プチ朗読用台本「ピクウィック氏の気概」第3部


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「陪審員はだれにせよ、朝食に何を食べたのか気になりますね」スノッドグラース氏は言った。

「ああ!」パーカー氏は言った。「おいしい食事をとってくれたらいいんですがね」

「どうしてそうなんですかね?」ピクウィック氏はたずねた。

「とても重要なことですよ」パーカー氏は答えた。「円満で、おだやかに、十分に朝食をとった陪審は、ぜひ抑えなければならん重要なもんなんです。不満を感じ、腹を空かせている陪審は、かならず原告に有利な判定をくだすもんですからね」

「いや、驚いた!」ひどくポカンとして、ピクウィック氏は言った。

 ピクウィック氏はすぐにベルを鳴らし、馬車が見つかったので、4人のピクウィック・クラブ会員とパーカー氏はそれに乗りこみ、ギルドホールにゆき、サム・ウェラー、ラウテン氏は、辻馬車で、そのあとを追った。

 「ラウテン」一同が法廷の外の広間に着いたとき、パーカー氏は言った。「ピクウィックさんのお友だちの方々を研究生席におつれしろ。ピクウィックさんご自身は、わたしのそばに座っておいでのほうがいいんです。ピクウィックさん、こちらへどうぞ」ピクウィック氏の上衣の袖をとって、小男は勅撰弁護士の机の真下の低い席に彼をつれていったが、それはそれは弁護士たちの便利のためにつくられているもので、彼らは、その場所から、事件の指導的な弁護士の耳に、裁判の進行中に必要などんな指示でも耳打ちすることができるようになっていた。この座席にいる者は、傍聴人には姿が見えないようになっているが、それは、そこが法廷弁護士や傍聴人よりずっと低い場所にあり、法廷弁護士と傍聴人の座席は床の上に高くあげられているためである。もちろん、この低い座席の人たちは背を弁護士や傍聴人に向け、顔は裁判官に向けられている。

「あれは証人台でしょうな?」左手の、真鍮の手すりのある、ちょっと説教壇めいたものを指さして、ピクウィック氏は言った。

「あれは証人台ですよ」ラウテンが足もとにおいていった青い袋から多くの書類を引っぱり出して、パーカー氏は答えた。

「そして、あれは」右手のふたつのとり囲まれた座席をさして、ピクウィック氏は言った。「あれが陪審が座るところですな、そうじゃありませんか?」

「まさにそうですよ」かぎタバコ入れのふたをたたいて、パーカー氏は答えた。

 ピクウィック氏は激しい興奮状態につつまれて立ちあがり、法廷をチラリとながめまわした。廊下には、もうちらほらと、かなりの数の傍聴人がつめかけ、法廷弁護士の座席には、かつらをかぶったたくさんの紳士の群れが見受けられたが、彼らはあの感じのよい、さまざまな鼻と頬髯を一団になって示し、それでイギリスの法廷が有名になっているのもいかにも当然と、それは思われるものだった。運ぶべき訴訟事件摘要書をもっている紳士たちは、できるだけ目立つようにしてそれを運び、ときどき、その書類で鼻をこすって、その事実を傍聴人にさらに強く印象づけていた。示すべき訴訟事件摘要書をもっていないほかの紳士たちは、腕の下に、背後には赤いはり紙がつけられ、専門的には「上等小牛皮」として知られている
、まだ十分に焼けていないパイの殻の色をしたおおいのついている堂々たる八折り版本をかかえていた。訴訟事件摘要書も本ももたないほかの連中は、手をポケットにつっこみ、できるだけ利口そうなふうをよそおい、さらにほかの者は、いかにも気ぜわしげな真剣な態度で、あちらこちらと動きまわり、事情を知らぬ傍聴人たちを注目させ、感心させることで満足していた。全員は、ピクウィック氏がいたく驚いたことに、小さなグループにわかれ、まるで裁判なんかどこふく風といったふうに、じつにケロリとした態度で、その日の出来事をあれこれとしゃべり、議論していた。

 ファンキー氏がはいってきて、勅撰弁護士に当てられた列の背後に座ったとき、彼からのお辞儀がピクウィック氏の注意をひいた。彼がそれにお辞儀をかえすやいなや、上級弁護士のスナビン弁護士が姿をあらわし、彼のあとにはマラード氏がつづき彼は大きな真紅の袋の背後にほとんど上級法廷弁護士の姿をかくし、それをスナビン氏のテーブルの上におき、パーカー氏と握手をしてから、引きさがっていった。ついで、さらに2、3人の上級弁護士が入場し、そのうちひとり、太った胴体と赤い顔をした男は、友好的な態度で、上級法廷弁護士スナビン氏にうなずき、今朝の天気はいいですな、と挨拶した。

「今朝の天気はいいですなと言い、われわれの弁護士にうなずいたあの赤い顔をした男はだれです?」ピクウィック氏はささやいた。

「上級弁護士のバズファズ氏ですよ」パーカー氏は答えた。「彼はわれわれの反対の側に立ち、その指揮をしているんです。彼のうしろにいるあの紳士は、彼の下級法廷弁護士のスキムピン氏です」

 ピクウィック氏は、その男の冷酷な悪事をひどくいみきらう気持におそわれて、相手の弁護人になっている上級法廷弁護人バズファズ氏が、自分の弁護人になっている上級法廷弁護士スナビン氏に、どうしておこがましくも今朝の天気はいいですななんぞと挨拶するのかともたずねようとしたとき、弁護士全員が起立し、法廷の役人たちが大声で「静粛に!」と叫んだので、それは阻止されてしまった。あたりを見回したとき、これが裁判官の入場によって起こされたことを、彼は知った。

 病気のため欠席の裁判長の代理、裁判官ステアリー氏はじつにすごく背の低い、とても太った男、顔とチョッキだけといった感じの男だった。彼に重々しく頭をさげた弁護士団に重々しく頭をさげてから、脚をテーブルの下に入れ、小さな三角帽をその上においた。裁判官のステアリー氏がこれをし終わったとき、彼の姿で目にはいるものと言えば、ただふたつの奇妙な小さな目玉と大きなピンクの顔、それに大きな、とても喜劇的な感じのするかつらのほぼ半分だけになっていた。

 裁判官が座席につくや、法廷の床の上に立っていた役人が命令調子で「静粛に!」を宣し、それに呼応して、廊下のべつの役人が怒ったように「静粛に!」と叫びそれに呼応して、3、4人のべつの廷丁が憤慨した抗議の声で「静粛に!」とどなった。これが終わると、裁判官の下に座っていた黒服の紳士が陪審の名前を呼びはじめ、あれこれとわめいたあとで、10人の特別陪審員だけが出席していることがわかった。そこで、上級法廷弁護士のバズファズ氏が補欠陪審員を請求し、黒服の紳士が普通陪審員のふたりを特別陪審員の中におしこみはじめ、八百屋と薬屋がすぐにつかまってしまった。

