プチ朗読用台本「有頂天になったスクルージ」

 幽霊はゆっくり、重々しく、黙って、近づいてきた。すぐ近くに来たとき、スクルージはひざまずいた。精霊は、動いているそのまわりの空気に陰鬱と神秘とをまき散らしているように思われたからである。

 それは真っ黒い衣を着て、頭も、顔も、身体もすっぽり隠れ、見えるのは差し伸ばした片方の手だけである。その手が見えなかったら、精霊の姿と夜陰と見分け、そのまわりの暗闇と区別することはむずかしかっただろう。

 精霊が並んで立ったとき、スクルージは、背の高い、堂々たる姿だなと思い、この神秘な存在に対するおごそかな畏怖心をひしひしと感じた。精霊がなにも言わず、身動きもしないので、彼にはそれ以上のことはわからなかった。

「わたしは未来のクリスマスの精霊さんの御前にいるのでございますか」スクルージが言った。

 精霊は答えないで、前方を指差した。

「あなたは、まだ起きていないが、将来起きることの幻影をわたしに見せてくださる」スクルージが続けて言った。「そうでございますね、精霊さん」

 衣の上のほうの襞になったところが、精霊が頭を傾けでもしたように、一瞬縮んだ。それが、スクルージの受け取った唯一の返事であった。

 この頃には亡霊の相手をすることにはかなり慣れてはいたけれども、スクルージには黙っている幽霊がたいへん恐ろしく思われ、両脚ががたがた震え、後ろについて行こうとしたときには立ち上がることもできなかった。精霊はこのありさまに気づいて、ちょっとのあいだ立ち止まったまま、彼に立ち直る時間を与えた。

 だが、そのためにかえってスクルージはなおさら具合が悪くなった。いくら懸命に目を見はっても、物の怪めいた片手と大きな黒い塊のほかにはなにも見えないのに、この薄黒い帷子の後ろに自分をじっと見つめている亡霊の目があるのだと思うと、なんともいいようのない、漠然とした恐ろしさで身体がぞくぞくしてきた。

「未来の精霊さん!」彼は叫んだ。「いままで見たどんな幽霊よりも、あなたさまのほうがずっと恐ろしい。けれども、あなたの目的がわたしのためになることをなさるのだと知っておりますし、昔のわたしとは違う人間になって生きてゆきたいと思っていますので、お供する覚悟はできております。それも心から有難いと思ってお供致します。わたしに言葉をかけていただけぬものでしょうか」

 亡霊は彼に返事はしなかった。ただ、その手が2人の前方をまっすぐに指さしていた。

「案内していただきましょう」スクルージが言った。「夜は更けていきます。時は金なりと言いますし。案内していただきましょう。精霊さん」

 幽霊は来たときと同じように動いていった。スクルージはその衣の影の中に入って、ついていった。その影が自分を持ち上げて運んでくれているのだ、とスクルージは思った。

 2人のほうから街に入っていったとは思われなかった。むしろ、まわりに街が忽然と現れて、そちらのほうから進んで2人をとり巻いたふうであった。とにかく、2人はそのまんなかにいて、取引所で商人たちに混じっていた。商人たちは急ぎ足に行ったり来たりし、ポケットの中でお金をじゃらじゃら鳴らし、あちこちに集まっては話を交わし、時計を眺め、思案げに大きな金の印鑑をいじったり、そのほか、スクルージがこれまでによく見慣れたことをしていた。

 精霊は商人たちの小さな一群れの近くに立ちどまった。その手が彼らをさしているのに気づいて、スクルージは近寄って彼らの話を聞いてみた。

「いや、いずれにしてもわたしはよくは知らんのです。ただ、あの男が死んだということを知っているだけなんでね」二重顎の太った男が言った。

「いつ死んだのかね」別の男が尋ねた。

「たしか、ゆうべだと思いますが」

「いったい、どうしたんでしょうな」やけに大きな煙草入れから大量の嗅ぎ煙草を取りだしながら、3人目の男が尋ねた。「とうてい死ぬような人じゃないと思っていましたがねえ」

「わからないものだね」最初の男があくびをしながら言った。

「あの人はお金をどうしたんでしょうなあ」赤ら顔の男が言った。

「それは聞いておりませんな」二重顎の男がまたあくびをしながら言った。「同業組合に残したんでしょう、多分。わたしには残してくれませんでしたよ。それだけは確かですな」

 この冗談に一同がどっと笑った。

「安あがりの葬式になることでしょうな」同じ男が言った。「どう考えても会葬者があるとは思えませんからねえ。そこで、わたしたちが一座を組んで志願してみたら、どんなものでしょう」

「昼食が出るんだったら、行ってもいいですよ」赤ら顔の男が言った。「わたしが一座にはいるんなら、ごちそうしてもらわなくちゃ


 また一同がどっと笑った。

「さて、結局のところ、みんなのうちで、わたしがいちばんさっぱりした人間ということになりますな」最初の男が言った。「わたしは黒い手袋をはめることはしませんし、昼食もいただきませんからね。だが、誰か行くんだったら、わたしも行きますよ。考えてみれば、わたしがあの人とつき合いがなかったとは断言できませんからなあ。いつも会えば、立ちどまって話をしたものでしたよ。じゃ、これで失礼」

 話し手も聞き手もぶらぶらと去っていって、そして別の群れと混じってしまった。スクルージはこの男たちを知っていたので、説明を聞こうと、精霊の方を見た。

 精霊はすべるように通りのほうに出ていった。その指は立ち話をしている2人の男を指さした。スクルージは説明が聞かれるかもしれないと思って、また耳をすませた。

 彼はこの人たちのこともよく知っていた。彼らは実業家で、たいへん金持ちの有力者であった。彼はいつもこの人たちによく思われるように努めていた。商売上の観点から、厳密に商売上の観点からではあったが。

「やあ、これは」一人が言った。

「やあ、これは」もう一人が答えた。

「まったく」初めの男が言った。「あの悪党めが、とうとうくたばったんですな」

「そういう話ですな」2番目の男が言った。「寒くなりましたなあ」

「クリスマスの時節には、順当でしょう。スケートはおやりにならない」

「いや、いや。ほかに考えなきゃならんことがありましてな。では、これで失礼します」

 それだけの話が交わされただけだった。こんな具合に、彼らは出会い、会話を交わし、そして別れた。

 自分自身の姿を捜そうと思って、その場所であたりを見まわしてみたが、いつも彼が立っていた片隅の場所には別の男が立っていた。時計はいつも彼がそこにいる時間を示しているが、表玄関から流れ込んでくる人たちの群れの中に自分の姿はなかった。しかし、それでも彼はあまり驚かなかった。というのは、心の中では人生を一変させようと思いめぐらしていたのだし、新たに生まれたその決意がここで実行されるのが見られると思い、またそう希望してもいたからである。

