プチ朗読用台本「ピップの改心」
その日は、太陽はかっと照り付けながら、風はまだ冷たいという、3月によくみられるような日だった。つまり、日のあたる場所は夏の陽気で、日のあたらない場所は冬というわけだ。私たち三人は、水夫用の厚手のラシャのコートを着込み、私は鞄を1つ持った。私の全財産の中から必要品を少しだけ、鞄に詰め込んだ。でもこれからどこへ行くものやら、さっぱりわからなかった。またこういった問題に頭を悩ますこともなかった。それというのも、プロヴィスの安全を図ることが私の唯一の関心事だったからだ。部屋の入口に立ち止まって振り返ったとき、万一この部屋にまた戻って来ることになれば、そのとき、自分はどのような境遇におかれているだろうかという思いが、一瞬ちらっと脳裏をかすめたにすぎなかった。
私たちはテンプル河岸の船着場までぶらぶら歩いてゆき、河岸に着くとまたそこらをぶらついた。まるでまだボートに乗るとも乗らないとも、決めかねているように。だがもちろん、私はあらかじめボートを用意し、装備等もすっかり整えておいたのだ。このあたりにいる人といえば、このテンプル河岸の船着場で働いている水陸両棲のような連中くらいだったが、私たちは慎重を期して、まだ決断がつかずにまごまごしているふうに、ちょっと芝居をしてから、ようやくボートに乗り込み、綱を解いた。ハーバートは舳先に腰を下ろし、私が舵を取った。ちょうど8時30分で、満潮時だった。
私たちの計画は次のようなものだった。干潮は9時に流れはじめ、3時までは私たちのボートと同じ方向に流れてくれる。しかしその後、潮の流れが逆に変わっても、私たちはなお潮流に逆らって暗くなるまで漕ぎつづけるつもりだった。そうすれば、グレーヴズエンドの先の、ケントとエセックス両州のあいだを流れる、見通しのきいた直線領域には十分入れるだろう。そのあたりは川幅が広く、さびしい場所で、川沿いには人家がほとんどなく、ただあちこちに居酒屋がぽつんと見られるだけである。どれか一軒を選んで、そこを休息所にすることもできる。そうなればそこでごろりと横になって、一夜を明かすことにしよう。また、ハンブルク行きの汽船とロッテルダム行きの汽船が、木曜日の朝の9時ごろ、ロンドンから出航することになっている。私たちのボートの進行地点によって、およそ何時ごろに両船に出会えるかはわかるはずで、最初に見えた汽船に大声で呼びかければいい。なにかの手違いでその舟に乗れなくても、もう一隻をつかまえるチャンスが残っている。この2隻以外にも、行き交う船の特徴は調べてあった。
いよいよ念願の計画の実行に取りかかったのだと考えると、ほっとしてこれまでの苦心もすっかり忘れてしまい、数時間まえ、なぜあんなに不安な気持ちにおそわれたのか不思議なくらいだった。すがすがしい空気、明るい陽光、河の流れにのった軽快な船脚、そして流れ行く河そのもの — また私たちと並んで走る道、私たちに共鳴し、私たちを鼓舞激励してくれるような道 — いずれも私に新たな希望を抱かせてくれた。ただ残念なのは、自分がボートに乗っているだけで、ほとんど役に立たないことだった。けれど、この二人の友人に勝る漕ぎ手は滅多にないだろう。ハーバートとスタートップは一日じゅう漕ぎつづけてもペースが落ちないような、堅実なストロークで漕いでいった。
当時、テムズ川を往来する汽船の数は、今日に比べてはるかに少なく、逆に船頭の漕ぐ小舟ははるかに多かった。艀や石炭船や商船の数は、当時も今に劣らず多かったろう。だが、汽船についてはその大小を問わず、今日の20分の1の数だったと思われる。その朝は、まだ早い時刻ではあったが、もうたくさんの小型のボートが往来し、多くの艀が潮の流れとともに河をくだっていた。テムズ川にかかった多くの橋のあいだを、無蓋の小舟で往復することは、今日より当時はずっと容易で、珍しいことではなかった。そんなわけで私たちのボートは、河一面に浮かんでいる櫂船や平底船のあいだを縫うようにして、すいすいと小気味よく追い抜いていった。
旧ロンドン橋をたちまち通過し、牡蠣舟やオランダ船の群がる当時のビリングズゲート魚市場、ホワイト・タワー、逆賊の門などのわきをつぎつぎと通り、やがて大小の船舶が重なるように停泊しているあたりにさしかかった。そこではリース、アバディーン、グラスゴーなど近海の汽船がちょうど荷物の積み降ろしをしていたが、その汽船の横を通り抜けるとき、水面から見あげるそれらの船体は、とてつもなく高く見えるのだった。また石炭船何十艘となく終結していて、石炭扱いの沖仲仕が大勢桟橋から船の甲板に飛び移っていた。その先に、明朝発の例のロッテルダム行き汽船が停泊していたので、私たちは細かい点までよく観察しておいた。またやはり明朝のハンブルク行き汽船も見つかり、ボートはその船首の下を通り抜けた。そしてついに、ボートの船尾にいた私の視界に、ミル・ボンド・バンクとミル・ボンド桟橋とが入ってきて、私の胸の動悸はにわかにたかまった。