 法廷にちょっとしたセンセーションがまきおこされ、その直後、クラッピンズ夫人に助けられて、バーデル夫人がつれこまれ、ぐったりしなだれたようすで、ピクウィック氏が座っている席のべつの端のところに座らされた。ついで、特大の傘がドッドソン氏によってわたされ、木靴が一足フォッグ氏によってわたされたが、この両氏とも、この場合にとっておきのじつに同情的な、悲しそうな顔つきをしていた。それからサンダーズ夫人が、バーデル坊やを連れて、はいってきた。この子供の姿を見ると、バーデル夫人はギクリとし、はっとわれにかえって、狂気のようにこの坊やにキスをし、茫然自失状態におちこんで、この善良な夫人は、自分はいまどこにいるのか、とたずねた。これに答えて、クラッピンズ夫人とサンダーズ夫人は面をそむけて泣き、一方、ドッドソン氏とフォッグ氏は、原告バーデル夫人に、心を静めるようにと言った。上級法廷弁護士のバズファズは大きな白いハンカチで目をしきりにこすり、訴えるまなざしを陪審のほうに投げ、一方、裁判官ははっきりと感動し、何人かの傍聴人は、咳払いをして、わきおこる同情の念を静めようとしていた。

「なかなかうまい考えですな、あれは、まったく」パーカー氏はピクウィック氏にささやいた。「ドッドソンとフォッグはすごいやつらですよ。効果満点の策略、効果満点ですな」

 パーカー氏がしゃべっているとき、バーデル夫人はゆっくりと回復しはじめ、一方、クラッピンズ夫人はバーデル坊やのボタンをきちんとボタン穴にはめてから、母親の前の床の上に彼を立たせたが、ここは、まぎれもなく裁判官と陪審のあわれみと同情をひきおこす恰好の場所だった。これはバーデル坊やのそうとう強い反対と涙をおしきってやったことだった。彼にしてみれば、裁判官にジロジロとにらまれるところに立つのは、自分が即時の死刑のためにここを追い出されるか、少なくとも、生涯流刑になる前奏曲となるのではないかと、内心びくびくしていたからである。

「バーデルとピクウィック訴訟」と、黒衣の紳士が審理表の最初にある件名を読み上げた。

「わたしは原告の弁護人です」上級法廷弁護士のバズファズ氏は言った。

「きみと組んでいるのはだれだね、バズファズ君?」裁判官はたずねた。スキムピン氏はお辞儀をし、自分がそれだということを知らせた。

「わたしは被告の弁護人になっています」上級法廷弁護士のスナビン氏は言った。

「きみと組んでいるだれかがいるかね、スナビン君?」裁判官はたずねた。

「ファンキー氏です」上級法廷弁護士のスナビン氏は答えた。

「原告には上級法廷弁護士のバズファズ氏とスキムピン氏」帳面に名前を書きこみ、書きながら読んで、裁判官は言った。「被告には、上級法廷弁護士スナビン氏とマンキー氏」


「失礼ですが、ファンキーです」

「おお、よくわかりましたぞ」裁判官は言った。「その名前をあまり聞いたことがなかったのでね」ここでファンキー氏はお辞儀をして微笑し、裁判官もお辞儀して微笑、ついでファンキー氏は、白目まで真っ赤にさせて、すべての人の目が自分に注がれているのに気がつかぬふりをしようとしたが、これは、過去将来を通じて、人がどんなに努めても、うまくゆかぬことだった。

「開始します」と裁判官は言った。

 廷丁はふたたび静粛にと叫び、スキムピン氏は「立証に先立つ事実の陳述」をおこなったが、その陳述をおこなったとき、彼は自分が知っている精細な事実は伏せたままだった。3分すぎると着席してしまい、陪審はこの事件に関して以前とは変わらぬ、なにも知らぬ状態のままでいたからである。

 上級法廷弁護士のバズファズは、こうした重大な訴訟行為が要求する堂々とした威厳ある態度で立ちあがり、ドッドソンに耳打ちし、手短にフォッグと打ち合わせをして、ガウンを肩にひっかけ、かつらをしっかりとかぶり、陪審にたいして語りはじめた。

 上級法廷弁護士バズファズの開口一番の言葉は、彼のこの職業の経験すべてをとおして ― 法律の研究と職業に従事した最初のときから ― こうした深い感動をおぼえ、自分に課せられた責任をこうして痛切に感じて、訴訟に接したことは、いまだかつて一度もない、ということだった。真実と正義の立場、言葉をかえて言えば、ひどく傷つけられ、ひどい目にあっている彼の依頼人の立場が、彼がいま自分の前の座席に見ている高潔で頭のすぐれた人たちを説得せずにはいないという強い確信、いや、強い自信に支えられていなかったら、彼が絶対に引き受けはしなかったとも言ってよい、それは責任感だった。

 弁護士たちはいつもこんなふうにはじめるものである。それが陪審と自分たちをこのうえない友好的な関係に立たせ、自分たちがどんなに鋭い人間かを、陪審に考えさせるからである。その効果はすぐはっきりとあらわれてきて、何人かの陪審はせっせといろいろなことを書きこみはじめていた。

「みなさん、みなさんはもうわたしの学識ある友人からお聞きずみのことですが」その学識ある友人から陪審がまだなにも聞いていないことを百も承知で、上級法廷弁護士のバズファズはつづけた ー 「みなさん、みなさんはもう、わたしの学識ある友人からお聞きずみのことですが、これは結婚の約束破棄の訴訟で、損害は1500ポンドとされているものです。だが、わたしの学識ある友人の領域ではなかったために、みなさんはこの訴訟の諸事実と事情をご存じではありません。そうした諸事実と事情を、みなさん、わたしがくわしく説明し、それを、あなた方の前にあるあの証人台に申し分なくりっぱなご婦人を呼ぶことによって証明することにしましょう」

 ここで、上級法廷弁護士のバズファズ氏は、「証人台」という言葉にすごく力を入れ、高い音を立てて自分のテーブルをたたき、ドッドソンとフォッグにチラリと目をやったが、彼らはうなずいてこの上級法廷弁護士にたいする驚嘆の情を示し、被告にたいする憤懣やる方ない挑戦の態度を伝えた。

「原告は、みなさん」やわらかい、物憂い声で上級法廷弁護士のバズファズはつづけた。「原告は未亡人です。そうです、みなさん、未亡人です。故バーデル氏は、陛下の収入を管理する役人のひとりとして、多年のあいだ陛下の尊敬と信頼をかけられていたあとで、それと気がつかぬ間に他界し、税関が決して与え得ぬあの安息と平和をべつの場所に求めることになりました」