 静かな、黒い精霊が片手をさし伸ばして彼のそばに立った。スクルージが深い物思いからはっとわれに帰ると、その手の格好や自分に対する位置からして、例の見えない隠れた目がじっとこちらを見つめているな、と思った。それで、身体がぞくぞく震え、ひどい寒気を感じた。

 2人はにぎやかなこの場面を後にして、街の場末へはいっていった。とかくの噂は耳にしていたが、これまでついぞ足を向けたことがない界隈だった。道は狭くて汚く、商店も住む家もみすぼらしかった。人々は半裸で、酔っぱらって、だらしなく、醜悪だった。路地やアーチのある横町は、汚水溜のように、胸が悪くなるような臭いと汚物とそして生き物を、家もまばらな街路に、吐き出し、その界隈一帯が犯罪と汚穢と悲惨でぷんぷんと悪臭に満ちていた。

 このいまわしい巣窟の奥の方に軒の低い、廂の出っ張った店がさしかけ屋根の下にあって、そこでは、鉄くず、ぼろ布、瓶、骨類、脂ぎった臓物を買い入れていた。中の床の上には、錆びた鍵、折れ釘、鎖、蝶番、やすり、秤皿、分銅、あらゆる種類のくず鉄が山のように積まれていた。見苦しいぼろの山や、腐った脂肉の塊や、骨の塚には、調べてみようという気にもなれない数々の秘密がはぐくまれ隠されていた。古い煉瓦で作った木炭ストーブのかたわらで、自分が商う品物に囲まれて座っているのは、70才に近い白髪頭の一癖ありげな老人である。この老人は一本の綱にさまざまなぼろ布をぶらさげた汚らしいカーテンで外の寒い空気から身を守り、静かに人目に立たず暮らせるのが満足至極といいたげにパイプをくゆらしていた。

 スクルージと精霊がこの男の前に立つと、ちょうどそのとき、重い包みを持った女がこっそり店の中にはいってきた。すると、この女が中にはいるかはいらぬかのうちに、同じような荷物を持った女がまた一人やってきた。そして、すぐその後から、色あせた黒い服を着た男が来た。2人の女はたがいに顔を見あわせてびっくりしたが、その男も2人を見て同じようにびっくりしていた。パイプをくわえた老人もいっしょになって、ちょっとのあいだ、ぽかんと驚いていたが、すぐに3人ともどっと笑いだした。

「放っておいても雑役婦はいちばん先に来るものなのさ」初めにはいってきた女が言った。「放っておいても洗濯女は2番目に来るわね。そして、葬儀屋の手代は3番目に来るものと決まっているわ。ねえ、ちょいと、ジョー爺さん、これがめぐりあわせというものさね。そうするつもりもなかったのに、あたしたち3人がそろってここで会うなんてさ」

「おまえさんたち、ここよりいい場所で出くわすことはまずあるめえな」口からパイプを離しながらジョー爺さんが言った。「さ、茶の間にはいってくれ。おまえさんは、ずっと昔から出入自由だったし、あとの2人だってまんざら知らない顔でもあるまい。すぐ店の戸を閉めるから待ちな。おや!やけにきーきーいう戸じゃねえか!この蝶番ほど錆ついた金物はここにねえよ。それは、わしの骨ほど古い骨もねえのと同じだわ。ははは!わしらはみなこの商売に似合っているよ。さ、茶の間にはいってくれ。さ、はいってくれ」

 茶の間というのは、ぼろのカーテンの後ろ側の場所のことであった。老人は階段の絨毯押えの古い金棒で火を掻き集め、パイプの柄で煤けたランプの芯を直し(夜だったからである)、それからパイプを口にもっていった。

 老人がそうしているあいだに、いましゃべった女が包みを床の上に放り投げ、丸椅子に得意そうな顔付きをして座った。そして、膝の上でうでを組んで、他の2人を高慢ちきな態度で眺めた。

「そんなこと、かまやしないよ!かまうことないやねえ、ディルバーのおかみさん」その女が言った。「誰にだって自分のことを大事にする権利があるんだよ。あの男はいつもそうだった!」

「そのとおりだよ、ほんとに!」洗濯女が言った。「あの爺さんほど、そうだった人はいないよ」

「だったらさ、そんなに恐ろしそうにきょろきょろしてつっ立っていることはないんだよ。誰にわかるもんかね。あたしたち、おたがいにあら捜しはしないと思うんだけどね」

「ほんとだよ!」ディルバーのかみさんと男がいっしょに言った。「そんなこと、ないさ」

「そんなら、いいじゃないか!」先の女が声を強めて言った。「それでたくさんさ。これっぽっちのものがなくなったって、誰が困るもんかね。死んだ人が困るわけじゃなし」

「もちろん、困りゃしないさ」ディルバーのかみさんが笑いながら言った。

「死んでからも、手放したくないんならさ、あのごうつくばりの因業じじいめ」女が言葉を続けた。「なんだって、生きているうちに人間らしくしなかったんだい。もしそうしていたら、死神に取りつかれた後でも面倒見てくれる人がいたろうにさ。そうすりゃあ、あんな風にひとりぼっちで息を引き取ることもなかったはずじゃないか」

「まったくあんたの言うとおりだよ」ディルバーのかみさんが言った。「罰があたったのさ」

「もう少し重い罰だとよかったのにさ」女が答えた。「あたしだったら、もっと重い罰にしてやれたろうにさ、ほんとだよ、ジョー爺さん、その包みを開けて、値をつけておくれよ。遠慮なくはっきり言っとくれ。あたしゃ、一番先だって、こわかないし、見られたってなんともないんだから。あたしたち、勝手に頂戴していたことを、ここで出くわす前からおたがいによく知ってたんだからね。別に罪というほどのことでもないさ。包みを開けとくれよ、ジョー爺さん」