「あの人、見えるかい」ハーバートが訊いた。
「まだ見えない」
「それでいい。こっちが見えないうちはおりてきちゃだめなんだ。あっちの信号は見えるかい」
「ここからじゃよく見えないな。待てよ、あれじゃないかな。— おい、いたぞ!それ、かまわずまっすぐだ。……ハーバート、ちょっとスローにしろ」
私たちのボートは、一瞬桟橋に軽く触れたが、プロヴィスが飛び乗るとすぐに、岸を離れた。彼は船員用の袖なし外套と黒いズック製の鞄を持ち、私の期待どおりに水先案内人そっくりのいでたちだった。
「ピップ」とプロヴィスは腰をおろしながら、私の肩を抱くようにして言った。
「よくやってくれた。よく約束を果たしてくれた。ありがとう。ありがとう」
ふたたび、重なるように多くの船が停泊しているあたりにさしかかった。錆びた錨の鎖や、ぼろぼろにほつれた麻の大綱や波間に見え隠れしている浮標などにぶつからないように避けたり、ぷかぷか浮かんでいる壊れた籠に当たってそれを沈めたりした。また、水面に漂っている木片を左右に散らしたり、波に揺れている石炭かすの上を通ったりしながら、ボートを進めた。また風上に向かって演説を一席ぶっているサンダーランドのジョン号の船首像や、胸元を一分の隙なくきちんと合わせ、愛らしい目が顔から2インチも飛びだしているヤーマスの乙女ベッツイの彫像の真下を通り過ぎた。造船所で打つハンマーの音、材木をひく鋸、何だかわからないがやたらに鳴りひびくエンジン、水漏れする船で排水するポンプの音、錨をまき揚げる車地、海に向かって出航する船、舷側からわけのわからぬ罵倒を浴びせている無知な船員たちと、それに負けずにやり返している艀人夫。ざっとこういった雑踏のなかを通り抜けて、私たちのボートはようやくずっときれいな広々とした河面へ出た。ここまでくれば、船の下働きの水夫たちも、船の舷側を守る緩衝材を使ってどさくさまぎれに魚釣りなどすることもできないのだ。また広い河面に出れば、花綱で飾られた帆を風に向かって高く上げることもできた。
プロヴィスは船員用の袖なし外套を着ていたが、私が先に述べたように、これが周囲の状況にぴったりしていて、港風景の一部になりきっていた。驚いたことに、彼は私たちのだれよりも落ち着いていた(多分彼のこれまでの悲惨な生活の経験が、かえって度胸をつけさせるのであろう)。だが、彼もこの計画の成功に無関心だったわけではない。というのは、彼はかねがね、なんとか生きのびて、わしの紳士が外国で立派な紳士の仲間入りをするのを見たいものだと話していたからである。彼は、彼は、私の予想を裏切って、今ここで無抵抗に諦めてしまうような気持ちは少しもなかった。また危険と妥協して中途半端なところで手を打とうとも考えていなかった。危険が避けられないとすれば、彼は堂々とそれに立ち向かうのだが、危険がはっきりするまでは、むやみと騒ぎ立てないという心構えだった。
「来る日も来る日も四方を壁で囲まれて閉じ込められとったあとで」とプロヴィスは言った。「ピップ、こうやっておまえと並んですわってたばこを吸う気持ちが、どんなに素晴らしいものかおまえにわかったら、きっとおまえもわしをうらやましく思うだろうよ。だが、とてもおまえにはわしの気持ちなどわかるまいな」
「解放されたときの自由の喜びなら、ぼくにもわかりますよ」私は答えた。
「そうかな」彼は重々しく首を振って言った。「でも、わしと同じほどにはわかるまい。わしのように、そいつの喜びがわかるには、まずおまえもがっちりと錠をおろされて閉じこめられてみなくちゃなるまい、ピップ — たがまあ、こんな品のない話はやめにしよう」
そのときふと私は、彼がいかにやむにやまれぬ動機からにせよ、このように自分の自由ばかりでなく、生命までも危険にさらすなんて、なんだかつじつまが合わないなと思った。でも、危険の伴わない自由ということになると、これまでの生涯の生きかたからあまりにかけ離れすぎて、彼自身にはおよそ無縁なことでしかないのじゃないか、と思い返した。こんな私の考えかたも、さほど的外れではなかった。彼がたばこを一服してから、つぎのように言い出したのだから。
「なあ、ピップ、わしが海の向こうに、つまり地球の反対側にいたときには、こっちのほうばかり夢に見ていたんだよ。あっちにいたときには、まったく退屈な味気ない生活じゃった。そりゃ金はどんどん入ってきたけどな。マグウィッチさまを知らん者はいなかったし、マグウィッチさまはどこへでも勝手に出入りできた。それでもだれ一人、わしのことなどとくに気にかけてくれなかったんだ。ここじゃ違う。みんなわしのこと、そうすぐには関心をもたんだろうけどな、ピップ — わしの居所がわかってしまうと、すくなくとも関心をもたんわけにはいかんだろうさ」 「もしこれで、万事うまくいったら」と私は言った。「あなたはまた、幾時間もたたないうちに、完全に自由で安全な身分になれるんですよ」 「うん」と、彼は大きいため息をついて言った。
「そうなりたいものだな」
