プチ朗読用台本「チアリブル兄弟の慈心」
1
ニコラスが求人広告を覗き込もうと足を止めると、そばにいた紳士も足を止めた。ニコラスは何か自分に打ってつけの求人広告はないかと、左から右へ窓ガラスに目を走らせているうち、この老紳士の姿が目に留まり、もっとよく見ようと思わず求人広告から目を離した。
老人はがっしりした体つきで、たいそう大振りに仕立てたブルーの上着を着込み、どこと言って腰のくびれらしきものもなく、ずんぐりとした脚はとび色の半ズボン丈の長いゲートルにくるまれ、頭には景気のいい牧場主がよく被っているような、山が低く、ツバの広い帽子をのっけていた。上着のボタンを上までぴっちり留め、えくぼのある二重顎は白いネッカチーフの ー とはつまり、例のやたら糊の利いた卒中を引き起こしそうなクラヴァットではなく、そのままベッドにもぐっても一向差し支えなさそうな、着心地のよい、気楽な、年代物の白の首巻きの ー ひだの中にうずもれていた。だが何よりニコラスの注意を引いたのは、老紳士の目だった ー そんなに澄んで、キラキラ輝いて、真っ正直で、陽気で、幸せそうな目は今まで見たことがなかった。そうして老人は少し上目使いにして立ち、片手を上着の胸元に突っ込み、他方の手で古めかしい金の時計鎖を弄び、頭をわずかに傾げ、帽子を頭よりほんの少し傾げたなり、口許にそれは気持ちのよい笑みをたたえ、ほがらかな老いた顔にそれは剽軽な、茶目っ気とも、あどけなさとも、思いやりとも、気さくさともつかぬ表情を晴れやかに浮かべていた。ニコラスはかなうことなら、そこに突っ立ったまま、日が暮れるまで老人を見つめ、せめてその間だけでも、この広い世間を渡って行くにはどうしても猜疑心やふくれっ面などというものを避けて通る訳には行かないということを忘れていたいとすら思った。
だがそんな願いは到底かなわなかった。というのは老人はしげしげ見つめられているとは思ってもいないようだったが、何げなくニコラスの方へ顔を上げたので、ニコラスは、心証を害しては大変と、すぐさままたもや求人広告を食い入るように覗き込んだからだ。
それでいて、老紳士はそこに突っ立ったまま、広告から広告へと目をやっていたので、ニコラスはまたしても老人の顔に目を向けずにはいられなかった。老人の風采は奇妙で風変わりなところへもってきて、それはいわく言い難く魅力的で、不思議で、口許と目許には数多のきらめきが戯れていたものだから、老人を見つめていると、単に面白いというだけでなく、すこぶる愉快で楽しい気分になるのだった。
そういうわけで自然の成り行きで、老人は一度ならず、ニコラスがそうしているところを見とがめた。そんなとき、ニコラスは真っ赤になってどぎまぎした。というのも実のところ、ニコラスはその見知らぬ紳士はもしかすると、事務員か秘書を探しているのではないかと考え始め、そのように考えている胸中を見透かされているような気がしたからだった。
以上のことはほんの2、3分の出来事だった。見知らぬ紳士の経ち去り際、ニコラスはまたしても彼と目が合い、照れ隠しもあって、しどろもどろに詫びを言った。
「なーに、気にしなくていいんだよ」と老人は言った。
心のこもった口調で言われ、その声がそんな御仁にそれは似つかわしく、物腰にはそれは心温まるものがあったので、ニコラスは思い切ってまた口を利いた。
「それにしても、何てたくさんのクチであふれ返ってるんでしょう!」と彼はウィンドーの方へ手を振りながら、中途半端な笑みを浮かべて言った。
「ああ、でも、雇ってもらいたくて仕方がない数多の人が毎日のようにここに来て、心底そう思ったことだろう」老人は返した。「ほんとに、気の毒なことさ」
老人はこう言いながら立ち去りかけた。しかしニコラスが今にも何か話したそうにしているのを見て、あまりすげなくもできまいとでもいうかのように、歩調を緩めた。互いに会釈を交わしたのはよかったが、どのように話を切り出したらよいか迷っている路上で出会った人のようだった。しばしためらっていたが、いつのまにかニコラスは老人と肩を並べていた。
「何かおっしゃりかけていましたな、お若いの。何と言おうとなさっていたのです?」
「いえ、ただ、何かお考えがあって、あそこの広告をご覧になっていたらいいのに ー いや、そうではなくて、ご覧になっているのかなーと思ったものですから」
「おやおや、何の考えのことでしょうな」と老人はニコラスをこっそり見やって返した。「このわたしがこの年になって職を探しているとお考えなんですか」
ニコラスはかぶりを振った。
「ははは」老人はまるで手を洗ってでもいるかのように手首の方まで揉み手をしながら笑った。「ま、そうは申しても。わたしがあの広告を覗き込んでいるところをご覧になったからには、そう思われても不思議はないかもしれませんな。このわたしだって、最初はあなたこそてっきりそうかと思ったくらいですから。いや、正直なところ」
「もしも最後までそう思われていたとしても、そんなに的外れではなかったでしょう」とニコラスは返した。
「えっ?」老人は彼の頭の天辺から爪先まで見渡しながら、声を上げた。「何ですと!これは意外ですな。たしなみのあるお若いお方がそんなにせっぱつまられるなど、想像すらできませんでした」
ニコラスはお辞儀をし、老人にさよならを告げながら、踵を返した。
「お待ちなさい」と老人は、もっと気がねなく話が出来そうな路地に彼を連れて行って、話し掛けた。「一体、どういうことなんです」
「いえ、ただ、あなたの優しいお顔と物腰についつられて ー というのも、そんな方にお目に掛かったことがなかったもんですから ー 隣人に無関心なロンドンで、見ず知らずの方にいらないことまでしゃべってしまいました」とニコラスは返した。
「隣人に無関心!ああ、いかにも、いかにも。その通りですな。確かに人が困っていても手を差し伸べようとしない」と老人は妙に勢いづいて言った。「その昔、わたしにもそんな気がしたことがありましたぞ。はだしでここまでやって来た時。忘れもしません。おお、いい機会です」老人は頭から軽く帽子を浮かせ、たいそう神妙な面持ちになった。
「いったいどうしたんです?どうしてそんなことになったのです?」と老人はニコラスの肩に手を掛け、通りを歩かせながらたずねた。「あなたは ー いいですか」と彼の黒い上着の袖に指をあてがいながら、「これは一体どなたのためなんです」
「父の喪に服しています」ニコラスは答えた。
「ああ!」老人はすかさず言った。「若くして父上を亡くされるとはお気の毒なことです。お母さんはどうなんです、お元気なんですか」