 居酒屋の地下蔵で1クォート入りのびんで頭をしたたかなぐられたバーデル氏の死をこうして痛ましく描写したとき、学識ある上級法廷弁護士の声はとぎれがちになり、彼は熱をこめて語りつづけた ―

「彼の死の少し前に、彼は自分の忘れ形見をのこしました。死亡した収税吏のただひとつの形見であるこの幼い少年といっしょに、バーデル夫人は世間をしりぞき、ゴズウェル通りの人気のない静けさを求め、つぎのような言葉が書かれてある札を通りに面した客間の窓にさげたのです ― 『独身の紳士のための家具つきの部屋。当家におたずねありたし』」ここで上級法廷弁護士のバズファズは話をとめ、何人かの陪審はこの証拠事実を書きとめていた。

「それに日づけはないのですね?」ある陪審がたずねた。

「みなさん、日づけはありません」上級法廷弁護士のバズファズは答えた。「しかし、それが原告の客間の窓にここ3年間さげられていたことは知っています。この文書の言葉遣いを陪審のみなさんにご注意ねがいたいのです。『独身の紳士のための家具つきの部屋』ですぞ!男性にたいするバーデル夫人の考えは、みなさん、彼女のいまは亡き夫のすぐれた性格をながく見ていたことから得られたものなのです。彼女は恐怖心、不信感、猜疑心はいだかず、すべてこれ信用、信頼だったのです。『夫バーデルは』未亡人は言いました。『夫バーデルは信義を守る人、約束を破らぬ人、いつわりを言えぬ人でした。夫バーデルもかつては独身の紳士でした。独身の紳士に、わたしは保護・援助・楽しみ・なぐさみを求めます。独身の紳士に、わたしは、いつもわたしの若い清らかな愛情を獲ち得たかつてのバーデルの姿を思い出させるなにかを見つけるでしょう。だから、独身の紳士にわたしは自分の部屋をお貸しします』この心を打つ美しい衝動につき動かされ(それは人間の不完全な性格のもつもっともりっぱな衝動のひとつです。みなさん)孤独でわびしい未亡人は涙をぬぐい、2階に家具づけをし、無邪気な少年を母なる彼女の胸にだき、客間の窓に札をさげたのです。それはそこにながくさげられていたでしょうか?いや。狡猾な蛇は監視の目を光らし、罠がかけられ、地雷はしかけられ、工兵は作業をしていたのです。客間の窓に札がかけられて3日 ― 3日ですよ、みなさん ― もしないうちに、2本の脚でしゃんと立ち、外見は怪物でなく、人間のようすをしたものが、バーデル夫人の家のドアをノックしたのです。彼は家の者にたずね、部屋を借り、その翌日、そこにはいりこんでしまったのです。この人物はピクウィック ― 被告ピクウィックです」

 いともペラペラとしゃべり立て、顔を真紅に染めた上級法廷弁護士のバズファズは、ここで息をつぐために、話をとめた。沈黙は裁判官ステアリー氏の目をさまさせ、彼はすぐさまインクのついていないペンでなにかを書きとめ、ひどく深刻そうな顔をしていたが、これは、目をつぶっているときに自分はもっとも深く考えているのだということを陪審に信じこませるためのものだった。上級法廷弁護士のバズファズは話をつづけた。

「このピクウィックという人物については、わたしはほとんどなにも申しますまい。そうした話は、魅力のないことだからです。わたしは、みなさん、そしてあなた方も、いまわしい冷酷さと計画的な悪事を考えるのをよろこぶような人物ではないからです」

 このとき、しばらくのあいだだまって書きものをしていたピクウィック氏は、裁判官と法が厳存するその目の前で、上級法廷弁護士のバズファズにおそいかかってやろうという漠然とした考えが心に浮かんだといったようすで、いきなり激しくギクリとした。パーカーからの注意の身ぶりが彼を抑え、彼は学識ある紳士の残りの話を怒りの顔でジッと聞き入っていたが、それは、クラッピン夫人とサンダーズ夫人のうっとり聴きほれる顔つきと好対照をなしていた。

「わたしは計画的な悪事と申しますぞ、みなさん」ピクウィック氏をじーっとながめ、彼に当てつけを言って、上級法廷弁護士のバズファズはつづけた。「そして、組織的悪事と申したとき、ピクウィックはここにいるということですが、もし彼がここにいたら、わたしは被告ピクウィックに申しましょう、もし彼が裁判をやめたら、そのほうが彼にあってもっとまともなこと、もっとふさわしく、もっと分別があり、もっと目がきいていたことになったろうと申します。この法廷で彼が駆使するかもしれぬ異議、否認の身ぶりもあなた方には承認されず、あなた方はそれをどう判定し評価するかをお心得だ、と彼に申しましょう。さらに、これは裁判長閣下がみなさんにお知らせすることでしょうが、弁護士は、依頼人にたいする自分の義務の遂行に当たって、おどかし、脅迫、抑圧には応ぜぬものだということ、そのいずれか、最初のものでも最後のものでもおこなおうとするどんな試みも、それが原告であれ、被告であれ、その名が
ピクウィック、ノークス、ストークス、スタイルズ、ブラウン、トンプソンであれ、それを試みる者の頭上にはねかえっていくことを、ここで彼に申しておきましょう」

 このちょっとした脱線は、もちろん、衆目をピクウィック氏に集める意図した効果をあげていた。上級法廷弁護士のバズファズは自分をかり立てていった道徳的昂揚からいくらか冷めると、語をついだ ―

「みなさん、ピクウィックが、2年間たえず、とぎれることなく、たえ間もなしに、バーデル夫人の家にいつづけたことを、これからお伝えしましょう。バーデル夫人が、その間中ずっと、彼にかしずき、彼が安楽に暮らせるように心をつかい、彼に食事を提供し、シャツを外に出すときは、それに目をとおし、それがもどってきたときには、そのつくろいをし、それを乾かし、着られるようにととのえ、簡単に申せば、彼の全面的な信頼を受けていたことを、これからお伝えしましょう。何回か彼が彼女の小さな坊やに半ペニーを、ときには6ペンスさえ与えたことを、これからお伝えしましょう。相手の学識ある弁護士といえども弱め、あるいは反駁することのできぬ証人によって、あるとき、彼が坊やの頭を軽くたたき、最近上等なおはじきやふつうのおはじきをもうけたかきいたあとで、つぎの注目すべき言葉、『べつの父さんをもつのを、きみはどう思うね?』
と語ったことを、みなさんに証明いたしましょう。さらに、みなさん、約1年前、ピクウィックはながいあいだ家を留守にしはじめ、わたしの依頼人とだんだん縁を切ろうといった意図を見せはじめたことを、みなさんに証明いたしましょう。さらに、彼の決意はその当時そう強いものではなく、あるとき、彼がいなかからもどってきたとき、彼がはっきりと言葉で彼女に結婚を申しこみ、しかも、この厳粛な契約にだれも証人がいないよう特別注意を払っていたことを証明して、みなさんにお伝えしましょう。彼自身の3人の友人 ― みなさん、じつにいやいやながらの証人たち ― じつにいやいやながらの証人たちの証言にもとづき、その朝、彼が原告を両腕にかかえ、愛撫と愛情の表示で彼女の興奮を静めていた姿が発見された事実をみなさんに証明できる立場に、わたしはあるのです」

