『マタイ受難曲』(礒山雅著)について

私はキリスト教徒ではない。贖罪というのが、重い十字架を背負ったイエス様が我々の代わりに罪を贖ってくださるということをある程度は理解できるが、熱心に教会に通われる方の境地には遠く及ばないだろう。それでも、キリスト教に喚起された文学、美術、音楽、建築、工芸品などは私の心に様々な喜びや潤いを与えてきた。また私が好きな、クラシック音楽やディケンズの小説には欠かせないものである。しかし私自身は今までキリスト教の思想をもっと知ろうといくつかの本を読んだが、やはり自分には合わないと思っている。キリスト教に触発されて生まれた文化や生活を豊かにするものだけをもっと知りたいと思っている。それでも次の二つは実現できたらと願っている。それはドイツの教会(できれば聖トマス教会)で一日中J.S.バッハ(以下、バッハと記す)のオルガン曲を聴くこと、そして「マタイ受難曲」全曲をドイツの音楽ホールで聴くことである。日本国内でもしたことがないことを望むのは高望みしすぎということになるが、バッハの音楽は生まれた土地であるドイツで聴きたいと思うのである。
私が「マタイ受難曲」を知ったのは社会人になってからだった。「マタイ受難曲」はバッハだけでなく、古今東西の宗教曲の中でも最高峰とされていることを知り、まずはカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団の全曲盤を購入しようと思った。何度か京都の中古レコード店ラ・ヴォーチェに通っているうちにオリジナル盤を入手することができた。3時間余りの曲なので、しばしば聴くことはできなかったが、多い時は半年に1回位は全曲を聴いていた。リヒターの旧盤はこの曲の極め付けと言えるが、何度聴いてもバッハの音楽の素晴らしさを実感できた。ただどのような内容の曲なのか、どのような演奏形態なのかがわからず物足りなく思っていた。最近になって、礒山雅氏が「マタイ受難曲」という本を書かれていたことを思い出し、読んでみることにした。
この本は序論と本論に分かれていて、序論では、受難曲の歴史、バッハに歌詞を提供したピカンダーのこと、コラールの挿入が「マタイ受難曲」を一味違ったものにしていることなどが説明されている。そして本論の部分では、「マタイ受難曲」を聖書の各場面ごとに詳しく解説されており、それまでの受難曲のエッセンスを取り入れながらバッハが工夫を凝らして作曲しているということがよくわかるようになっている。冒頭の合唱「花婿が子羊のように」がどういった内容なのかはよくわからなかったが、それに続く「受難の預言」「香油を注ぐ女」「血を流すイエスの心」「最後の晩餐」「オリーブの山にて」「ゲッセマネの園の苦悩」「捕縛」「イエスを捜す美女」「明暗を分けた悔い改め」「流れ下る愛」「血にまみれた十字架」「イエスの死」「おのが心への埋葬」の物語は礒山氏の解説でよく理解できた。その上この本では、それぞれの曲(全部で68曲ある)について演奏形態やいくつかの曲で効果的に使用される古楽器(オーボエ・ダモーレ(第12曲、第13曲)、オーボエ・ダ・カッチャ(第48曲、第49曲)、ヴィオラ・ダ・ガンバ(第56曲、第57曲))についての詳細な解説や楽譜に隠された謎についての説明(「イエスの死」の章)もある。このようにこの本は「マタイ受難曲」を礒山氏のわかりやすい解説で身近にすることができる優れた研究書と言える。
礒山氏は大学に入られる前から、「マタイ受難曲」のレコードを聴かれていて、この本の最後のところに37の「マタイ受難曲」のレコード評が掲載されている。礒山氏はレオンハルト盤を本命としているが、レオンハルトの本業は鍵盤楽器奏者であり、クイケン3兄弟の参加はあるとしても指揮者としての力量があるとは思えない。また礒山氏が早い目のテンポだが好演とされるシェルヘン盤は重厚さに欠けると思った。繰り返しになるが、やはり「マタイ受難曲」のファースト・チョイスと言えば、バッハの音楽が心に染みるリヒターの1958年盤に限ると私は思う。