ニコラスはため息をついた。
「ご兄弟は?」
「妹が一人います」とニコラスは返した。
「そうですか、そうですか。学もおありなんでしょう」と老人は若者の顔をやるせなさそうに覗き込みながらたずねた。
「そこそこの教育なら受けています」とニコラスは言った。
「それは素晴らしい」と老紳士は言った。「教育は大事ですぞ、とても。わたしはとうとう受けずじまいで。そのぶん、学があるとお聞きすると、尊敬したくなるのですよ。いや、実にすばらしい。そうですか、そうですか。もっとあなたのことをお聞かせ願えませんか。わたしも面白半分で聞くのではありませんから」
すべての語り口が親身でさりげなく、堅苦しさや冷ややかさもなかったので、ニコラスは抗いようがなかった。健康で、純粋な気質を持つ者同士の間で、清らかなわだかまりのない気持ちが高まり、ニコラスは老人に促されて、ささやかな生い立ちの主だった点をざっくばらんに、かいつまんで話した。老人は熱心に耳を傾け、ニコラスが話し終えると、思わず知らず自分の腕を彼の腕に通していた。
「もう一言も結構。事情はよくわかりました」と老人は言った。「わたしと一緒にお出でなされ。グズグズしているひまはありませんぞ」
そう言いながら、老人は彼とともにオックスフォード・ストリートに引き返し、シティへ向かっている乗り合い馬車を呼び止めると、ニコラスを先に押し込め、自分も後に続いた。
老人はどうやら居ても立ってもいられないほど興奮しているようで、ニコラスが口を開こうとするたび、たちまち待ったをかけて、「いや、あなた、もう一言も言わなくてもいいんですよ」と遮ったので、若者はそれ以上差し出口をはさまぬほうがよいだろうと思った。そうこともあって、シティへと彼らは一言も交わさぬまま馬車に揺られて行った。馬車の進行にともなって、ニコラスは一体どんな運命が待ち受けているのやらと訝しんだ。
イングランド銀行までやってくると、老人は素早く馬車から下り、またもやニコラスの腕を取り、スレッドニードル・ストリートへと急き立て、それから右手の小道や横町をあちこち抜け、とうとう、二人して静かな、木陰の多い、小さな路地に出た。その路地の内でもいっとう古めかしくてこじんまりした商社へと老人は案内した。門柱にはただ『チアリブル兄弟商会』とあるだけだったが、辺りに散らばった荷物の宛先にちらと目をやっただけで、ニコラスにはチアリブル兄弟というのはドイツ貿易商だなと、およその察しはついた。
いかにも商売繁盛の雰囲気の漂う倉庫を抜け、チアリブル社長は(というのも老人こそその人に違いないと、ニコラスはすれ違う倉庫係や赤帽の示す恭しい態度から推測したわけだが)、彼を大きなガラスケースそっくりの、小さな間仕切り壁の事務所に連れて行った。くだんの事務所には ー まるで蓋が閉じられる前にガラスケースの中に据えられ、それきり一歩も外へ出たためしがないかのようにチリともシミとも縁のなさそうな ー 銀縁メガネを掛けて髪粉を振った、肉づきのよい、年老いた、大きな顔の事務員が座っていた。
「兄さんは部屋かい、ティム?」とチアリブル社長はニコラスに示したのに劣らず穏やかな口調でたずねた。
「はい、社長」と太った事務員はメガネの玉を主人の方へ、目玉をニコラスの方へ向けながら答えた。「ですがトリマーズ様がお見えで」
「ああ!で、どういう用件でだね、ティム?」とチアリブル社長はたずねた。
「今朝、東インド・ドッグスで事故に遭って死んだ男の家族のために寄付を募っておいでのようです、社長」とティムは返した。「何でも、社長、砂糖樽の下敷きになったとかで」
「ああ、あいつは何ていい奴なんだ」とチアリブル社長はしみじみ言った。「何て思いやりのある奴なんだ。トリマーズには頭が上がらないな。トリマーズほどありがたい友人はいないな。あいつはわしらだけではとうていおっつかないくらい、困っている人のことをたくさん教えてくれるんだから。トリマーズにはほんとに頭が上がらないな」そう言いながら、チアリブル社長は無類に嬉しそうに揉み手をし、折しもトリマーズ氏がたまたま帰りしなに戸口を通り掛ると、すぐさま後を追い、彼の手をつかんだ。
「恩に着るよ、トリマーズ、うんと恩に着るよ。いつもありがたいことだと思っているんだよ。ほんとに何とありがたいことか」とチアリブル社長は人に聞かれないよう、彼を片隅に引っ張って行きながら言った。「子供は何人だい、で、兄のネッドはいくら出したんだい、トリマーズ?」
「子供は6人で」とその御仁は答えた。「兄上は20ポンド寄付してくださいました」
「兄のネッドは何ていい奴で、君も何ていい奴なんだね、トリマーズ」と老人は一心に身を震わせて、彼の両手を握り締めながら言った。「じゃあ、わたしからも20ポンドということにしよう ー いや、それとも ー ちょっと待ってくれたまえ、ちょっと待って!あんまり目立ちすぎてもいかんな。そう、わたしから10ポンド、それからティム・リンキンウォーターから10ポンドということにしよう。トリマーズ氏に20ポンドの小切手を頼むよ、ティム。じゃあ、ごきげんよう、トリマーズ ー で今週いつか、わたしらのところへ食事をしに来てくれるね。いつでもナイフ・フォークの用意はあるし、いつでもお待ちかねだよ。さあ、これを ー リンキンウォーター氏から10ポンドだからな、ティム。砂糖樽の下敷きになったか、かわいそうに。子供が6人とは、気の毒に!」
こんな調子で、募金に回っている男がその多額の喜捨をたしなめる前に、チアリブル社長はニコラスを ー この短時間で見聞きしたことに驚いたり胸がいっぱいになっているのにかまわず ー 別の部屋に連れて行った。
「ネッド兄さん」とチアリブル社長は軽くノックし、聞き耳を立てるために前屈みになってたずねた。「お忙しいですか、兄さん、それとも二言三言お話しできますか?」
「ああ、チャールズかい」と中から声がした。あんまりその調子がたった今口を利いたばかりの声とそっくりだったものだから、ニコラスはギョッとし、もしや同じ声ではと、我が耳を疑いそうになった。「何だい水くさい。さっさとお入り」
彼らはそこで、早速お言葉に甘えて入って行った。ニコラスの何とびっくり仰天したことだろう!というのも彼の案内係が進み出て、彼自身とどこからどこまで瓜二つの ー 顔も同じ、背格好も同じ、上着も、チョッキも、首巻きも同じ、ズボンもゲートルも同じ ー いや、壁には同じ白い帽子までかかっている ー 別の老紳士と暖かい挨拶を交わしたものだから。