 上級法廷弁護士のバズファズ氏は言った。「痛む心をもちながら、ニッコリするのは困難なことです。このうえなく深い同情心の目がさまされているとき、冗談をとばすのは、よからぬことです。わたしの依頼人の希望と前途は打ちこわされ、彼女の仕事はなくなってしまったと言っても、それは誇張ではありません。札は出されました ― が、間借りをする人がいないのです。好ましい独身紳士が往き来はするものの ― 彼らが家の内外にものをたずねる魅力がなくなってしまいました。家を支配しているのは陰鬱と沈黙だけ、子供の声さえしずんでしまいました。母親が泣いているとき、子供の遊びは無視されるものです。彼の上等なおはじきやふつうのおはじきは、ともども、放りだされてしまいました。彼はいつもあげていたあのおはじきの叫びを忘れ、棒打ち遊びや丁半遊びにも手を出さないでいます。しかし、ピクウィック、みなさん、ゴズウェル通りの砂漠のこの家庭的なオアシスを破壊したピクウィックは、臆することなき厚かましさで、まだ頭を高くし、溜め息ひとつつくことなく、自分のひきおこした廃墟をジッとながめているのです。損害賠償、みなさん ― 高い損害賠償こそ、あなた方が彼に与え得る唯一の罰です。あなた方がわたしの依頼人に与え得る唯一のつぐないです。そして、こうした損害賠償を彼女は啓発された、高潔な、正しい感情をもった、良心的な、公正な、同情ある、思考力のすぐれた文明国人の陪審諸公に求めているのです」この美しい結びの言葉で上級法廷弁護士のバズファズ氏は腰をおろし、裁判官のステアリーははっと目をさました。

「ナサニエル・ウィンクル!」スキムピン氏は叫んだ。

「はい!」弱々しい声が答えた。ウィンクル氏は証人台に立ち、宣誓をきちんとすませてから、うやうやしく裁判官にお辞儀をした。

「こちらは見ないように」相手の挨拶に答えて、裁判官は鋭く言った。「陪審のほうを見るのだ」

 ウィンクル氏はその命令に服し、陪審がたぶんいるだろうと思われる方向を見た。そのときの彼の頭の混乱状態でものを見るなんて、まったくとんでもないことだったからである。

 ついでウィンクル氏はスキムピン氏によって審問されたが、スキムピン氏は42、3才の将来有望な青年、証人が相手側のはっきりとした味方なので、もちろん、彼をできるだけとまどわせようとしていた。

「さて」スキムピン氏は言った。「恐縮ですが、裁判長閣下と陪審諸公にきみの名前を知らせてあげてくれませんか、どうです?」そして、スキムピン氏は頭を一方にかしげ、答えをとても鋭く聞いているふりをし、そうしながら、陪審のほうをチラリとながめて、ウィンクル氏の生来の偽誓好みの癖が、彼のものではないなにかべつの名前を彼に言わせるだろうといったようすを暗にほのめかした。

「ウィンクルです」証人は答えた。

「洗礼名は?」腹立たしげに小男の裁判官はたずねた。

「ナサニエルです」

「ダニエルだな ― ほかの名は?」

「ナサニエルです、あなた ― いや、閣下」

「ナサニエル・ダニエルか、それとも、ダニエル・ナサニエルかね?」

「いや、閣下、ただナサニエルだけ、ダニエルではぜんぜんありません」

「それじゃ、どうしてダニエルと言ったのだ?」裁判官はたずねた。

「わたしは申しませんでした、閣下」ウィンクル氏は答えた。

「きみは言ったよ」きびしく眉をよせて、裁判官は答えた。「きみがそう言わなければ、こちらの帳面にダニエルと書くはずないじゃないか?」

 こういう論法では、どうにも答えようがなかった。

「ウィンクル氏の記憶力はだいぶ弱いようです、閣下」また陪審のほうをチラリと見て、スキムピン氏は口をはさんだ。「この証人にけりをつけるまでに、その記憶力をよみがえらす手段は、たぶん見つかることでしょう」

「注意したほうがいいぞ」証人をおそろしい態度でながめて、小男の裁判官は言った。

 かわいそうに、ウィンクル氏は屈託のない態度をよそおおうとしていたが、それは、そのときの彼のとまどった状態では、彼にあわてふためいたすりの様相しか与えぬことになった。

「さて、ウィンクル君」スキムピン氏は言った。「よろしかったら、わたしの言うことをよく聞きなさいよ。注意せよと言われた裁判長閣下の命令はあなた自身のためにも、よく心にとめておいたほうがいいですぞ。きみは被告ピクウィックの親友だとわたしは思っていますがね、そうじゃありませんかね」

「いま憶えているかぎりで、ピクウィック氏との交際はほぼ ー」

「失礼ですが、ウィンクル君、質問をそらさないでください。あなたは被告の親友なんですか、それとも、そうじゃないんですか?」

「わたしは言おうとしていたんですが ―」

「質問に答えるつもりですか、そうじゃないんですか?」

「質問に答えなかったら、きみを拘禁するぞ」帳面越しに目を投げて、小男の裁判官は口をはさんだ。

「さあ」スキムピン氏は言った。「そうなんですか、そうじゃないんですか?」

「そう、親友です」ウィンクル氏は答えた。

「ええ、そうですとも。どうしてそれをすぐに言わなかったんです?たぶん、きみは原告のことも知っているのでしょうな?どうです、ウィンクル君?」

「知ってはいませんが、姿を見たことはあります」

「おお、知ってはいなくとも、姿は見たことがあるんですな?さて、陪審の諸公にその言葉がどういう意味のものか、ひとつ説明していただけませんかな、ウィンクル君?」

「彼女とは懇意ではないが、ゴズウェル通りのピクウィック氏を訪問したとき、彼女の姿を見かけたということです」

「何回彼女の姿を見かけましたかね?」

「何回ですって?」

「ええ、ウィンクル君、何回です?この質問が必要なら、何回でもくりかえしますぞ」こう言って、この学識ある紳士は、しっかりと動かぬ渋面をつくり、両手を腰に当てがいうさんそうに陪審のほうへニヤリと微笑を投げた。