「じゃあ、そうじゃないと」
彼は船べりから片手をのばし、指先を水につけた。そして、何度も見かけた例のなごやかな笑顔を見せて言った。
「そう、そうなれるだろうと思っているよ、ピップ。今みんなと楽しんどるより、もっと静かで気楽なことになったら、わしなどとまどっちまうだろうな。だがなピップ — 多分こんなふうに水の上を静かに、気持ちよくすいすい流れてるもんだから、つい思いついたのだろうがな — わしはいま一服しながらこんなことを考えていたんだよ。つまり、今こうしてわしが手を入れている河の底までは、いくらのぞいても見えんのと同じことで、これから何時間か先何が起こるか、ほんとはなにもわからんのさ。またわしがこの水をつかまえとくわけにはいかんように、これから数時間先の潮の流れも、わしらにはようつかめんのじゃ。水はわしの指をすり抜けて流れてしまうのさ。ほうら、こんな具合にな」と彼は水の滴り落ちる手をさしあげて見せた。
「お顔を見ないで話だけ聞いてると、すこし気が滅入ってられるように聞こえますよ」
「そんなことはないさ、ピップ。あんまり静かにボートが流れとるもんだから、あの舳先のところで波の音が、日曜日の教会の歌みたいに聞こえてしまうんだ。で、柄にもなく変な気になったんだろう。年のせいってこともあるだろうよ」
彼は落着きはらった顔つきでまたパイプを口にくわえた。そしてもうイギリスから抜け出してしまったかのように、満足そうに安心しきって腰をおろしていた。それでいて、絶えず何かにおびえているように、私のちょっとした注意も、素直によく聞き入れた。たとえば、私たちがビールを何本か買って来ようと岸へ駆けあがると、彼も飛びおりようとするので、じっとしていたほうが安全ですよと言うと、プロヴィスは「そうかな、ピップ」と言って、また腰をおろすのだった。
河の上では空気がひえびえとしていたが、空はよく晴れわたり、さんさんと振りそそぐ日光はとても気持ちよかった。潮の流れは非常に早く、私はこの流れにうまくのるように心掛けて舵を取り、二人の漕ぎ手が着実に漕いでくれるので、ボートはまったく快調に進んだ。潮が急速に引いているので、ちょっと気づかないほどかすかにではあったが、近くの森や丘がだんだん私たちの視界から消えていき、ボートの位置も泥の露出した堤にはさまれて次第に低くなった。しかし、私たちがグレーヴズエンドを通り越してからも、潮の流れは私たちのボートとともに下流に流れていた。私たちが匿っているプロヴィスは、外套にくるまって顔を隠すようにしていたから、私はわざと水上税関所から一、二挺身とは離れていないところを堂々と通った。そのあと、潮流に乗るため河のなかほどにボートを出そうと考え、2隻の移民船の横を抜け、兵隊たちが前甲板から私たちを見下ろしている巨大な輸送船の船首の真下を通った。ところがまもなく潮流の勢いが弱くなりはじめた。そのため錨をおろして停泊していた船が大きく揺れだし、じきにくるっと一回転して船首の向きを変えてしまった。そして、この潮流の変化を利用して上流のプールへあがろうとする船が、続々と私たちのボートのほうへ近づいてきた。私たちは上げ潮の影響をできるだけ避けるため、岸に沿って、浅瀬や泥土の堤にぶつからないように注意しながら進んだ。
二人の漕ぎ手は、ときどき一、二分間漕ぐ手を休め、そのあいだはボートを潮の流れに任せるようにしたので、とても元気だった。で、15分も休憩時間をとれば十分だった。私たちはつるつるとすべっこい石がころがっているあたりでボートからおりて、持ってきた食料を飲み食いしながら、まわりの景色をながめた。そのあたりは私の故郷の村はずれの沼地によく似ていて、土地が平坦で変化にとぼしく、地平線はぼんやりとかすんで見えた。目を移すと、幾重にも折れ曲がった河筋がくねくねと伸び、河の上には波のまにまに揺れている浮標がくるくる回転していた。けれど、その他のいっさいのものは、まるで座礁したみたいに静止して動かなかった。というのは今や、ひと続きに並んで進んでいた船群の最後尾の船も、ここから見通しのきく両岸の低くなった地点をまわって姿を消してしまったからである。また、その後に1隻残っていた藁を積み込んで鳶色の帆をあげた緑の平底貨物船も、それに続いて見えなくなった。土砂運搬用の平底船が数隻、子供が泥をこねて初めて作ってみせた不格好な船のように、なかば泥に埋まっていた。また泥でぬるぬるした棒杭が何本か泥から突き出ていて、泥をかぶった石が泥のなかに頭を出し、赤い陸地標や潮水位標もこれまた泥の中に突っ立っていた。朽ち果てた浮き桟橋と壊れた屋根のない家が泥の中にのめり込んでいた。つまり、私たちのまわりのあらゆるものが、泥の中にあってよどんで静止していた。