彼らがお互い手を握り合っている傍らで、ニコラスは第2の老人の方が弟よりややがっしりしていて、両者の違いと言えば、これに加えて、兄の方が心持ち足取りや立ち姿がぎこちないくらいなものなのを見て取った。誰一人、彼らが双子の兄弟であることを疑うものはなかっただろう。
「ネッド兄さん」とニコラスの友人は部屋の扉を閉めながら言った。「こちらはわたしのお若い友人ですが、わたしらどうにかしてこの青年に手を貸して上げなければなりませんよ。それで、自分がなす務めを果たすために、充分にこの青年の話を聞かないといけません。そうしてわたしの考えが間違いないとわかったら、この青年にどうにかしてあげないといけませんよ、ネッド兄さん」
「お前がそうしなくちゃならんと言うだけで、チャールズ、それで充分だよ」と相手は返した。「お前がそう言うんだ。もうそれ以上話は聞かなくてもいいんじゃないか。わたしらでこの方を何とかしてあげようじゃないか。この方は何を困っておられるのだね、どうしてほしいとおっしゃるのだね?ティム・リンキンウォーターはどこだ?彼にも入ってもらおう」
「まあ、まあ、まあ」と弟のチャールズは兄を脇へ連れて行きながら言った。「わたしに一ついい考えがあるんですよ、兄さん。わたしらがティムの務めを軽くしてやって。あいつに、時には田舎に行って気持ちのいい空気の中で休んで来るよう説き付けられたら、ティム・リンキンウォーターじいさんだって若返るんじゃないかと思うんですよ。あいつは今じゃわたしらより3つは老けて見えます。わたしらよりずっと若いのに。かわいそうなティム」
気のいい二人の老人はカラカラと笑った。いずれも年老いたティム・リンキンウォーターを思いやって、目を潤ませて。
「わたしの話を聞いてください、ネッド兄さん」と老人はニコラスの両側にそれぞれ一つずつ椅子を引き寄せながら言った。「この青年のことなんですが、この方は控えめなので、彼に自分の身の上話をさせるのは気の毒です。それを聞くと、兄さんはきっと身につまされることでしょう」
「ふむ、ふむ、ふむ」相手は重々しく頷きながら返した。「なるほどな、チャールズ、なるほどな」
「ネッド兄さん、わたしらがたった二人ぼっちの身寄りのない子供だったのを覚えていますか。この大きな街で最初の1シリングを稼いだ時のことを思い出してみてください」
双子の兄弟は黙々と互いの手を握り締めた。弟のチャールズはニコラスから聞いた話を事細かに物語った。その後に続く会話は長きにわたるもので、それが済むと、別の部屋で、ほとんど変わらぬくらい長々と兄のネッドとティム・リンキンウォーターが話し込んだ。ところで、こう言ってもニコラスの面子をつぶすことにはなるまいが、彼は双子の兄弟と10分と閉じこもらぬ内から、優しく思いやりある言葉がかけられる度にただ手を振るのが精一杯で、小さな子供のようにすすり泣いていた。
とうとう兄のネッドとティム・リンキンウォーターは一緒に戻って来て、ティムは即座にニコラスの方へ歩み寄ると、たいそう手短に(というのも、ふだんから口数の少ない男だったので)、ストランドの住所は書き留めたから、今晩8時にお伺いしようと耳打ちした。そこでやおら、ティムは眼鏡を拭って掛け直した。何かまだチアリブル兄弟に言い分があるのではないかと思ってのことだった。
「ティム」弟のチャールズは言った。「わたしらはこの青年にここの会計をやってもらうつもりなんだが」
兄のネッドが、ティムはその心づもりを汲んでくれ、何の異存もないのだと脇から言った。ティムは頷くと、仰せの通りですと答え、背筋をピンと伸ばした。
「ただし、わたくしは朝1時間だって遅くは参りませんし」といきなり切り出した。「気持ちのいい空気の中で休むつもりもございません。ええ、田舎に出掛けるつもりだって。お気持ちはうれしいのですが」
「そんな妙な意地を張るもんじゃないよ、ティム・リンキンウォーター」弟のチャールズは、気色ばむどころか、老事務員への慕わしさで顔を晴れ晴れと輝かせて彼を見つめながら返した。「そんな妙な意地を張るもんじゃないよ、ティム・リンキンウォーター。いったいどういう了見だね?」
「わたくしが初めてチアリブル商会の帳簿をつけさせていただいてから、かれこれ44年になりましょうか。」とティムは空にペンで暗算して言った。「そうです、次の5月で、44年になります。わたしはその間ずっと(日曜日はさておき)毎朝、時計が9時を打つと金庫を開け、毎晩、10時半に戸締まりと火の元を確かめて参りました。わたくしはただの一晩も裏にある屋根裏以外の場所で寝たことはございません。窓の中ほどには、わたくしが初めてここへ参った時に持って来たモクセイソウのプランターと4つの植木鉢が並んでいます。世界中どこを探してもこれほどの裏庭はまたとございません」ティムはいきなり語気を強め、辺りを険しく見回しながら言った。「勤めるにせよくつろぐにせよ、暑い盛りにせよ冬にせよ、これほどの裏庭はございません。そういうことですので、もし差し支えなければ、仕事に差し障りがないようなら、わたくしはあそこで息を引き取らせていただきたいものです」
「これこれ、ティム・リンキンウォーターや、どうして息を引き取るなどと言い出すのだね?」と双子の兄弟は声を揃えて言った。
「そうとしか申し上げようがないからでございます、エドウィン社長にチャールズ社長」ティムはまたもや肩をいからせて言った。「これまでも幾度かわたくしに隠居の道を持ち掛けてくださいました。でも、どうか、この話はこれきりにして、金輪際止しにしていただけないものでしょうか」
と言ったと思うと、ティム・リンキンウォーターは部屋から出て行き、ガラスケースに閉じこもった。あたかも誰が何と言おうと一歩も譲らないぞと言っているかのようだった。
2
ティム・リンキンウォーターがやおら分厚い元帳と日誌を取り出し、幾度も幾度も引っくり返しては、さも愛おしそうに背や縁の埃を払った挙句、あちこちの頁をパラパラめくり、美しい、インク染み一つない項目に半ば侘しげに、半ば誇らしげに、目を走らせる様はなかなか見物であった。
「次の5月で、44年か!」とティムは言った。「あれから何冊、元帳を買い替えて来たことか。44年とはな」
ティムは再び帳簿を閉じた。
「さあ、さあ」とニコラスは言った。「僕は早く仕事に取っかかりたくってたまらないんですから」
ティム・リンキンウォーターはたしなめるかのように、そっとかぶりを振った。ニクルビー君にはまだ自分の任務がどれほど責任重大で畏れ多い質のものか十分呑み込めておらんようだな。もしも何か計算違いが ー 何か書き損じでも ー あったとしたら!
