『知と愛(ナルチスとゴルトムント)』について

社会人になって数年経った頃、以前から読みたかったヘッセの作品をいくつか読んだ。『郷愁(ペーター・カーメンチント)』『車輪の下』『春の嵐』を読んだが、『郷愁』に出て来る短い詩(人生はあっという間に過ぎ去るものだから、今がその時と感じたら心行くまで楽しめばいいと言った内容の詩)だけが心に残った。『知と愛』も最後まで読みたかったが、ゴルトムントのだらしない(ふしだらで激しやすい)性格について行けず断念したのだった。ふしだらというのはまるで女性と関係を持つことが自分のこやし(エネルギー)になると信じて疑わず手当たり次第に手を付けていること、激しやすいというのは自分のなけなしの財産が奪われそうになった時と自分の愛人として一緒に生活していた女性が暴漢に襲われた時に殺人を犯したことでどちらも大らかな法律で縛られることがなかった時代だから許されたのだと思うが、今の時代では暴行罪、殺人罪で罪に問われるに違いない。ゴルトムントの場合、懺悔して許され、伯爵の愛人アグネスと関係を持った時はナルチスが彼を保護するが、私の場合、こんなにまで罪を犯した人が罰せられないのかと言いたくなる。お金を奪われる恐れがあるからと言って、自分の愛人が暴行を受けてペストを感染させられたと言って何も殺さなくてもと思う。
以上のようなことを考えていて、読み終えるまでこの小説に対しての評価は良くなかった。しかし終わり頃になってナルチスが登場する辺りから友情、創作について記述が続き、この小説の素晴らしさがようやくわかった。以下、ほぼ原文のまま、抜粋していくつかここに掲載する。
二人が再会してしばらくしてであるが、芸術については次のような記述がある。
「それは無常の克服だった。人間生活の道化と死の舞踏から、あるものが残り、生き延びるのを、ぼくは知った。それはつまり芸術品だった。それもいつかは移ろい、焼けうせ、滅び、打ち砕かれるだろう。しかし、とにかく芸術品は幾代もの人間生活より生きながらえ、瞬間のかなたに、形象と聖なる物との静かな国を作る。それに協力するのはぼくには貴く慰めになると思われた。なぜならそれは、無常なものを永遠化することに近いのだから」(ゴルトムント)
「よい芸術の原型は実存の人物ではない。実存の人物はそのきっかけになりうるかもしれないとしても。原型は血と肉ではなく、精神的だ。それは、芸術家の魂の中にふるさとを持っている像だ」(ゴルトムント)
そうしてゴルトムントはナルチスが院長のマリアブロン修道院で芸術家として受け入れられて芸術品の制作に励むことになる。2年して作品が完成しナルチスから賞賛を受けることになる。
「これは君のいちばん美しい作品だよ。修道院全体の中にこれに匹敵するものはない。この数ヵ月のあいだわたしはいくどか君のために心配したことを告白しなければならない。君はおちつかず、苦しんでいるように見えた。君が姿を消し、一日以上帰ってこないと、わたしは心配になって、もうもどってこないかもしれない、と思うことがあった。だが、君はすばらしい像を作った!わたしは君を喜びとし、誇りとする!」(ナルチス)
しかしまさに像を心血を注いで作り上げたゴルトムントは次の創作について模索することになる。
「この像がうまくできるためには、ぼくの青年時代全体が、ぼくの放浪が、恋が、多くの女への求愛が必要だったのだ。その泉からぼくはくみあげたのだ。泉はまもなくからになるだろう。ぼくの心の中はひからびる」(ゴルトムント)
そうしてゴルトムントは再び創作意欲を喚起するために旅に出るが、もう以前のような若さ(それは女性への求愛により創作意欲を喚起させるために欠かせないもの)はなく求めるものを手に入れることが出来ず、落馬してすぐに治療をしなかったために瀕死の状態で修道院に帰りつく。そうしてゴルトムントが亡くなる前にナルチスはそれまでどうしても言えなかったことを告白する。
「もっと早く君に言うことができなかったのを許してくれたまえ。(中略)どんなにわたしが君を愛しているかを、君がどんなにわたしにとっていつも尊かったかを、君がぼくの生活をどんなに豊かにしてくれたかを。(中略)愛が何であるかを知っているとしたら、君のおかげだ。君をわたしは愛することができた。人々の中で君だけを。それが何を意味するかは、君には推し測れない。それは砂漠の泉を、荒野に花咲く木を意味するのだ。わたしの心がひからびていないのは、神の恵みの訪れを受けうる個所がわたしの中に残っているのは、ひたすら君のおかげだ」(ナルチス)
ゴルトムントはうれしそうに、いくらかきまり悪そうに微笑して、ナルチスの言葉を感謝して受け入れるが、ゴルトムントは二つの炎(肉体的享楽と芸術品を作ること)が消えたと言ってこの世に別れを告げる。その際に母親のことを何度もナルチスに語るがゴルトムントのすべての行動の源となったのはいつでも心の中にあった母への思いのように思われる。
ヘッセの翻訳はやはり高橋健二氏のものが優れている。読みやすい訳だが、いつまでも読み続けられるかと思う。できれば『ナルチスとゴルトムント』の名訳を誰かが出版されて、この作品が多くの人に読まれることを切に願う。