プチ朗読用台本「ネルとおじいさん」
1
ある夕方、ふたりにとって休みの夜だったが、ネルとおじいさんは、散歩に出かけた。ふたりは、ここ何日間か、部屋の中にすっかり閉じこめられて暮し、気候は温かだったので、長い距離をブラリブラリとさまよい歩いていった。町をすっかりあとにして、ふたりは感じのいい畠を横切っている小道を進み、それが自分たちの別れてきた大きな道に最後はゆき当り、こうして町にもどることができるものと思いこんでいた。だが、この小道は思ったよりズッと大きく迂回していて、こうして彼らはついつい太陽が沈むときまで進んでゆき、そのときになってようやく求めていた道にぶつかり、足をとめてそこで休むことになった。
そのときまでにだんだんと雲が濃くなり、いま空は暗く険悪になってきて、明るいところといえば、沈みゆく太陽の輝きが黄金のように燃えあがっている火のかたまりを積みあげ、そのおとろえかけたのこりの火が、黒い雲のおおいをとおして、そこここに光を投げて、大地の上に赤く輝いている場所だけになっていた。太陽が沈んで、よろこばしい昼をよその場所に運んでいったとき、風はうつろなつぶやきを立ててうめきはじめ、一連の雲がそれにさからって湧き出て、雷と稲妻が起こりそうな気配になった。すぐに大きな雨の滴が落ちはじめ、あらし雲がはやてのようにどんどんととんでゆくと、ほかの雲がそののこしたすき間を埋め、空一面にひろがっていった。ついで遠雷の低いうなり声が聞え、ついでは、稲妻がひらめき、つぎには、一時間の暗黒が一瞬のうちに集結したように思えた。
木や生垣の下に難をさけるのはこわかったので、老人と子供は街道をあわただしく走り、あらしから身を守ってくれるどこか家をみつけようとした。あらしは、いま、すごい勢いではじまり、刻一刻、その激しさをましていた。打ちつける雨でびしょぬれになり、耳をつんざく雷に狼狽し、叉になってひらめく稲妻におびえて、戸口に立っている男が中にはいれと大声をかけてくれなかったら、家が近くにあるのも気づかずに、ふたりはそこをとおりすぎてしまうところだった。
ドアのところから身をさげ、ギザギザした稲妻がまた襲ってきたとき、彼は両手を目にかざした。「どうしてここをとおりすぎていこうとしたんだい、えっ?」ドアを閉め、先に立って奥の部屋に案内しながら、彼はいいそえた。
「声を耳にするまで、家をみかけなかったのです」ネルは答えた。
「まったく」この男はいった。「この稲妻が目にはいったら、そうなるこったろうな。この火のわきに立ち、からだをちょっと乾かしたらいい。なにかほしいんだったら、好きなものを注文しな。なにもほしくなかったら、そいつをしなくたって構わないよ。そんなこと、心配するにはおよばんよ。ここは居酒屋だってえことだけさ。『勇敢なる兵士』ってえのは、ここらじゃまあ名のとおった店なんだ」
「この家は『勇敢なる兵士』と呼ばれているのですか?」ネルはたずねた。
「そいつはみんなの知っていることと思ってたんだがね」主人は答えた。「教会の教義問答ばかりじゃなく、『勇敢なる兵士』を知らんとしたら、どっからやってきた旅の人なんだい?ここは認可をジェイムズ・グロウヴズ ー ジェム・グロウヴズ ー 正直者のジェム・グロウヴズがもっている『勇敢なる兵士』なんだよ。その男は、一点のけがれもない人格者、りっぱな九柱戯場の持ち主なんだ。それに文句をつけるやつがだれかいたら、ひとつそいつをジェム・グロウヴズに面と向かっていってもらいたいもんさ。ジェム・グロウヴズは、4ポンドから40ポンドまで、どんな条件でもちゃんとお相手をつとめてやるんだからね」
こういいながら、この語り手は自分のチョッキを軽くたたき、自分がこうして賞賛を受けているジェム・グロウヴズなのを伝え、ジェム・グロウヴズの肖像画を相手にしてみごとな拳闘の身構えをしてみせたが、その相手は、炉棚の上の黒い額枠の中から、社会全般を相手に同じ身構えをしていた。こうして彼は、なかば飲みほした水割り酒のはいったコップを口に当てがい、ジェム・グロウヴズの健康に祝杯をあげた。
その夜は温かだったので、炉の火の熱をさけるために部屋を切って大きな仕切りのつい立てが立っていたが、この仕切りの向う側のだれかがグロウヴズ氏の武勇にたいして疑念をほのめかしていたらしく、その結果、彼はこうして自分のことばかりまくし立てていたのだった。グロウヴズ氏はこの仕切りにガーンと挑戦の拳をふるい、向う側からの応答を待っていた。
「ジェム・グロウヴズの家の屋根の下でジェム・グロウヴズに文句をつけるやつなんて」なんの応答もなかったので、グロウヴズ氏はいった。「たんとはいないんだぞ。そいつができるやつは、たしかに、ひとりはいる。その男は、ここから百マイルとはなれたところにいるわけじゃないんだ。だが、その男は、何人でも相手にできる男、だから、そいつにだけは、おれのことを好きなようにいわせてるんだ ー やつは、そいつを承知しているぞ」
このほめ言葉に応じて、すごいどら声がグロウヴズ氏に「静かにして、ろうそくをつけろ」と命じ、同じ声はさらに、グロウヴズ氏が「ほらを吹いて息を切る必要はない。彼がどんな男かは、たいていの人間がよく知ってることなんだから」とつけ加えた。
「ネル、あの連中は ー あの連中はトランプをしているんだ」急に関心を湧かして、老人はささやいた。「聞えないかい?」
「そのろうそくの手入れをしっかりたのむぜ」その声はいった。「こんなふうだったら、札の上の点しかみえねえじゃないか。ここの窓のシャッターも早いとこ閉めてくれ、えっ?ここのビールも、今夜の雷でまずくなるこったろう ー さあ、勝負!7シリング6ペンスこっちによこしな、アイザック。さあ、わたすんだ」
「聞えるかね、ネル、あの連中が聞えるかね?」金がテーブルの上で鳴ると、前よりもっとむきになって、ささやき声で老人はくりかえした。
「こんなあらしって、みたこともねえな」おそろしい雷鳴が消えると、じつに感じのわるい割れた鋭い声がいった。「 老ルーク・ウィザーズが赤札で十三番ぶっつづけに勝ちぬいた夜以来のこった。やつが悪魔の幸運と自分の幸運をいっしょにしょいこんでると、おれたちみんな、いってたんだが、あの夜は悪魔が出かけてせっせと働く夜だったんで、悪魔が目に見えるもんなら、悪魔があの男の肩越しに目を配ってたもんと思うな」
「ああ!」どら声が答えた。「老ルークは近年やみくもに勝ちぬいてるけどな、やつが運のどん底に落ちてたときのことを思い出すな。さいころ箱か札を手にすりゃ、きっとふんだくられ、はぎとられ、洗いざらいにしぼりとられてたもんさ」
「あの男のいうこと、聞えるかい?」老人はささやいた。「あれが聞えるかい、ネル?」
老人の姿すべてがすっかり変わってしまったのを、子供は、びっくりし、おびえながら、ながめていた。顔は赤らみ、ひたむきになり、目はピンと張り、歯はかみしめられ、息遣いがハッハと激しくなり、彼女の腕に乗せた彼の手がひどくふるえていたので、彼につかまれていた彼女のからだまでふるえだした。
「たしかなことなんだ」目をあげて、彼はつぶやいた。「わしはいつもそういっていたんだ。それを知り、夢にみ、それが真実、そうならなければ、と感じていたんだ。お金はどのくらいある、ネル?さあ、きのうみてたんだが、お前にはいくらかお金があるな。どのくらいお金がある?それをわしによこしなさい」
「だめ、だめ、わたしにそれをもたせておいて、おじいちゃん」おびえた子供はいった。「ここから出てゆきましょう。雨なんて、どうでもいいの。さあ、ゆきましょう」
「それをわしにわたすんだ」老人は激しい勢いで答えた。「シッ、シッ、泣くんじゃない、ネル。きびしくいったにしても、そのつもりはなかったんだからね。これは、お前の幸福のためなんだ。わしはお前にひどいことをしたんだ、ネル。だが、そのつぐないはするつもりだよ、じっさいするつもりだよ。どこにお金はあるかね?」
「とらないで」子供はいった。「どうかとらないでちょうだい、おじいちゃん。ふたりのためなのよ、それをわたしにもたせておいて。さもなけりゃ、すてさせてちょうだい ー いま、おじいちゃんにあげるくらいなら、すててしまったほうがまだいいの。ゆきましょう。さあ、ゆきましょう」
「金をわしにくれ」老人は応じた。「それが要るんだ。さあ、さあ、いい子だね、ネル。いつかこのつぐないはするよ、するとも、心配することはないんだ!」
彼女はポケットから小さな財布をとりだしたが、老人は、その言葉の特徴になっていた性急さでそれをひったくり、あたふたしてつい立ての向うに歩いていった。彼をおさえるのは不可能、そこで、身をふるわせながら、ネルはそのすぐあとを追っていった。
主人は、テーブルの上に灯りをおき、窓のカーテンをひこうとしていた。彼らが耳にしていた語り手はふたりの男、手に札をもち、そのあいだには、いくらかの銀貨がおかれてあり、つい立てそのものの上に、彼らがやった勝負の結果が白墨で書かれてあった。荒い声をした男は中年のたくましい男で、大きな黒い鬚をつけ、頬は大きくひろがり、口は下品で大きなもの、赤いネッカチーフがゆるくシャツのカラーにまきつけられていただけだったので、ずんぐりとした猪首は、かなりはっきりとみえていた。彼は褐色がかった白の帽子をかぶり、そのわきには節くれ立った太めのステッキがあった。この男がアイザックと呼んでいたもうひとりの男は、もっとほっそりし ー 猫背で、両肩を高く立て ー 顔はすごく醜悪、とても気味のわるい、悪党らしい男だった。
「うん、じいさん」グルリとふり向いて、アイザックはいった。「おれたちのどっちかと知り合いなんかね?つい立てのこっち側は私用のもんなんだよ」
「まずいことはないでしょうな」老人は答えた。
「だが、まったく、特別せっせと仕事をしてるふたりの紳士のとこに」老人をさえぎって、相手はいった、「闖入してくるなんて、たしかにまずいことだ」
「そんなつもりはなかったんです」気づかわしそうに札をながめながら、老人はいった。「わたしは考えたんですが ー」
「だが、考える権利はきみにないんだよ」相手はやりかえした。「お前さんみたいな齢の男が、いったい、考えるどんな用があるっていうんだい?」
「なあ、おい」このときになってはじめて札から目をあげて、太った男がいった。「あのじいさんに話をさせてやったらどうなんだい?」
この問題のどっちに太った男が肩を入れるかをはっきりと見定めるまで、たしかに中立的な立場をとりつづけようとしていた主人は、ここで、「いや、まったく、アイザック・リスト、ご老人に話をさせたらどうだね?」と調子を合わせた。
「話をさせたらどうかだって?」主人の言葉の調子を甲高い声でできるだけ真似しようとして、アイザックは冷笑的にそれに応じた。「うん、話をさせたって構わんよ、ジェミー・グロウヴズ」
「うん、そんなら、話したらどうですな?」主人はいった。
