『風と共に去りぬ』について
高校生の時に映画「風と共に去りぬ」をテレビで見た。その時はスカーレット・オハラの燃えるような性格、若さ、華やかさとレット・バトラーの普段はにやけた中年男性だがいざという時には勇敢に行動するというところに強い印象が残った。他にアシュレ、メラニー、フランクなどの登場人物がいるが、映画ではビビアン・リーとクラーク・ゲーブルの印象が強すぎて他の人は目に入らなかった。それでも2ヶ月ほど前にもう一度映画『風と共に去りぬ』を見た時にはスカーレット、レット、メラニーがアトランタからタラへ馬車で避難するシーンやスカーレットが銃を使うシーンやジェラルドとボニーが落馬するシーン以外にも妊娠しているスカーレットが階段の上段から落ちるシーンや亡くなる直前のメラニーがスカーレットに別れを告げるシーンが印象に残った。1939年制作の映画なのに鮮明なカラー画像で印象に残るシーンがたくさんある映画の原作はどんなものか、初めてこの映画を見た時に思った。それでも文庫本で5冊(新潮文庫)、ハードカヴァー2段で3冊(集英社世界文学全集)を読むまでには47年以上の歳月が必要だった。その理由としては、大作である以外にも予備校の人気のある英語の先生が大久保康雄氏の翻訳は良くないと言われそれを金科玉条にしていたからで、そのためこの夏に大久保訳の『レベッカ』を読むまでは大久保訳のヘミングウェイもO・ヘンリもミラーもスタインベックもそしてミッチェルの『風と共に去りぬ』も読まなかった。多分こなれていないことと差別用語がそのまま残っているから原書を読んだ方がいいと予備校の先生は言われていたと思うが、40年以上が経過しているので改訳はしていないが活字が大きくなり読みやすくなっていると思った。それに映画「レベッカ」を見て面白かったので先に述べたように『レベッカ』の原作を読んでみたところ、大久保訳は読みやすかった。それで以前からやってみたかった、映画『風と共に去りぬ』を鑑賞してから大久保訳の『風と共に去りぬ』の原作も読もうと思った。
この作品は一般的にはヒロインスカーレット・オハラが数々の苦難にめげずに自らの力で窮地を克服していくという小説で、レット・バトラーはスカーレットの力になってくれるがならず者で結婚しても家庭のことを考えずベルの家に入り浸っている女性にだらしない男というイメージだった。しかし小説を丹念に読んでみると全然違うことがわかって来た。スカーレットの大きな危機というのは南北戦争の戦闘が激しくなったアトランタから安全なタラへの脱出と南北戦争で南軍が敗けたためタラ(スカーレットの住まい)に高額の税金が課せられ支払うために奔走するところで、一つ目の危機はレット・バトラーが救ってくれた。また二つ目は幼い頃からの知り合いで妹のスエレンがつき合っているフランク・ケネディが地道に働いてそれが実を結び会社を作ろうとしていることを知り、スエレンが他の人(トニー)と結婚するといううそをついてフランクと結婚し会社を手に入れることで窮地を脱する。第一の危機の時も脱出の途中でレットがもう安全なところまで来たと思い南軍の手助けをすると言った時、スカーレットは別れを惜しむ(ちょっとやりすぎなところはあるが)レットの口元を殴りつけた上で悪態をつき、それだけで足りないのかその後事あるごとに大事な時にいなくなったと多くの人の前でレットを非難した。スカーレットから感謝のかけらもなく、これではレットは何のためにスカーレットとメラニーを救出したのかわからない。フランクにしてもスカーレットは彼の仕事の不出来を責めて会社を自分のものにしていった。フランクの一番気の毒だったことは、スカーレットが治安の悪いスラム街をひとり馬車に乗り、浮浪者に暴行された時のことだった。アシュレと共に自衛組織に所属していたフランクは仕返しに行くのだが、返り討ちにされて亡くなる。スカーレットは無謀な振る舞いが夫を死に至らしめたと周囲の人から非難されるが、動ぜず結局フランクが死亡してすぐにレットと結婚することになる。
レットとの結婚も不幸が重なった。それはすべてスカーレットの言動がらみだった。一つ目は最初の娘ボニーができてレットが有頂天になっている時に二人目は絶対作らない、ベッドを共にしないと宣言したことだった。レットは明るい未来が見えたと高所から眺めている時に背中を押されて谷に落ちた心境だったろうと考える。二つ目はレットの欲求不満が高まりある夜ふたりはなりゆきで激しい愛を交わしたが、その時に子供が出来たことをスカーレットはレットに黙っていた。相変わらず二人は不仲だったが、ある時激しい口論がもとでスカーレットが階段の最上段から転げ落ちて流産する。レットは自分が悪かったと深く反省する。三つ目は二人目が流産でスカーレットは相変わらず子作りを拒んだため、レットはボニーを溺愛する。ボニーはレットにいいところを見せようと乗馬に興味を持ち上達して行くが、父親ジェラルドが落馬で大怪我したというスカーレットは辛い思いをしたことがあった。そういうことがあったのにスカーレットはボニーの乗馬をレットが思うがままにさせて、ボニーは落馬で亡くなってしまうことになる。こういった不幸な出来事が続き、その上アトランタからの避難の際に途中で見捨てたとしばしばスカーレットから非難され、夫婦らしい生活は芥子粒ほどもない。そんなレットは家に帰ることはほとんどなくなり酒場に入り浸ってしまうことになる。