 ところが、他の2人も鼻っぱしが強かったのでそうはさせなかった。あせた黒い服を着た男がまず先鞭をつけて、自分の分捕品を取りだした。それはたいしてかさのあるものではなかった。印鑑が1つ2つ、鉛筆入れ1個、カフスボタン1組、さして金目にならぬブローチ1個、それが全部だった。ジョー爺さんはそれを1つ1つよく調べて値踏みして、それぞれに払ってもいいと思う値をチョークで黒板に書き、もうこれ以上なにもないとわかったとき、合計して総額を出した。

「こんなもんだな」ジョー爺さんが言った。「もう6ペンスだって出ないな。釜ゆでにされたって出せるもんじゃねえ。次は誰だい」
 次はディルバーのかみさんの番だった。シーツ、タオル、ちょっとした衣類、すたれた型の銀の茶匙2本、砂糖挟み1つ、靴2、3足。彼女の金額も同じように黒板に示された。

「わしはいつもご婦人には出しすぎるんでな。そこがわしの弱いとこさ。それで損ばかりすることになるんだな」ジョー爺さんが言った。「これがおまえさんの勘定だ。もしあと1ペニー出せのどうのこうのとごたくを並べると、こんなに気前よくなったのを思いなおして、半クラウン差っ引いてしまうからな」

「さ、今度はあたしの包みをほどいとくれ、ジョー爺さん」最初の女が言った。  ジョーは包みを開きやすいように両膝をつき、いくつもある結び目を解いて、なんだか黒っぽい布を大きく巻いた重いものをひっぱりだした。

「こりゃなんだい!」ジョーが言った。「寝台のカーテンじゃないか」

「ああ!」腕を組んだまま前かがみになって、笑いながら女が返事をした。「寝台のカーテンさ」

「おまえさん、まさか、あの男が寝台に寝ているうちに、全部外して持ってきたんじゃないだろうね」ジョーが言った。

「ああ、そうなのさ」女が答えた。「いけないかね?」

「おまえさんは財産を作るように生まれついているよ」ジョーが言った。「いまに間違いなく一財産つくるね」

「手を伸ばせば金目のものをつかめるときに、手を出さずにいられるもんかね。あんな男のために遠慮するなんてことはご免だよ、そうじゃないか」女は冷ややかに答えた。「ほら、毛布にランプの油を落とさないでおくれ」

「あの男の毛布かい」ジョーが尋ねた。

「そうでなきゃ誰のだと思う」女が答えた。「こんなものなくたって、あの男は風邪なんかひきゃしないよ、たぶん」

「なにか伝染病にかかって死んだんじゃないだろうな、ええ」ジョー爺さんは手をとめて見あげた。

「そんな心配はしなくていいよ」女が答えた。「もしそうだったら、あたしゃ、もともとあいつとつきあうのは好きじゃないんだから、こんなもののためにあいつのそばをうろつきゃしないよ。ああ!目が痛くなるほどそのシャツを見たって、穴1つあいていなけりゃ、すり切れたところだって1つもないよ。それはあいつの持物の中じゃいちばんいいものだし、それにかなりいい品なんだよ。あたしがいなけりゃ、無駄にしてしまうところだったのさ」

「無駄にするってどういうことかね」ジョー爺さんが言った。

「きっと着せたまま埋葬してしまうってことさ」笑いながら女が答えた。「そんなことをする馬鹿がいたけど、あたしがまた剥ぎとってしまったんだよ。それにはキャラコでたくさんさ。キャラコなんかほかに使いようがないじゃないか。死骸にはよく似合ったよ。そのシャツを着ていたって、醜いことには変わりはないやね」

 スクルージはこのやりとりを聞いて、ぞっとした。老人のランプが放つわずかばかりの光の下で分捕品を囲んで車座になっているこの人たちを、彼は激しい憎悪と嫌悪をもって見た。彼らがたとえ死体そのものを売り買いするいまわしい悪鬼であったとしても、これほどの嫌悪も憎悪も感じなかったろう。

 ジョー爺さんが金のはいったフランネルの袋を取りだして、地べたにそれぞれの取り分を並べると、この女は「は、は!」と笑った。「とどのつまりはこうなるんだねえ。あいつは生きているとき、誰もかれもおどして寄せつけなかったけど、それは死んでからこうしてあたしたちに儲けさせてくれるためだったんだよ。は、は、は!」

「精霊さん」スクルージは頭から足の先まで身体を震わせた。「わかりました、わかりましたよ。この不幸な男の立場は、私自身の立場なのかもしれませんね。わたしの人生も、いま、そのほうに向かっているんです。おやおや、これはどういうことだ!」  
彼はぎょっとなって後ろへ下がった。というのは、場面が変わって、彼はカーテンのないむきだしのベッドの間近に立っていたからだ。そのベッドの上にぼろにくるまってなにかが横たわっていた。それは、口をきかなかったが、恐ろしい言葉で自分が何ものであるかを語っているかのようだった。

 その部屋は暗かった。どんな部屋なのか知りたくてたまらずあたりを見まわしたが、あまりに暗すぎて、はっきりとは見えなかった。外の空に昇りかけた蒼白い光がまっすぐにベッドに落ちた。そのベッドの上には、剥ぎとられ、奪いとられ、看とる人もなく、泣いてくれる人も、世話をしてくれる人もなしに、あの男の遺体が横たわっていた。

 スクルージは精霊のほうをちらりと見た。断固としたその手は頭のほうを指さした。覆いがぞんざいにかけてあるので、ちょっと持ち上げただけで、スクルージが指をちょっと動かしただけで、顔が見えそうだ。彼はそう思い、そうするのはたやすいことだという気持ちがし、そうしてみたかった。だが、かれのわきにいる幽霊を追いはらうことができないのと同じように、その覆いをとり除くことは彼にはできなかった。

 おお、冷たい、冷たい、厳しい、恐ろしい死よ、ここにおまえの祭壇を設けて、おまえの意のままになる数々の恐怖でもってそれを飾るがいい。ここはおまえの領土なのだから。しかし、おまえは、愛され、うやまわれ、たたえられた人の頭の髪1本とて、おまえの恐ろしい目的のために使うことはできない。また、目鼻立ち一つだって醜いものにすることはできない。それは、手が重く、離せば落ちるからではない。心臓も脈拍もとまっているからではない。そうではなくて、その手は曾ては開き、寛大で、誠実だったからだ。心が剛毅で温かく優しく、また脈拍が人間らしいものだったからだ。突け、死の影よ、刺すがいい!そして、この男の善行が傷口より噴きだして、世界に不滅の生命の種を植えつけるのを見るがいい。

 なにかの声がスクルージの耳にこうした言葉を告げたわけではない。しかし、彼はベッドの上を見たとき、その言葉を耳にしたのである。もしこの男がいま起きあがることができるとしたら、まっさきに考えることはなんだろう、とスクルージは思った。貪欲、冷酷な取引、身を噛む猜疑か。そうしたもののために、この男はこのようなみじめな最後をとげることになったのではないか!