夜のとばりはまたたくまにおりはじめ、満月を過ぎていたので月の出は遅かった。私たちはそのやみを利用してボートを止め、対策を練った。その打ち合わせはすぐ終わった。というのは私たちが取るべき道は、人目に触れない宿屋を見つけ次第、そこで休息をとることだということがはっきりしていたからだ。そこでまた、ハーバートとスタートップは渾身の力を込めて漕ぎ、私は人家らしいものがないかと、伸び上がって探した。こうして私たちは、ほとんど口もきかず、黙々と単調な4、5マイルを進んだ。とても冷えてきて、炊事室のかまどから、炎や煙をあげて近づいてくる石炭船は、さながら暖かく楽しい家庭のように、私たちの目に映った。もうすっかり夜もふけ、すっぽり私たちを包んだやみが薄れるには夜明けを待たねばならなかった。わずかに私たちを照らす星の光も、櫂が水面を打つたびにあがってくるもので、空から光が射すというより、むしろ水面から私たちを照らしているように思われた。
この気味の悪い時間を過ごしながら、私たちは皆、自分たちが尾行されているのではないかという強い疑問に取りつかれていた。潮の流れが強くなるにつれ、大きな音を立てて重々しく岸を打った。そしてそんな波の音が立つたんびに、私たちのだれかしらがかならずぎくっと身を震わせ、思わずそちらのほうに目を向けるのだった。また、潮の流れに侵されて、ここかしこ堤がくずれ、小さな入江ができていた。そのような場所がとくに気になって、私たちはやみをすかしてこわごわとのぞきこんだ。「いま聞こえた波の音はなんだろう」と、ときどきだれかが低い声で言うのだった。かと思うと別の者が「あそこに見えるのはボートかな」と訊いたりした。そしてそのあとは、一同は死んだように黙りこんでしまうのだった。私はなんだって今夜に限って櫂がやけにきしるんだろうと、いらいらしながらすわっていた。
ついに灯火が一つ、屋根が一つ、見えた。まもなく私たちは、そこらで拾い集めたらしい石を敷いた細い土手道沿いにボートを進めていた。他の者をボートに残し、私だけ上陸して、その灯が居酒屋の窓から洩れているのだと見とどけた。そこはいやにきたならしい居酒屋で、密輸業者仲間の巣になっているらしいと私はにらんだ。それでも台所には赤々と火が燃えていて、ベーコン・エッグぐらいならありつけそうで、酒もいろいろ用意してあった。そしてなによりも、ダブル・ベッドを置いた寝室が2つあった — 「まあ、ざっとこんなとこですな」と宿の主人は言う。家の中にはこの主人とおかみさんと、もう一人白髪まじりの男がいるだけだった。これが例の土手の細道をこしらえた下働きのジャックで、これまた低潮水位標をこれまで勤め上げてきたみたいに、頭から泥をかぶったように、全身ぬるぬるした感じの男だった。
この男を助手に連れて、私はボートのところへ引き返した。そしてみんな陸にあがり、櫂や舵や爪竿などを残らず持ち出し、ボートを一夜休めるため、引き揚げておいた。私たちは台所の火のそばでたらふく食事をとったあと、寝室の割当てをきめた。つまりハーバートとスタートップで一室を占め、私とプロヴィスがもう一部屋使うことにした。この二部屋からは、空気がまるで人間の生命にかかわる毒を含んでいるかのように、念入りにしめだされていた。またベッドの下には、この宿の家族の持ち物とはとても考えられないほど汚れて埃をかぶったままの衣類や紙箱がつめこまれていた。こんなひどい宿でも私たちは満足した。これ以上人目につかないさびしい宿はとても見つかりっこなかったからだ。
食事をすまして、私たちが暖炉のそばでぬくぬくと火にあたっていると、例のジャックが — この男は部屋の片隅にすわって、不格好にふくれあがった靴をはいていたが、私たちがベーコン・エッグを食べているとき、その靴を見せびらかして、これは2、3日まえ土左衛門になって岸に流れ着いた水夫の足から抜きとってきたもんで、やっこさんの大切な遺品なんですぜ、と言ったが― あんたがたは4本櫂のガリー船が上げ潮に乗って上流へ行くのをみなすったかね、とたずねた。見なかったと私が答えると、じゃああの船は河を下ってったにちげえねえ、だけんどあれがここを発ったときには、たしかに「潮といっしょに上っていった」けどな、と言った。
「きっとなんかわけがあって、途中で考えなおして下ったんだろうよ」と例のジャックは言った。
「4本櫂のガリー船だと言ったね」と私が訊いた。
「さよう、4本でさ」とジャックは答えた。
「櫂を使っとるもんが4人で、そのほかにもう2人すわってましただ」
「ここの岸に着けたかね」
「やつらは2ガロン入りの石の壷を持ってきて、ビールを買ってったんでさ。やつらのビールの中に毒でも放りこむか、腹んなかごろごろいわす下剤でも仕込んどけばよかったぜ」
「どうして」
「わかりきったことで」とジャックは言った。彼は泥のかたまりがのどもとを流れていったかのような、妙にねばりつく声で話していた。
「こいつの言っていることは」と宿の主人が口をはさんだ。主人のほうは気の弱そうな、くよくよするたちの男で、青白いおどおどした目をして、下働きのジャックに頼りきっているように見受けられた。「とんだ見当違いなんですよ」
「わしの考えにまちがいねえだ」とジャックは言った。