リスト氏の目が不吉な様相をおび、この議論はながびきそうな気配をみせていた。そのとき、鋭く老人を見守っていた相手の男が、折よく、それをおさえることになった。
「もしかしたら」狡猾な目つきをして、彼はいった。「この紳士の方は試合参加の名誉をお求めになっていたのかもしれんぞ!」
「そうだったんです」老人は叫んだ。「そのつもりなんです。それがいま望んでいることなんです!」
「そうだと思ってたよ」同じ人物が応じた。「じゃ、この紳士の方は、おれたちがただで勝負をするのをいやがっていると考えて、ご丁寧にも賭け勝負をお望みなんだな!」
老人は、ギュッとにぎりしめた小さな財布をふりかざして、それをテーブルに投げ、けちん坊が黄金につかみかかるように、札をさっさと集める動きで、それに応じた。
「ああ!それがまったく ー」アイザックはいった。「それがこの紳士のおつもりだったら、紳士にお許しを求めなけりゃならんな。これが紳士の小さな財布かね?とてもかわいい小さな財布だな。そうとう軽い財布だぞ」それを空中に投げ、うまく受けとめて、アイザックはつけ加えた。「だが、30分かそこいら、この紳士のお楽しみになるこったろう」
「四人の勝負をし、グロウヴズを入れることにしたらいいな」太った男はいった。「さあ、ジェミー」
こうしたささやかな会にはもう馴れっ子といったふうの主人は、テーブルに近づき、座席をとった。子供はもうハラハラし、祖父をわきにひきよせ、このときになっても、それをしないでくれとたのみこんだ。
「さあ、ゆきましょう。そうすれば、とても幸福になれるのよ」子供はいった。
「幸福になるつもりなんだ」セカセカと老人は答えた。「はなしてくれ、ネル。幸福になる方法は、札とさいころにあるんだ。小さな勝ちから大きな勝ちになるわけだ。ここではわずかしかもうからないが、いずれ大きなもうけになる。自分の金をとりもどすだけのことだ。これはみんな、お前のためなんだよ、ネル」
「神さまのお助けを!」子供は叫んだ。「どうして運わるくここに来たんでしょう?」
「シッ!」彼女の口をおさえて、老人は答えた。「しかったりすると、運は腹を立てるもんなんだ。運を責めたりしてはいけない。さもないと、運は向うにいってしまうんだからね。それはもう、わかってるんだ」
「さあ、旦那」太った男はいった。「自分でやるんじゃなかったら、札はこっちにわたしてもらいますぜ、どうです?」
「やりますよ」老人は叫んだ。「さあ、お座り、ネル、そこに座ってみておいで。元気を出すんだ。みんなお前のためなんだからね ー みんな ー 一文のこらず。あの連中にはそれはいっていない、とんでもない、とんでもない。いったりしたら、こうした仕事がわしに与えてくれるつきをこわがって、勝負をしてはくれないだろうからな。あの連中をみてごらん。連中がどんな人間か、それにお前がどんな娘か、考えてもごらん。勝つのは、もうまちがいなしのことなんだ!」
「あの紳士は思いなおして、やめようとしているんだ」いまにもテーブルから立ちそうな気配をみせて、アイザックはいった。「あの紳士ががっくりしたのは残念なこったな ー 虎穴に入らずんば虎児を得ずか ー だが、こいつは先様ですっかりご承知のはずだ」
「さあ、すぐにしますよ。早いのはこちらだけなんですからね」老人はいった。「わたしほど早くやりたがっている者は、いないでしょう」
こういいながら、彼はテーブルに椅子をひきよせ、それと同時に、ほかの三人もまわりに集って、勝負がはじまった。
子供はわきに座り、心配しながら勝負の進行をながめていた。運のなりゆきは問題でなく、祖父をとらえている激しい興奮だけを気にしていたので、損も得も、彼女には同じことだった。はかない勝ちで有頂天になり、負けると打ちのめされて、目の前で彼はひどく荒々しく落ち着かない状態を示し、熱っぽい激しい不安にかられ、おそろしいほどひたむき、つまらぬ掛け金にガツガツになっていたので、彼女は、こんな姿をみるよりは死んだ姿をみるほうがまだまし、と思ったほどだった。だが、この彼女が、こうした拷問の苦しみすべての罪のない原因、老人は、どんな強欲な賭博師よりもっと因業に欲得に走りながらも、自分のためになんぞとは夢々思ってもいなかったのだった!
それとは逆に、ほかの三人 ー いずれもその商売は悪事と賭博 ー は、勝負に心を傾けながらも、すべての効力がその胸にありといったように、冷静で落ち着き払っていた。ときどき、だれかが立ちあがって、目を投げてほかの男にニヤリと笑いを投げ、弱々しいろうそくの芯を切り、稲妻が開いた窓とユラユラするカーテンをとうしてひらめくと、それをチラリとながめ、雷が特別大きく鳴りひびくと、イライラするといったようにちょっと瞬間的にいらだちのようすを浮べて、それに聞き入っていた。だが、彼らはそこで、札以外のすべてのものにケロリとした無関心ぶりを示し、一見したところ非のうちどころのない哲学者になりすまし、まるで石づくりのように、激情も興奮も外にあらわさなかった。
あらしは、3時間たっぷり、荒れくるっていた。稲妻はしだいに弱まり、回数が少なくなり、雷は、頭の上でゴロゴロと鳴っていまにも落ちようとしている状態から、だんだんに消えていって、太いしゃがれ声の遠雷になったが、勝負はまだつづき、ハラハラしているネルの存在は、すっかり忘れられていた。
とうとう勝負は終わり、アイザック・リスト氏がただひとりの勝利者になった。マットと主人は、いかにもその道の者にふさわしい勇気で、この損失に平然としていた。アイザックは、ズーッと勝つものときめこんでいた者の態度で金をふところにおさめ、べつに驚きもよろこびもあらわしてはいなかった。
ネルの小さな財布は使い果たされていた。空になって放りだされ、ほかの相手はもうテーブルから立ちあがっているのに、老人は、札の上に目をすえて座りつづけ、前に配られたとおりに札を配り、ちがった札をめくって、まだ勝負がつづいているとしたら、それぞれがどんな札を手に入れただろうと調べていた。彼がこのことにすっかり没入しているとき、子供は、彼に近づいて肩に手を乗せ、もう真夜中に近いことを知らせた。
「貧乏のたたりをみるがいい、ネル」テーブルの上にひろげた札を指さしながら、彼はいった。「もうほんの少し、もうほんの少しでもつづけられたら、運はわしのほうに向いてきただろう。そう、それは、札の上のしるしと同じように、はっきりしたことだ。ここ ー それにあそこ ー それにここを、もう一度みてごらん」
「それは片づけてしまって」子供はすすめた。「忘れたほうがいいことよ」
「忘れろだって!」彼女の顔のほうに自分の顔をあげ、信じられないほどの凝視で彼女をにらみつけながら、彼は答えた。「忘れろだって!それを忘れたら、わしたちはどうして金持ちになれるんだ?」
子供のできるのは、ただ頭をふるだけだった。
「いや、いや、ネル」彼女の頬を軽くたたいて、老人はいった。「忘れてはならんのだ。できるだけ早いとこ、この穴埋めをしなければならん。辛抱 ー 辛抱だ。そうすれば、約束してもいいが、お前につぐないができるんだ。きょうは負けて、明日は勝つというやつだ。不安と心配ぬきでは、どんなもんも獲得できんのだからな。さあ、すぐゆくとしよう」
「いま何時か、知ってるのかね?」友人たちとタバコをすっていたグロウヴズ氏がいった。「12時はまわって ー」
「ー 雨降りの夜」太った男がつけ加えた。
「ジェイムズ・グロウヴズが経営してる『勇敢なる兵士旅館』。寝台はよし、客と馬の接待は安直」看板の文字を引用して、グロウヴズ氏はいった。「時刻はもう12時半」
「とてもおそいことね」子供は不安そうにいった。もっと前に出かけたらよかったんだけど。あの人たちにどう思われるかしら!もどれば2時になってしまうでしょう。ここに泊まるのには、いくらかかるのでしょう?」
「ふたつの上等な寝台、1シリング6ペンス。夕食とビール、1シリング。しめて2シリング6ペンス」『勇敢なる兵士旅館』は答えた。
さて、ネルは服に縫いこんだあの金貨をまだもっていた。時刻のおそくなったこと、ジャーリー夫人がよく眠る習慣を考え、真夜中にあの善良な婦人をたたき起こして彼女に味わせるびっくり仰天ぶりを思うと ー そして、反面、いまいるところに泊り、朝早く起きれば、夫人が目をさます前にもどり、自分たちがつつまれてしまった激しいあらしが自分たちの帰らなかったいい口実になると思いついたとき ー とつおいつ迷ったあとで、彼女は、とうとう、ここに泊ろうと決心した。そこで、彼女はおじいさんをわきにつれてゆき、宿料を払うお金はまだもっていると知らせて、ここにひと晩泊ったらどうだろう?と話をもちかけた。
「前にその金があったら ー ちょっと前にその金があるのを知ってたら!」老人はブツブツといっていた。
「よかったら、ここに泊ることにしましょう」急いで主人のほうに向きなおって、ネルはいった。
「それが思慮あるやり方というもんでしょうな」グロウヴズ氏は答えた。「すぐに夕食は出しますよ」
そこで、パイプをすい終り、灰を打ちだし、パイプの火皿を下に向け、用心深くそれを炉の隅においてから、グロウヴズ氏はパンとチーズ、それにビールを運びこみ、この食事のすばらしさに惜しみなく賛辞をふりまいてから、客に食事をはじめ、くつろぐようにとすすめた。ネルとおじいさんは、わずかしか食べられなかった。それぞれの物思いに沈んでいたからである。ほかの紳士連にとってビールは弱くておとなしすぎる飲み物、そこで彼らは、火酒とタバコで心の憂さを晴らしていた。
翌朝とても早くこの家を出ることになっていたので、ネルは、床にはいる前に、宿料を払っておこうと考えていた。だが、わずかなこの貯えは祖父からかくさねばならず、金貨の釣りをもらわなければならなかったので、彼女は、かくし場所からそれをソッとぬきとり、主人が部屋から出ていったときに、その機会をとらえてあとを追い、小さな酒場でこの金貨を彼にわたした。
「お釣りは、ここでいただけますか?」子供はいった。
ジェイムズ・グロウヴズ氏は明らかにびっくりし、その金をながめ、そのひびきをたしかめ、子供をながめ、また金をながめて、どうしてそれを手に入れたのだ?とききたがっているようだった。だが、金貨はにせ物ではなく、彼の家で両替えをするのだったから、彼は、おそらく、賢明な宿屋の主人らしく、そんなことは自分の知ったことじゃないと感じたのであろう。とにかく、釣りを勘定して、それを彼女にわたした。子供は、夕方をすごした部屋にもどろうとしていたが、そのとき、戸口のところで人影が音もなくスーッとはいってくるのをみたような気がした。この戸と彼女が両替えをした場所のあいだには、ながい暗い廊下しかなく、彼女がそこに立っているあいだ、出入りした者はだれもいなかったことがはっきりとしていたので、彼女はハッとして、自分が監視されていたのではないかと考えた。