若者とは向こう見ずなもの。時に、何をおっ始めるやら知れたものではない。予めきちんと椅子に腰を掛けるどころか、机にゆったり向かったなり、顔には笑みを ー 現に笑みまで ー たたえて ー いや、それは誓ってもいいが、と後にリンキンウォーター氏が幾度となく述懐した如く ー ニコラスは目の前のインク壷にペンを浸すや、何と、チアリブル商会の帳簿にいきなり突撃をかけるではないか!
ティム・リンキンウォーターは真っ蒼になり、椅子をグラリとニコラスの側の二本脚だけで踏ん張らすと、固唾を呑んで、若者の肩越しに覗き込んだ。弟のチャールズと兄のネッドが事務所に一緒に入って来た。しかしティム・リンキンウォーターは振り向きもせず、コトリとでも物音を立ててはいけませんとばかりに、苛立たしげに手を振り、ひたすら未熟なペン先の動きを食い入るように見つめた。
兄弟はにこやかな面持ちで見守っていたが、ティム・リンキンウォーターはニコリともしないばかりか、数分間というもの身動き一つしなかった。とうとう、彼は長くゆっくりため息をつき、なおも傾いた椅子の上でバランスを取りながら弟のチャールズをちらと見やり、こっそり鵞ペンの羽根でニコラスの方を指し示すと、さも「これなら大丈夫!」と言わぬばかりに重々しく、確信したように頷いた。
弟のチャールズは頷き返し、兄のネッドと晴れやかな笑みを交わした。が、その途端、ニコラスは書く手をはたと止めてどこか別の頁に移った。そんなニコラスを見て、ティム・リンキンウォーターは最早喜びを抑えきれなくなり、椅子からぴょんと飛び降り、有頂天で彼の手を握り締めた。
「いや、お見事!」とティムは社長兄弟の方に向き直り、得々とかぶりを振って言った。「彼の大文字のBとDはわたくしのにそっくりです。書きながら小文字のiにもひとつのこらず点を打ち、tの横棒も一本残らず引いております。ロンドン広しといえどもかほどの若者はおりますまい」とティムはニコラスの背をポンポン叩きながら言った。「ああ、一人として。いくら天下の都と言えども、この若者にかなう奴は見つけ出せないでしょう。いるなら、お目に掛かりたいくらいだ」
「よくぞ言ってくれたな、ティム。よくぞ言ってくれたな、ティム・リンキンウォーター!」と弟のチャールズはティム自身に劣らず有頂天になり、そう口を聞きながらもそっと両手を打ち合わせて声を上げた。「このわたしらのお若い友人は懸命に励んでくれるものと分かっていたとも。きっと近いうちに見事にやってのけてくれるものと思っていたとも。ねえ、ネッド兄さん、わたしはそう言っていましたでしょう」
「ああ、言うておったとも、チャールズ。もちろん、チャールズ、お前はそう言っておったとも。ほんとにお前の言う通りだったな」とネッドは答えた。「まさにお前の言う通りだったな。ティム・リンキンウォーターは浮かれちゃいるが、浮かれて当たり前、浮かれるのももっともじゃ。ティムは何といい奴だことか。ティム・リンキンウォーターよ ー お前はほんとにいい奴だ」
「ああ、これで一安心!」とティムはこんな具合に話し掛けられてもお構いなしで、元帳から主人兄弟の方へ眼鏡を上げながら言った。「ああ、これで一安心。このわたくしが、もしも自分がいなくなったら、この帳簿の奴らは一体どうなるものやらと、しょっちゅう気を揉んで来なかったとでもお思いですか?」
「なあ、ティム・リンキンウォーターよ」と弟のチャールズは言った。「握手しようじゃないか、さあ。今日はお前の誕生日だろ。心から、おめでとうと言わせてもらうよ。お前と言うやつは、ほんとに、ほんとにいいやつだ」
3
ニコラスは、ともかく長旅の疲れを癒さねばならなかったので、自分の部屋に引き取り、着替えもせずにベッドに身を投げ出し、そのままぐっすり寝入った。目を覚ますとケイトが傍らに座っていたが、妹は兄が目を開けたと見るや、身を屈めてキスをした。
「わたしね、兄さん、兄さんがまた戻って来てくれてどんなに嬉しいか、言いに来たの」
「僕もだよ。お前にまた会えてどんなに嬉しいか、ちょっと口では言えないぜ、ケイト」
「わたしたち、みんな、兄さんの帰りを待ちわびていたのよ」ケイトは言った。「ママとわたしと ー マデラインさんは」
「お前はこの前の手紙で、彼女、とても好くなったって言っていたね」とニコラスは何がなし急き込んで、顔を赤らめて言った。「ぼくが留守にしている間に、社長方がこの先あの子をどうするか、話していなかったかい」
「おお、一言も」とケイトは答えた。「わたし、あの方とお別れしなきゃならないと思うと、とても悲しいわ。きっと、兄さんもそう思っているんでしょ」
ニコラスはまたしても頬を染め、窓辺の小さな寝椅子に掛けている妹の傍らに腰を下ろしながら言った。
「ああ、ケイト、そうさ。お前だけに言うけど、胸の内を明かすと、ケイト ー そうさ、僕は彼女を愛してる」
ケイトはぱっと目を輝かせ、何か言いかけたが、その途端、ニコラスは妹の腕に手を掛け、言葉を継いだ。
「誰にも内緒だぜ。もちろん彼女には、口がさけても言っちゃだめだぞ」
「まあ、ニコラス兄さんたら!」
「ああ、口がさけても、ぜったい。で、そのぜったいが、うんざりするくらい長引こうと。僕もいつかは彼女に打ち明けられる日がやって来ると思ったりすることもある。だけどそれは遠い先のことで雲をつかむような話だから。何年も先のことかもしれないし、それにその日が来たとしても、僕が年を取ってしまってしらけた気持になるかもしれない。あの子を愛する気持だけは変わっていないだろうけど。僕自身、儚い夢を、荒唐無稽な夢を考えている気がして来て、いっそこの手でそいつらをぶっつぶして、辛い気持をなくしてしまいたくなるのさ。時が流れるに任せて夢をしぼませて、失望だけを背負い込むくらいならね」