「ジャック、おまえ、税関の役人だと思っとるんだろう」と主人が言った。 「そのとおりさ」 「それじゃ、おまえの見当違いさ、ジャック」 「へえー、わしの見当違いかね」
ジャックは意味深長にこう答え、自分の意見に底知れぬ自信をみせながら、ゆっくりと例のふくれあがった靴の片方をぬいでみせた。そして靴のなかをのぞきこみ。とんとん靴底をぶつけて、石ころ2つ3つを調理室の床の上にころがし、またおもむろにはいた。彼はこれだけのことを、自分はあくまで正しいのであるから、なんでも片手間にできるゆとりがあるのだぞ、といわんばかりの態度でやり通したのである。
「だがな、おまえ、あの人たちが制服の金ボタンを付けとらなかったのはどういうわけだ」と居酒屋の主人は弱気になって、いささか頼りなげに反論した。
「金ボタンがどうしたかって」とジャックが応酬した。
「船の上からぽいと河のなかへ放ったんでしょうな。それとも飲み込んじまったかな。でなきゃ、水んなかに播いちまったんですな。からし菜のちっぽけな芽が出るようにってね。金ボタンがどうしたってんだ。くだらねえ」
「大きな口をたたくでない、ジャック」と主人は陰気くさく、哀れっぽい声でとがめるように言った。
「税関の役人なら、金ボタンがじゃまになってきたら」とジャックは、このいやな金ボタンという言葉をいかにも軽蔑したようにまた口にした。「そいつをどうすりゃいいかぐらい先刻ご承知ですぜ。大体船底に税関でも隠れてるんでなかったら、漕ぎ手が4人に客2人のガリー船がだな、潮が変わるたびに上ったり下ったり、しかも潮の流れに乗ったり、わざわざ逆らったりして、いつまでもしつこくうろつくわけがねえだろが」彼はこれだけ言ってしまうと、まったく話にならんといったふてぶてしい態度で出ていった。こうなると主人は頼りになる者がいなくなり、自分一人ではこの話題の先を続けることはできなかった。
この二人のやりとりを聞いて、私たち一同は不安になったが、とりわけ私は深い不安に襲われた。この家に吹きつける不気味な風が、ひそかに嘆くように聞こえ、岸に寄せる波はぴちゃぴちゃと音を立てていた。そして私たちはすでに籠のなかの鳥も同然で、すぐに逮捕されるような予感がした。4本櫂のガリー船が、ジャックの話のように、目につくほど異様にうろついていたということは、私にはどうしても聞き流しにできない不吉な事態としか思えなかった。そこで、プロヴィスをなんとか言いくるめて先に休ませてから、私は2人の友人と戸外に出てもう一度計画を練りなおした。つまり午後1時ごろに汽船が通過することになっているから、その時刻までこの居酒屋にとどまっていいものか、それとも早朝にここを出発してしまったものか、三人で検討した。その結果、汽船の通過時刻の1時間くらいまえまでこのままこの宿に身を隠していて、それから汽船の通るあたりまでボートを出して、干潮にのって流しているのがいいだろうということに、皆の意見がほぼ一致した。そこでそうすることにきめて、私たちは宿に帰り、ベッドにもぐった。
私はろくに服もぬがずにそのままごろっと横になり、2、3時間ぐっすり眠った。目を覚ますと、風は一層ひどく吹き荒れていて、この宿の看板(<船>が屋号であった)がぎしぎし鳴っているかと思うと、突然どすんと大きな音響がした。これには私もすっかり度肝を抜かれた。私の脇には匿っているプロヴィスがまだぐっすりと眠っていたので、そっと起き上がり、窓から外を眺めた。その窓からは私たちのボートを引き揚げておいた土手道が一目で見られた。そして、雲に隠れた月のほのかな光にようやく目が慣れてきたとき、私は2人の男が私たちのボートをのぞきこんでいるのが見えた。彼らはほかのものには目もくれずに、私の窓の下を通り過ぎた。そして、何もなくがらんとしていることがわかった船着場のほうへは行かず、沼地を横断して北の方角へ歩いていった。
そのときとっさに、私はハーバートをたたき起こして、彼にもこの立ち去っていく男たちを見せたいという衝動に駆られた。ハーバートの部屋は宿の裏手にあって、私の部屋とは隣り合わせだった。彼の部屋へ行きかけたが、彼とスタートップはきのう一日で精力を使い果たし、私などよりよほど疲労しているのだと思いなおし、彼を起こすのを控えた。そこでまた、部屋に引き返して外を見ると、やはり2人の男が沼地を歩いているのが見えた。しかし彼らの姿は、すぐにほのかな月の光のなかに消えてしまった。私は急に寒くなったので、この一件はベッドに横になってから考えようと思ったのだが、そのうちまたぐっすり眠りこんでしまった。