だが、監視するといっても、だれが?部屋にもどったとき、そこにいた人は、彼女がそこを出たときとそっくり同じ人だった。太った男は、頭を片手でささえてふたつの椅子の上に横になり、気味のわるい悪党らしい男は、同じ姿勢で部屋の反対側で休んでいた。このふたりのあいだに老人が座り、飢えた驚嘆といったようすで勝った男をジッとみつめ、その男がなにか別格卓越した存在のように、その言葉に耳を傾けていた。彼女は一瞬とまどい、だれかほかの者がそこにいるかと部屋をみまわした。だれもいなかった。そこで彼女は、老人にささやき声で、自分が部屋にいなかったとき、だれかが部屋から出ていったかとたずねてみた。「いいや」彼はいった。「そんな人はだれもいなかったよ」
そうしてみると、彼女の空想だったにちがいない。だがそれにしても、そうしたことを考えさせるものは頭になにもなかったのに、この姿をああまではっきりと想像するなんて、奇妙なことだった。彼女は、まだそれをいぶかしく思い、そのことを考えていたが、そのとき、ひとりの女の子がやってきて、灯りで彼女を部屋に案内することになった。
老人は、それと同時に、部屋の人と別れを告げ、三人はいっしょになって階段をあがっていった。そこは大きな、まがりくねった家で、廊下は変化がなくて素っ気ないもの、階段はひろく、燃えあがるろうそくは、そこをいっそう陰気なものにしていた。彼女は、老人とその寝室のところで別れ、案内人のあとについて廊下の端にあるべつの部屋にいったが、そこは、5、6段のグラグラする階段をあがった先の部屋だった。この部屋が、眠るようにと、彼女のためにととのえられた。この女の子は、しばらくグズグズしていて、自分の不平をタラタラとこぼしていた。自分の勤め口はいいものではない、賃金は安く、仕事はつらく、2週間したらここをやめるつもり、なにかほかにいい仕事を紹介してはもらえないでしょうねとこの娘は訴えていた。ここに住みこんだ以上、べつの仕事をみつけるのは困難なことだと思う、この宿にはとてもいかがわしい評判がつきまとっている、とにかく、トランプの賭けごとやそんなことをひどくやっているのだからともいい、ここによくやってくる連中が正直者と思ったら、大きな見当ちがい、だが、自分がそんなことをもらしたなんぞとは、絶対に知られたくはないと彼女は伝えた。それから彼女は、兵隊にいってしまうぞとおどかしをかけてはきたものの、肘鉄砲を食らわせてやった恋人のなにかとりとめもない話をそれとなく語り ー 最後に、翌朝早く起こすと約束し ー おやすみなさいと挨拶して出ていった。
ひとりになったとき、ネルの気分は、安らかにはなれなかった。廊下ぞいに入口の階段を忍び足でいった姿のことを考えずにはいられず、給仕の娘がいったことも、彼女の心を暗くした。男たちは凶悪な顔をし、旅人に盗みや殺人を働いて暮しを立てているのかもしれない。それは、なんともいえないことだった。
自分の心に説きつけてこうした恐怖を追い払ったり、それをしばらく忘れていると、この夜の冒険がひきおこした不安が湧き起ってきた。賭け事にたいする以前の熱情が彼女のおじいさんの胸にまた焚きつけられ、それが彼にどんな狂乱ぶりをひきおこすかは、見当もつかないことだった。自分たちの不在が、もうどんな心配を起していることだろう!いまでももう、自分たちの捜索がおこなわれているかもしれない。明日の朝、許してもらえたらいいのだが!それともまた、放浪の旅に出なければならなくなるのだろうか!おお!この奇妙な場所にどうして足をとめてしまったのだろう?どんなことがあろうとも、どんどんと歩いていったほうがよかったのだ!
とうとう、眠りがしだいに彼女に忍び寄ってきた ー とぎれとぎれの発作的な眠りで、高い塔から落ち、ギクリとし、すごい恐怖につつまれて目をさますといった夢になやまされる眠りだった。このあとにもっと深い眠りがつづき ー それから ー なんということだろう!部屋にあの姿があらわれた。
人影がそこにあった。そう、明け方になったとき光がはいるようにと、彼女は陽除けをあけてあったのだが、寝台の足と暗い窓のあいだに、それはかがんでいて、音を立てずに手さぐりで進み、寝台のまわりをソッと忍び足で歩いていた。彼女は助けを求める声も出ず、動くこともならずで、それをジッと見守りながら静かに横になっていた。
スッスッと、それは静かに、ひそやかに寝台の頭のほうに進んできた。彼女の枕もとのほんの近くで息吹きが感じられ、その探っている手が自分の顔にさわらないようにと、彼女は枕の奥にちぢみあがった。
その人影はまた窓のほうにもどり ー 頭を彼女のほうに向けた。その黒々とした人影は、部屋のもっと明るみのある闇の上でのほんの一点のしみにすぎなかったが、彼女には頭がグルリとまわったのがわかり、どんなにその目が凝らされ、聞き耳が立てられているかが感じとられた。目の前そこに、それは、彼女と同じように、身じろぎもせずに立ちつくしていた。とうとう、顔はまだ彼女のほうに向けたままで、それはなにかの中で手をいそがしく動かし、お金の音が彼女の耳にひびいてきた。
それから、前と同じように静かに、ひそやかに、それはまたやってきて、寝台のわきからもっていった服をもとにもどし、四つんばいになって、向うに去っていった。もう彼女にはそれがみえず、音だけが聞えてきたのだが、床の上をはっていくその動きが、なんとおそく感じられたことだろう!それは、とうとうドアに達し、そこで立ちあがった。
音も立てぬその歩みのもとで、階段はキーキーと鳴り、その人物は去っていった。
子供の最初の衝動は、部屋でひとりでいる恐怖からのがれ ー だれかにそばにいてもらい ー ひとりではいまいということだった。そうすれば、話す力ももどってくるだろう。自分の動きも意識せずに、彼女はドアのところにいっていた。
そのおそろしい影は、階段の下のところで立っていた。
彼女は、そこをとおりぬけられなかった。暗闇の中で、たぶん、捕えられずにそれをすることができたのだろうが、それを考えただけでも、血が凍りついてしまった。人影は身じろぎひとつせずに立ち、彼女も同じように立ちつくしていた。これは、勇敢な行為ではなく、そうせずにはいられなかったからである。というのも、部屋の中にもどっていくのは、前に進んでゆくのと同じくらい、おそろしいことだった。
雨は、外でサッサッとすごい勢いで打ちつけ、ピシャピシャと音を立てる流れになって、かやぶきの屋根から流れ落ちていた。なにか夏の虫が、外にのがれでられずに、からだを壁や天井に打ちつけ、ブンブンといううなり声で静かな場所をいっぱいにして、しゃにむに、あちらこちらととびまわっていた。人影はふたたび動き、子供も無意識に同じように動いた。おじいさんの部屋にゆけたら、もう安全になれるのだが...。
人影は廊下ぞいにはい進み、とうとうそれは、彼女が心の底から強くゆきたいと思っていたそのまさにドアのところにゆきついた。その部屋のほんの近くにやってきた苦悶で、子供は、部屋にパッととびこみ、すぐにドアを閉めてしまうつもりで、いまにもとびだそうとしていたが、そのとき、例の人影はまた立ちどまった。
ある考えが、いきなり、彼女の頭にひらめいた ー それがそこにはいりこみ、老人の命をうばおうとする意図をもっているとしたら!彼女は、頭がフラフラになり、胸がムカムカしてきた。それは、たしかに、はいっていった。部屋には灯りがあった。人影はもう中にはいっていて、彼女は、まだ無言 ー まったくの無言で、ほとんど感覚をも失って ー 立ったまま、ながめつづけた。
ドアは少し開いていた。自分がなにをしようとしているのかはわからず、それにしても、老人を助けるか、自分の命を投げだそうと考えて、彼女は、よろめきながら進み、中をのぞきこんだ。
彼女の目に映ったのは、どんな光景だったろう!
寝台ではまだ人が眠らず、そこはなめらかで、空っぽだった。そして、テーブルのところでは、老人自身が座っていた。ほかに人はだれもいなかった。彼の青ざめた顔は、貪欲でひきつり、きびしさをまし、目を貪欲で異常に輝かせて ー 彼女から盗んだ金を勘定していた。
この部屋に近づいてきたときよりもっとよろめく不安定な足どりで、子供は、そこのドアをはなれ、手さぐりで自分の部屋にもどっていった。彼女がこのときまで味っていた恐怖は、いま彼女の心を押しつぶしている恐怖にくらべたら、物の数ではなかった。どんな奇妙な盗人、客の掠奪を大目にみのがしたり、眠っている客を殺そうと寝台に忍び寄るどんないかさまを働く宿屋の主人、どんなにおそろしい残酷な夜盗でも、静かな彼女の訪問者がだれかを知ったときに、彼女の胸にひきおろされた恐怖の半分でもひきおこすことはできなかったろう。白髪まじりの老人が、自分がぐっすり眠りこんでいると思いこんで、そのあいだに、亡霊のように自分の部屋にすべりこみ、盗みを働き、その獲物を運び去り、自分が目にしたあのおそろしい満悦ぶりでそれをジッと見守っていること、これは、彼女の途方もない空想で思いつくどんなものよりもっとおそろしいこと ー 計り知れぬほどもっとおそろしいこと、いま思い出すと、はるかにもっとこわいことだった。もし老人がもどってきて ー ドアには錠も桟もついていなかった ー まだ金をのこしてきたのではないかと考え、もっとうばいとろうともどってくるとしたら ー ひそやかな足どりで彼がまた忍び込み、とても我慢できない彼の手のふれをさけようと、彼の足もと近くに彼女がちぢみあがって小さくなっているとき、ぬけ殻になった寝台のほうに彼が顔を向けるかと思うと、漠然とした畏怖と恐怖の念がその考えをつつんで湧き起ってきた。彼女は座り、耳を澄ませた。ああ!階段に足音、いまドアがゆっくりと開けられている。これはただ想像にすぎなかったが、想像は、現実の恐怖すべてを備えていた。いや、現実よりもっとおそろしいものだった。現実は姿をあらわし、姿を消し、それでけりになるのに、想像では、それがいつもあらわれていて、消えることが絶対になかったからだった。
子供をつつんでいた感情は、漠然とした不安定な恐怖の感情だった。あのおじいちゃんは、べつにこわくはなかった。この狂乱は、自分にたいする愛情がもとで生じているからだった。だが、賭博の勝負に夢中になり、自分の部屋にひそみ、チラチラする灯りで金を勘定していりその夜みた男は、おじいちゃんの形をとったべつの男、彼の像をおそろしくひきゆがめたもの、それからふるえあがってとびさがるべきもの、彼に似て、ああして自分につきまとっているだけに、なおおそろしいものだった。自分の愛情深い伴侶をこの老人と結びつけていることは、まずまずできないことだった。彼がいなくなってしまった場合には話はちがってくるだろうが...。それは、とても似てはいるものの、とてもちがったものだった。彼が鈍感になり静かになった姿をみて、彼女は泣いていた。だが、いま、それよりはるかにはるかに大きな泣く原因が、彼女にあったのだ!