「ニコラス兄さん」ケイトは蒼ざめながら言った。「わたしにも兄さんに聞いてほしいことがあるの。わたし、それを聞いてもらいたくて、ここに来たんだけど、勇気が出なかったの。でも兄さんの話を聞いて、話してみる気になったわ」妹は口ごもり、わっと泣き出した。
妹の様子に思い詰めたところがあったので、ニコラスは親身に話を聞こうと先を促した。ケイトは口を開こうとしたが、涙で話が途切れた。
「どうした、泣いてばかりじゃわからないよ」とニコラスは言った。「ケイト、ほら、しっかりしろよ!そうだ、お前、もしかしたら、フランクさんのことが言いたいんじゃないのか」
ケイトは兄の肩に顔をうずめ、涙ながらに返した。「そうよ」
「やっぱりそうか。僕が留守にしている間に、多分、彼がお前にプロポーズしたんだろ」とニコラスは言った。「そうなんだね。それなら話ははやい。さあ、そのプロポーズのことを話してくれないか」
「でも、わたし、お断りしたのよ」とケイトは言った。
「えっ、だけど、どうしてなんだい」
「わたしあの方に」妹は声を震わせて言った。「この前、兄さんがママに言っていたように、兄さんが会社でとてもたくさんの恩義を被っているというのに、ほとんど持参金のないその妹が甥御さんであるあなたと結婚するなんてできませんとお話したの。きっぱり、そう申し上げて、もう会いにお見えにならないでってお願いしたの」
「ああ、それでこそ僕のあっぱれな妹、ケイトだよ!」と妹を抱き締めながら言った。「そう言ってくれるだろうと思っていたよ」
「あの方、考え直してほしいっておっしゃったわ」とケイトは言った。「それから、わたしがどう心に決めていようと、ともかくプロポーズしたってこと、叔父様方に申し上げるだけじゃなくて、兄さんが帰ったら、兄さんにもすぐ打ち明けるつもりだって。もしそうなら」と妹は、落ち着きを取り戻していたのが一転して、感情を露にして、言い添えた。「もしかしたら、わたし、あの方にそんなにこんなわたしのことを愛してくださって、どんなにありがたく存じているか、あの方のお幸せをどんなに心から祈っているか、ちゃんと申し上げられなかったんじゃないかって気がかりなの。だから、もし兄さんたち、一緒にお話することがあったら、わたし ー わたし、あの方にそれだけは知っておいていただきたいの」
「よくわかった、ケイト。お前が自分で正しいと思ってご好意をお断りするのだから、僕もできることはさせてもらうよ。それにマデラインのことだって」ニコラスは優しく言った。
「おお、まさか! 兄さんはわたしとフランクさんのことと同様に、マデラインのことを考えているの。立場が違うんじゃないかしら」
「いや、同じさ」とニコラスは口をさしはさんだ。「マデラインはそりゃ僕たちの恩人の身内じゃないけど、あの子はそれと変わらないくらい強い絆でお二人とは結ばれているのさ。僕がそもそもあの子の身の上を聞かされたのだって、ほかでもない、お二人がぼくを心底信頼してくださって、僕なら絶対大丈夫って見込んでくださったからなんだ。それなのにもしも僕が、あの子がたまたまこんなとこに身を寄せることになったのやら、僕が幸いあの子にほんの少しでも力になってあげられたってのにつけ込んで、あの子の気持をこっちへなびかせようとしたら、それこそ僕は卑怯者と言われても仕方がないだろう。それもそいつがまんまとうまく行ったりしたら、社長方がせっかくあの子を実の娘のようにしていい所へ嫁がせてやるのを楽しみにしてらっしゃるのだって無駄骨にさせてしまうだろうし、僕は僕で、そんなにあさましくて男の風上にも置けないやり口で引っかけたら、若い娘に対するあの方たちの思いやりを利用して一身代こさえようと企んでいるみたいじゃないか。今日、僕はチアリブル社長にきっぱり、包み隠さず、ほんとの理由を打ち明けて、どうかこのお嬢さんをどこかよその家に移す手筈を今すぐにでも整えてくださいってお願いしてみるよ」
「今日なの?そんなにあせらなくても!」
「僕はもう何週間も前からそうしようと思って来たんだぜ。なぜこれ以上先延ばしにしなきゃならないのさ?もしもぼくが頭を冷やして、自分の立場をわきまえて行動しようとしているのに、その気持を打棄るつもりかい。まさかぼくがやろうとしていることに待ったをかけるつもりじゃないだろう、ケイト」
「でも、いつか兄さん、お金持ちになるかもしれない」とケイトは言った。
「いつか金持ちにね!」ニコラスは侘しげな笑みを浮かべて繰り返した。「ああ、それから、おじいさんにもね!けど金持ちだろうと貧乏だろうと、年食っていようといまいと、僕たちはお互い、いつまでも変わりゃしないし、そう思えば何だってへっちゃらじゃないか。もしも僕たちがこの初恋に律儀すぎて、もう二度とそんな気持になれそうもないからってどうしたってのさ?いい加減仲のいい僕たちがますます仲良くなれるだけじゃないか。僕たちが一緒に遊び回ってた子供の頃なんて、ケイト、つい昨日のことみたいだろ。だったら僕たちがひとつ年を取って、今こうして、子供時代の悩みをあれこれ振り返っているみたいに、こんな悩みを振り返っては、あんなことでいちいち思い悩んでいた時もあったんだって、悲しいような愉しいような思い出にひたるのだって、ほんの明日のことのようじゃないのかな。多分その時になったら、僕たちは浮世離れした老人になっていて、僕たちの歩きっぷりがもっと軽やかで、髪の毛がまだ黒々としてた時分のことをいろいろとしゃべっているんだろうけど、その頃にはきっと、そのおかげで、お互い今まで以上に仲良くなって、のんびり、のどかに下って行くことになる人生の流れに身をゆだねさせてくれたこうした試練のことだって、むしろありがたいと思えるようになってくるさ。そうして、僕たちが辿った道に何となく勘づいた周りの若い連中が ー 今のお前や僕と同じくらいの若いのがさ、ケイト ー 話を聞いてくれって、僕たちのところへやってくるだろう。夢が一杯の若者が経験豊かな僕たちに悩み事を打ち明けてくれるかもしれない。この老いぼれたひとりものの兄貴と同じくひとりものの憐れみ深い妹の耳にさ」
