くのディケンズの翻訳書を出版された。『オリヴァー・トゥイスト』『バーナビー・ラッジ』『リトル・ドリット』はいずれも優れた翻訳で、共訳の『荒涼館』『大いなる遺産』(日高八郎訳となっているが第2部は小池氏が訳された)も素晴らしい。また未完ではあるが、『エドウィン・ドルードの謎』も他の短編と共にハードカバーの本を出版されている。私はこの未完の小説はあまり理解していないが、この本の中のディケンズの生涯について書かれたところは何度も読んでいて、文豪が幼い頃に読んだ小説について書かれているところは特に興味深く読んだ。
「こういういかにものんびりした、牧歌的な環境の中で経験した子供時代は、その後のディケンズにとって一生忘れられぬ甘い思い出となった。自伝的な小説と言われる『ディヴィッド・カッパーフィールド』によれば、あまりよその子供と遊ぶこともなく、ひとりで家にある本を読みあさり、自分がその主人公になったつもりで、いろいろな空想にふけったという。その時に読んだ本と言うのは、『アラビアン・ナイト』(千一夜物語)のような東洋風の幻想をおびた物語、十八世紀のイギリスの小説家、スモーレットやフィールディングなどの作品、一般に「悪漢(ピカレスク)小説」と呼ばれている作品であった。まだ産業革命の黒煙で汚されていない、十八世紀イギリスの田園で、愉快な主人公たちが思う存分活躍するこうした小説の世界は、ロチェスターの町の静かなたたずまいとともに、彼の幼い心に一生消えることのない楽しい印象を植えつけたのだった。」
ディケンズのような小説が書けたらと憧れを抱いた私は少しでもディケンズに近付こうと十八世紀のイギリスの小説フィールディングの『トム・ジョウンズ』、スコットの『アイヴァンホー』(1819年初版発行だが)やオースティン、ジョージ・エリオットなどの小説を読み、ディケンズと同時代のフランスの小説家アレクサンドル・デュマの『ダルタニアン物語』や『モンテ・クリスト伯』などを文豪の作品と同様に楽しんだ。しかしながら『アラビアンナイト』(以下、『千一夜物語』と記す)はなかなか読むことができなかった。ひとつは中世のアラビアの作者不詳の話が理解できるかというのがあった。それに付随してその頃のアラビアの信仰や慣習など、アッラーの崇拝、奴隷売買、厳しい罰則などを受け入れられるかということもあった。またこれが一番大切なことかもしれないが、アラビア語(原典)からの翻訳、フランス語(マルドリュス版)からの翻訳、英語(バートン版)からの翻訳のどれを選択するかという問題があった。母校立命館大学の図書館に前嶋信次・池田修訳の原典版がありまずそれのべージをめくってみたが、読みにくく最後まで読むどころか第1巻を読み終えるのも難しいと考えた。そこで豊島与志雄・佐藤正彰・渡辺一夫・岡崎正孝訳のマルドリュス版と大場正史訳のバートン版のそれぞれ第1巻を購入しどちらにするか検討することにした。どちらも翻訳がこなれていて読みやすかったが、マルドリュス版は全13巻でバートン版全11巻よりも薄くて携帯に便利、挿絵も比較的穏やかというのがあって、豊島与志雄氏他訳のマルドリュス版を読むことにした。
アラビア文化、ペルシア文化をよく知らない私が知ったかぶりしてあれこれ言うのをお許しいただきたいのだが、日本の文化とは大きな違いがあり受け入れられないところがいくつかある。それでも第1巻と第5巻を読んで言えるのは、物語としてとても面白く楽しい場面もたくさんあるということである。
シャハリヤール王は王妃と奴隷の不貞を見て以来、人間不信になり若い女性の貞操を奪っては首をはねるようになった。シャハリヤール王に使える大臣の娘シャハラザードは多くの書物(年代記、古えの王の伝説、昔の民族の歴史など)を読み、また言葉が巧みで、その語りを聞くことは快かった。シャハラザードは妹のドニアザードの協力を得て、毎夜新しい話を聞かせてシャハリヤール王の怒りを鎮めてゆく。時に王は自分の要望が受け入れないと怒るが、シャハラザードの話を毎夜楽しみにして過ごすようになる。今のところ、第1巻と第5巻を読み終えただけだが、第5巻の後半にあるシンドバッドの冒険の話(船乗りシンドバードの物語)をはじめいずれの物語も面白く、時に艶めかしい場面や少し残酷な場面も出て来る。すべてを紹介するわけに行かないので、シンドバッドの冒険について少し紹介したい。