 この質問で、こうした場合につきもののおどかしの誘導尋問が起った。まず第一に、ウィンクル氏は、何回バーデル夫人の姿を見かけたかをはっきりと述べるのはまったく不可能だと述べた。それから、20回は見たかとたずねられ、それにたいして彼は「たしか ― それ以上」と答えた。そこで、100回は見たかどうか ― 50回以上見たと誓えないかどうか ― 少なくとも75回は見たと思わないかどうか ― 等々をたずねられ、最後に到達した満足すべき結論は、自分に注意し、自分のしていることに気をつけたがいい、ということになった。こうしたやり方で証人の興奮状態のとまどいが所期のとおりに静まってきたので、審問はつぎのようにつづけられた。

「さて、ウィンクル君、この前の7月のある特定の朝、ゴズウェル通りにある原告の家の被告ピクウィックの部屋を訪問したことを憶えていますかな?」

「ええ、憶えています」

「そのとき、タップマンという名の友人、スノッドグラースというべつの友人といっしょでしたかね?」

「ええ、いっしょでした」

「彼らはここに来ていますかね?」

「ええ、来ています」自分の友人たちがいる箇所をジッと見て、ウィンクル氏は答えた。

「どうぞ、ウィンクル君、こちらの言うことをよく聞き、友人たちには
注意を払わないでください」また意味深な目を陪審のほうに投げて、スキムピン氏は言った。「前もってきみと相談なんかせずに、彼らは自分の話をせにゃならんのですからな。もちろん、前もっての話がまだおこなわれていなければの話ですがね。さて、この特定の朝に、被告の部屋に入っていったとき、きみが見たことを、陪審の諸公に話してください。さあ、話してください。いずれおそかれ早かれ、それは聞かねばならんことですからな」

「被告のピクウィック氏は、手で原告の腰をだき、両腕で彼女を支えていました」当然の躊躇のふうを示して、ウィンクル氏は答えた。「そして、原告は気絶していたようでした」

「被告がなにか言うのを聞きましたかね?」

「彼がバーデル夫人のことをいい女と言い、気を落ち着けるように、いまだれか人が来たら、どんなことになるかとか、そんな意味の言葉を言っているのを聞きました」

「さて、ウィンクル君、もうひとつだけきみに質問をしたいんですが、裁判長閣下のご注意を忘れないようにたのみますぞ。いま問題になっている場合に被告のピクウィックが『親愛なるバーデル夫人よ、あなたはいい女だ。この事態にたいして心を落ち着けなさいよ。というのも、この事態にきみは来なければならないのだから』とか、そういった意味の言葉を言わなかったと、きみは宣誓できますかね?」

「わたしは ― わたしは、たしかに、彼の言葉をそうは考えませんでした」彼が聞いたわずかな言葉をこううまくはめこんだことにびっくりして、ウィンクル氏は言った。「わたしは階段にいたので、はっきり聞くことができませんでした。わたしが受けた印象は ―」

「陪審諸公が求めているのは、ウィンクル君、君の印象ではないのですぞ。それは正直なまともな人間にあまり役に立たんことと思いますからな」スキムピン氏は口をはさんだ。「きみは階段にいて、はっきりは聞きとらなかったんです。しかし、わたしが引用した表現をピクウィックが使用しなかったと、きみは宣誓しないのですな?そう考えていいんですか?」

「ええ、そう宣誓はしません」ウィンクル氏は答え、スキムピン氏は、勝ち誇った顔をして、腰をおろした。

 ピクウィック氏の主張は、ここまでのところそううまい具合に進行してきたわけではなく、そこには、さらに疑惑を投げられる余地が十分あった。しかし、もしできたら、もっと好都合な光のもとにそれをおくこともできたので、反対尋問でなにか重要なことをウィンクル氏から引き出そうと、ファンキー氏は立ちあがった。

「わたしは思うのですが、ウィンクル君」ファンキー氏は言った。「ピクウィック氏は青年ではないのでしょう?」

「おお、ちがいます」ウィンクル氏は答えた。「わたしの父親くらいの年齢です」

「あなたはわたしの学識ある友人に、ピクウィック氏とは長年の知人だ、とおっしゃいましたね。彼が結婚しようとしていると考えたり信じたりすべき筋は、なにかありましたかね?」

「おお、ありません。たしかにありません」すごく熱を入れてウィンクル氏は答えたので、ファンキー氏は大急ぎで彼を証人台からおろさなければならないところだった。弁護士たちの言葉では、二種類とくにまずい証人があり、それは気の進まぬぐずぐずしている証人と気負いすぎている証人、そのふたつの性格を備えもつことが、ウィンクル氏の運命となっていた。

「これよりさらに進んでおたずねしますがね、ウィンクルさん」じつにすらすらと満足げな態度でファンキー氏はつづけた。「ピクウィック氏の女性にたいする態度なり行為なりに、彼が近い将来結婚を考えているときみに信じさせるものが、なにかありましたかね?」

「おお、ありません。たしかにありません」ウィンクル氏は答えた。

「女性がかかわり合いになった場合、彼の態度は、人生でかなり高齢に達し、自分の仕事と楽しみに満足して、ただ父親が娘をあつかうように女性をあつかう人の態度でしたか?」

「それはいささかの疑いもないことです」グッと力をこめて、ウィンクル氏は答えた。「それは ― そうです ― おお、そうですとも ― たしかに」

「バーデル夫人、あるいはほかの女性にたいする彼の態度で少しでも疑わしい点はなにも知らないのですね?」ファンキー氏はこう言って座ろうとした。上級法廷弁護士のスナビンが彼にたいして目をパチパチさせて合図を送っていたからである。

「いいや」ウィンクル氏は答えた。「あるちょっとした場合は別にしてね。それは、まちがいなく、すぐ説明できることでしょうが...」

 さて、上級法廷弁護士スナビンが目をパチパチさせて合図を送ったとき不運なファンキー氏が座っていたら、あるいは、上級法廷弁護士バズファズが最初からこの変則的な反対尋問を阻止していたら(ウィンクル氏は不安げなようすを見、それがたぶん自分に有利ななにかことをひきおこすだろうとちゃんと見越していたので、彼は反対訊問を阻止するバカなことはしなかったのだが)、この不幸な言葉は引き出されはしなかったであろう。その言葉がウィンクル氏の口からもれるやいなや、ファンキー氏は腰をおろし、上級法廷弁護士のスナビンはそうとうあわてて彼に証人席をはなれてよいと伝え、ウィンクル氏はすぐ席をはなれようとしたが、そのとき、上級弁護士のバズファズが彼をひきとめた。

「ちょっと、ウィンクル君、ちょっと待ってください!」上級法廷弁護士のバズファズは言った。「ウィンクル君の父親くらいの年齢の紳士の女性にたいする疑わしい態度のこの一例について、裁判長閣下にご尋問願えぬでしょうか?」