ニコラスがこんな空想をふくらませている最中にも、ケイトは涙を浮かべて微笑んでいた。それは兄が話し終えた後でも、止めどなく溢れてはいたが、悲しみの涙ではなかった。
「僕は間違っているかな、ケイト?」と兄はしばし口ごもっていたが、思い切ってたずねてみた。
「いいえ、ほんの少しも、兄さん。わたしも兄さんが思っている通りのことができたんだから、よかったと思っているわ」
「悔やんじゃいないのかい?」
「い、いいえ」とケイトはためらいがちに、小さな足で床に何かをなぞりながら言った。「わたし、もちろん、潔くてまっとうなことをしたってことではちっとも悔やんでなんかいないわ。ただ、ともかくこんなことになってしまったのは、やっぱり悔しいし ー 時には悔しい気もするでしょうし、時にはわたし ー わたし、おお、わたしったら、何言ってるんでしょう。ええ、わたしったら、それはそれは弱虫なんだから。ニコラス兄さん、もう何が何だかわからなくなってしまいそう」
ありえないことと言われるのを恐れずに言えば、仮にニコラスがその時に1万ポンドを手にしたら、彼は恥じらいから桃色の頬となり、落ち着かない気持から目を伏せている妹を幸せにするために、自分のことは放っておいて、最後の1ファージングに至るまで投げ出していただろう。だが彼にしてやれるのはせいぜい優しい言葉で妹をいたわり、慰めるくらいのものだった。それでもそれが心からの愛と優しさと温かい励ましに満ちた言葉だったので、ケイトは、兄の首に腕を回すと、もう涙は見せないときっぱり言った。
「たとえどんな奴が」とニコラスはその後ほどなくして老兄弟のもとへ向かった。誇らしげにつぶやきながら。「どれだけお金をはたいたって、ケイトのような心はなかなか手に入れられないだろう。目方にしてみると、心は軽くて、金や銀は重いかもしれないけど、ケイトの心は別の価値がある。フランクさんにはお金があるが、それを使ったからと言って、ケイトのような宝物をものにすることができるかどうか。だけど、持参金なしでは、うまくいかないだろう。金持ちが大損して、その相手が大儲けをすることになるんだから」
ニコラスは自制心を働かせて、次々と湧き起こる連想に歯止めを掛けながら、彼は歩き続け、ティム・リンキンウォーターの前に姿を見せた。
「ああ、ニクルビー君!」ティムは声を上げた。「調子はどうだい。またとないほどの絶好調だと言っておくれ。さあ」
「ええ、絶好調ですよ」とニコラスは彼の両手を握り締めながら言った。
それからニコラスは、そっと足音を忍ばせて外へ出ると、弟のチャールズ社長の部屋へ行った。ニコラスが弟のチャールズに、社長一人と話したいと言ったので、ニコラスを部屋に入れると社長はドアを閉めた。
「社長がお一人で幸いでした」とニコラスはためらいがちに言った。「社長に一言、申し上げたいことがあるのですが、2、3分お時間をいただけますか?」
「もちろんだとも」弟のチャールズは気づかわしげな面持ちで彼を見つめて答えた。「何なりと言ってくれたまえ、君、何なりとな」
「どこから初めていいのか分かりませんが」とニコラスは言った。「一人の人間がある方に心底、愛と敬意を抱いています。またその方には、お仕えできるならどんな辛い務めも心から喜んで果たすほどお慕いもしています。そして持って生まれた熱意と忠義を奮い立たせることができるほど、自分のことや家族のことでお世話になっているとも思っています。それは僕が社長に抱いている気持です。社長、どうか僕のことを信じて、今からする話を聞いてください」
「君のことなら信じているとも」と老社長は答えた。「一度だって疑ったことなんてない。これからだって疑うものか」
「そんなふうにご親切に、そこまで言っていただいて」ニコラスは言った。「僕も先を続ける勇気がわいて来ました。ほんとは、社長が僕を初めてブレイ嬢のもとへ遣わされた時に申し上げなければならなかったのかもしれませんが、僕は実はずっと前にあの方にお会いしていたんです。それを申し上げなかったのは、何より社長への務めを第一義に置けると高をくくっていたからです」
「いや、ニクルビー君」弟のチャールズは言った。「君はわたしの信頼を裏切りもしなかったし、そいつにつけ込みもしなかったぞ。そうとも、君はそんな真似はしなかったぞ」
「ええ、そんな真似はしてません」とニコラスはきっぱりと言った。「自分に必死で言うことを聞かせて、歯止めをかけてきたんです。でもいよいよ手に負えなくなり、このままでは、社長の信頼を失いそうなんです。この愛らしい娘さんの顔を毎日見て、いつも何かと接していたのでは、僕は到底心安らかではいられませんし、最初に誓った、今まで律儀に守り通して来た自分との約束だってご破算にしかねません。つまり、社長、僕は僕自身に信用が置けないんです。ですからどうか、一刻も早く、この娘さんを母と妹の看護のもとからよそへ移して差し上げてください。自分でもわかっています、社長にだって ー 僕があの方を、心の中だけであろうと、愛しているなんて、とんでもなく向こう見ずで、思い上がりもいいところだって思われることくらい。ですが、僕が見初めたようにあの方を見初め、あの方の生い立ちを知りながら、一体誰があの方を愛さずにいられるでしょう?この誘惑から逃げようとしても、好きな相手が四六時中目の前にいられたのでは、どうして恋心が抑えられるでしょう。社長、おねがいです。どうかあのかたをよそへ移して、これ切り忘れさせてください」
