『レベッカ』について

今から30~40年前に毎週日曜日の午後9時に1時間半から2時間、NHK教育テレビで洋画のモノクロ作品を放映する番組があった。毎回見ていたわけではないが、「第三の男」「スミス都に行く」「街の灯」「道」「禁じられた遊び」「汚れなき悪戯」「心の旅路」などの名画は心に残った。「レベッカ」も2回以上取り上げられた記憶があり、少なくても一度はこの映画を通して見た記憶がある。ただ「第三の男」や「街の灯」のように心に刻みつけられるようなことはなく、消化不良な感じが残っただけだった。今回、大久保康雄訳の新潮文庫を読むにあたり、DVDを購入してじっくりと鑑賞してみた。それで気付いたのは文庫本で700ページ余りの小説の内容を2時間10分の映画に詰め込むのはちょっと厳しいかなということだった。多くの抜粋がある他、小説と違ってマキシムの罪を死体遺棄罪だけにするために(小説では結婚してすぐに金遣いが荒くなりまた派手に男性と交際して信用できなくなった妻レベッカをマキシムは射ち殺したということになっているが、映画では癌で余命がほとんどなくなり意識朦朧状態でマキシムに殴られて一度立ち上がるが転倒して船の滑車に頭をぶつけて亡くなったということになっている)レベッカが亡くなるシーンが不自然になっている感じがする。ただ小説と違って、悪女役のデンヴァース夫人がずっと物凄い存在感を示していて最後の放火のシーンは主役のジョーン・フォンテイン、ローレンス・オリヴィエがかすんでしまうほどである(二人があんぐりと口を開けているところが目に浮かぶようだ)。小説の最後のところで「地平線の空はけっして暗くなかった。血しぶきを浴びたように真紅に染められていた。そして、海からの潮風に乗って、灰が、わたしたちに吹きつけてきた。」とあって、それまでのところを読むとデンヴァース夫人が放火したことが推測できるが、映画では、ファヴェル(レベッカの従兄で愛人)からの報告を聞いて自分はもう終わりだと思ってからのデンヴァース夫人の行動は鬼気迫るものがある。マンダレイの屋敷に火を点けてヒロインを殺そうと考えるのである。そうしてヒロインは飼い犬のジャスパーに救われデンヴァース夫人は焼け死んでヒロインとマキシムが抱きしめ合うが、それで終わりではなく火炎に取り巻かれた寝台の枕のRの字が、私が主役なのよと言わんばかりに浮き上がって終わりとなる。
レベッカの死体の発見→捜査で、レベッカは自殺、マキシムは無罪と判断される→ファヴェルがレベッカと手紙で会う約束をしていたので自殺のはずがない、またレベッカの船が沈んだ原因に不審な点がある。レベッカはマキシムに殺されたとの告発→レベッカがベイカー医師と会っていたことが日誌から判明→ベイカー医師の説明。レベッカは妊娠ではなく末期ガンで受診したので、レベッカの自殺の可能性があったと死因審問会が判断。→ファヴェルはマキシムを脅迫したと判断され、マキシムは無罪となる。この後半から最後までの部分が物語全体を把握していない者にはわかりにくく、よく理解しないでこの映画を見た私は消化不良になったのだと思う。
この小説の始まりはヴァン・ホッパー夫人の話し相手として雇われたヒロインがモンテ・カルロでマキシムと出会うところから始まる。風邪で部屋に閉じこもったヴァン・ホッパー夫人の相手をレベッカがする必要がなくなりヒロインとマキシムは結婚するまでになるが、わずか3ヶ月恋愛期間を経て暮らすことになったコーンウォール(イギリス南部にある)にあるマンダレイの屋敷は知り合いもいない田舎町だった。ヒロインとマキシムの生活は順調のように思われたが、デンヴァース夫人によるヒロインへの嫌がらせで、マキシムとの関係がだんだん悪くなっていく。デンヴァース夫人の策略により舞踏会でレベッカと同じ衣装を着て、マキシムを憤慨させたヒロインは明るい将来が見えなくなり意気消沈してしまう。それを見たデンヴァース夫人はヒロインに高所から飛び降りるようにと能面のような顔をして促す。ヒロインが追い込まれ窓から飛び降りる寸前に難破船が発見されたとの花火による告知があり、ヒロインは正気を取り戻す。そうしてヒロインは海辺の小屋にいるマキシムのところに行き、自分がレベッカの衣装を着たことを謝罪しマキシムの怒りを鎮めることに成功する。こうしてヒロインとマキシムは以前のような関係を取り戻すことが出来、マキシムが抱える問題をヒロインも一緒に考えて以前の生活に戻せるようにする。
小説のようにマキシムがレベッカの行動に不審を持ち怒りを募らせて衝動的に射ち殺したのであれば、例えレベッカが末期がんであっても殺人罪と死体遺棄罪は免れないだろう。しかし映画ではレベッカが朦朧状態で転倒して頭を打って亡くなったことにすることにより死体遺棄罪だけとなり、レベッカの行動に悩まされていたマキシムに同情する人も出て来る。愛があれば殺人犯でも伴侶として大切にするというのは甘く美しい気がするが、映画のようにすることにより登場人物の暗い性格を少し払拭できたと考える。このようにヒッチコックが台本を少し変えたことでヒロインとマキシムが災難に巻き込まれただけということになり、この小説をクライム映画ではなくミステリー映画として普及させるのに役立った気がする。