 その男は暗いがらんとした家に横たわっていた。そこには、あれやこれやで親切にしてもらったから、その優しい一言の思い出にこの人にも親切にしてやろうなどと言う男も女も、また子供もいなかった。猫が一匹ドアをがりがりひっ掻き、炉石の下で鼠がかじる音がした。これらのものが死の部屋でなにを欲し、またなぜこんなに落ちつきなく騒いでいるのか、スクルージは考えてみる勇気もなかった。

「精霊さん」彼は言った。「ここは恐ろしいところです。ここを去っても、その教訓を忘れることはありません。ほんとうです。さあ、行きましょう」

 しかし、それでも亡霊は不動の指でその男の顔のほうを指さしたままでいた。 「あなたさまのお心はよくわかります」スクルージが返事をした。「そして、できることなら、わたしもそうしたいところです。でも、わたしには布切れ一枚を払いのける力がありません、精霊さん、力がないのです」

 亡霊がまた彼のほうを見ているようだ。

「この男が死んだために心を動かされている人がこの街にいたら」すっかり苦しさにたえ切れなくなってスクルージが言った。「精霊さん、ぜひその人をわたしに見せてください。お願いです!」

 精霊がその黒い布をちょっとのあいだ翼のように広げて、もとどおりにすると、母親とその子供たちのいる昼間の部屋が現れた。  母親は誰かを待っているらしく、それも心配で立っていられぬといった様子で、部屋の中を行ったり来たりし、物音がするたびにはっとしていた。窓から外を眺め、時計に目をやり、また針仕事を続けようとするが、手につかず、遊んでいる子供たちの声にもいらいらして我慢できない様子である。

 とうとう、待ちに待ったドアをノックする音が聞こえた。彼女は急いでドアに駆けよって、夫を出迎えた。夫は、まだ若いのに、心労で憔悴し、やつれた顔をしていた。その顔にいま目立った表情が浮かんでいる。それはある種の真剣な喜びで、彼はそれを恥ずかしいと思い、抑え隠そうとしていた。

 彼は自分のためにとってあった炉のそばの食膳の前に腰をおろした。そして、妻が(長い沈黙の後でようやく)小さな声で、どんなでした、と尋ねたとき、夫はどう返事をしたものかとまどっているようだった。

「よかったのですか」彼女がうまく引き出すように尋ねた。「それとも悪かったのですか」

「悪い」彼が答えた。

「わたしたちすっかり破産ですわね」

「そんなことはない。まだ希望があるよ。キャロライン」

「もしあんな人の気持ちがやわらぐことがあったら」と彼女が驚いたように言った。「希望もあるでしょうね。もしそんな奇跡が起きるんだったら、望みのないことなんて、一つもありはしないわ」

「気持ちがやわらぐどころじゃないのさ」夫が言った。「あの人は死んだよ」

 その顔つきに偽りがないならば、彼女はおとなしくて、我慢強い女だった。だが、それを聞いて心の中でありがたいことだと思い、手を握りしめ、口に出してそう言った。そして、次の瞬間、神の許しを乞い、気の毒なことだと思った。けれども、最初の気持ちが彼女のほんとうの気持ちだったのである。

「ゆうべおまえに酔っぱらい女のことを話したが、わたしがあの人に会って一週間延ばしてくれと頼もうとしたときに、あの女が言ったことがほんとうだったんだよ。わたしに門前払いを食わせるための口実だと思っていたんだがね。あの人は病気がひどく悪かったばかりじゃなくて、あのときまさに危篤だったんだよ」

「わたしたちの借金は誰の手に移るんでしょうね」

「わからんね。だが、それまでにはわたしたちも金を用意することができる。たとえ用意できなくても、よくよくの不運でないかぎり、あの人の後をひき継ぐ人があれほどの情け知らずということはまずあるまい。今夜は軽い気持ちで寝ることができるだろうね、キャロライン」

 まったくそのとおり!うきうきすまいとしたが、ふたりの心は軽くなった。わからないながらも話を聞こうと鳴りを静めて集まってきた子供たちの顔も明るくなった。確かに、この男が死んだために家の中が仕合わせになったのである。亡霊がスクルージに見せた、この事件によってひき起こされた唯一の感情というのは、喜びの感情であったのだ。

「人の死を、まわりが思いやりのある心で看とるところを見せてくれ」とスクルージが言った。「そうでないと、精霊さん、いま出てきたあの暗い部屋がわたしの目の前に永久につきまとうでしょうから」

 亡霊は、スクルージの歩きなれた街を通ってを彼を導いていった。通りすぎるときに、自分の姿が見えないものかとあちこちに目をやったけれども、どこにも自分の姿は見えなかった。2人は貧しいボブ・クラチットの家にはいった。それは前に訪れたことのある家で、暖炉のまわりに母親と子供たちが座っていた。

 静かだった。とても静かだった。いつも騒いでいる幼い子供たちが、片隅に彫像のようにじっと座って、本を手にしたピーターを見あげていた。母親と娘たちは縫物に余念がない。だが、たしかに彼らは静かだった。

「『かくてイエス幼児をとりて、彼らの中におき……』」(新約聖書「マルコ伝」第9章36節)

 スクルージはどこでこの言葉を聞いたろうか。そのようなことは夢にも見たことがなかった。かれと精霊が敷居をまたいだときに、ピーターが読みあげたのにちがいない。なぜ彼は読みつづけなかったのだろう。

 母親が縫物をテーブルの上におき、顔に手をあてた。

「黒い色って目に悪いのね」と彼女が言った。

 黒い色だって。ああ、かわいそうなちびのティム!