子供は、眠らずにこうしたことを考えながら座っていたが、心の中でこの幻の暗さと恐ろしさがとても大きなものになってきたので、老人の声を聞くか、もし眠っていたら、その姿をみただけでも、どんなにホッとすることだろうと思った。そうすれば、彼の像にまといついている恐怖を多少なりとも追い払えるだろう。彼女は階段と廊下をまた忍び足で歩いていった。ドアは、彼女が去ったときと同じように、まだ開き、ろうそくもまだ以前どおり燃えていた。
彼女は、自分のろうそくを手にもっていたが、老人がまだ目をさましていたら、自分が不安で眠られず、彼のところのろうそくがまだ燃えているかどうかをみにきたというつもりだった。部屋をのぞくと、彼が静かに床の上に横になっている姿がみえ、そこで彼女は、勇気をふるいおこして、中にはいっていった。
ぐっすりと眠っていた。顔には激しい感情、貪欲、不安、荒々しい欲望の跡はなく、やさしく、静かで、安らぎのあるものだった。これは、賭博師でも、彼女の部屋の影でもなく、灰色の朝の光の中で、彼女と顔をよく合わせていたあのやつれてつかれ果てた男でさえなかった。これは、彼女の親しい友、危害を加えたりしない旅の伴侶、善良で親切な彼女のおじいさんだった。
眠りこんでいる彼の顔をながめたとき、恐怖心は感じなかったものの、胸には、深い、心をおしつぶす悲しみがあり、そのはけ口は涙になった。
「かわいそうに!」かがんで静かに落ち着いた彼の頬にやさしくキスをしながら、子供はいった。「あの人たちにみつかったら、わたしたちはほんとうにひきさかれ、おじいちゃんは太陽と空の光のないところに閉じこめられてしまうでしょう。おじいちゃんを助けてあげるのは、わたしだけだわ。神さまのみ恵みがが授かりますように!」
自分のろうそくに火をつけ、来たときと同じように、ソーッとそこを去り、自分の部屋にもどりつくと、彼女は、のこりのながいながいみじめな夜をズーッと座ったままですごした。
とうとう、昼が弱ったろうそくの光を薄くし、彼女は眠りこんだが、すぐに、前の晩そこに案内してくれた給仕の娘に起こされ、服を着こむやいなや、おじいさんのところにおりてゆこうとした。だが、最初に、ポケットをさぐってみたが、彼女の金はすっかり消えて ー 6ペンスのお金さえのこってはいなかった。
老人の準備はできていて、すぐにふたりは道に出た。彼が自分の目をさけ、金の紛失を話すのを予期しているふうに、彼女には思えた。彼女は、それをしなければならないと感じた。そうしなければ、老人が事実に勘づくことになるかもしれないからだった。
「おじいちゃん」1マイルほどおしだまったままで歩いてから、彼女はふるえ声でいった。「あの向うの宿屋の人たち、正直な人と思うこと?」
「どうして」ふるえながら老人は答えた。「正直な人と思うかだって? ー そう、勝負ではいかさまをしなかったよ」
「そのわけはね」ネルは応じた。「きのうの晩、わたし、お金を失くしてしまったの ー 寝ていた部屋からだと思うわ。だれかが、それをふざけて ー ただふざけてとったのでなければね。それがわかりさえしたら、わたし、大笑いで笑ってしまうとこなんだけど ー」
「だれがふざけて金をとったりするものかね?」あわてて老人はいった。「お金をとるやつは、それを手に入れようと、とるんだよ。ふざけてなんかは、するもんかね」
「じゃ、わたしの部屋から盗まれたんだわ」最後の期待を老人の態度で打ちくだかれて、子供はいった。
「だが、もうのこったお金はないんかね?」老人はたずねた。「どこにも、もうないんかね?すっかり ー びた一文ものこさず ー とられたんかい?もうすっかりないんかい」
「すっかりないわ」子供は答えた。
「もっと手に入れにゃならん」老人はいった。「それを手に入れ、ネル、それをたくわえ、かきあつめ、とにかく、なんとかものにしなければならん。こんな損失は気にすることはない。このことは、だれにもいわんようにな。たぶんまた、とりもどすこともあるだろう。どうしてとりもどすなんて、たずねてはいけない ー とりもどすかもしれんのだ。もっともっとたくさんな ー だが、だれにもいってはいけないよ。いうと、面倒が起きるかもしれんのだからな。そうすると、お前が眠っているとき、それを部屋からとっていったんだね!」彼は同情したような口調でいいそえたが、それは、そのときまで話していた人目を忍ぶ狡猾な話しぶりとは打って変わったものになっていた。「かわいそうに、ネル、かわいそうに、かわいいネル!」
子供は、頭をたらして泣いていた。老人が語っていた同情の口調は心からのもの、それは、もうまちがいのないことだった。これが自分のためにおこなわれたと承知しているのは、彼女の悲しみの少なからぬ負担になっていた。
「わし以外のだれにも、ひと言だってもらしちゃいけないよ」老人はいった。「いいや、わしにだっていっちゃいかん」彼は急いでいいそえた。「それをいったって、なんの役にも立たんのだからな。いままで失ったものすべてで、お前は泣く必要はないんだよ、ネル。いずれそれはとりもどすもんなんだから、泣く必要はないわけなんだ」
「なくなったものは、そのままにしておいてちょうだい」目をあげて、子供はいった。「そのままにしておいてちょうだい、いつまでも、いつまでもね。そうすれば、そのお金が百倍千倍のものでも、もう涙はひと滴も流したりはしないことよ」
「わかった、わかった」なにか衝撃的な返事がグッと口にのぼってきたのをおさえて、老人は答えた。「あの子にはそれしかわかっていないんだ。これはありがたいこと」
「でも、わたしのいうこと、よーく聞いてちょうだい」むきになって子供はいった。「聞いてくださる?」
「うん、うん、聞くとも」まだ彼女のほうをみずに、老人は答えた。「かわいい声だ。わしの耳には、いつも美しいひびきをもっているものだ。かわいそうに、あの娘の母親のときにも、いつもそうだったんだ」
「じゃ、おじいちゃんにおねがいしたいの ー ああ、ぜひおねがいするわ」子供はいった。「もう損も得も考えず、運も、わたしたちがいっしょに求めてきた運以外のものは、もう追わないでちょうだい」
「この目的は、わしたちがいっしょに求めてるもんなのだよ」まだ目をそらし、心の中で考えているような態度で、老人は答えた。「勝負を清らかなものにしているのは、だれの像だと思ってるのだね?」
「おじいちゃんがああした心配を忘れ」子供はつづけた。「いっしょに旅に出てから、わたしたち、前より不幸になったのかしら?あの不幸な家に住み、おじいちゃんが損得で心配していたときより、泊る家がなくとも、わたしたち、ズッと気分がよく、幸福になったのじゃないかしら?」
「たしかに、そのとおりだ」前と同じ調子で老人はつぶやいた。「それでわしの考えを変えるわけにはいかんのだが、たしかに、そのとおりだ。まちがいなし、そのとおりだ」
「あの明るく太陽が輝いていた朝、これを最後にとあの家を出て以来、わたしたちがどんな暮しをしてきたか、それだけを考えてみてちょうだい」ネルはいった。「ああしたみじめさを味わなくなって以来、どんなふうに暮してきたか、考えてみてちょうだい ー どんなに安らかな日と静かな夜を送り ー どんなに楽しい時を味い ー どんな幸福を楽しんだか、考えてみてちょうだい。つかれ、お腹が空いても、すぐに元気をとりもどし、それだけになおよく眠ったものよ。どんなに美しいものをみてきたか、どんなに満足を味ったかを考えてちょうだい。それなのに、罰当りにも、どうしてそれを変えることがあるのでしょう?」
彼は、手をふって彼女をおしとどめ、自分はいそがしいのだから、いまはもう、なにもいわないでくれと彼女に命じた。しばらくして、彼は彼女の頬にキスをし、まだだまっているようにと身ぶりで伝え、はるか前方に目をやり、ときに足をとめ、肩を寄せて地面をみつめ、乱れた心をとりなおそうと骨を折っているようなそぶりをあらわして、進んでいった。一度は、彼の目に涙が浮かんでいるのが、彼女にはっきりとわかった。こうしてしばらく歩きつづけてから、彼は、いつものとおり、彼女の手をとったが、それはいつもしているままのもので、さっき示した荒々しさや勢いづいたものは、ぜんぜん消えていた。こうして、子供にはそれと気づかぬほど少しずつ、彼はふだんの彼にもどってゆき、彼女を先に立たせ、彼女のゆくところについていった。
2
ネルはひとりぼっちだった。彼女は目をあげて、ひろい大空の世界からとてもおだやかにみおろしているキラキラと輝く星をあおぎ、それをジッとみつめながら、新しい星が視野に、向うにもっと、さらに向うにもっと、はいってくるのに気づき、とうとう満天は輝く星でちりばめられ、それは、計り知れぬひろい空間の中をだんだん高いところにのぼり、変化のない、朽ちることを知らない存在の点ばかりでなく、その数の点でも、永遠を思わせていた。彼女は静かな川の上にかがみこみ、そこに星が堂々とした姿で輝いているのをみたが、それは、死んだ人間が百万尋の深みに沈んでいるとき、山の上で、鳩が湧き起る水をとおしてズッと下に星が輝くのをみたときと同じものだった。
子供は、だまって木の下に座り、夜の静けさとそれにともなうすばらしさで、息までおし殺していた。その時刻と場所は、追憶の目をさまさせ、彼女は物静かな希望 ー たぶん、希望というよりあきらめの気持 ー で、過去、現在、これから先のことを考えていた。老人と彼女自身のあいだには、だんだんと心のへだたりが起き、これは、前のどんな悲しみより堪えがたいものだった。毎晩、ときには昼間にも、老人はひとりで家をはなれていた。どこに彼がいっているか、それがどうしてかは ー 彼女のわずかな財布がいつも空になり、彼がやつれた顔をしていることから ー 彼女が知りすぎるほどよく知っていたが、老人はすべての質問をのがれ、きびしく沈黙を守り、彼女のいるところまでさけようとしていた。
