『人間のしがらみ』について
私は今まで『人間の絆』(中野好夫訳)を何度か読んでいて感想文をこのホームページに掲載しているが、この教養小説の題名については翻訳が合っていないと思っていた。長くなるが、そのことについて自分が書いた感想文から引用すると
「『人間の絆』というタイトル、Of Human Bondage のことを中野氏は『人がその情念を支配し、制御しえない無力な状態を、私は縛られた(ボンデイジ)状態と呼ぶ。なぜならば、情念の支配下にある人間は、自らの主人ではなく、いわば運命に支配されて、その手中にあり、したがって、しばしば彼は、その前に善を見ながらも、しかもなお悪を遂わざるをえなくされる』とか『主人公ケアリの半生は、絆に縛られた一人の人間が、やがて絆を断ち切って、自由な主人たる人間になるまでの発展である』と言われている。私が「絆」と言われて思い浮かべるのは、「親子の絆」とか「友達との絆」とか「同好の士との絆」とか掛け替えのない、親密な繋がりを連想する。そのためBondage
の訳語の拘束とか、モームが言う、縛られた状態のことであると思わない。それで人間の絆は大切にしないといけない肉親や友人との絆のようなものと考えてしまうが、モームの考えている絆は、ボンデイジで日本語で言えば、拘束、断ち切らなければならない状態である。タイトルがその小説の内容を明らかにするネオンサインのようなものと考えると『人間の絆』というのではわけがわからなくなる。人間を拘束するものを断ち切るとかにすればどんな内容の小説であるかがわかりやすくなるが、それでは長くてインパクトがなく印象が希薄になってしまう。今更タイトルを変えることはできないが、ボンデイジを断ち切って主人公が成長していくという小説と考えて読むことは必要だろう。」
と書いている。訳された河合祥一郎氏は上記のように私が思ったように考えられたかどうかの直接の確認は難しいが、『人間のしがらみ』という「絆」でないタイトルで出版された理由は解説で明らかにされていてそれは私の考えに近いと思った。
『人間のしがらみ』はそういったこともあって、拘束を断ち切ることをよりわかりやすい表現を用いて明らかにしているように思われる。そういうことが理解できたので、伯父が望んだ牧師になるための進学を拒みドイツへの語学留学、自分には画家になる才能があると信じて叔父の苦言を無視してパリで画家の修行に励んだこと、ミルドレッドとの恋愛が中心に据えられていた時は他の女性との付き合いが拘束と思ったこと、友人とつき合いがある株式仲買人の勧めで株を買って大損して経済的に行き詰り医師の勉強を中断して百貨店でのアルバイトに励むこと、ミルドレッドの甘言を断れば恋愛が終わっていたのに誘惑に負けてなかなか断ち切れなかったことなどの主要な「拘束の」ストーリーの他に、ミス・ウィルキンソン、ファニー・プライスとのほろ苦いロマンス、伯母の報われないフィリップへの愛情などのエピソードも興味を持って読むことができた。
私は最初の頃、この物語についてよくわかっていなかった頃はクロンショーから問い掛けられた「ペルシャ絨毯」の謎の解明がこの物語の一番の作者が読者に訴えたいことと考えて、第106章の「生も無意味、死もまた無意味なのだ。」から「フィリップは幸福だった。」(中野好夫訳)のところを何度も繰り返して読んだ。信者のように。そうしてずっとそう考えていたが、『人間のしがらみ』を読んで認識を改めることになった。クロンショーの謎解きよりもむしろその呪縛から解放されて
「フィリップは、いらだたしい思いでこれまでの考え方をかなぐり捨てた。これまでいつも未来ばかりに生き、現在はいつも、常に指のあいだからこぼれていたのだ。理想って、一体、何だ?これまで人生の無意味な無数の事実から、複雑で美しい模様を作りたいと願ってきた。だが、最も単純な模様、つまり人が生まれ、働き、結婚し、子供ができ、死んでいくというのも、やっぱり完璧な模様だとわかったはずではないのか?幸せに屈することは負けを認めることになるのかもしれないが、あれこれ勝ってみせるよりずっと優れた負けではないか?」
という心境(悟り)に到達するところの最後の第122章の方がよりモームが読者に訴えたかったのではないかと思うようになった。
そうしてそのように考える方が教養小説によくある主人公が成長していくという型に当てはまると思う。私が今まで間違った考えをしていたのを転換させた優れた訳だと思う。そう改心させて下さったことに感謝します。