「もうなおったわ」クラチットの細君が言った。「ろうそくの明かりだと、この色で目が疲れるんだねえ。お父さんがお帰りになったら、どんなことがあっても、疲れた目を見せたくないと思うわ。そろそろお帰りの時間よ」

「過ぎているくらいだよ」本を閉じてピーターが言った。「でも、父さんはここ二晩か三晩いつもよりゆっくり歩いて帰っているんだと思うな、かあさん」

 彼らはまた静かになった。やがて母親が落ちついて快活な声で言った、もっとも、一度だけ口ごもりはしたけれども。

「知っているわ — 知っているわ、ちびのティムを肩に乗せて、とっても早く歩いたことがあるのをね」

「ぼくも知っているよ」ピーターが言った。「何度もあったなあ」

「あたしも知っているわ」もう一人の子供が言った。みんなそのことは覚えていたのである

「でも、あの子はとても軽かった」仕事の手を休めずに母親がまた続けて言った。「お父さんはあの子をかわいがっていたから、肩車ぐらいなんでもなかった、ちっとも苦にならなかったのよ。ほら、お父さんのお帰りよ」

 彼女は急いで夫を迎えにいった。そして、襟巻をした小柄なボブが — 彼には襟巻(慰める人)が必要だった、かわいそうに — はいってきた。暖炉の横棚にお茶が用意してあり、みんなが競争で給仕をしようとした。そして、2人の幼い子供が父親の膝の上に乗り、それぞれ小さな頬を父親の顔にくっつけた。まるで、「気にしないで、父さん、悲しまないで父さん」と言ってでもいるように。

 ボブは彼らにたいへんあいそよくし、またみんなに楽しげに話しかけた。テーブルの上の縫物を見て、クラチット夫人と娘たちの根気のいいことと仕事の早いことをほめそやした。日曜日が来るよりずっと前に仕上がってしまうだろう、と彼は言った。

「日曜日ですって。じゃ、今日行ってこられたのね、ロバート」細君が言った。

「そうなんだ、おまえ」ボブが言った。「おまえも行けるとよかったのだが、実に緑がきれいな所で、あれを見たらおまえの気持ちも晴れたろうに。だが、これからちょいちょい見ることができるだろう。日曜日ごとにあそこにいくと、あの子に約束したのだよ。ああ、わたしのかわいい、坊や」ボブが叫んだ。「わたしのかわいい坊や」

 彼はわっと泣き出した。泣かずにはいられなかったのだ。もし泣かずにいられるのだったら、彼とティムとはいまよりもっと遠く離れ離れになったことだろう。

 彼はその部屋を出て、階段を昇って2階の部屋に行ったが、そこは明るく灯がともって、クリスマスの飾りがかけてあった。亡くなった子供のすぐそばに椅子がひとつあり、そこにさっきまで誰かいたらしい様子だった。哀れなボブがその椅子に腰をおろし、少しばかり物思いに沈んで気持ちが落ち着くと、小さな顔に接吻した。彼はこうなったことは仕方がないとあきらめる気持ちになり、明るい父親にかえって下に降りていった。

 彼らは火のまわりに集まって、話をした。母親と娘たちはまだ縫物を続けていたが。ボブは彼らにスクルージ氏の甥がたいへん親切だったと言う話をした。一度しか会ったことがないのに、その日通りで出会うと、彼がちょっと元気がないのを見て — 「ほんのちょっと元気がなかったのでね」とボブは言った — どうして沈んでいるのかと尋ねてくれた。「それを聞いて」ボブが言った。「あの方は実に気持ちのいい話し方をされる人だからね、わたしはわけを話したのだよ。『ほんとうにお気の毒でした、クラチットさん』とあの方が言った。『それからあなたの優しい奥さんにも、ほんとうにお気の毒に思います』それはそうとして、どうしてあんなことをあの方が知っていたんだろう。わたしにはわからないんだよ」

「知っていたって、なんのことですの」

「うむ、おまえが優しい奥さんだってことだよ」ボブが答えた。

「そのことなら誰だって知っているよ」ピーターが言った。

「よく言ってくれた、ほんとに」ボブが言った。「誰でも知ってくれるといいね。あの方は『あなたの優しい奥さんにも、本当にお気の毒に思います』と言った。そして名刺を出して、『なにかお役に立つことがありましたら、ここがわたしの住んでいる所です。どうぞお越し下さい』そう言ってくれたのだよ。それがとても嬉しかったのだが、なにかわたしたちのためにしてくださるからじゃなくて、こんな風に親切に言ってくれたことがうれしかったんだ。あの方がほんとうにちびのティムのことを知っていて同情してくれたようだったねえ」

「あの方はきっと、いい方なんですわね」

「もしおまえがあの方に会って話をすれば、なおさら、そう思うだろうね、おまえ」ボブが答えた。「よく、お聞きよ — あの方がピーターにもっとよい仕事を見つけてくださっても、驚くにはあたらんと思うね」

「まあちょっとお聞きよ、ピーター」クラチット夫人が言った。

「そうしたら」娘の一人が大きな声で言った。「ピーターは誰かいい人とねんごろになって、独立するんだわ」

「ばかなこと言うんじゃないよ」ピーターがにやにや笑いながら言いかえした。

「たぶんそうだろうな」ボブが言った。「そのうちにな。もっとも、そうなるにはかなり間があるけどねえ、おまえ。ところで、わたしたちがいつどのようにして離れ離れになるとしても、かわいそうなちびのティムのことを — うちで起った最初の別れを — 忘れる者はひとりもいないと思うね」

「けっして忘れません、お父さん」みんなが声を強めて言った。

「それからね」ボブが言った。「あの子が、小さな小さな子供だけれども、どんなに我慢強くて、おとなしかったか思いだしたら、うちの者同士で喧嘩することもあるまいし、またそんなことをしてちびのティムを忘れるなんてことはないだろうね」

「けっしてそんなことはしません、お父さん」

「わたしはとても嬉しい」小男のボブが言った。「とても嬉しいよ」

 クラチット夫人が彼に接吻し、娘たちも2人の幼い子供も彼に接吻し、ピーターとボブは握手した。ちびのティムの霊(たましい)よ、その無垢な心は神から授けられたものだったのだ。

「精霊さん」スクルージが言った。「なんだかわたしたちの別れの時間が迫っているような気がします。それはわかります。どうしてかは知りませんが。さっき見た、死んで横たわっていた男はどういう人なのか、教えていただけませんか」