翌朝、私たちははやばやと起きた。朝食まえに4人そろってその辺を歩いたが、私は昨夜目撃したことを皆に伝えておいたほうがいいと思った。私の話を聞いて、あわてず一番落着いていたのは、今度もやはりプロヴィスだった。彼は私の話を聞くとこともなげに言った、その男たちはきっと税関のものだろうさ、けどあの連中はわしらのことは気にもかけとらんだろうよ、と。私は彼の言うままを信じこもうとしてみた — 事実そのとおりかもしれないのだから。それでも私はどこまでも慎重につぎのように提案した。— プロヴィスと私はここから目のとどくかぎりできるだけ遠くの地点まで歩き、しばらくそこで待機したうえ、正午ごろその地点か、あるいはそこに近い適当な場所でボートに乗り込むとしたらどうか、と。あくまでも用心するにこしたことはないと、みな賛成してくれたので、朝食を終わるとすぐに、居酒屋の者にも黙って、プロヴィスと私は出発した。
プロヴィスは歩きながらパイプをふかし、ときどき立ち止まって私の肩をぽんとたたいた。何も知らない人が私たちを見たら、身の危険を感じてびくびくしているのはむしろ私のほうで、彼が私を励ましているのだと思ったことだろう。でも私たちはほとんど口をきかなかった。目的の地点に近づくと、私は彼に、偵察してくるから適当な物陰に隠れていてくれるようにたのんだ。というのは、昨夜例の男たちが立ち去ったのはちょうどその方角だったからだ。プロヴィスが同意してくれたので、私は一人で歩いていった。この地点には舟は見あたらなかったし、その近くに引き揚げられた舟もなかった。また、そのあたりでひとが舟に乗ったと思われる形跡もなかった。もっとも、今は満潮時で当然水かさが増しているのであるから、かりに足跡が残っていたとしても、水の下になって見えなかっただろう。
プロヴィスはすこし離れた物影から顔を出し、私が帽子を振ってこっちに来るように合図をしているのを見とどけ、こちらへやってきた。そこで、その場所で私たちは待機することにした。私たちは外套にくるまって、土手の上に寝ころんだり、ときどきからだを暖めるために、そこらを歩いたりして待っていた。ついに私たちのボートがこちらに進んでくるのが見えた。プロヴィスと私が乗り移るのに手間はかからなかった。そこでさっそくボートを河のなかほどへ進め、例の汽船の通路にのり入れた。時刻は午後1時までにあと10分しかなかった。私たちは伸びあがって、やがて現れるはずの汽船の煙をさがしていた。
1時半をまわったころ、ようやく待望の煙が見えた。そしてまもなくそのあとからもう一隻の汽船の煙も見えてきた。汽船は2隻とも全速力で近づいてくるので、私たちはすぐにでも乗り移れるように2つの鞄を手もとに用意し、このわずかな機会をのがさず、ハーバートとスタートップに別れの挨拶をした。私たちはお互いに心をこめて握手をかわしたのだ。ところが、ハーバートと私の目に溢れた涙がまだすっかり乾かないうちに、突然私は、私たちのほんのすこし前方の堤の影から4本櫂のガリー船が一隻、矢のように飛び出し、私たちと同様、汽船の通路に漕ぎ入れるのが見えた。
河筋が幾重にも折れ曲がっているので、これまでは私たちと汽船の煙のあいだには長く高い岸が視界に入っていた。しかし今や汽船は直線コースに入ってその全容を現し、船首をたててまっしぐらに突進してきた。私は、私たちが汽船を待っているのだとはっきり相手にわからせるために、ボートを潮の流れに乗せてくれとハーバートとスターシップにたのんだ。またプロヴィスには、外套にくるまってじっと動かずにすわっているように言った。彼は「わかったよ、ピップ」と元気な声で答えて、まるで彫像のようにじっとすわっていた。その間に、例のガリー船は、たくみに櫂をあやつって、私たちのボートの前方を横切り、私たちが追いつくのを待ってぴたりと並んだ。ガリー船は私たちのボートとは櫂が触れ合うほど近寄って離れようとせず、私たちが櫂を止めて流せば彼らも流し、こちらが一漕ぎ二漕ぎすると、相手も同じように漕ぐのだった。ガリー船にすわっている2人の男のうち、1人は舵綱をにぎって、4人の漕ぎ手と同様に、私たちからひとときも目を離さなかった。もう1人の男は、プロヴィスと同じように外套にすっぽりくるまって、おびえたように小さくなっていたが、やはり私たちのほうを見ながら、舵綱を持つ男に何事かささやいているようだった。しかし、どちらのボートもみな押し黙って、お互いにひと声も声をかけなかった。
沈黙が2、3分続いたあと、スタートップは先頭の汽船がどこの船か識別できたらしく、向かいあってすわっている私に向かって、小声で「ハンブルク」と教えてくれた。汽船は急速に私たちに近づき、外輪の水掻きの水を打つ音がますます大きくなった。私たちのボートが汽船の影にすっかり入ってしまったと思われたとき、ガリー船の男が初めて声をかけた。そして私がそれに応答した。
「流刑地から舞い戻ってきた男が、そこに乗っているな」と舵綱をにぎった男が言ったのだ。「外套にくるまっているその男だ。名前はエーベル・マグウィッチ、別名プロヴィス。その男を逮捕する。神妙にしろ。お前たちも手を貸すんだ」