「ニクルビー君」と老社長はしばし口ごもっていたが、言った。「なるほどそうするよりほかあるまいな。君にいらぬ気遣いをさせて、すまなかった。こうなることはわかっていたんだ。マデラインはすぐよそにやるとしよう」
「もし勝手をお聞き願えるのなら、このことはあの方に言わないでおいていただけないでしょうか」
「ああ、そうするとしよう」とチアリブル社長は言った。「君の話というのはそれだけかね?」
「いえ!」とニコラスは社長と目が合うと返した。「まだあります」
「ああ、あとは聞かんでもわかっているよ」とチアリブル社長は言った。「君はそのことをいつ知ったんだね」
「今朝、家に帰ってからです」
「それで君はすぐにわたしのもとへやって来て、恐らくは、妹さんが君に打ち明けたままをわたしに報告するのが務めだと思ったのだな」
「ええ」とニコラスは言った。「とは言っても、まずはフランクさんとお話がしたいと思っていましたが」
「フランクはゆうべわたしの所へ来てくれたよ」と老社長は答えた。「よくぞ言ってくれたね、ニクルビー君 ー ほんとに、よくぞ言ってくれたね、君 ー 改めて感謝するよ」
4
数週間が過ぎ、くだんの出来事のほとぼりも冷めていた。マデラインは引っ越し、フランクの訪問はなくなり、ニコラスとケイトは自らの未練を断ち切り、懸命に自分たちと母のために生きようと努め始めていた ー とは言え、ニクルビー夫人は、かほどに一変した、何の変哲もない暮らし向きにいっかな馴染んでくださろうとはしなかったが。そんなある夕暮れ時のこと、チアリブル兄弟よりニクルビー夫人とケイトとニコラスに、明後日にディナーにお越し願えぬかとの招待状が舞い込んだ。
ディナーの当日がやってくると、奇特な奥方は朝食1時間後かそこらケイトのご厄介になり、のんびりおめかししていたが、娘が身支度を整えるのに充分間に合うほどの余裕を持って着替えを済ませた。一方、娘の身支度はたいそう簡素で、さして手間も取らなかった。とは言え、それは申し分のない仕上がりだったものだから、娘がこれほど艶やかに、愛らしく見えたことはなかった。皆の支度が整い、ニコラスも帰宅したので、一行は社長兄弟によって手配された馬車に乗って出発した。
老執事がこの上もなく恭しく、満面笑みをたたえて一行を出迎え、客間に案内した。そこで彼らは社長兄弟にそれは心を込めて温かく迎えられたものだから、ニクルビー夫人はすっかり度を失い、おろおろするばかりだった。ケイトはその歓待に居たたまれぬ思いをしていた。というのも社長兄弟は彼女とフランクの間で何があったか一部始終知っていると思われたからで、ケイトは自分の立場がたいそう微妙で過酷なものと感じられ、ニコラスの腕で震えていた。するとチャールズ社長が彼女の手を腕に取り、部屋の別のところへ連れて行った。
「マデラインにお会いになりましたかな、お嬢さん」と社長は言った。「あれがお宅を出てから」
「いいえ、社長さま」とケイトは答えた。「一度も。一度お手紙をいただいたきりです。あの方がこんなにあっという間にわたしのことをお忘れになるなんて、思ってもみませんでしたわ」
「ああ!」老人はケイトの頭を軽く叩き、まるでお気に入りの愛娘を相手にでもしているかのように愛しげに話しながら言った。「かわいそうに!これをどう思われますか、ネッド兄さん。マデラインはこの方にたった一度しか、手紙を書いていないそうですよ。それでこの方はあれがこんなにあっという間に仲良くしていたことを忘れるとは思ってもみなかったそうですよ、ネッド兄さん」
「おお!悲しい、悲しい、何と悲しいことか」とネッドは言った。
社長兄弟は目配せし、しばし物も言わずにケイトを見やりながら、握手をし、まるで何か格別喜ばしいことでお互いにおめでとうと言い合ってでもいるかのように、頷いた。
「ふむ、ふむ」と弟のチャールズは言った。「それなら、あっちの部屋に行ってな、マデラインからお嬢さんへの手紙が来ていないか見てごらんなさい。確かテーブルの上に一通のっていたはずだが。もしものっていたら、お嬢さん、急いで戻られることはありませんぞ。というのもディナーまでの時間はまだたっぷりありますからな」
ケイトは言われるままに出て行った。弟のチャールズはそのしなやかな姿を目で追いきると、ニクルビー夫人の方を向いて言った。
「わたしらは実はご免をこうむって、本当のディナーの刻限より1時間ほど早めにお越し願っておりましてな、奥さん。というのもちょっとお耳に入れておきたいことがあって。さあ、ネッド兄さん、兄さんの口から、用件をお伝えいただけませんか?それから、ニクルビー君、君はどうかわたしについて来てくれたまえ」
ニコラスは弟のチャールズの後について社長室に入って行った。そこには、驚いたことに、てっきり海の向こうと思っていたフランクがいた。
「さあ、君たち」とチアリブル社長は言った。「握手をしてくれたまえ!」
「ええ、おっしゃっていただかなくても」とニコラスは手を差し出しながら言った。
「ぼくだって」とフランクはその手をガッチリ握り締めながら返答した。
老社長は今こうして惚れ惚れとうち眺めている二人の若者ほどの素晴らしい若者が並んで立つことはまずあるまいと思うと、感無量だった。しばらく何も言わずに二人を見やっていたが、机につくと切り出した。