 未来のクリスマスの亡霊は前と同じように — スクルージは時間が違うと思ったし、また、実際、未来のことだという点を除けば後のほうの幻影にはまったく順序がなかったけれども — 実業家の集まる所へ連れていったが、スクルージの姿を見せてはくれなかった。実際、精霊はどんなものにも足をとめないで、頼まれた目的地をさしてまっすぐに進んでいった。とうとうスクルージのほうからちょっと待ってほしいと言いだした。

「いまわたしたちが急いでいるこの路地は、わたしが商売をしている所で、それも長いあいだ商売してきた場所です。事務所のある家が見えますよ。未来のわたしがどのようなものか、ちょっと見せていただけませんか」

 精霊は立ちどまった。手は別のほうを指さしている

「事務所の建物は向こうなんですよ」スクルージが声を強めて言った。「なぜ、よそのほうを指さすんです」

 情容赦のないその手は微動だにしない。スクルージは自分の事務所の窓のところに急ぎ、中をのぞきこんだ。そこは事務所であることには変わりないが、彼のものではなかった。家具は別のものだし、椅子に座っているのはスクルージではない。幽霊は前と同じ方角を指さしていた。

 彼はまた幽霊のところにもどり、自分はどこへ行ってしまったのだろうと考えながら、いっしょについていくと、2人は鉄の門のところに着いた。彼は立ちどまってまわりを眺めてから中にはいった。

 そこは教会の墓地だった。そのとき、ここで、彼がいまやその名前を教えてもらうことになる哀れな男が土の下に横たわっていたのである。それはまことにふさわしい場所であった。まわりを家々に囲まれ、芝草と雑草(それは植物の生命ではなくて死から生まれ育ったもの)が生い茂り、あまりにも多くの人を埋めすぎて息がつまり、満腹で肥りに肥っていた。いかにもふさわしい場所であった。

 幽霊は墓石のあいだに立って、その一つを指さした。彼は震えながらそのほうへ進みでた。幽霊は前と少しも変わらないが、彼はそのおごそかな姿に新しい意味を見て恐ろしい気持ちになった。

「あなたが指さすその石に近づく前に」スクルージが尋ねた。「一つだけお答えください。これらのものは将来ほんとうに起ることの幻影なのでしょうか。それともただそうなるかもしれないだけの幻影でしょうか」

 それでも、亡霊は依然としてそばの墓を上から指さしている。

「人の行路は、それずにたどればかならず行きつく目的地をあらかじめ示すものでしょう」スクルージが言った。「だが、もし、行路から離れれば、目的地も変わるものでしょう。あなたがわたしに見せてくれたものについても、そうなのだと言ってください」
 幽霊は相変わらず微動だにしない。

 スクルージは震えながら墓に這い寄り、指さされたほうに目をやると、見捨てられた墓石の上にエベニーザー・スクルージという自分の名前が読みとれた。

「ベッドに横たわっていたあの男がわたしなのですか」膝からくずおれて彼は叫んだ。

 その指は墓から彼のほうを指さし、またもとに戻った。

「いいえ、精霊さん!ああ、違いますよ、違いますよ」

 その指は依然としてそこにじっと動かないでいた。

「精霊さん!」かれはその衣に固くしがみついて叫んだ。「聞いてください。わたしは昔のような人間じゃありません。こうして精霊さんとお会いしなかったら、きっとそうなったかもしれないような人間には、わたしはなりません。もしわたしにぜんぜん希望がないのでしたら、こんなものをわたしに見せる理由はないじゃありませんか」

 初めて、その手が震えるように見えた。

「親切な精霊さん」スクルージはその前にひれ伏して、言葉を続けた。「あなたの本性から、どうかわたしのためにとりなして、あわれんでくださいますように。違った生き方をすることで、あなたが見せてくれた幻影を、まだわたしが変えることができるかもしれないと、どうか請けあってください」

 優しい手がぶるぶる震えた。

「わたしは心からクリスマスをたたえ、一年じゅうそういう気持ちを失わぬようにいたします。わたしは過去、現在、未来に生きましょう。3人の精霊がわたしの心の中で骨折ってくださることでしょう。3人が教えてくださる教訓をわたしはないがしろにはいたしません。この墓石に書かれてある文字を消すことができるとおっしゃってください」

 苦悶のあまり、彼は幽霊の手をつかんだ。その手はもぎ離そうとしたが、彼は懸命に懇願して、引きとめた。だが、精霊のほうが力が強く、彼をはねのけた。

 自分の運命を変えてもらうために最後の祈りを捧げて両手をさしあげたとき、彼は幽霊の頭巾と衣に変化が起きたのを見た。それは縮み、ひしゃげ、だんだん小さくなって、ついに1本の寝台柱に変わってしまった。


 そうなのだ!寝台柱は彼のものだった。寝台は彼のもので、また部屋も彼のものだった。うまいことに、またなによりありがたいことに、彼の前にある時間は自分のもので、それで埋めあわせができるのだ。

「わたしは過去、現在、未来に生きるだろう」スクルージは寝台から這いだしながら繰り返しそう言った。「3人の精霊がわたしの中で骨折ってくださるだろう。おお、ジェイコブ・マーレイよ!ありがたい。このためにも、神とクリスマスがたたえられんことを!ジェイコブ爺さんよ、わたしはひざまずいて言いますよ、ひざまずいて」

 彼は心を入れかえたために、胸が躍り、身体が熱くほてっていたので、出そうとしても、とぎれとぎれの声さえろくに出てこなかった。彼は精霊と争いながら激しくむせび泣いていたので、いまの彼の顔は涙で濡れていた。

「ひきちぎられてはいないぞ」ベッドのカーテンの一つを両腕に抱えて叫んだ。

「ひきちぎられないで、金輪もみんなある。みんなここにあるぞ — わたしもここにいる — ああなるだろうという幻影も消すことができるかもしれない。いや、消えるだろう。きっと消えるだろう」

 そのあいだずっと、彼は両手で着物をしきりにいじっていた。それを裏返してみたり、逆さまにしたり、ひき裂いたり、置きかえたり、着物を相手にさまざまのおかしなことをやっていた。

「どうしていいかわからない!」スクルージはそう叫んで、同時に泣きそして笑い、靴下を身体にまつわらせて、蛇に締められたラオコーン像の仕草をした。「わたしは羽毛のように軽く、天使のように仕合わせで、子供のようにうきうきしている。そして、酔っぱらいのように目がまわる。みなさん、クリスマスおめでとう。世界じゅうのみなさん、新年おめでとう。おーい、ここだ。ほーい、おーい」