「きみはあの学識ある弁護士の言葉を聞いただろうね」みじめな苦悶のウィンクル氏のほうに向いて、裁判官は言った。「きみがいま言った場合のことを説明しなさい」

「裁判長閣下」不安で身をふるわせて、ウィンクル氏は言った。「わたしは ― わたしはそれを申したくはないのですが」

「たぶん、そうだろうが」小男の裁判官は言った。「言わねばなりませんぞ」

 全法廷が固唾を飲んで静まりかえっているなかで、ウィンクル氏は言葉をつまらせ、そのつまらぬ疑惑の事情は、ピクウィック氏が真夜中にある婦人の寝室にいるのが発見され、その結果、問題の婦人の予定の結婚が中止されたらしいこと、このことで彼ら全員が否応なく自治都市イプスウッッチの治安判事のジョージ・ナプキンズ氏の前に引き出されることになったいきさつを語った。

「証人台をおりてもいいですよ」上級法廷弁護士のスナビンは言った。ウィンクル氏は証人台をおり、狂乱状態のあわただしさで、『ジョージと禿鷹旅館』にとんでゆき、そこで、数時間して、ソファーのクッションの下に頭を埋めてうめいているのを、給仕によって発見されることになった。

 上級法廷弁護士のバズファスは、とても考えられぬほどの前にもますもったいぶったようすをして立ちあがり、大声で「サミュエル・ウェラーを召喚」と叫んだ。

 サミュエル・ウェラーを呼ぶのは、まったく不必要なことだった。彼の名前が呼ばれた瞬間に、サミュエル・ウェラーはさっさと証人台にあがってゆき、帽子を床の上におき、両腕を手すりに乗せて、いかにも陽気で元気そうな顔つきをし、法廷と判事席の全景を見まわしていたからである。

「きみの名は?」裁判官はたずねた。

「サム・ウェラーです、閣下」ピクウィック氏の召使いは答えた。

「ウェラーはVでつづるのかね、それともWかね?」裁判官はたずねた。

「それは、書く人の好みと趣向によりますよ、閣下」サムは答えた。「いままでそれを書くようなことは、一度か二度しかありませんでしたが、わたしはそれをVで書いてます」サムは相変わらずの陽気な顔をして、上級法廷弁護士のバズファズのほうを向いた。

「さて、ウェラー君」上級法廷弁護士のバズファズは言った。

「はあ」サムは答えた。

「きみはこの訴訟の被告のピクウィック氏にやとわれている者と思うが、よかったら、その点をはっきり言ってくれたまえ、ウェラー君」

「はっきり言うつもりです」サムは答えた。「わたしはあの紳士にやとわれています。とてもいい勤めです」

「することはほとんどなく、手にはいるものはうんとある、ということだろうね?」ふざけて上級法廷弁護士のバズファズは言った。

「おお、手にはいるものはうんとありますよ、350の鞭打ちの刑を申しわたされた兵隊が言ったようにね」サムは答えた。

「兵隊なり、ほかのどんな人間でも、その言ったことを、ここで言ってはならんぞ」裁判官は口をはさんだ。「それは証言にならんのだからな」

「よくわかりました、閣下」サムは答えた。

「被告にはじめてやとわれたとき、その朝に起こったなにか特別なことを憶えているかね、えっ、ウェラー君?」上級法廷弁護士のバズファズは言った。

「ええ、憶えてますよ」サムは答えた。

「それがなんだったか、陪審の方々にひとつ話してくれないかね」

「陪審のみなさん、その朝、まったく新しいひと揃いの服をもらいました」サムは言った。「そして、そいつは、その当時、わたしにとっては特別な、珍しいことだったんです」

 そこでみなが笑いだした。小男の裁判官は、怒った顔で机越しにながめて、「注意したほうがいいぞ」と言った。

「そのとき、ピクウィックさんもそうおっしゃいましたよ、閣下」サムは答えた。「そして、わたしはその服にとても注意しました。まったく、とても注意してましたよ、閣下」

 裁判官はまるまる2分間、きびしくサムをにらみつけていたが、サムの顔つきは完全に落ち着き払って平静そのもの、その結果、裁判官はなにも言わず、身ぶりで上級法廷弁護士のバズファズに話を進めるようにうながした。


「ウェラー君、きみは言うつもりなんですかね」しっかりと両腕を組み、なかば陪審のほうに向いて、さもまだまだ証人を困らしてやるといった無言の保証を与えて、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「きみは証人たちが話すのを聞いていたろう。原告が被告の両腕にかかえられて気絶していたのをぜんぜん見なかったと、ウェラー君、きみは言うつもりなのかね?」

「もちろん、見ませんでしたよ」サムは答えた。「みんなに呼ばれるまで、わたしは廊下にいたんです。そこにいったときには、老夫人はそこにはいませんでしたよ」

「さて、いいかね、ウェラー君?」サムの返答を書きとめるといったふりで彼をおどかそうとして、目の前のインクつぼに大きなペンをひたして、上級法廷弁護士のバズファズは言った。「きみは廊下にいながら、そのとき進行中のことはなにも見なかったのだな。きみは目の玉をもっているのかね、ウェラー君?」

「ええ、目の玉はもってますよ」サムは答えた。「けど、ただそれだけのこってす。もしそれが特許の200万倍拡大の特別の能力のある顕微鏡だったら、階段と松板のドアを見とおすことも、たぶん、できたでしょうがね。ところが、ただの目なんで、制限があるわけなんですよ」

 少しもいらつくふうはなく、いとも率直に落ち着き払って述べたこの答えに、傍聴人はクスクスと笑い、小男の裁判官はニヤリとし、上級法廷弁護士のバズファズは愚か
者に見えた。

「ほかのだれか、わたしになにかききたくはありませんかね?」帽子をとりあげ、いともゆっくりとあたりを見まわして、サムはたずねた。

「ありがたいが、わたしにも用はありませんな。ウェラー君」笑いながら上級法廷弁護士のスナビンは言った。

「きみはおりてよろしい」いらいらして手をふりながら、上級法廷弁護士のバズファズは言った。

「もしそれでもうひとりの証人の訊問をはぶけるものなら」上級法廷弁護士のスナビンは言った。「裁判長閣下、ピクウィック氏が実務からしりぞき、そうとうの楽に暮せる財産の所有者であることを認めるのに異議はありません」

「よくわかりました」上級法廷弁護士のバズファズは言った。「では、これがわたしの訴訟事実です」

 上級法廷弁護士のスナビンは、それから被告のために陪審に対して演説し、それはとてもながく、とても力のこもったもので、それで、彼は、ピクウィック氏の行為と性格にたいして最高の賛辞を献げた。