スカーレットのアシュレに対するいじめも酷いものだった。メラニーが大切な恋人を奪ったと思うことは理解できるが、ふたりが結婚してもアシュレに対する熱い恋愛感情が収まることはなく、しばしば周りの人に誤解されるようなことをしてアシュレとメラニーを苦しめる。それだけでなくメラニーがスカーレットはアトランタから脱出させてくれた命の恩人(ほとんどレットのお陰なのだが)と思っていることをいいことにアシュレがスカーレットの意図することと違う行動を取ろうとするとメラニーに、アシュレが酷いことを言うのよと訴えアシュレを黙らせる。こうして昔からの友人を頼ってニューヨークで銀行員になる夢もアシュレは断たれることとなった。さらに酷いことにはスカーレットは人件費を減らすために囚人を賃借りするが、慣れないためアシュレは戸惑い仕事に対する自信を失ってしまう。スカーレットは囚人労働者を扱いなれた人物を雇って彼と比較してアシュレが劣っていると言ってアシュレを苦しめたりもする。夢を断たれて、仕事ができないと不満をぶつけられ、産褥で最愛のメラニーを失ったアシュレは息子ポウの成長だけが楽しみになる。
物語の最後のところでレットは廃人一歩手前までスカーレットに追い詰められていたが、何とか持ち堪えて、最愛の娘ボニーがなくなって酒浸りとなってしばらくしてようやくスカーレットの本心を見抜いて一矢報いる。レットは言う。「きみは子供だというんだ。きみは「悪かった」と言いさえすれば、長いあいだの過失や苦しみが心から消え、古い傷の毒が消えると思っているようだ」「おれが知ってからのきみは二つのものを求めてきた。アシュレを手に入れることと、世間を笑ってやれるほどの金持ちになることだ。なるほど、きみは金持ちになって、世間に向って、さんざんやりたいことをやった。それにいまは欲するならアシュレを手に入れることもできる。だが、いまとなっては、どうやらそれだけでは満足できないようだ」「きみは、あらしのような愛情をアシュレからおれに移そうと思っているらしいが、おれは心の自由と平和をみだされたくないんだ。なあ、スカーレット、おれは、あの不運なアシュレのように追っかけまわされるのはいやなんだ」とスカーレットに説明する。これでレットはスカーレットとの生活にピリオドを打って物語は終わるかに見えたが、小説の最後は、「たとえ敗北に直面しようとも敗北を認めない祖先の血をうけた彼女は、昂然と頭をもたげた。かならずレットをとりもどすことができるだろう。かならずできるはずだ。ひとたび心をきめたからには、手に入れることができない男なんて、これまでだって、ひとりもいなかったではないか。(みんな、明日、タラで考えることにしよう。そうすれば、なんとか耐えられるだろう。明日、レットをとりもどす方法を考えよう。明日はまた明日の陽が照るのだ)」となっているのは、続きがあるのかと思わせる。もし小説が続いていればスカーレットはレットとのよりを戻すために百方手を尽くすのだろうが、仮に戻ったとしても飽きっぽいスカーレットは現状に満足せず、刺激と達成感を求めてレットを追い詰めるに違いない。レットが困り果てた顔が目に浮かんで来るようだ。ほんとうにこの小説に出ているスカーレット以外の人はみんな気の毒だ。この堂々巡りは誰かがストップしない限りは続いたような気がする。この危うさとミッチェルの偏った政治思想と歴史認識が(特に第58章に目立つ)続編の話が出なかった理由だと思う。何より他の名作に見られる作者の主人公に対する温かいまなざしがミッチェルに感じられないことがこの小説の最大の弱点だと思う。『大いなる遺産』のピップも『人間の絆』のフィリップも『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンも『モンテ・クリスト伯』のエドモン・ダンテスも作者の温かいまなざしが感じられ、主人公に名誉回復の機会を与えて一時的ではあるが失地回復をさせている。それに反しスカーレットの場合は恋愛も会社経営も近所付き合いもうまく行かずに憎悪を雪だるま式に増やしていき、頻繁に他の登場人物をいじめて悦に入っているという感じである。読後感も悪く、私自身も1ヶ月以上もかかって読んだのを後悔している。
もし、この作品を読んだかと誰かに訊かれたら、読んだけど、やめといた方がええよ。映画だけにしといたらと言うことだろう。