彼女は悲しみに打たれてこの変化を考え、いわば、自分の身辺のすべてのことを、それといっしょにつきまぜていたが、そのとき遠くの教会の鐘の音が九時を報じた。この鐘の音を聞いて、彼女は立ち上がり、もと来た道をもどり、物思いに沈んで町のほうに歩きだした。
彼女は小さな木の橋のところにやってきた。それは小川にかかり、彼女の進む道で牧場につながっていたが、そのとき、突然、赤々と燃えている火が目にはいり、目を凝らして前方をながめてみると、ジプシーの天幕と思われるものからそれが出ているのがわかった。ジプシーは、小道からそう遠くはなれていないところで片隅に火を燃やし、そのまわりに座るか、横になっていた。貧乏で金目のものはなにももたず、ジプシーをおそれる必要はなにもなかったので、彼女は進路を変えようとはせず、少し歩調を早め、そのまままっすぐズンズンと歩いていった。
その場所に近づいたとき、彼女はおそろしいながらも好奇心につき動かされて、火のほうをチラリとながめずにはいられなかった。火と彼女のあいだに男の姿があり、その輪郭は光を背景にしてくっきり強く浮びあがっていたが、これが、彼女の足をいきなりとめることになった。ついで、自分に説得し、そんなことはあるはずはないと確信するか、それは自分の思っていた人物の姿ではないと納得して、彼女はふたたびズンズンと歩きだした。
だが、ちょうどそのとき、どんなことにせよ、火のそばでおこなわれていた話が再開され、それを語る声の調子 ー 言葉はわからなかった ー が、自分自身の声と同じように、彼女になじみのあるものとしてひびいてきた。
彼女はふり向き、うしろをみた。その人物は前に座っていたが、いまは立っている姿勢になり、両手を乗せたステッキの上に身をかがませていた。この姿勢は、声の調子と同じように、彼女にはなじみ深いものだった。それは、彼女の祖父だったのである。
彼女の最初の衝動は、彼に声をかけること、第二の衝動は
、仲間の男たちがだれか、なんのためにこうしていっしょになっているのかといぶかしく思う気持だった。そのあとに、なにか漠然とした不安がつづき、それで目ざめた強い気分に屈して、彼女はその場所に近づいていった。だが、その進み方は、開けた野原をつっきっていくのではなく、生垣のそばをそちらに向けてはらばいになって進んでいくものだった。
こうして彼女は、火から数フィートのところに進んでゆき、数本の若木のあいだに立って、みられる危険はたいしてなく、こちらからは、みることも聞くこともできるようになった。
いままでの旅でわきをとおったほかのジプシーの天幕で見受けられた女や子供の姿はなく、そこにいるのはただひとりのジプシーの男だけ ー 背の高い筋骨のたくましい男だけで、この男は腕組みをして立ち、少しはなれた木によりかかり、いま火をみているかと思うと、つぎには、黒いまつげの下から、そこにいるべつの三人の男たちのほうに目を投げ、この連中の会話に関心を示していたが、それはぬかりのないものながらも、ほかの連中にはほとんど気づかれてはいなかった。彼女の祖父は、この三人のうちのひとりだった。ほかのふたりは、あのいろいろと出来事があったあらしの夜に、あの居酒屋で最初にトランプをやっていた男たちであるのが、彼女にはわかった ー アイザック・リストと呼ばれている男と、つっけんどんなその相棒だった。ジプシーによく見受けられる低いアーチ型のテントがそばにはられていたが、それは空か、空のようにみえた。
「うん、お前さんはいくのかね?」ゆったりと横になっている地面から老人の顔をみあげて、太った男はいった。「一分前にはえらく急いでいたな。いきたいんなら、いくがいいさ。お前さんは自分の好きなとおりにすることができるんだろう?」
「あの男を怒らせたりはするなよ」とアイザック・リストは答えたが、彼は焚き火の反対側にかえるのようになってうずくまり、ひどくからだをねじまげていた。「べつに悪意があるわけじゃないんだからな」
「きみたちはわしを貧乏にし、掠奪し、その上、わしをなぶりものにし、冗談の種にしているんだ」一方の男からべつの男のほうに向いて、老人はいった。「ふたりのあいだで、このわしの気をくるわせてるんだ」
子供にかえった白髪の老人のまったくの優柔不断ぶりと気力のとぼしさは、彼をしっかりととらえているふたりの男の鋭いぬけ目のないようすと対照をなし、それは、こうした話を聞いているネルの心を強く打った。だが、彼女は自分の気持をおさえて、起るすべてのことに注意を集中し、それぞれの顔つきと言葉をしっかりとらえようとしていた。
「畜生、それはどういうことなんだ?」ちょっとからだをもちあげ、肘をついて、太った男はいった。「お前さんを貧乏にしてるだって!お前さんだって、そいつができたら、おれたちを貧乏にしただろう、どうだい?それが、お前さんたち、泣き言をヒソヒソ言う、つまらん、あわれな賭けごと師のやり口というもんさ。負けりゃ、殉教者になるというやつだ。だが、勝ったとなりゃ、ほかの負けた連中をその光でなんかみやしないことは、わかってるよ。掠奪だなんて!」声を高くして、この男は叫んだ ー 「畜生、掠奪なんて紳士らしからぬ言葉を使っているが、そいつはどういうことなんだい、えっ?」
この話し手は、ふたたび、グッとからだをのばして横になり、おさえられぬ怒りをさらにみせようといったふうに、一度か二度、怒ったようにポンポンと足を蹴りあげた。なにか目的があって、この彼がごろつき役を、その友人が調停者の役を演じているのははっきりとよくわかることだった。いや、むしろ、この弱い老人以外の者にはよくわかることだったろうというべきかもしれない。このふたりの男はまったくおおっぴらに、たがいに、そしてジプシーの男と、視線をかわし合っていたからで、このジプシーは、この冗談を楽しんでニヤリニヤリと笑い、白い歯はキラリキラリと輝いていた。
老人は、しばらくのあいだ、こうした男たちの中で困ったように力なく立ち、ついで、自分を非難している男のほうに向いていった。
「いいかね、きみ自身が、たったいま、掠奪のことを口にしてたじゃないか。わしにそんな荒っぽい態度はとらんでくれ。そう話していただろう、どうだい?」
「いまここにいる連中のあいだでの掠奪のことなんぞ話したりはするもんか!公明正大なもんさ、うん ー 紳士のあいだではな」相手は答えたが、この男は、その文句の最後のところでもっとひどい言葉を使おうとしていたようだった。
「あの老人にそうひどく当るなよ、ジャウル」アイザック・リストはいった。「わるいことをいったと悔やんでるんだからな。さあ ー いいかけてた話をつづけるんだ ー あさ、つづけろ」
「おれはまったく心のやさしい羊というもんさ、そうだとも」ジャウル氏は叫んだ。「こんな齢になってるのにここにこうしてぶっ座り、受け入れられたりはしない、骨折りにたいしてののしられるだけとは知っていながらも、忠告をしたりしてるんだからな。だが、そいつは、おれのいままでの世わたりの方法。どんないやな目にあっても、おれの温かい心は絶対に冷やされることはないんだからね」
「いいかね、老人は悔んでいるんだよ、わかったかね?」アイザック・リストは抗弁した。「それに、お前さんが話をつづけるようにとねがってるんだよ」
「それをねがってるんだって?」相手はいった。
「そうだ」腰をおろし、からだを前後にゆさぶりながら、老人はうなった。「さあ、さあ、つづけてくれ、つづけてくれ。それに抵抗したって、むだなこった。そんなことはできない。さあ、つづけてくれ」
「じゃあ、話をつづけよう」ジャウルはいった。「お前さんがサッと立ちあがって、話が切れたとこからな。運がめぐるときがきたとお前さんが信じこみ、そいつはたしかにそのとおりなんだが、そして、やってみる金がないとわかったら、わざわざとってくださいとばかりおかれたようにみえるもんは、いただきにするこったな。いや、おれはいうよ、そいつを借りるんだ。そして、かえせるときがきたら、かえしたらいいじゃないか」
「まったくな」アイザック・リストは口をはさんだ。「もしろう人形をもってるこのご婦人が金をもち、寝るときにはブリキの箱にそれをしまいこみ、火事おそろしさにドアに鍵をおろさないでいたら、それは楽なことに思えるんだがね。まったくの天祐神助っていうもんさ ー だが、そうなると、おれは信心深く育てられてきたことになるわけだな」
「いいかな、アイザック」だんだんと熱をおび、ジプシーには割りこんできたりはするなと合図を送って、老人のほうににじりよりながら、彼の友人はいった。「いいかな、アイザック、よそ者が、一日じゅう、時をわかたずそこに出入りしてるんだ。こうした連中のうちのひとりがこのご婦人の寝台の下にもぐりこむか、戸棚の中に身を閉じこめたりするのは、十分に考えられることなんだ。疑いをかける範囲はひろく、たしかにそいつは、的から遠くはずれたもんになるだろう。その金額はどんなもんにせよ、もってきた最後の一文まで、負けた勝負の仕返しをするチャンスを、おれなら、あの老人に与えてやるとこだね」
「だが、そんなこと、できるかい?」アイザック・リストは強くたずねた。「お前さんの銀行でそいつができるかね?」
「できるかだって!」いかにも軽蔑したような仕草をしてみせて、相手は答えた。「おい、お前、藁ん中からあの箱を出してくれ!」
これはジプシーに語りかけた言葉で、ジプシーはすぐ四つんばいになって低いテントの中にもぐりこみ、ちょっとガサゴソとかきまわしたあとで、金入れの箱をもってもどり、それを命じた男は、からだにつけていた鍵でそれを開いた。
「これがみえるかね?」片手に金をにぎり、水のように指のあいだからそれをチリンチリンと箱に落して、彼はいった。「これが聞えるかね?黄金の音を知ってるかね?さあ、こいつをしまってくれ ー これで、アイザック、銀行の話はもう口にしないこったな、自分自身の銀行を手に入れたときにゃ話はまたべつだがね」