こう言いおわると同時に、4人の部下にとくに命令も発しないのに、あっというまにガリー船は私たちのボートに横づけになっていた。それから突然一漕ぎ強く櫂を引いて前進し、そのまま櫂を水中におとして方向を転換し、私たちのボートの前を横切って、ボートの舷側がガリー船の後尾に接したところで、私たちの船べりを捕えた。ガリー船がいったい何をたくらんでいるのか、私たちにその意図が読めず、また考えるいとまもなく、ボートはつかまってしまっていたのだ。このため、汽船の甲板は大騒ぎになっていた。甲板からは私たちに何やら口々にわめく声が聞こえ、大声で水掻きを止めろと命令していた。おかげで水掻きの音はやんだが、惰性で舳先は依然私たちに迫ってくるのが考えられた。と同時に私は、ガリー船の例の舵手がお目当ての流刑囚の肩に手をかけるのを見た。そして2つのボートが、潮の力でぐるっと一回転し、汽船の乗務員が狂ったように甲板を走ってくるのを見た。そして同じ瞬間に、流刑囚がにわかに立ちあがり、彼を捕えようとする男の手をくぐり抜け、ガリー船にちぢこまってすわっていた男の頸から、やにわに外套をもぎ取るのを見た。そしてまた同じ瞬間に、そのさらけ出された顔が、ほかならぬ、見覚えのあるもう一人の脱獄囚の顔であるのを知った。またそのとき同時に、その顔は、終生忘れないほど印象的なものだったが、みるみる蒼白に変わり、のけぞるように後ろにそりかえった。そして汽船の甲板から大きな叫び声があがり、ざぶんと何かが水中に落ちた大きな音が聞こえ、私の足もとからボートが傾いて沈んでいくのが感じられた。
ほんの一瞬のことだったが、私は無数の堰にぶち当たり無数の閃光を見たような気がした。この一瞬が過ぎると、私はガリー船の上に引き揚げられていた。ハーバートもスタートップもガリー船のなかにいたが、私たちのボートは水中に没して見えず、2人の脱獄囚の姿もなかった。 汽船の甲板からあがる叫び声や、狂ったように鳴る汽船の音が交錯し、汽船がぐーっと前進してくるかと思うと、今度はガリー船が突進したりで、初めのうち私には空と水が入り乱れて、なにがなにやら見当がつかず、左右の河岸の区別さえつかなかった。だが、ガリー船の乗組員はたちまち船の向きを立て直し、また何度か櫂を強く引いて前進した。それからいっせいに櫂をとめ、屈み込むようにして、だまって船尾のがわの水面にじっと目をこらしていた。まもなくその方角の水のなかに黒いものが見え、潮に乗って、私のほうへ流れてきた。だれも口をきくものはなかったが、舵手が片手をあげると、4人の漕ぎ手はゆっくりと櫂を逆に漕いで真正面に回った。黒いものが流れてくるのをよく見ると、それはマグウィッチだった。泳いでいたのだが、どこか無理をした不自然な泳ぎかたであった。彼は船の上に引き揚げられると、ただちに手首と足首にかせをはめられた。
ガリー船は船首の向きをそのままにして、黙々として熱心な水上の捜索を再開した。ところがそのうちに、ハンブルク行きの汽船のあとに続いていたロッテルダム行きの汽船も近づいたが、これは何事が起こったか知らないらしく、スピードを落とさずぐんぐん迫ってきた。さいわい大声をあげて合図を送り、やっと汽船をとめることはできたが、そのうち、2隻の汽船とも潮に流されて、私たちから徐々に遠ざかっていった。私たちの船は、汽船が通ったあとの余波をくらい、大きく上下に揺れた。その波もすっかりおさまり、2隻の汽船の姿が見えなくなってからも、なお捜索は長く続けられた。だがもう助かる望みのないことは、みんなにわかっていた。
ついに私たちは捜索を打ち切った。そして堤に沿って船を進め、さきほどあとにしたばかりの居酒屋へ向かった。居酒屋ではことの成り行きに少なからず驚きながら、私たちを迎えてくれた。ここでマグウィッチのために — もはやプロヴィスではない — 少しばかりの飲食物を手に入れることができた。彼は脳に重傷を負い、頭には深い切傷が口を開いていた。
彼の語るところによれば、汽船の竜骨の下に沈んでしまったため、浮き上がるときに頭をぶつけたにちがいない、ということだった。胸の傷は(このために彼はとても息が苦しそうだったが)ガリー船の腹にぶつかったときやられたらしい、と彼は考えていた。そしてつぎのようにつけ加えて言った。あのとき、自分がコンペーソンのやつをどうしてやろうと思ったとか、思わなかったとか、そんなことは何も言いたくない。ただやつの顔を確かめてやろうと、顔を隠していた外套に手をかけたとたんに、あの悪党め、よろよろと立ちあがって後ろによろめきやがったので、ふたりもろともに水のなかに落ちてしまったのだ、と。私たちのボートからマグウィッチが急にもぎ取られるみたいにガリー船に乗り移ったために、また彼を逮捕しようとした男が、そうはさせまいと後ろから飛びついたために、私たちのボートはバランスを失って転覆したのだった、と。彼は私にささやくようにこう言った — わしらはがっちり組みついたまんま、ぐんぐん沈んでいった。そして河底までおりてそこでまた格闘したんだよ。それからわしは、やつを振り離して、手足をばたばたやり、浮き上がってったんだ、と。