 裁判官のステアリー氏はむかしからおこなわれている、おきまりの型にならって、要約をおこなった。彼は自分の帳面に書きつけたものを、判読できるかぎり、陪審に読んで聞かせ、そうしながら、証拠について、簡単な説明をした。もしバーデル夫人が正しければ、ピクウィック氏があやまっているのは完全に明瞭なこと、もし陪審が結婚の約束破棄がおこなわれたと考えれば、適当と思われる賠償金を原告のために決定するだろう。これに反して、結婚の約束はなされなかったものと陪審が考えたら、彼らは被告に賠償金支払いの必要はぜんぜん認めないだろう、といった裁判官の言葉だった。それから、このことを審議するために、陪審は陪審室に引きさがり、裁判官は、羊の厚い肉切れと一杯のシェリー酒で元気をつけるために、裁判長室に引きさがっていった。

 不安な15分間が経過し、陪審はもどり、裁判官は呼びこまれた。ピクウィック氏は眼鏡をかけ。緊張した顔をし、高鳴る心臓で、陪審長を食い入るようにしてながめていた。

「みなさん」黒服の男は言った。「判決について意見がおまとまりですか?」

「まとまりました」陪審長は答えた。

「原告に有利な判決ですか、それとも、被告に有利な判決ですか?」

「原告に有利なものです」

「損害賠償金は?」

「750ポンドです」

 ピクウィック氏は眼鏡をはずし、注意深くそれをふき、それを折ってケースにおさめ、ポケットにしまいこんだ。それから手袋をきちんとはめ、そのあいだ中ずっと陪審長をにらみつづけていたが、彼は機械的にパーカー氏と書類がはいった青い袋が法廷から出てゆくとそのあとについていった。

 彼らはわきにある部屋のところで足をとめ、パーカー氏は法廷費用を払ったが、ここでピクウィック氏は友人たちといっしょになった。ここで彼はドッドソン氏とフォッグ氏にも出逢ったが、彼らはもみ手をして、いかにも満悦げなふうを示していた。

「さて、ご両人」ピクウィック氏は言った。

「はあ」自分とフォッグを代表して、ドッドソンは答えた。

「きみたちは骨折り賃はもらえると思っているのでしょうな、どうです?」ピクウィック氏はたずねた。

 フォッグは、それは十分見こみのあること、と答え、ドッドソンはニヤリとし、得るように努力するつもりだ、と答えた。

「努力は何回でも、何回でもなさって結構ですよ、ドッドソンさんとフォッグさん」激しい勢いでピクウィック氏は言った。「だが、債務者刑務所で余生を暮すようになっても、わたしからは骨折り賃も損害賠償金も得られはせんでしょう、びた一文だってね」

「はっ!はっ!」ドッドソンは言った。「つぎの開廷期までには、もっとよくそのことを考えるようになるでしょうよ」

「ひっ!ひっ!ひっ!そのことはいずれこちらでも考えますさ、ピクウィックさん」フォッグは歯をむきだしてニヤリと笑った。

 怒りで口がきけなくなり、ピクウィック氏は彼の弁護士と友人たちに戸口のところまでつれだされ、呼びこまれてあった貸し馬車に、サム・ウェラーに助けられて乗せられた。それは目配りのきくサム・ウェラーがちゃんと手配していたものだった。



       2

 高等法院第四開廷期がはじまった。その最初の1週間が終わったときに、ピクウィック氏とその友人たちはロンドンにもどり、ピクウィック氏は、もちろんサムをともなって、『ジョージと禿鷹旅館』の古巣へ帰っていった。

 彼らが到着して3日目の朝、ロンドンのすべての時計がそれぞれ9つの鐘を鳴らし、ぜんぶ合わせれば999ほどの鐘の音を報じていたとき、サムはジョージ・ヤードで散歩をしていたが、そのとき奇妙な新しくぬり立てた車が乗りつけ、そこからすごいすばやさで、手綱を自分のわきに座っていた太った男に投げて、奇妙な紳士がとびだしてきた。

 この人物が馬車からおりたとき、そのときまで反対側の道をコソコソと歩いていた、ボタンがいくつかちぎれた褐色の大外套をまとったむさ苦しい感じの男が道を切ってわたり、ピタリとそばによってきたことが、サムの注意を引いていた。この紳士の来訪の目的について疑念以上に強いものをもっていたサムは、彼より先に『ジョージと禿鷹旅館』にゆき、ぐるりと鋭く向きを変えて、戸口の中央に突っ立っていた。

「おい、きみ!」高飛車な調子で粗毛の大外套を着た男は言い、それと同時にそこをおしのけてとおりぬけようとした。

「おい、どうしたんだ?」相手のおした力に複利をつけた勢いでおしかえして、サムは答えた。

「さあ、そんなことはやめるんだ。そんなことをしても、おれにはだめだからな」声を高くし、真っ青になって、粗毛の大外套の持ち主は言った。「おい、スマウチ!」

「はい、なんかまずいことがありましたかね?」褐色の大外套の男はうなった。彼は、この短い対話のあいだに、コソコソと小路ぞいにもうここにやってきていた。

「この若い男の厚かましい態度だけのことだがね」サムにもうひとおし加えて、主役は言った。

「さあ、そんなバカな真似はやめろ」サムに前よりもっとひどいひと突きをくれて、スマウチはうなった。

 この最後のひと突きは、手練れのスマウチ氏が期待していた効果をあげた。このご挨拶に報いようとして、サムがその男の体を戸口の柱にグイグイとおしつけているあいだに、主役はそこをすっととおりぬけ、酒場のほうに進んでいったからである。サムは、スマウチ氏と二言三言激しい言葉の応酬をしてから、そちらにすぐついていった。

「お早う、きみ」ボタニー湾式の気楽さとニュー・サウス・ウェールズの紳士的な態度で酒場にいた若いご婦人に呼びかけて、主役は言った。「きみ、ピクウィック氏の部屋はどこだね?」


 ピクウィック氏は床でぐっすり眠っていたが、この早朝の訪問者がサムにともなわれて部屋にはいってきた。ふたりの立てた物音で、彼は目をさました。

「髯そり用の湯をたのむよ、サム」カーテンの中からピクウィック氏は言った。

「ピクウィックさん、すぐ髯をそってくださいよ」床の頭のほうのカーテンを引き開けて、客は言った。「バーデルの請求で強制執行令状をもってるんです ― これが逮捕令状ですよ ― 民事訴訟裁判所のね ― これがわたしの名刺。わたしの家にお越しねがえるでしょうな」ピクウィック氏の肩をやさしくたたいて、州長官の役人(彼はそうした身分の男だった)は自分の名刺を掛け布団の上に投げ、チョッキのポケットから金のつまようじをとりだした。

「名前はナムビー!」ピクウィック氏が枕の下から眼鏡をとりだし、それをかけて、名刺を読もうとしたとき、州長官の代理は言った。「コールマン通り、ベル小路のナムビーですよ」