「どうか君たち二人には仲良く ー いつまでも、腹を割って話すことができる友人同士として仲良く ー やってもらいたいものじゃな。でもな、そういう訳に行かん所があったら、これから言おうとしていることも、はたして打ち明けたものやらどうやら。フランクや、ほれ、ごらん。ニクルビー君、君は反対側に回ってくれんかね」
若者がそれぞれ弟のチャールズの脇に歩み寄ると、社長は机から1枚の書類を取り出し、広げた。
「これはな」と社長は言った。「マデラインの母方の祖父の遺書の写しで、あれが成人するか結婚するのを待って、しめて1万2千ポンドを譲ろうというものじゃ。どうやらじいさんはマデラインが(たった一人の身内じゃが)、いくら説いて聞かせても、父親の世話を止めて、じいさんのもとに身を寄せようとせんので、腹を立てて、この(じいさんのありたけの)身代をどこかの慈善施設に寄付する遺書を作られたらしい。ところがじいさんは一旦はそう心に決めたものの、思い返されたようでの。というのも、それから3週間経って、まだ月も変わらんうちに、こいつを作成されたからじゃ。ただ、世の中悪い奴がおるもので、その遺書はじいさんが亡くなったとたんに盗まれて、もう一方の遺書が ー そいつしか見当たらなかったものだから ー 鑑定を受けて、正式に管理されることになった。しかし今ようやく片がついたんじゃが、この証文がわたしらの手に入ってからというもの、親身に間に立ってくださる方があって、こいつこそ紛れもない最新の遺書だということになり、証人も見つかって、とうとうおかげでカネは舞い戻って来た。マデラインはそういう訳で、晴れて相続人になって、この財産を手にしておる、というか、さっきも言った条件のどちらか一方が整えば、手にすることになるだろう。ということで、およその事情は呑み込めてもらえただろうな」
フランクはええと答え、ニコラスは頷いた。
「さて、フランクや」と老社長は言った。「お前はこの証文を取り戻すのにじかに手柄を上げてくれた。それはちっぽけな額じゃったが。ところで、わたしらはその3倍の支度金のある娘さんより、マデラインが可愛くてならんので、あれを嫁にもろうてくれんかなと思うんじゃ。お前、どうじゃ、あいつと連れ添うてはくれんかな」
「いえ、それはお断りします、おじさん。ぼくがそもそもあの証文を取り返すのに躍起になったのは、娘さんはもうとっくにある奴と契りを交わしているものと思い込んでいたからです。ええ、ぼくや他のどんな男が千人束になってかかってもかなわないくらい、娘さんが恩に着て当たり前だし、僕の勘違いでなけりゃ、思いを寄せたって当たり前の奴と。ただしこいつは、どうやら僕の早とちりだったみたいですが」
「そうとも、いつもの癖でな、お前」と弟のチャールズはやけにしかつめらしい風を装っていたのもすっかり忘れて、声を上げた。「いつもの癖でな。お前という奴は、フランク、よくもわたしらがお前にカネのために結婚してもらいたがっておるなどと思うてくれたものじゃ。お前の愛と引き替えに、若さも、美しさも、優しい気立ても、心の強さも、何から何まで、手に入れられるとことはわしらもよくわかっとる。なのにお前という奴は、フランクよ、わたしらに一言の相談もなしに、わたしらに一肌も脱がせてくれんで、ニクルビー君の妹さんに思いを打ち明けよったな」
「だって、ぼくはまさかあの方が ー」
「ああ、まさかあの方がとな!だったら、ますますわたしに力を貸してくれと言えばよかったのに。とは言うても、なあ、ニクルビー君、フランクはそりゃそそっかしいのが玉にキズかもしらんが、今度ばかしはあいつの言うとおりだったようじゃ。そうとも、マデラインは現に心に思う人がおっての。さあ、握手をしようじゃないか、君。そいつは何と、君だとよ。確かにマデラインの考えは、至極感心なことで当たり前のことなんだ。この財産は君のものということになるが、君はマデラインこそ、そいつが40倍になったところでおっつかんほどの財産じゃと思うてくれたまえ。あれは君でないと駄目だと言っていた、ニクルビー君。あれは一番の馴染みのわしらが選んでほしいと思うておった通りの男を選んでくれた。フランクも、実はわたしらがあいつに選んでほしいと思うておった通りのお嬢さんを選んでくれた。あいつはお嬢さんが何べん肘鉄をくらわしても、君、君の妹さんの小さな手を物にしようとしているだろ。ああ、あいつは今だって、この先だって、そうするに決まっておるからな!さあ、君たち二人はわたしらの気持もわからんのに、よくぞやってくれた。こうしてわたしらの気持がわかったからには、もう言うことが聞けんとは言わさんからな。何とも君たち二人は立派な跡取りではないか!その昔、なあ、君たち、わたしの大事なネッド兄さんとわたしは、世間知らずの貧乏人で、ただ一旗揚げてやりたいばっかりに、履く物も履かずにうろつき回っていたものさ。その頃よりかは年を取って少し暮らし向きはよくなったが、どこが変わったと言えるだろう。何も変わっちゃいないのさ。おお、ネッド兄さん、今日は兄さんとわたしにとって、なんて幸せな日なんでしょうか!お袋も、今のわたしらを見たら、きっと誇りに思ってくれるでしょう」
と呼びかけられた兄のネッドは、いつの間にかニクルビー夫人と入って来て、それまで若者二人には気づかれずにいたのだが、矢のように飛び出すと、弟のチャールズを思い切り抱き締めた。
この台本を作成にするにあたり、田辺洋子訳「ニコラス・ニクルビー」(こびあん書房)から多くの引用をさせていただきました。