このように彼が話してくれることがすべて事実に即していることに、疑いをはさむ理由は少しもなかった。ガリー船の舵を取っていた男は実は役人だったのだが、その役人が語るふたりが船から落ちたときの模様も、マグウィッチの言葉を裏書きしていた。
私はその役人にたのんで、できればこの居酒屋で不要な衣類でも買い入れて、この囚人の濡れた服を着替えさせたいと言うと、彼はすぐ許可してくれた。ただ囚人が身につけているものはすべて自分が預らなくてはならないのだ、と条件をつけた。そこで、マグウィッチから渡され、一度は私の手のうちにあった例の財布も、この役人の手に渡ってしまった。彼はさらに、私がこの囚人に付き添ってロンドンに戻ることも許可してくれた。しかし、私の2人の友人にこの特権を与えることはさすがにこばんだのである。
<船>亭のジャックは、溺死したと思われる男が沈んでいった地点を教えられると、死体が一番流れ着きそうな河岸にがんばって、死体の捜索をすることを引き受けた。彼は死体が靴下を着けていたと聞くと、この捜索に対する興味を一段と深めてきたらしい。おそらく、彼の身支度を上から下まですっかり整えるには、1ダースほどの土左衛門が揚がらなくてはならないだろう。また、彼が身につけている衣類が、新しい物から古物までまちまちである理由も、ここらにあるだろうと納得できた。 潮の流れが変わるまで、私たちは居酒屋で待機した。それからマグウィッチは岸に引き出され、ガリー船に乗せられた。ハーバートとスタートップは陸路をできるだけ早くロンドンに帰ることになった。私たちは悲しい別れを告げたが、そのあとマグウィッチの横にすわったとき、これからさき彼が生きているかぎり、自分の占めるべき場所はここよりほかにないのだと痛感した。
それというのも、彼に対して抱いていた嫌悪感は、今やあとかたもなく消え去っていたのだ。そして、今私の手をにぎっている男のうちに、追いたてられ、傷つけられ、手足にかせをかけられた男のうちに、純粋な気持から私の恩人になろうとした人、何年ものあいだ少しも変わらず深い愛情と感謝と寛大さを私に注いでくれた人間だけを、見ていたのである。つまり私は、私がジョーに取ってきた態度よりも、はるかに立派な態度で終始した人を、彼のうちに見たのだった。
夜が迫ってくるにつれて、マグウィッチはますます呼吸困難におちいり、いよいよ苦しそうになった。そしてうめき声を押さえることができないこともしばしばだった。私はまだ使えるほうの腕に、なんとか彼を楽な姿勢で寄りかからせようと苦心した。ところが、われながら恐るべきことだったが、私は内心彼が重傷を負ったことをそれほど気の毒に思っていなかった。この際傷のために死んでしまうのが、彼のために一番よいことがはっきりしていたのだから。彼が流刑囚マグウィッチであることを、場合によっては自分から進んで証言することのできる者がまだまだ生きているにちがいないことも、疑う余地はなかった。また裁判にかけられても死罪をまぬがれることは、とうてい望めはしない。これまでの裁判でも、いつも同情が集まらず、最も不利な立場に立たされてきたのだ。そのうえ脱獄まで犯してまたまた裁判にかけられ、さらには終身流罪に服しながら流刑地を抜けだし、あげくの果て、彼の逮捕の手引きをした男の死の原因にすらなったのだから。
きのう背後に残してきた夕陽に向かって戻りながら、また私たちの希望の流れがみんなとうとう後方に流れ去っていくのを感じながら、私はマグウィッチに、あなたが私のために危険を冒して帰国されたのだと思うと、胸が張り裂けるほど悲しくなります、と言った。
「だけどなあ、ピップ」と彼は答えた。「いちかばちか、冒険してみてよかったと今じゃ満足しているんだよ。おまえに会えたし、もうわしがいなくなったって、立派な紳士になれるんだからな」
いや、そうはいかない。私と彼と並んですわっているあいだ、そのことについてずーっと考えていたのだった。そうはならないのだ。彼の申し出を断ろうと思っている。私の現在の心境は別にしても、ウェミックが動産を離すなと忠告してくれた意味が、今よく理解できた。マグウィッチが有罪の宣告を受ければ、彼の財産はことごとく国庫に没収されることになる、と今では私にも予想できた。
「なあ、ピップ」と彼は言った。「ここまでくりゃ、紳士としてはだな、わしにかかわりあいがあったなんて知られんほうがいい。面会に来てくれるにしても、偶然通りがかったふりをして、ウェミックといっしょに来てくれるだけでたくさんだ。それから、これがいよいよ最後になるだろうが、わしが法廷で宣誓するときには、わしが見えるところにすわってくれんか。これだけがわしのたのみだ」
「ぼくはあなたのかたわらにいることが許されるときにはいつでも」と私は言った。「あなたのかたわらから一歩も離れないつもりです。神に誓います、あなたがこれまで私に誠実であったように、あなたに対して誠実をつくします」
この台本を作成するに当たり、佐々木徹訳(河出文庫)、日高八郎訳(中央公論社)、山西英一訳(新潮文庫)から多くの引用をさせていただきました。