 ここでそのときまでナムビー氏のシルクハットをジッと見ていたサムウェラーは口をはさんだ。

「あんたは非暴力主義者ですかね?」サムはたずねた。

「きみとけりをつけるまでに、わしがだれかは教えてやるよ」プリプリしている役人は答えた。「いずれ近い将来、天気のいい朝、きみに礼儀作法を教えてやろう」

「ありがとう」サムは言った。「同じことをきみにもしてやるよ。帽子をぬぎたまえ」こう言って、じつに巧妙なやり方で、ウェラー氏はナムビー氏の帽子を部屋の向こう側にすごい勢いでふっとばし、その結果、ナムビー氏はあやうく金のつまようじを飲みこみそうになった。

「ピクウィックさん、これを見てください」息を切らせて、狼狽した役人は言った。「わたしが義務を遂行するさい、あなたの部屋であなたの召使いの襲撃を受けたのですぞ。体に危害を受ける立場にあるわけ。あなたに証人になってもらいますぞ」

「なにも見たりはしないでくださいよ」サムは口をはさんだ。「しっかりと目を閉じててください。こいつを窓から外にほっぽりだしてやります。外の窓ガラスの鉛わくのために、そう遠くまでは放りだせませんけどね」

「サム」従者がさまざまな敵対的態度を示したとき、声を荒くしてピクウィック氏は言った。「もしお前がこれ以上一言でも言い、この方にちょっとでも邪魔をしたら、お前はその場で解雇だぞ」

「ですけどねえ!」サムは言った。

「だまりなさい」相手を抑えて、ピクウィック氏は言った。「あの帽子をひろってきなさい」

 だが、これをするのをサムはきっぱり強く断った。そして、主人から彼がきびしく叱られたあとで、役人は、急いでいたので、自分で帽子をひろいあげ、それをしながら、さまざまな脅迫をサムに浴びせていたが、サムはまったく平然としてその言葉を受け、ナムビー氏が丁寧にも帽子をまたかぶったりしたら、そいつをたたきつぶしてやる、とだけ言っていた。ナムビー氏はこの誘惑の提供を断わり、その後間もなく、スマウチを2階に呼びあげた。逮捕が遂行されたこと、逮捕されたピクウィック氏が服を着こむまで待つべきことを彼に伝えて、ナムビー氏は肩で風を切って外に出てゆき、車で去っていった。スマウチはむっとして「いそがしいのだから、急ぐように」とピクウィック氏に要求し、ドアのそばの椅子を引きよせ、ピクウィック氏の服の着替えが終わるまで、そこに座っていた。サムはそれから貸し馬車を呼びにやられ、それに乗りこんで3人組はコールマン通りに向けて走っていった。この距離が短かったのは幸いなことだった。それというのも、スマウチ氏は魅力的な会話の持ち主でないばかりでなく、肉体的な虚弱さのために、せまい場所ではじつに不愉快な道づれとなっていたからである。

 馬車はとてもせまい暗い通りにまがってはいり、窓という窓に鉄の桟をはめた家の前にとまったが、そこの戸口の柱には「ロンドン地区長官の役人、ナムビー」という役職と名前が書かれてあった。スマウチ氏の双子兄弟の男の手で奥の門は開かれて、ピクウィック氏は案内されていった。

 朝食が運ばれてきたときに、パーカー氏がやってきた。「とうとう逮捕ですか、えっ?さあ、さあ、わたしはこのことを悲しんではいませんよ、これであなたのやり方のおろかさがわかるでしょうからね。この逮捕令状が出された費用と賠償金の金額は書きとめておきましたよ。一刻も猶予せず、すぐ話を決めたほうがいいですよ。たぶん、ナムビーはもう家に帰っているでしょう。あなたのご意見はどうです?わたしが小切手を切りましょうか?あなたがそれをなさいますか?」これを言ったとき、小男は、陽気さをよそおって、手をこすり合わせていたが、ピクウィック氏の顔をチラリとながめたとき、サム・ウェラーのほうにがっかりとしたまなざしを投げずにはいられなくなった。

「パーカー」ピクウィック氏は言った。「どうか、このことはもうわしに聞かせないようにしてくれたまえ。ここにいても意味のないこと。だから、今晩監獄にゆくことにするよ」

「ホワイトクロス通りにゆくなんて、だめですよ」パーカー氏は言った。「考えられぬこと!ひとつの監房に60も寝台があり、1日24時間のうち、16時間錠がおろされてるんですよ」

「もしできたら、ほかの監獄にゆきたいんだがね」ピクウィック氏は言った。「それがだめだったら、そこでできるだけなんとかやってゆくさ」

「どこかにゆくとなれば、フリート監獄にはゆけますよ」パーカー氏は言った。

「それで結構」ピクウィック氏は言った。「朝食を終えたら、すぐそこにゆくことにしよう」

「待ってください、待ってください。ほかのたいていの人がそこから逃げ出すのにむきになるその場所に、そう急いではいっていく必要は
少しもありませんよ。人のいい小男の弁護士は言った。われわれは身柄提出令状を手に入れねばなりません。きょうの午後4時まで、判事室に判事はいないでしょう。そのときまで、あなたは待っていなけりゃならんのです」

「よくわかりましたよ」しっかりとした忍耐力を示して、ピクウィック氏は言った。

 型どおりのことがおこなわれ、サミュエル・ピクウィックの身柄はその後すぐ職杖をもった役人に預けられ、この役人によってフリート監獄の所長のところにつれてゆかれ、バーデル対ピクウィック事件の損害賠償と訴訟費用が十分に支払われるまで、そこにとどめられることになった。

「そしてそれは」笑いながらピクウィック氏は言った。「ずいぶんながい時間かかることだろうよ。サム、べつの貸し馬車を呼んでくれ。パーカー、さようなら」

「あなたといっしょにゆき、無事そこにあなたをとどけるようにしましょう」パーカー氏は言った。

「まったく」ピクウィック氏は言った。「サム以外のだれもついてきてくれないのが、こちらの希望なんです。落ち着きしだい、手紙を書いてお知らせしますよ。そうしたら、すぐ来てください。そのときまで、さようなら」

 ピクウィック氏はこう言って、そのときまでにもう来ていた馬車に乗りこみ、そのあとに職杖をもった役人がつづいた。サムは御者台に
座り、馬車は走り去っていった。

「じつに風変わりな人だな、あの人は!」立ちどまり、手袋をはめながら、パーカー氏は言った。

「彼はどんな破産者になるこってしょうね!」わきに立っていたラウテン氏が言った。「かれは委員たちを悩ますことになりますよ!逮捕すると言っても、彼らを問題にせんでしょうからね!」

 ピクウィック氏の性格を書記が法律的な立場からこう評価しても、弁護士はそれをたいしてよろこんでいるふうはなかった。彼はそれになにも答えず、歩いていってしまったからである。



この台本を作成にするにあたり、梅宮創造訳「英国紳士サミュエル・ピクウィク氏の冒険」(未知谷)、北川悌二訳「ピクウィック・クラブ」(三笠書房)から多くの引用をさせていただきました。



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