『戦史』(トゥキュディデス著 久保正彰訳)について

ギリシア史を記録した歴史書として有名なのはヘロドトスがペルシア戦争について書いた『歴史』でヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれていますが、同時代に生まれたトゥキュディデス(ヘロドトスより20才年下?)もペロポネソス戦争について記録した『戦史』を残しています。トゥキュディデスの『戦史』は彼が将軍(指揮官?)として従軍した時のことも書いてあり歴史家ヘロドトスの『歴史』より中立的な視点から著述し演説を随所に挿入し歴史上の人物に直接語らせる手法を取っていてより興味深いものになっています。またトゥキュディデスは記録を残すことによって後世の人が教訓として活かせるようにとの考えから執筆したと序言で述べています。ただペロポネソス戦争が紀元前431年に始まり紀元前404年まで続いたのですが、トゥキュディデスの『戦史』は紀元前411年までで記録を中断して未完になっています。これは私の憶測にすぎませんが、トゥキュディデスは紀元前422年作戦に失敗して将軍を失脚し420年には追放されました。トゥキュディデスは戦争の最前線にいた自分が教訓を残したいと執筆を始めましたが、あまりにアテーナイの凋落が甚だしく自身も落ち着いてアテーナイを弁護するような”戦史”が書けそうにないと思い、400人評議会が解体されたということもあり自粛したのではないかと思います。そうして彼が予想したように紀元前404年にアテーナイの敗戦となったのでした。これ(ペロポネソス戦争史)を完成させたのが、スパルタで活躍していた(スパルタへと移住した経緯は『アナバシス』参照)クセノポンでいわばスパルタの栄光とも言えるペロポネソス戦争の経緯をきちんと残したいというスパルタからの要請を受けてその後の戦いの経緯を『ギリシア史(ヘレニカ)』という著作にして残したのでした。クセノポンは紀元前404年まででは充分ではないと思ったのか、スパルタからの要請なのか紀元前362年のマンティネイアの戦いまでの記録を残しました。
『戦史』の特徴として政治家や将軍の演説を多数掲載しているのですが、特に印象に残るのはペリクレスの演説です。上巻183頁から始まりいくつか登場する弁舌・実行の両面においてならびない能力をもつ人物である彼の演説はアテーナイ市民を鼓舞し続けました(224頁からの紀元前430年に戦死者の国葬の際に行った演説も有名)。もし彼が紀元前429年に疫病にかかって亡くなるということがなければアテーナイ市民は彼に勇気を与え続けられてペロポネソス戦争に勝つか敗戦したとしてもアテーナイに有利なかたちで平和条約を結ぶことができたかもしれません(もしかしたらペリクレスは徹底的に戦う人だったかもしれませんが)。しかし世界史において屈指の偉大な政治家とも言われるペリクレスを失ったアテーナイはペリクレスよりずっと劣る凡庸なまたはアルキビアデスのような理解に苦しむ行動をする政治家に最前線の戦闘を任すしかありませんでした。ニキアスの和約で有名なニキアスも劣勢の中でそれほど長く平和を持続させることはできず、スパルタのギュリッポスやシュラクーサイのヘルモクラテスなどの歴戦の将軍には対抗できずに敗れてアテーナイはアルキビアデスに頼ることになります(トゥキュディデスは『戦史』の中でアルキビアデスを批判することはありませんが)。この本は第8巻までで終わりますが、トゥキュディデスはこの本を未完に終わらせているので最後のところで平和条約が結ばれたとか敗戦に終わったという記載はなく中断のような形で終わっています。
この『戦史』で特に印象に残った人物はブラーシダースで上巻275頁でラケダイモーン(スパルタ)の海軍顧問官の一人として登場していつしか将軍となり大活躍して中巻の276頁では戦死して葬儀が行われます。トゥキュディデスから見ると敵であり歴史上有名でもない人物について詳しく書かれてあるのはもしかしたらトゥキュディデスが将軍として活躍していた頃に敵として対峙して戦ったからなのかもしれません(この小文を書いた後に最初のところを読んで気付いたのですが、最初のところにある久保氏の解題(上巻10頁)にあるように「前424年、ペロポネソス、アテーナイの両軍がトラーキア地方のアテーナイ植民都市アムピポリスをめぐって争ったとき、史家トゥキュディデスはアテーナイ勢の指揮官の一人として軍船七艘を率い、アムピポリスの救援にかけつけたが、ペロポネソス勢の名称ブラーシダースに先を越されて、都市を奪われてしまった。史家はこの責任を問われて職を奪われ、アテーナイの支配層から追放されることになる」となっていて、本文(中巻234頁)にも「その頃タソス島付近にいたいま一人のトラーキア方面指揮官であり、この戦史の記述者である、オロロスの子トゥキュディデスに知らせを送り、アムピポリスへの救護を要請した。知らせを受けたトゥキュディデスは、ちょうど配下にあった七艘の船隊を率いて急遽出発、何とかしてアムピポリスが降伏してしまう前に城内に到着できるよう(中略)と望んだ」となっていて、その後トゥキュディデスはブラーシダースに先を越されアムピポリスを占領されてしまいます。ただし本文にはそのためトゥキュディデスが職を奪われたという記載はありません)。ブラーシダースはその後すぐの紀元前422年に戦死しましたが、アムピポリスでは今でもブラーシダースを創始者と見なし英雄として讃え毎年祭りを開催しています。
『戦史』にはそれほど大きくない国がアテーナイとラケダイモーンの間に挟まれて苦しめられる場面が見られますが、中巻の最後のところで登場するメーロス島住民はスパルタから植民し中立を保っていましたが、アテーナイの指揮官が島に上陸して状況が一変します。この後アテーナイ側との交渉に苦しめられる市民の様子が「メーロス島対談」の中で詳しく描かれています。
下巻(第6巻から第8巻)では主にアテーナイ軍を率いるニキアスの苦悩が書かれています。彼はニキアスの和約で有名な穏健な人物でしたが、和約もやがて無効となりニキアス自身が軍を率いてアテーナイと同様に海軍が強力なシュラクーサイと戦闘することになります。圧倒的に有利とされたアテーナイでしたが、シュラクーサイの将軍ヘルモクラテスの活躍によりニキアスは捕虜となり命だけは助かるとのニキアスの願いはかなわず処刑されます。
こうした興味深い歴史上の出来事を演説などを交えて記録しているので、『戦史』はペロポネソス戦争の最後まで書かれていませんが、アテーナイとスパルタの攻防について興味深く読むことができます。後にエパミノンダスが現れて覇権を握るテーベについて記載がないなと思っていたところ、テーベ(テーバイ)はボイオティアの中心都市であることがわかりました。アテーナイもアッティカ地方の一都市で、スパルタは都市国家(ポリス)で自らをラケダイモーンと称したということは遅まきながらネット検索をしながらこの本を読んで理解しました。久保訳は読みやすいのですが、訳者注に『戦史』の内容を理解するために重要なことが書かれていますので理解を深めるためにも必ず読むことを推奨します。。