船乗りシンドバードは7回の航海をしておりその度に窮地に陥ったが、自らの知恵で難局を回避して富を築いた。その7回の航海を紹介すると、第1回の航海では、シンドバードはクジラの背中に置いてきぼりにされてそこから振り落とされて大海を彷徨うようになる。疲労困憊の状態で島に漂着するが王の馬の番に助けられ王を紹介される。王に気に入られたシンドバードは海洋書記官に任用されて 王からたくさんの贈り物をもらうが、故郷に帰りたいという気持ちは抑えられず、シンドバードが遭難する切っ掛けを作った船長が現れると別れてからどうなったかを話して自分の持ち物を取り戻し、王の許しを得て帰国する。第2回の航海では、航海していてある美しい島に行き着いたシンドバードは、その島の心地よさに時間を忘れて眠ってしまう。目が覚めると船は出航しており無人島に取り残されたことに気付く、シンドバードは苦しみと悲しみで胆嚢が今しも肝臓の中で破裂しそうになるのを感じたが、巨大な鳥ロクの足にターバンを巻きつけて無人島を脱出する。ロクが舞い降りたのはひどく高い山々に四方を囲まれた広い深い谷間で峻厳なため登ることもできず、食う物も飲む物もなかった。しかしよく見ると谷全体がダイアモンドでできていて、そのダイアモンドを警備するように大きな黒い蛇が巡回していた。シンドバードはダイヤモンドをかき集めて身につけるとターバンをロクに巻きつけて脱出する。第3回の航海では、シンドバードは安全な航海を続けていたが、逆風が進路を反らせて「猿が島」に漂着してしまう。最初は1メートルほどの猿が現れ、シンドバードと船員は御殿に連れて行かれる。そこで椰子の木程の高さのある見るも恐ろしい生き物が現れ、首の骨を折り串刺しにして火に焙って食べて行った。船員たちはその生き物の目をつぶして筏で逃げようとするが、海岸までいくと牝の巨人と一緒に現れ、シンドバードとあとふたりの船員以外は岩の塊を筏に投げつけて溺死させてしまう。シンドバードとふたりの船員は別の島にたどりついたが、ふたりとも大蛇に飲み込まれてしまう。板切れを取り付けて大蛇に飲み込まれるのを回避したシンドバードは島中を廻っているといると沖合に一艘の船が現れて救助される。第4の航海では、シンドバードは大きな船に乗り多額の利益を上げていたが、ある時、船長が、「われわれは助かるすべなくもうだめだ」と言ったと思うと風が船を持ち上げばらばらに壊してしまう。シンドバードと数名の商人は島の浜辺に打ち上げられる。島の内に入ると捕らえられて王の前に連れて行かれる。料理を出され、シンドバード以外の船員はそれをがつがつ貪り食べたが、その島の住民は人肉食らいだった。住民は船員たちを太らせては焼肉にして食べたが、住民が料理を食べず太らないシンドバードに興味を持たなかったためにシンドバードは逃亡する。運よくシンドバードは8日目の朝に親切なアラビア語が話せる住人に出会い、王に引き合わせてもらう。シンドバードが考案した馬の鞍や鐙が重宝されて王に気に入られる。しかしこの国には妻が亡くなると一緒に生き埋めにされるという習慣があり、王に勧められてこの国の貴婦人と結婚したシンドバードも妻がそれからすぐに亡くなり井戸に生き埋めにされることになる。この後自分が生きるためとはいえシンドバードは同様に井戸に生き埋めになった夫からパンを奪って生き延びる。穴に入って死骸を食う動物に気付き出入りする穴から脱出するとシンドバードは帰るための準備をする。やがて一艘の船が通りかかり、シンドバードは救助される。第5の航海では、一艘の大きな船を買い入れ新しい船旅に出たシンドバードは、淋しい島にいくつもの白いドームがあるのを見つける。それを仔細に調べると巨大な鳥ロクの卵であることがわかる。船客と商人はそのことを知らず、卵を割って雛を殺して切り刻み肉片を焼き食べようとした。そこに親鳥が現れて船に大きな岩を当てて沈没させた。シンドバードは板切れにすがりつくことができて、ただ一人で島に着く。到着した島は天国のような美しい島だった。朝になって探検すると溜池のほとりで老人に出会う。この老人が向こう岸に渡してほしいと言うのでシンドバードは老人を背負ったが、肩にしがみついて離れなくなった。しがみついて糞尿も垂れ流し、容赦なく歩き回らせた。シンドバードは老人にブドウ酒を飲ませて酔わせ、怯んだすきに手足を解き、大きな石で打ちに打って死なせてしまう。通りかかった船に助けられて、水夫に老人の話をすると水夫は、その老人は「海の老人」と恐れられていて、締め殺されなかったのはあなたが初めてだと言われた。第6の航海では、シンドバードは乗った船が難破して島に漂着する。幾人かの仲間と漂着したが、仲間たちは分け合った食料を大切に扱わず、食料が尽きるとともに餓死して行った。食料を節約したシンドバードは最後まで生き残ったが、脱出の方法が見つからなかった。結局、川を筏で下って脱出できたが、セレンディプ王の信頼も得て教王ハールーン・アル・ラシードへの献上品を持って行くようにと依頼される。第7の航海では、シンドバードは教王の依頼を受けセレンディプ王に返書と御進物を届けることになるが、帰途暴風雨が突発して、怪物と大蛇に襲われる。しかしシンドバードは窮地を脱して老人に救われる。老人から、私が亡くなるまでは一緒に暮らしその後は私の娘を連れて帰国しても構わないと言われ、シンドバードは老人の願いを受け入れる。翼を生やす人々に苦しめられるが自分の力で苦境を脱して無事故郷のバグダードに帰る。
以上、長くなったが、『千一夜物語』はこのように冒険に富み、登場人物が生き生きと描かれている。また西洋文学にないキャラクターがたくさん登場し、物語もスリリングに展開する。一度読めば虜になるが、『完訳千一夜物語』は13巻あるので、全部読み終えるのは大分先になりそうである。