『夢遊の人々』について

ヘルマン・ブロッホというドイツの作家を知ったのは今から40年余り前のことで、当時大学3回生だった私は授業を受けていたドイツ語の先生からブロッホの『ウェルギリウスの死』が面白いから読んでみたらと言われたのでした。先生はわざわざその本を授業に持って来られ読んでみたらと私に見せられましたが、ハードカヴァーで400ページ余りありしかもほとんど段落がない本は当時文庫本しか読んでいなかった私にはとても読めそうにないと思い、申し訳ありませんとお断りしたのでした。それでも今から15年程前読書意欲が高まり古書店通いをするようになり、当時御茶ノ水の駅近くにあった風光書房で『ウェルギリウスの死』を見つけた時には、大学生の時は読めなかったけれど読んでみようと思ったのでした。ブロッホは「意識の流れ」という手法を使う心理描写に秀でた作家でありイギリスではジェイムズ・ジョイス、ドイツではトーマス・マンと親交があった作家で、特にジョイスはブロッホの窮地を救ったことが知られています。今回読んだ『夢遊の人々』はブロッホの出世作ですが、私は彼の作品で最も優れたものは『ウェルギリウスの死』であると思います。他に未完の作品と言われている『誘惑者』と『罪なき人々』がありますが、『夢遊の人々』『ウェルギリウスの死』ほどの完成度はないと思います。『ウェルギリウスの死』を15年程前に購入して興味深く読んだので、他にブロッホの面白い小説はありませんかと風光書房の店主に尋ねたところ、店主が『夢遊の人々』と『誘惑者』を提示されたので、725ページもある中央公論社のハードカヴァーを諦めて『誘惑者』だけを購入したのでした。しかしこの本も冬眠期間が長く2ヶ月ほど前になってようやく読み始めた次第で、マリウスと村の人々との対決を興味深く読んだ(といっても未完なので結末はついていない)ので、何とか『夢遊の人々』を読んでみたいと思ったのでした。私は1年半ほど前から母校立命館大学の図書館に週に3、4回通っているので、ブロッホの『夢遊の人々』について調べたところ、中央公論社のハードカヴァーの他に携帯に便利なちくま文庫が上下2巻で出版されていて借りられることがわかったのでした。それでその文庫本2巻を3週間ほどかかって読み終えたのですが、第3部の10章ある「価値の崩壊」のチャプターが難解でどれだけ理解できたのかと思います。それでもどのような物語だったかはお伝えできるかと思います。
この小説は3部構成で、第1部「1888年 バーゼノウまたはロマン主義」 第2部「1903年 エッシュまたは無政府主義」 第3部「1918年 ユグノオまたは即物主義」で構成されています。第1部の主人公は30才の頃のヨアヒム・フォン・バーゼノウで彼は軍に入隊して平穏な日々を過ごしていましたが、友人のベルトラントがいろいろ彼の生活に介入してくるため彼の理性が狂わされ、兄の急死(決闘で落命)もあり、ルツィーナ(カジノのホステス)やエリザベート(富裕な地主の一人娘)との関係がうまく行かなくなり、父親(裕福な地主(ユンカー))からは勘当されます。行き詰った彼はそれまで結婚を考えていなかったエリザベートとしぶしぶ結婚します。第2部の主人公は30才の頃のエッシュで当時彼は事務員(商会の会計係)の仕事を失い職を探して彷徨いますが、職探しが思うように行かずしかも10歳以上年上の食堂のおかみ(ヘンティエンおかみ)とこちらも望まない結婚をすることになります。第3部ではこの第1部の主人公フォン・バーゼノウが60才の少佐(職は市の司令官)、第2部の主人公エッシュが45才の市の広報誌の編集長となって登場します。二人のところに第3部の主人公30才のユグノオがやって来るのですが、ユグノオは兵役を拒絶して脱走して職を得るために広報誌の仕事(ブローカー)がしたいとエッシュのところにやって来るのです。入隊前は商人でしたが自分勝手で他人を押しのけてでも自分の生活を良くしようと考える性格で、エッシュ、フォン・バーゼノウとうまく行きません。そうしたユグノオにとっては歯がゆい生活が続いていましたが、第1次世界大戦の末期になって各地で暴動が起こりフォン・バーゼノウが司令官を勤める市でも暴動が起こります。現状に満足できず何かが起きたらそれを利用して広報誌の実権を握ろうと考えていたユグノオはどさくさに紛れてエッシュを銃剣で刺殺し、暴動で頭部を損傷したフォン・バーゼノウを市に引き渡した後、エッシュの妻を恫喝して足元を固めて行きます。普通ならこうした道徳に反した行動を取る人物はたとえ主人公であっても罰せられるところですが、大戦が終わってから私腹を肥やし家族を持ち豊かな暮らしを始めます。第3部には、エロチックなハンナ・ヴェントリングの話、ヤレツキー中尉と看護婦マチルデの実を結ばなかった恋愛、塹壕で生き埋めになって一旦は救助されたルードヴィヒ・ゲーディッケの運命などが同時進行しますが、ユグノオの物語に接近することはなく盛り上がることもなく終わります。「価値の崩壊」も最後のところでユグノオの話に接近しますが、物語の結末をわかりにくするだけでした。「価値の崩壊」についてはもしかしたらブロッホが主張したいことの要約ではないかと感じたところがありましたので、最後にそこのところを抜粋したいと思います。
「それゆえ部分体型が価値崩壊の過程中で自分自身の存在を確保しようとするなら、つまり部分体系がこの目標に向って押し迫る自分自身の理性から身を守ろうとするなら、非合理的手段に逃げ込まざるをえないとし、そこからあの独特な曖昧さ、認識論的に言うならば、すべての部分体系に付着する不純ささえ生ずるのである。すなわち部分体系は進行しつつある価値崩壊に対しては全体体系の役割をひき受け、非合理的なものを反逆的で犯罪的なものと評価して、否応なく非合理的なものとその無名の悪の同質的な集塊から一群の「善なる」非合理的な諸力をとりだし、かくしてこれらの力の助けを借りておそるべき崩壊の進行を阻止し、自己の存立の正当化をもたらそうとせずにはおかぬ」
ヘルマン・ヘッセの小説でも哲学的な考察はしばしば出て来ます。ゴットフリート・ケラーの『緑のハインリヒ』にはそのような考察はないので、すべての独文学を読むためにその素養がないと理解できないとは言えないと思うのですが、カント、ヘーゲルなどのドイツ哲学に通じてないとこの小説の「価値の崩壊」を理解することは難しいと思います。でも物語の筋だけを理解するならその必要はないと思います。