『赤と黒』について

今から44年前京都市内の予備校に通っていた私は予備校の英語の先生から授業中に、『赤と黒』は面白いと勧められたのでした。その先生は内容について触れられることはなく、ただ読むのをやめられなくなって眼の下にクマができて旅行から帰って来られた両親から指摘されたと言われただけでした。その先生は京都の大学で哲学を教えられていたようで、西田幾多郎『善の研究』や波多野精一著『時と永遠』など哲学の本のことを話しておられたと記憶しているのですが、『赤と黒』と同様に著書名だけが記憶に残っています。それでも70才位の大学で教鞭を取られていた先生が熱心に推薦された小説をいつか読んでみたいという望みはありました。そうしてそれから後も色々な先生から教えていただいた西洋文学の名作はたくさん読みました。西洋文学の名作の話を高校の先生からしてもらえてたら早くから西洋文学に興味が持てて良かったのになあと思いますが、一切ありませんでした。
『赤と黒』はフランスの作家スタンダールによって書かれた作品ですが、他の小説には見られない点がふたつあります。ひとつは主人公ジュリアン・ソレルのものすごい自尊心(強烈では物足りない気がします)とワイルドの『サロメ』を思わせる耽美主義の小説のような展開(そのためボニファス・ド・ラ・モールの話(第2部第14章)が出て来ます)があります。ボニファスさんの話は悲惨な結末を予想させ、その後に緊張感を漲らせます。主人公の自尊心は幼少の頃は出世欲となり、町長のレナール氏の子供の家庭教師になってからはレナール夫人に対する強い恋心(征服欲)となり、更に出世するために神学校で学んだ後に有力な貴族ラ・モール伯爵に使えるようになってからは、伯爵の娘マチルドを伴侶としたい(もしかしたらレナール夫人のような愛人にしたかったのかもしれません)という強い欲望が生じ、マチルドとの恋愛があまりに熱烈だったためにマチルドの心に異常な感情が生まれて、主人公のものすごい自尊心と結びついて耽美主義の小説のような結末になったのだと思います。執拗にギロチンでの死刑を臨んだのはものすごい自尊心のせいだと私は思うのです。
この小説では主人公とレナール夫人との恋愛がしばしば取り上げられるため、最後まで漂う緊張感はあまり知られていない気がします。『赤と黒』という題名の赤は軍人の制服の色、黒は聖職者の制服とか、ルーレットやトランプの赤と黒を暗示し勝負事(賭博?)を連想させると言われています。主人公は材木商の息子ですが、神学を学び優秀なことから町長のレナール氏に依頼されて子供たちの家庭教師となりさらに聖職者の高い地位に上がって行くために神学校に進学します。しかし校長のピラール神父に聖職者に向いていないと判断され、有力な貴族ラ・モール侯爵の元で働くことになります。主人公はその人並み外れた記憶力(ホラティウスやウェルギリウスの著作を丸暗記する、様々の古典に通じている)がありますが、なかなかその特技を生かすことが出来ずにいました。その時の主人公の心情はマチルドから愛されないため、昔好きだったレナール夫人に傾くなど仕事はそっちのけでふたりの女性のことばかり考えていました。ところがある日ラ・モール侯爵から密命を受けてロンドンに赴き、会議の議事録を丸暗記して高貴なイギリス人に伝えることになります。主人公は侯爵からの依頼を無事こなし信頼を得ることになりますが、その侯爵の依頼でストラスブール滞在中にコラゾフ公爵と知り合うことになります。コラゾフ公爵と仲良くなった主人公は匿名でマチルドとの恋愛のことを話し、どうすれば攻略できるか尋ねます。コラゾフ公爵は難攻不落の女性の攻略は別の女性に恋愛感情があるように思わせるのがいいと、(元帥夫人(フェルバァック夫人)に)手紙を書くのがいいと53通の恋文の例文を主人公に提供します。この作戦が功を奏して主人公はマチルドを自分のものにするのですが、しばらくするとマチルドが妊娠してレナール夫人のように人に知られないようにこっそりと欲望を満たすということができなくなります。マチルドの父親のラ・モール侯爵はいつまでも平民の主人公を娘の伴侶にしておくわけに行かないと主人公を中尉に任命して軍人として出世させようとします。こうして主人公はマチルドとの恋愛を成就させ、子供も近く生まれる、出世も期待できると自分の長年の願いが叶ったかに見えましたが、レナール夫人が、主人公が家庭教師をしていた頃のことをラ・モール侯爵に明かします。主人公はレナール夫人の告白に自分の人生がめちゃくちゃにされたと思って激怒し夫人を拳銃で狙撃しますが、夫人は一命を取り留めるだけでなく裁判中の主人公を訪ねるまで回復します。しかし夫人を狙撃したことは重大と受けとめられしかも主人公に悪意を持つフリレール神父が裁判の責任者となったため、主人公は有罪を宣告されます。
有罪を宣告された主人公は一切抵抗することなく、抗告もせず特赦を拒み刑が早く執行されることを望みます。そうして親友のフーケに刑の執行後のことを頼み、マチルドは夫との約束を果たすためボニファスさんと同様のことを刑の執行後主人公のために執り行います。レナール夫人からの告白がなければ、きっと主人公はマチルドと幸せな家庭を築き、ラ・モール侯爵のおかげで軍人として高い地位まで登り詰めたと考えることもできますが、主人公の願望は叶えることはできませんでした。
最初にお話しした予備校の英語の先生は読むことが止められなくなったと言われていましたが、それは牧歌的な感じの前半部分ではなく主人公が激怒してレナール夫人を狙撃したあたりからだと思います。またボニファスさんの話が出てからは結末とどのように結びつけるのかの興味が湧いてこられたのだと思います。私はこういう残酷なシーンがある文学作品は苦手ですが、ボニファスさんの登場で緊張感が走り退屈することなく最後まで読み終えました。そこのところは予備校の先生と同じだったのかもしれません。