アイザック・リストはひどくへいこらした態度をみせ、ジャウル氏のように表裏のない行動で有名な人物を疑ったりはしていなかった。自分は疑ってなんぞいないんだから、疑いを晴らす必要はなく、あの箱を出したらといったのは、そうした大きな財産をひと目なりともながめて目を楽しませたかったため、こうした金をながめることはつまらない幻想的なよろこびにすぎないと考えてる人もあるだろうが、それは、自分のような立場にある人間にとっては、大きなよろこびの泉、もっとも、それが自分のふところにある場合はべつだがねと抗議の言葉を申し立てた。リスト氏とジャウル氏はたがいに話し合ってはいたものの、ここで注目すべきことは、ふたりともジッと老人に目をそそいでいる事実だった。老人は目を火の上に釘づけにして物思いにふけって座ってはいたが、ふたりの男の話にジッと聞き入っていることは、頭のフッとした動きやときおりあらわす顔のひきつりからも明らかだった。
「おれの忠告は」無造作にまた横になって、ジャウルはいった。「はっきりしたもん。事実、おれは忠告したんだ。それは友人としての行動。あの老人を友人と考えてなかったら、ひょいとすりゃおれの財産すべてまでめくりとられちまうことにもなりかねない方法なんぞ、教えるもんかね。他人の幸福のことをこんなにまで考えてやるなんて、バカみたいなことだろうよ。だが、そいつがおれの性分というやつ、どうにもならんのだ。だから、おれを責めないでくれよ、アイザック・リスト」
「おれがお前さんを責めるだって!」相手は応じた。「とんでもないこった、ジャウルさん、まったく、お前さんみたいに気前がよくなりたいもんだね。たしかにお前さんのいうとおり、勝ったら、その金をかえせばいいわけだ ー もし負けたら ー」
「そんなことを考える必要はなしさ」ジャウルはいった。「だが、たとえそうなったとしても、まったく、自分の金を失くすより他人の金を失くしたほうが、まだましなんじゃないかね?」
「ああ!」有頂天になってアイザック・リストは叫んだ。「勝つ楽しみときたら!金をひろいあげ ー キラキラと輝く黄いろいやつをひろいあげ ー それをポケットにさらいこむ楽しみときたら!とうとう勝ちをおさめ、途中でやめてもどったりはせず、こっちから出かけてって勝ちと出逢うあのうれしさときたら! ー だが、そちらは出かけていったりはせんでしょうな、ご老人?」
「それをしますぞ」老人はいった。彼はもう立ちあがり、2、3歩あわただしく歩いていったが、また同じようにあわただしくもどってきた。「あれを手に入れますぞ、一文のこさずね」
「いや、それは勇ましいこと」とびあがり、老人の肩をピシャリとたたいて、アイザックは叫んだ。「まだこうまで若々しい血がのこってるなんて、まったく尊敬に値するこってすな。ハッ、ハッ、ハッ!あんな忠告をして、ジョウ・ジャウルは、いま、なかば悔やんでいるんですよ。やつのことを、ひとつ笑ってやりましょう。ハッ、ハッ、ハッ!」
「いいかな、あの男はわしに仕返しの機会を与えてくれてるんだ」しなびあがった手でむきになってジャウルを指さして、老人はいった。「いいかな ー あの金箱にある金が多かろうと少なかろうと、最後の一文まで、あの男は一対一の賭けをするんだ。それを忘れるな!」
「おれが証人だ」アイザックは答えた。「依怙贔屓はせんよ」
「たしかに約束しちまったな」気が進まぬふうをよそおって、ジャウルはいった。「約束は守るさ。この勝負はいつやるんだね?これがもう終えてたらと思うよ ー 今晩かね?」
「まず第一に、金を手に入れなければならん」老人はいった。「それは、明日手にはいるんだから ー」
「どうして今晩はだめなんだい?ジャウルはたずねた。
「今晩はもうおそい。わしは興奮してへまをやらかしてしまうだろう」老人はいった。「そっとやらねばならん仕事なんだ。そう、明日の晩にしよう」
「じゃ、明日の晩だ」ジャウルはいった。「さあ、気晴らしの一杯をやって、いちばん腕のある男の幸運を祈ることにしよう!さあ、酒をいっぱいついでくれ!」
ジプシーはブリキの杯を3つとりだし、ブランデーをそれにいっぱい、へりまでそそいだ。老人はわきに向き、酒を飲む前に、ブツブツとひとり言をつぶやいた。ネル自身の名が聞き手の耳を打ったが、それはなにか熱烈なねがいごとと結びつけられているもので、懇願の苦悩につつまれて、彼はそれをいっているようだった。
「神さまのご慈悲が授かりますように!」子供は心の中で叫んだ。「そして、この苦しいときに、わたしたちを助けてくださいますように!おじいちゃんを救うのに、どうしたらいいのかしら?」
男たちののこりの会話は、低い声でおこなわれ、短いものだった。それがただ、計画の実行と疑惑をそらすいちばん有効な方法についての言葉だけだったからである。それから老人は、自分を誘惑した男たちと握手をし、そこから立ち去っていった。
彼の姿がゆっくりと去っていったとき、彼らは、そのうつ向いた姿をジッと見送り、老人がよくやっていたことだが、頭をぐるりとまわしてふりかえったとき、手をふったり、なにか簡単な元気づけの言葉を叫んだりしていた。彼らがたがいに向き合い、大声で笑い出したのは、老人の姿がだんだんと小さくなり、遠くの路上のただ小さな影になってからのことだった。
「これでと」両手を火にかざしながら、ジャウルはいった。「とうとう仕事は終えたわけだ。説得には思ったより手間暇がかかったな。これをあいつの頭に植えつけてから、もう3週間になる。あのじいさん、なにをもってくると思うかね?」
「なにをもってこようと、山わけだぜ」アイザック・リストは答えた。
相手の男はうなずいた。「早いとこやっちまわなけりゃいかん」彼はいった。「それがすんだら、ご交際はねがいさげというわけさ。疑いがこっちまでかけられちゃ、たまらんからな。ぬかりなくやるこった」
リストとジプシーは承知した。犠牲者の逆上をしばらく笑いの種にしてから、彼らはもう十分に論じつくしたものとしてこの話題はすて、ネルにはわからない隠語でほかのことをしゃべりはじめた。この話は彼らがひどく興味をもっていることに関係したものらしかったが、彼女はいまが気づかれずに逃げだす潮時と考え、生垣の陰からはなれず、そこと水の乾あがった溝をしゃにむに突破して、ゆっくりこっそりとはってゆき、とうとう彼らにはもうみえない地点で道路に出た。それから、いばらや野薔薇で傷ついて血を出しながら、心ではそれよりもっとひどい傷を受けて、彼女は大急ぎで家路につき、心を乱して寝台に身を投げた。
彼女の心にひらめいた最初の考えは、逃亡、即座の逃亡で、その場所から老人をつれだし、こうしたおそろしい誘惑に彼をふたたびさらすくらいなら、路傍で野たれ死したほうがまだましということだった。ついで彼女は、この盗みの犯罪行為が次の晩までおこなわれないことを思い出した。そうなれば、まだ時間はあり、考えてどうすべきかをきめることができるわけだった。つづいて、老人がいまそれをやっているのではないかというおそろしい恐怖、夜の静寂を破ってひびく金切り声と悲鳴を聞くのではないかという心配、現行犯でみつかり、相手が女だけの場合、老人がどんなことをやりだすことになるだろうかというおそろしい思いで、彼女は心を乱すことになった。こうした拷問の苦しみは、我慢できないものだった。彼女は金がしまってある部屋にゆき、ドアを開け、中をのぞいてみた。ありがたいことだった!老人はそこにいず、女主人はぐっすりと眠っていた。
彼女は自分の部屋にもどり、眠りにつこうとした。だが、どうして眠れよう ー 眠るなんて!こうした恐怖に心を乱されているのに、どうして静かに横になっていられよう?その恐怖は、だんだんとつのっていった。しっかりと服を身に着けず、髪をふり乱したままで、彼女は老人の寝台のわきにとんでゆき、その手首をにぎり、彼をゆり起した。
「どうしたんだ?」床からとびあがり、彼女の幽霊のような顔に目をすえて、彼は叫んだ。
「おそろしい夢をみたの」こうした恐怖以外のどんなものもひきおこせないひたむきさで、子供はいった。「おそろしい、こわい夢だったの。前にも一度その夢をみたことがあるわ。夜、暗い部屋で、眠っている人たちからお金を盗んでいるおじいちゃんのような白髪の男の人たちの夢なの。起きて、起きて!」老人は関節という関節をガタガタさせ、祈っている人のように手を組み合わせた。
「わたしに祈ることはないわ」子供はいった。「わたしにじゃなくて ー 天にお祈りをするのよ、そうしたことから救ってくださいとね!この夢は、もうとてもマザマザとしたものなの。わたしは眠ったりはしていられず、ここにはいられず、こんな夢が起きたこの屋根の下におじいちゃんをひとりでおいておくわけにはいかないの。起きてちょうだい!逃げなければならないのよ」
老人は彼女をまるで精霊でもながめているように ー 彼女はそのもっていたこの世の姿にもかかわらず、精霊だったのかもしれない ー 彼女をながめ、そのからだのふるえは、だんだん激しくなっていった。
「一刻もグズグズはしていられないの。一分もグズグズはしていたくないの」子供はいった。「起きて!そして、わたしといっしょにいってちょうだい!」
「今晩かい?」老人はつぶやいた。
「そう、今晩よ」子供は答えた。「明日の晩ではおそすぎるの。その夢がまた来るでしょうからね。逃げる以外に救われる方法はないのよ。さあ、起きて!」
老人は寝台から起き、その顔は恐怖の冷汗でびっしょりになっていた。そして、この子供がその好むところに自分をつれだしてくれる天使の使者であるかのように、彼女の前で膝をかがめ、彼女のあとについてゆく準備をした。彼女は彼の腕をとり、彼をつれだした。彼が盗みをするといっていた部屋のドアの前をとおったとき、彼女はゾクリと身ぶるいし、老人の顔をみあげた。それは、なんと青ざめた顔だったろう!なんという顔つきで、彼は彼女の顔をながめたことだろう!