 彼ははしゃいで跳びながら居間にはいっていき、すっかり息を切らせてそこに立っていた。

「粥の入った鍋があるぞ」そう叫んでスクルージはふたたび跳びはねて、暖炉のまわりをめぐった。ジェイコブ・マーレイの亡霊がはいってきたのはあのドアだな。あの隅に現在のクリスマスの精霊が座っていたんだ。あの窓からさまよう亡霊たちを見たんだな。みなちゃんとあるぞ。みんなほんとうだ。なにもかもほんとうに起ったことなんだ。は、は、は!」

 実際、長い歳月のあいだ笑ったことのなかった男にとって、それはすばらしい笑い、いともめざましい笑いだった。長く長く続く明るい笑いの先祖ともいうべき笑いであった。

「はて、何月何日なのかわからないぞ」スクルージが言った。「どのくらい長いあいだ精霊たちといっしょにいたのかわからんなあ。なにもわからない。わたしはまったく赤ん坊も同然なんだ。いや、かまうことはない。気にせんでもいい。むしろ赤ん坊になりたいくらいだ。やあ、ほーい、おーい、ここだ」

 有頂天になっていたスクルージは、これまでにない実に元気な教会の鐘の音で、冷静になった。カラン、カラン。カーン、カーン。カーン、カーン。カラン、カラン。おお、すばらしい、すばらしい。

 走り寄って、窓を開け、頭をつきだした。霧も靄もなく、明るく晴れて、陽気で、爽快な、冷たい天気。調子を合わせて血が踊りださんばかりにぴゅうぴゅう吹く寒風。まばゆい黄金色の日光、神々しい空。甘い新鮮な空気、陽気な鐘の音。おお、すばらしい、すばらしい。

「今日はなんの日だね」スクルージは下にいる晴着を着た男の子に声をかけた。その子供はおそらく様子を見にぶらりとはいってきたのだろう。

「ええっ」これ以上びっくりすることはないとばかりに、子供が聞きかえした。

「今日はなんの日かね、坊や」スクルージが言った。

「今日」子供が答えた。「だって、今日はクリスマスだよ」

「クリスマスなんだ!」スクルージは自分に言った。「のがさずにすんだぞ。精霊たちは一晩でなにもかもぜんぶやってしまったんだ。彼らは好きなようになんでもやれるんだな。もちろん、やれるのさ。むろん、やれるのさ。おーい、坊や」

「おーい」男の子が言いかえした。

「一つおいて次の通りの角にある鳥屋を知っているかい」スクルージが尋ねた。

「もちろん、知っているさ」子供が答えた。

「賢い子だね」スクルージが言った。「偉い子だ。あそこに入賞した七面鳥がぶらさがっていたが、あれ売れてしまったかどうか、知っているかね。小さいのじゃなくて、大きいほうの七面鳥だよ」

「えーと、ぼくぐらい大きいやつかい」男の子が聞きかえした。

「やあ、ほんとに面白い子だなあ」スクルージが言った。「この子と話すのは楽しいじゃないか。そうなんだよ、坊や」

「まだぶらさがっているよ」子供が答えた。

「そうかい」スクルージが言った。「じゃあ、行って買ってきておくれ」

「うそ言ってらあ!」子供が大声で言った。

「うそじゃない」スクルージが言った。「本気で言っているんだよ。買いに行っておくれ。ここに持ってくるようにって言えばいい。そうすれば届け先を教えるからね。店の人を連れてきたら、1シリングあげよう。5分以内に店の人を連れてきてくれたら、半クラウンあげるよ」

 男の子は弾丸のようにすっとんでいった。その半分の速さで弾丸を撃つことができたら、その人は射撃の名人にちがいない。

「あれをボブ・クラチットの家に届けさせよう」スクルージは両手をこすり、腹をよじって笑った。「誰が贈ったかは知らせないでおこう。ちびのティムの2倍の大きさだからなあ。あんなものをボブに届けさせるなんて冗談は、コメディアンのジョー・ミラーだってやったことはあるまいよ」

 贈先の住所を書く手は震えていた。だが、ともかく彼は書いて、鳥屋の店員が来るのを待とうと思い、通りに通じるドアを開けるために、階段を降りた。到着を待って立っていると、ノッカーが目についた。

「生きている限り、こいつを大事にしてやろう」片手でノッカーをたたきながらスクルージが言った。「前にはろくに見もしなかったからなあ。なんて正直な顔つきをしているんだろう。すばらしいノッカーだ — ほら七面鳥が来たぞ。ほーい、おーい、やあ、こんにちは。クリスマスおめでとう」

 まさしく七面鳥だった。このふとった鳥は、自分の足で立つこともできなかったろう。もし立ったら、たちまち封蝋の棒のように、足が折れてしまっただろう。

「やあ、これは、とてもカムデン・タウンまでかついて運ぶわけにはいかんなあ」スクルージが言った。「馬車でなくちゃだめだろうよ」

 彼はくっくと笑いながらそう言い、くっくと笑いながら七面鳥の代金を払い、くっくと笑いながら馬車の料金を払った。そしてくっくと笑いながら男の子に駄賃をやったが、息を切らしてふたたび椅子に座ったときはそれまで以上にひどくくっくと笑い、笑いすぎてとうとう泣きだしてしまった。

 ひげを剃るのはやさしいことではなかった。手がひどく震えてとまらなかったのである。そして、ひげを剃りながら踊るのでないにしても、ひげ剃りには注意が必要なのである。だが、鼻の先を剃りおとしたとしても、彼は絆創膏の1枚も貼りつければ、それでいいという気分だった。

 彼は「上から下まで晴着」に身を包んで、とうとう街路に出ていった。現在のクリスマスの精霊といっしょに見たのと同じように、この時間には人々があふれでていた。スクルージは手を後ろに組んで歩きながら、いかにも嬉しそうな微笑みを浮かべて一人一人を見ていた。つまり、彼は抑えることのできないほど嬉しくてたまらぬという様子であったので、3、4人の上機嫌な者たちが「おはようございます。クリスマスおめでとう」と声をかけた。その後でスクルージはしばしば、これまで聞いた愉快なひびきの中でも、あれくらい耳に愉快にひびいたものはなかったと言ったものである。

