『ハード・タイムズ』について その2

今から13、4年前にディケンズが1854年(ディケンズは1812年生まれ)に書いたこの長編小説(10作目 『荒涼館』と『リトル・ドリット』の間に執筆された)を読んだ。その時は入手しにくい書籍なので大阪市立中央図書館で借りて読んだが、2週間ほどで急いで読んだので充分理解できていない気がした。それで2011年秋からディケンズ・フェロウシップに入会している私は、現在同会で監事をされていてこの本を共訳された田中孝信先生にじっくり読みたいのでお願いしますと言って高価な本を1冊譲っていただいた。前に読んだ時にも感じたことだが、とにかく苦しい時期を脱して『デイヴィッド・コパフィールド』『荒涼館』『リトル・ドリット』『二都物語』『大いなる遺産』という名作を次々と送り出した12年間に書かれた小説なのにこの作品は他の5つの長編小説とは異質な感じがする。ディケンズの作品には小説から飛び出して来そうな存在感のある主人公や脇役が登場するのだが、この作品にはそういう感じの人物がいない気がする。例えば、『デイヴィッド・コパフィールド』なら、主人公のデイヴィッドは青年になると存在感が薄くなるが、その代わりミコーバ氏や悪役のヒープの存在感が高まる。『荒涼館』のエスタ、『リトル・ドリット』のエイミーは努力型の愛らしいヒロインである。また愛する人が幸福になるようにと自分の命を捧げる『二都物語』の主人公カートンは私の中では英雄として写る。また『大いなる遺産』のピップは若者らしい主人公の典型であり、ピップを励まし続けるジョーはこの本を読めばすぐに現れる生涯の友である。そんな生き生きとした主人公や心に残る脇役を小説に登場させたディケンズであるが、『ハード・タイムズ』にはそんな魅力的な人物はいない。
悪役のバウンダビーの存在感が高いから、グラッドグラインド親子より主人公らしいと言えるかもしれない。私は、バウンダビーは辛い過去があったが自分の努力で今の地位に上り詰めたコークタウンの名士であり普段は人々から尊敬されている存在であったが、最後のところで彼の悪行が明らかになると考える。ルイーザとトムの父親であるトマス・グラッドグラインドは「事実一辺倒」で「空想」否定する「功利主義」を信奉する人物だが、バウンダビーのような人の話を聞かない独善的な人物ではなく最後のところでは自分の娘や息子の教育が間違っていたと反省している。トムは父親の命じるまま「事実一辺倒」の教育を受けたが人として大切な「空想」に基づく温かい心が育まれなかったため実を結ばず、それどころか不良となってしまい、仕事に就かず姉に賭博のお金をせびるばかりで姉からもらえなくなると銀行強盗を思いつきその罪をブラックプールになすりつけるような人間になってしまう。バウンダビーの会社で働くブラックプールは今までの人生を振り返り出直そうと街を離れるが、銀行強盗が発生した丁度その時だったので事故で身動きが取れなくなった彼はトムに濡れ衣を着せられてしまう。彼の恋人レイチェルとシシー(グラッドグラインドに住み込んでいるサーカスの道化師の娘 しばしばルイーザを励ます)の捜索でブラックプールは廃坑で見つけられるが、嫌疑を晴らそうと一番近道を急いでいて自分の過ちで致命傷を負っていた。レイチェルとシシーはブラックプールが亡くなる前に事実を知ることができたが、不良トムは懲罰を受けることなく父親の手配により海外に逃亡してしまう。
このようにグラッドグラインド親子を中心にして物語は展開して行くが、『デイヴィッド・コパフィールド』のように際立つ登場人物が次々と登場したり、『荒涼館』のようなヒロインの奮闘もないし、『リトル・ドリット』のような紆余曲折はあるが最後は幸せを摑むカップルもいないし、『二都物語』のようなスリルもないし、『大いなる遺産』に登場するエステラやハヴィシャムやジョージアナ(ジョーの奥さん)のような主人公が心を動かされたりぎょっとさせられるような女性も登場しない。ここからは私見なので思い違いがあるかもしれないが、この小説で言いたかったことは労働問題ではないような気がする。確かに第2部第4章同志諸君ではバウンダビーの工場の職工たちが集会場に集まって、「圧制者たちを粉砕するときが来た」と叫んでいるが、ブラックプールはその動きに同調せず反逆者扱いにされコークタウンを離れることになる。これではディケンズが職工たちに共感したり主張を認めているようには思えない。
田中先生は、ディケンズがこの小説で訴えたかったことは、「社会の諸相に影響を及ぼす、根幹としての教育の問題だ。ここで問題とされているのは、教育の欠如による無知ではなく、事実一辺倒の教育方針である」と解説されているが、私もそれに共感を覚える。
この小説でディケンズがしたかったことは「功利主義」に対しての問題提起であるが、読者の興味はディケンズの小説によく登場する悪人(『ピクウィック・クラブ』のジングル、『オリヴァー・トゥイスト』のバンブル、『ニコラス・ニクルビー』のスクィアーズ、『大いなる遺産』のバンブルチュック(悪いやつだが憎めないまたはユーモラスなところが少しある))の活躍?だと思う。この小説ではバウンダビーだが、憎々しいしユーモアの欠片もないしお仕置きも物足りない。だから読者は充分に楽しめない。バウンダビーが『オリヴァー・トゥイスト』のサイクスのような極悪人である必要はないがバンブルチュックに似たところがあったり、ブラックプールにハム・ペゴティのような熱意と誠実さがあったり、ハートハウスにスティアフォースのような暗い過去がありそれが描かれていたり、スパーシット夫人がデイヴィッドの大伯母のように本当のところはいい人だったりしたら、『ハード・タイムズ』を読後の印象も変わって来ると思う。ディケンズの小説のどの作品を読者が好きかは登場人物がどのような行動をするかにかかっている。どのように展開してほしいかは人それぞれであるが、ディケンズの小説の愛好家の好みは似たものになっていてディケンズは自在に登場人物を動かしそれに応えているように思う。しかし『ハード・タイムズ』ではそういう読者の期待がほとんど叶えられないため物足りないと感じるのではないかと思う。