彼女は老人を自分の部屋につれてゆき、彼を一刻でも手放すのをおそれているように、彼の手をつかんだままで、もっているわずかなものを集め、籠を腕にさげた。老人は物入れ袋を彼女の手から受けとり、それを肩にしばりつけた ー 彼の杖は彼女がもうもってきてあった ー こうして彼女は彼をつれだした。
せまい街路とまがった細い郊外の道を、ふたりのふるえる足はさっさととおりすぎていった。灰色の古城が頂上にあるけわしい丘を、彼らは足を急がせてせっせとのぼってゆき、一度もふりかえったりはしなかった。
だが、廃墟の城壁に近づいたとき、月はやさしい光につつまれてのぼり、そのいかめしい古い城壁はつた、苔、波のようにゆれる雑草で飾られていたが、そこから子供は谷の暗がりの深くで眠っている町、光のまがりくねった道をもった遠くの川、遠くのつらなる丘をふりかえってながめた。彼女がこうしてながめていたとき、彼女は自分がにぎっていた手を前よりゆるめ、ワッと泣きながら、老人の首にすがりついた。
瞬間的な弱さはすぐに消えて、子供はそのときまで自分をささえてきた決意をとりもどし、じぶんたちが屈辱と犯罪から逃げだそうとしている、祖父の保護は、一言の助言も手助けの手も借りずに、自分がただしっかりとしてやりとげなければならないという考えを忘れまいとして、彼女をズンズンと前にひっぱって進み、それ以上、あとをふりかえろうとはしなかった。
老人のほうは、威圧され恥じ入って、彼女の前にうずくまり、なにか卓越した存在を前にして、子供自身が自分の中に新しい感情を感じとり、それが彼女の性格をたかめ、そのときまでに味ったことのない力強さと自信を彼女に吹きこんでいるといったように、彼はひるみ、おびえているようだった。もういまは、責任の分担はなかった。ふたりの生活の重荷すべては彼女の肩にかかり、これからは、彼女はふたりのために考え行動しなければならなくなった。
「わたしはおじいちゃんを救ったのだわ」彼女は考えた。「すべての危険と苦しみの中で、このことを忘れないようにしなければいけないのだわ」
この場合以外のときだったら、いままでとても多くの家庭的な親切を示してくれた友人をすてて、自分の立場をひと言も説明しなかったという思い ー 一見したところ、不実と忘恩の罪を犯したという思いは、彼女の胸を悲しみと後悔で満たしたことだったろう?だが、いまは、すべてのほかの考えは、彼らの荒々しいさすらいの生活のもつ新しい不安定と心配の中にすっかり影をひそめ、ふたりの状態のひどさそのものが、彼女をふるい立たせ、彼女に刺激を与えることになった。
青白い月の光は、思いに沈む心配がもう若さのもつ魅力的な愛嬌と美しさにまじりこんできている繊細な顔に、月独自の青さを与えていたが、そうした青白い月の光の中で、キラキラと美しく輝きすぎるほどの目、気高い感じのする頭、しっかりとした気持と勇気でひきむすばれた唇、態度はじつにキリッとしている、じつにほっそりとした可憐な姿は、その語らぬ話を物語っていたが、その語りかける相手は、サラサラと吹きぬける風だけ、その風は、その荷をとりあげて、おそらくだれか母親の枕辺に、花の盛りに色あせおとろえ、目ざめを知らぬ眠りで寝んでいる子供のかすかな夢を運んでいったことだったろう。
夜は足早に進み、月は落ち、星は青ざめて影がうすくなり、ふたりと同じようにひえびえとした朝がゆっくりと近づいてきた。それから、遠くの丘の背後から、気高い太陽がのぼり、その前に立つ幻影のような霧を追い払い、暗闇がふたたびやってくるまで、地上から亡霊のような霧の姿を消してしまった。太陽がもっと高い空にのぼり、その明るい陽ざしに熱をおびてくると、ふたりはどこか川の水辺近くの土堤の上で横になって眠ろうとした。
だが、ネルはまだ老人の腕をしっかりとおさえ、彼がぐっすりと眠りこんでからもズーッと、つかれを知らぬ目で彼をジッと見守っていた。つかれが、とうとう、彼女に忍び寄ってきた。彼女のにぎりはゆるみ、グッとしめられ、またゆるんで、ふたりはならんで眠りこんだ。
3
ネルは、老人が予想した以上の苦しみを味いながら歩いていた。彼女の関節を苦しめていた痛みはふつうの痛み以上のもの、動けば動くほど、それはつのってきた。だが、そうした状態にありながらも、彼女はそれをこぼしたりはせず、苦痛のようすもあらわさなかった。このふたりの旅人の歩みはとてものろいものながらも、とにかく、前進していった。やがて町からはなれて、ふたりは、道をかなり進んだと感じはじめた。
赤煉瓦の家のたつながい郊外 ー 一部の家にはわずかの庭がついていたが、そこでは、炭塵と工場の煙がチリチリになった木の葉とはびこる雑草の花を黒く染め、もがいている草木は煉瓦を焼く窯と溶鉱炉のはきだす熱風でしぼんで弱り、そうしたものがあるために、家は、町そのものの家より、もっとそこなわれ不健康にみえていた ー こうしたながい、平らな、ダラダラとつづく郊外をとおりぬけて、彼らは、ゆっくりながらも、だんだんとじつにわびしい地域にはいっていった。そこでは、草の葉一枚の成長もみられず、春を思わせる芽ひとつなく、緑の色がみられるのはよどんだ水たまりの表面だけ、そうした水たまりは、黒々とした路傍で、暑さでぐったりしたように、そこここで姿をあらわしていた。
1ペニーのパンが、その日ふたりが手に入れたすべてだった。それはほんのわずかなものだったが、彼女の感覚に忍び寄ってきた奇妙な心の静けさの中で、飢えさえ忘れられていた。彼女は、静かに横になり、顔におだやかな微笑を浮べて、眠りこんだ。
朝になった。視力も聴力も前よりズッとおとろえ、すっかり弱って、子供は、なにも訴えたりはしなかった ー たとえ、自分のわきで旅をして彼女をだまらせているあの老人がいなくても、彼女は、たぶん、訴えたりはしなかったろう。このわびしい場所からつれだってのがれでるのは望みのないことと彼女は感じ、自分の病気はとても重い、もしかすると死ぬかもしれないとなんとなく確信してはいたが、恐怖も心配も感じてはいなかった。
最後の1ペニーを使ってもうひとつパンを買うまで彼女が気づかずにいた食事を嫌悪する気分のために、彼女はこのとぼしいパンも食べないでいた。彼女の祖父はガツガツして食べていたが、その光景は、彼女をよろこばせた。
彼らの進んでいった道は、きのうと同じ景色のもの、なんの変化も、よくなった点もなかった。呼吸も困難になるほどの同じどんよりとした大気、同じそこねられた大地、同じ絶望的なみとおし、同じみじめさと苦難があった。前よりもっとぼんやりとものは映り、音は低くなり、道はもっとでこぼこが多くなった。。ときどき彼女はつまずき、倒れまいとする努力で、まあいわば、心を引き立てていた。かわいそうな子供!その原因は、彼女のよろめく足にあった。
午後近くになると、老人はひどく空腹を訴えはじめた。彼女は路傍にあるみじめな小屋に近づき、そこのドアをノックした。
「ここでなにをもらいたいんだ?」ドアを開きながら、やつれ果てた男がいった。
「ご慈悲を。ひと口のパンをおねがいします」
「あれがみえるかい?」地面の飢えにある包みのようなものをさして、男はしわがれ声で応じた。「あれは死んだ子供だよ。わたしと500人のほかの男たちは、3ヶ月前に、仕事から放りだされちまったんだ。これがおれの3番目で最後の子供だ。このおれが授けられる施し物、余分のひと口のパンでも持っていると思ってるのかね?」
子供はドアからとび退り、ドアは閉じられた。強い必要にせまられて、彼女は別のドア、その近くのドアをノックしたが、そこのドアは、彼女の手の軽いひとおしで、パッと開かれた。
この小屋には、貧乏なふた家族が住んでいるようだった。ふたりの女が、それぞれの子供にかこまれて、その家のちがった場所にいたからである。中央の黒服を着たむずかしい顔をした紳士が立っていた。
「お前はやけになっているんだな」かぎタバコ入れを出しながら、紳士はいった。「あわれなやつだ」
「あたしゃやけになってるよ」女は応じた。「あたしをそうしたのは、あんただよ。こうして困ってる子供たちのために働いてくれるように、あたしの息子をかえしておくれ。正しい人間になって、この坊やに慈悲をかけたように、あたしの息子をかえしておくれ!」
これだけながめ、これだけ聞けば、ここが施し物を乞うべき場所でないことが、ネルにはよくわかった。彼女は老人を戸口からソッとつれだし、旅をつづけた。
歩いてゆくにつれて前途の希望の影は薄れていったが、動けるかぎり、どんな言葉やようすでも自分の弱っている状態を示したりはすまいという決心は依然としてくずさずに、そのつらい日ののこりのあいだ、子供は、むりやり足をひきずり、ふだんどおりにときどき休息をとったりはせずに、彼女がどうしてもなってしまうおそい足どりを幾分なりともとりもどそうと努力していた。夕暮れは近づいたが、まだとっぷりと暮れはせず、そのとき ー まだ感じのよくないいろいろのものがある場所で旅をつづけて ー ふたりはあわただしく町に到着した。
ふたりは弱り、すっかりがっくりしていたので、この町の街路はどうにも我慢ならぬものになった。わずか何軒かの家の戸口で控え目に救いを求め、断られてから、できるだけ急いでこの町からぬけだし、町の向うにあるどこかの一軒家の人たちが、ふたりのつかれ果てた状態にあわれみをかけてくれるかどうかやってみようということになった。
彼らは、最後の街路を身をひきずりながら歩いていったが、子供は、自分の弱った体力がもう堪えられなくなるときがせまってきたのを感じた。この危機に臨んで、彼らの前で同じ方向に歩いてゆく旅人の姿があった。この男は、旅行カバンを革ひもで背中にしばりつけ、歩きながら太いステッキをつき、べつの手にもった本を読みながら歩いていた。
この人物に追いついて援助を求めるのは、容易なことではなかった。この男は、早く歩き、少し前を歩いていたからだった。とうとう、本のどこかの個所をもっと念入りに読もうとして、彼は足をとめた。一抹の希望をいだいて、子供は老人の前にとびだし、自分の足音でこの見知らぬ男をハッとさせずに、そばに近づき、弱々しいわずかな言葉で、助けを求めはじめた。
彼はふり向いた。子供は手を打ち合わせ、激しくひと声悲鳴をあげ、気を失って彼の足もとに倒れた。
それは、あのあわれな学校の先生だった。まさにあのあわれな学校の先生だった。ネルが彼の顔をみてびっくりしたように、彼のほうでもこの子供をみて感動し、びっくりしていた。彼は、しばらく口もきけず、この思いもかけぬ出現に狼狽して立ちつくし、彼女を地面から抱き上げる冷静ささえ失っていた。
だが、すぐ落ち着きをとりもどして、彼は、ステッキと本を投げだし、彼女のそばで片膝をつき、とっさに思いついた方法で、彼女を蘇生させようと努力していたが、彼女の祖父はなにもせずにかたわらに立ち、手をしぼりながら、愛情をあらわすいろいろな言葉を使って、ただひと言なりとも自分に話しかけてくれと彼女に懇願していた。
「すっかりつかれきっている」老人の顔をチラリとみあげて、先生はいった。「この娘にたよりすぎたんですよ」
「乏しさで死のうとしているんです」老人は答えた。「いままでこの娘がどんなに弱り病んでるかを、わたしは考えたこともなかった」
なかばなじり、なかば気の毒といった一瞥を老人に投げて、先生は、ネルを腕に抱きあげ、彼女の籠をひろい、自分についてくるようにと老人に命じて、大急ぎで彼女を運んでいった。
近くに宿屋があり、思いがけずもネルに追いつかれたとき、彼はこの宿屋に足を向けていたようだった。意識を失ったネルを抱いて、彼はこの場所に急ぎ、台所にとびこんで、そこに集っていた人たちにおねがいだ、とおしてくれと呼びかけ、炉の前の椅子に彼女を座らせた。