 彼は教会に行き、街路を歩きまわり、人々があちこち急ぎ足に歩くのを眺め、子供たちの頭をなでてやり、家々の台所をのぞきこみ、窓を見あげ、そしてすべてのものが自分に喜びをあたえてくれるのに気づいた。歩きまわるだけでも、いやどんなことでも、自分をこんなにも幸福にしてくれるとは、夢にも思ったことがなかった。その日の午後、彼は甥の家のほうに足を向けた。

 入口まで行ってノックする勇気が出るまでに、彼は家の前を何べんも行ったり来たりした。だが、思い切ってノックをした。

「ご主人はご在宅かな」スクルージは若い女中に言った。いい娘だ、まったく。

「はい、おいでになります」

「どこにいるのかね」スクルージは尋ねた。

「食堂におります。奥様とごいっしょに。よろしければ、2階に案内します」

「ありがとう。ご主人はわたしのことを知っているからね」そう言ったスクルージは食堂のドアの把手に手をかけていた。「ここからはいらせてもらうよ」

 彼は静かに把手をまわし、ドアの横からそっと顔を入れた。若夫婦はテーブルを眺めていた(そこにはなかなか豪勢なご馳走が並べられていた)。こうした若い主婦は、このような点にいつも細かく気をつかい、なにごともきちんとしているのを見るのが好きなのである。

「やあ、フレッド」スクルージが声をかけた。

 なんとまあ、義理の姪の驚きようときたら。スクルージはちょっとのあいだ、隅で足台に足を投げ出して座っている彼女のことを忘れていたのである。そうでなかったら、けっしてこんなことはしなかったろう。

「おや、驚いた」フレッドが言った。「誰です」

「わたしだよ。叔父のスクルージさ。ご馳走になりに来たよ。入れてくれるかね、フレッド」

 入れてくれるかだって。握手でスクルージの腕がちぎれなかったのがもっけの幸いというものである。5分もすると、彼はすっかりくつろいだ気分になった。これ以上心のこもったもてなしはまず考えられない。姪は前に幻影で見たのとそっくりであった。トッパーがやってきたが、同じだったし、ぽっちゃりした妹も、はいってくるとやはり同じだった。誰も彼もはいってくるのを見ると、幻影で見たのと同じであった。すばらしい団欒、すばらしい遊戯、すばらしい和気あいあいとした雰囲気、すばらしい幸福!

 だが、彼は翌日の朝早くから事務所に出ていた。彼が先にそこに来て、ボブ・クラチットが遅れてくるのをつかまえさえすれば、そこが彼の狙いとするところだった。

 そして、そうなった。ほんとうにそうなったのである。時計が9時を打った。ボブはまだ来ない。15分過ぎ、ボブは依然として姿を現さない。彼は定刻よりたっぷり18分半も遅れてきた。スクルージは彼が例の水槽同然の部屋にはいるのが見えるように、自分の部屋のドアを開け放して座っていた。

 ボブは入口を開ける前に帽子を脱ぎ、襟巻も外した。またたく間に彼は椅子に座り、ペンを走らせた。まるで、定刻の9時に追いつこうとでもするように。

「おい!」スクルージはできるだけいつもの声に似せて唸った。「こんな時間に来るとは、どういう了見なのかね」

「ほんとうにすみません」ボブが言った。「遅刻してしまいました」

「遅刻したとは」スクルージが繰りかえして言った。「うむ、遅刻だと思うね。ちょっとこっちへ来てくれ」

「一年にたった一度のことですから」ボブが水槽から出てきて弁解した。「こんなことは二度といたしません。昨日はちょっと浮かれすぎたものですから」

「そこであんたに言っておきたいことがある。わたしはこういうことにはもう我慢ができないんだ。それでだな」彼は椅子からとびあがってボブのチョッキをぐいっと小突いたので、ボブはよろめいて、また水槽の中に戻ってしまった。「だから、わたしはあんたの給料を上げてやろうと思うんだ」

 ボブは震えだし、簿記棒のほうに少しばかりにじり寄った。彼は一瞬その簿記棒でスクルージを殴り倒し、押さえつけておいて、路地の人たちに助けを求め、凶暴な犯人に着せる拘束服を持ってきてもらおうと考えたのである。

「クリスマスおめでとう、ボブ」スクルージはボブの背中をたたきながらそう言ったが、その言い方にはまぎれもない真面目さがこもっていた。「クリスマスおめでとう、ボブ君。これまで何年ものあいだ、わたしがあんたに祝ってやったよりも、ずっとめでたいクリスマスなんだよ。あんたの給料を上げ、あんたの困っている家族を援助するように努めよう。そして、今日の午後、温かいビショップ酒をクリスマスの大杯で飲みながら、あんたのうちのことを2人で相談するとしよう。ボブ、火を焚いてくれ。そして、すぐに石炭入れをもう一つ買ってきてくれ、ボブ・クラチット」


 スクルージは口に出して言った以上によいことをした。彼は約束したことはぜんぶ実行したし、またそれ以上に数えきれないほどさまざまのことをしてやった。実際は死んでいなかったちびのティムには第2の父親となった。彼はこのよき古い都ロンドンにも、またこのよき古い世界の、他のどんなよき古い都にも町にも、村にもかつてなかったような、よい友人、よい主人、よい人になった。彼が変わったのを見て笑う人もいたけれども、彼はそういう連中が笑うにまかせておいたし、また少しも気にかけなかった。というのは、この世では、どんなよいことでも、初め人に存分に笑いものにされない者はない、ということをよく知っていたからである。そういう連中はどのみち道理のわからない者たちだということを承知していて、彼らが目にしわを寄せてあざ笑うのは、その病をいっそう醜くするのも同然のことだと思っていた。彼は心晴れやかに笑ったが、彼にとってそれで十分だったのである。

 もう精霊たちとつきあうことはなく、その後はずっと絶対禁酒主義を通した。クリスマスを祝うことを知っている人がいるとしたら、それこそあの人だと、彼はいつも言われていた。わたしたちについても、ほんとうにそう言われてほしいものである。そしてちびのティムが言ったように、神さまがわたしたちすべてに祝福をあたえてくださいますように!

 

この台本を作成するに当たり、中川 敏訳(集英社)、安藤一郎訳(角川文庫)、村岡花子訳(新潮文庫)、池 央耿訳(光文社文庫)から多くの引用をさせていただきました。

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