先生がはいってきたときびっくりして立ちあがった連中の行動は、こうした事情のもとで人びとがふつうする行動どおりのものだった。それぞれの男女がそれぞれの好みの薬を叫び求め、だれもそれをもってくる者はいなかった。それぞれが場所を開けろと叫んだが、それと同時に、同情の対象をグルリとりまいて、念入りにも開けるべき場所をふさぎ、全員が、自分だけではできると思ってもいないことを、どうしてほかのだれかがしないのだろう?とふしぎがっていた。
だが、宿屋の女主人はそうした連中のだれよりも頭の回転が早く、行動力があり、ことの軽重をだれより早くさとった女で、熱くしたわずかの水割りブランデーをもってすぐに走りこんでいき、彼女のあとに下女がつづき、酢、鹿角精、かぎ薬、その他そうした気つけ薬を運びこんできた。こうした薬が使われて、子供はある程度回復し、弱々しい声が彼らに礼を述べ、心配そうな顔をしてそばに立っていたあわれな先生のほうに手をさしだせるようになった。それ以上の言葉を話させようとはせず、それ以上指一本でも動かすのを許さずに、女たちは、すぐに彼女を寝台に運び、彼女を温かに寝具でくるみ、冷えた足を荒い、それをフランネルでつつんで、使いを出して医者を呼んだ。
うね織の黒繻子のチョッキの赤鼻の医者は、大急ぎでかけつけ、あわれなネルの寝台のわきに座って、懐中時計をとりだし、彼女の脈拍を計った。それから彼女の舌を調べ、また脈拍を計り、そうしながら、ボーッと心をうばわれたように、ほとんど空になったぶどう酒のコップをジーッとみつめていた。
「与えるものといえば ー」医者はとうとう口を開いた。「ときどき、茶さじ一杯の熱くした水割りブランデー」
「まあ、それをいま、したとこなんですよ!」満悦の女主人はいった。
「それに」階段においてあった足湯用の小だらいのわきをとおりぬけてきた医者はいった。「それにまた」託宣をくだすような声で、医者はいった。「この娘の足を湯につけ、それをフランネルでつつんでやるね。その上」さらに厳粛な態度で医者はいった、「夕食にはなにか軽いもの ー 焼き鳥の翼肉でもね ー」
「おやまあ、いま台所でそれをお料理しているとこなんですよ!」女主人は叫んだ。たしかにそのとおりだった。先生はそれを注文し、それが、いま、上々の進行ぶりを示していたので、医者はそのにおいをかごうとすれば、かげたはずだった。
「それから」重々しく立ちあがりながら、医者はいった。「ぶどう酒が好きだったら、温めて香料を入れた甘い赤ぶどう酒を飲ませたらいいね ー」
「それにトーストですか?」女主人はいってみた。
「そう」威風堂々とした態度で譲歩する男の口調で、医者はいった。「トースト ー パンのね。おねがいしますぞ、くれぐれもそれはパンのトーストにしてくださいよ、奥さん」
この別れぎわの命令をゆっくりとものものしく伝えて、医者は帰っていった。
食事の準備をしているあいだ、子供は元気をつけてくれる眠りに落ちこみ、食事の容易ができたとき、宿の者は、この眠りから彼女を起こさなければならなかった。彼女の祖父が下にいると知ったとき、彼女はひどく不安そうなようすをあらわし、ふたりがべつべつになっていると考えて、とても心配していたので、老人は彼女といっしょに食事をすることになった。この点で彼女がまだひどく心配していたので、奥の部屋に彼の床がつくられ、彼は間もなくそこにひきあげていった。この部屋の鍵は、幸運にも、たまたまネルの部屋のドアの向う側にかかるものだったので、宿の女主人がひきさがったとき、ネルは、老人の部屋の鍵をかけ、感謝にあふれた気持で自分の寝台にはいもどっていった。
先生は、もう人気のなくなった台所の炉のそばでパイプをくゆらしながら、ながいこと座り、とてもうれしそうな顔をして、じつに好都合にも子供の援助にめぐりあうことになった幸運を考え、彼なりの素朴なやり方でできるだけ、女主人の細かな質問を受け流そうとしていた。女主人のほうは、ネルの生涯と来歴の細かな点をなんとか知ろうと、好奇心を燃え立たせていた。この気の毒な先生はじつに率直で、平気でごまかしをするような器用なことはできなかったので、彼がたまたま女主人の知りたがっている点を知らないのでなかったら、彼女は、最初の5分間で、絶対に成功をおさめるところだった。先生は、じっさい、なにも知らないと彼女にいっていた。女主人はこうした、うそじゃないですよといった言葉では絶対に納得せず、それを質問にたいする巧みないいのがれと考え、もちろん、その理由はあるのでしょうと応じた。宿の客のことをほじくり返すなんて滅相もないこと、お客さんはお客さん、あたしはあたし、係わりはないんですからね。自分はただ儀礼的にたずねただけのこと、それが儀礼的な返事を受けるものと、たしかに知ってましたよ。よーくわかっています、まったくね。自分としては、むしろ、そのことは話したくないとズバリいってほしかった。そのほうがはっきりとし、よくわかることだから。だが、もちろん、こちらで気をわるくする筋はないわけ。これをいちばんよく判断できるのはあなた、好きなことをいう権利は、そっくりそちらにあるんですからね。その点は絶対に議論の余地のないとこですよ。まあ、ほんと、そうですとも!といったわけだった。
「ほんとうです、おかみさん」おだやかな先生はいった。「たしかにありていの事実をお伝えしたんです。絶対にまちがいないし、事実をお伝えしたんですよ」
「じゃ、そんなら、あんたが本気でいっていると信じることよ」すぐに上機嫌になって、女主人は答えた。「あんたにうるさくいって、わるかったことね。でも、好奇心というものは、あたしたち女のもっているたたりなの。これはたしかに事実よ」
宿屋の主人は困ったといったふうに頭をかいたが、それは、そのたたりがときには男にもあるといわんばかりのふうだった。が、それをいおうと考えていたにしても、それは先生の応答でおさえられてしまった。
「もちろん、ぶっつづけに何時間でも質問して結構ですよ。よろこんでそれに応じ、返事ができるものなら、今晩のご親切にたいしてだけでも、わたしは辛抱強く答えるところなんですがね」彼はいった。「ところがその返事は、わたしにはできないこと、どうか明日の朝、あの娘によく注意し、彼女の具合を早くわたしに知らせてください。それに、三人の支払いはわたしがしますよ」
この最後の言葉ですっかり仲よしになって、
先生と宿屋の主人夫婦は、それぞれ寝所にひきあげていった。
翌朝の報告は、子供の調子はよくなっているが、ひどく弱っている。旅に出る前に、少なくとももう一日の休養とゆきとどいた看護が必要だろうということだった。先生はこの知らせをとてもよろこんで受けとり、まだ1日 ー そう、たしかに2日 ー は余裕があるので、十分に待っていられると伝えた。患者が夕方に床で起きあがることになっていたので、ある時刻に彼女の部屋にゆくことを約束して、先生は本をもって散歩に出かけ、その時間になるまでは、もどって来なかった。
ふたりだけになったとき、ネルは泣かずにいられなくなった。その姿をみ、彼女の青ざめた顔とやつれたからだつきをながめて、誠実な心の持ち主の先生もちょっと涙を流したが、それと同時に、涙を流したりするのはじつにバカげたこと、その気になれば、苦もなく泣かずにいられるものだと力強くいった。
「わたしたちが先生の負担になると思うと」子供はいった。「こうしたご親切を受けながらも、心が暗くなります。どうお礼をしたらいいのでしょう?家から遠くはなれたところで先生にお会いできなかったら、わたしは死んでしまい、おじいさんはひとりぼっちになったことでしょう」
「その話はやめにしよう」先生はいった。「そして、負担といえば、わたしの小屋にきみが泊ったあとで、わたしはお金持ちになったのだよ」
「まあ!」子供はうれしそうに叫んだ。
「うん、そうだよ」彼女の友は答えた。「ここから遠くはなれた村 ー わかるだろうが、以前の村から遠くはなれた村 ー で教会書記と先生に任命され、年収は35ポンドにもなるのだよ。35ポンドなんだよ!」
「とてもうれしいわ」子供はいった。「とっても、とってもうれしいわ」
「いまその村にゆこうとしているのだ」先生は話をつづけた。「駅馬車の代金 ー 道中ずっと駅馬車の屋根席の代金をもらっているのだよ。まったく、よく金を出してくれる村の人たちだ。だが、着任の日までたっぷり時間があったので、歩いていこうと決心したわけ。歩いてほんとうによかったと思っているよ!」
「ほんとうにうれしいことだわ!」
「そう、そう」椅子で落ち着かずにからだを動かしながら、先生はいった。「たしかに、そのとおり。だけど、きみは ー どこにゆこうとしているのだね?どこから来たのかね?別れてからなにをしていたのだね?その以前にはなにをしていたのだね?さあ、いっておくれ ー ぜひいっておくれ。こちらは世間のことにうとい身、きみに忠告する資格をわたしがもっているというより、世間のことでは、きみのほうこそわたしに忠告する能力があるというとこだろう。が、わたしはとても誠実な気持はもっているし、きみを愛する理由があるのだ。私の学校で若くして亡くなった子にたいする愛情が、その臨終の床に立っていたきみに乗りうつったような気持になっている。もしこの子供が」目をあげて、彼はいいそえた。「灰から生れでた美しいものだとしたら、この齢ゆかぬ子供を愛情こめてやさしく育てるとき、子供の安らぎがわたしといっしょに大きくなりますように!」
正直者の先生のはっきりとした率直な親切、その言葉と態度にみえる愛情こもった真剣さ、その言葉とようすにきざみつけられている誠実さは、彼にたいする信頼感を子供にもたせることになったが、こうした信頼の気持は、どんなに手練手管を弄してみせかけだけのいかさまをしても、この子供の胸に絶対に生じないものだったろう。彼女は彼にすべてを打ち明けた ー 友も親戚もないこと ー 収容所と老人がおそれているすべてのみじめさから救いだすために、老人といっしょに逃げだしたこと ー 老人を彼自身から救いだすために、いまも逃げていること ー 遠くはなれた素朴などこかいなかの保護施設にはいるつもり、そこだったら、老人の抵抗できない誘惑は絶対にあらわれず、いままでの彼女の悲しみと苦しみも味わずにすむことだろうがその内容だった。
先生は彼女の話をひどくびっくりして聞いていた。「この子供が!」ー 彼は考えていた ー 「この子供が強い愛情と正しさの意識だけにささえられて、すべての疑惑と危険のもとで雄々しくがんばり、貧困や苦しみと闘ってきたのだろうか!だが、それにしても、こうした英雄的な行為は、この世にあふれているのだ。この上なくつらい、しかも、この上なくりっぱに堪えてゆく苦難は、地上のどの記録にも書きしるされず、しかも、毎日味われている苦難だということを、わたしはまだ知らないでいたのだろうか!そして、この子供の話を聞いて、わたしは驚かなければならないのだろうか!」
それ以上どんなことを彼が考えたり語ったりしたかは、問題ではない。彼がゆく村にネルと彼女の祖父が同行し、そこで、なにかささやかな仕事を彼らにみつけ、暮しが立つようにするために彼が努力することに話はきまった。
「話はきっとうまくいくよ」先生は勢いよくいった。「こんなりっぱな行動は、失敗するはずがないのだからね」
彼らがゆくのと同じ道をある距離進んでゆく駅伝大型荷馬車が、馬を換えるためにこの宿屋でとまり、わずかの礼金で御者がネルを車の中に乗せてくれるみこみがついたので、翌日の晩に出発することになった。
この台本を作成にするにあたり、北川悌二訳「骨董屋」(三笠書房)から多くの引用をさせていただきました。