プチ朗読用台本「エイミーの献身」

 身をやせ細らせるばかりの不安と後悔というのは、獄中の同宿人としては悪い相手だ。昼は鬱々として楽しまず、その上夜もほとんど眠れないとなれば、人間不幸に立ち向かう力をなくしてしまうのも当然だろう。翌朝クレナムは精神のみならず身体までが衰弱の一途を辿っており、自分を上から押しつけている重みにももはや耐えられないように感じた。

 毎夜毎夜12時か1時頃になると、彼は失意の寝床から起き上がり、窓の傍に座って庭の気味悪いランプの明りを見つめ、まだ夜明けの光が射すまでには何時間もあるというのに、上の方を仰いでは曙の最初のほのあかりを待ちわびた。いまでは夜になっても、寝間着に着替える気持ちにすらなれなかった。

 身を焼きつくさんばかりの不安が忍び寄り、獄中の苦悩と焦燥、おれの心も身体もここで朽ち果ててしまうのかという絶望が、筆舌に尽くしがたいほどの苦しみをもたらした。この場所に対する恐怖と憎悪が昴じたあまり、息を吸い込むことさえ苦痛になった。窒息しそうな気持ちに時々襲われるので、窓辺に立ってのどをおさえ、はあはあ喘いだ。その一方では外の空気に対する欲求、厚い壁の向こう側の世界への憧れの強さから、いまにも気が狂いそうな気持ちになった。

 前にも彼と同じような心境を経験した囚人が他にたくさんいた。彼と同じように、いつまでもつづく激しい苦しみに身体がむしばまれて行ったのだ。一日二晩で身体は消耗してしまった。苦悩の発作は戻って来たが、次第次第に弱まって行き間遠になった。その後にぼんやりした沈静期が来た。その週の中頃になると、ぐったりしたまま、ゆっくりと熱病の淵へと落ち込んで行った。

 毎日門番の交替する決まった時間に顔を出して、何かご用はありませんかと言ってくれるジョン青年に対しては、いつも書きものに没頭しているふりをして、ありませんと元気な声で返事したものだった。二人が一度だけ交した長い会話の話題は、あれからまだ蒸し返されたことがなかった。しかし、クレナムがこれほどまでに惨めな変化に見舞われはしたものの、彼女のことは片時も彼の念頭を離れたことがなかった。

 約束の日までの一週間の六日目の日は、蒸暑い雨に煙った日だった。監獄の貧しさ、みすぼらしさ、汚らしさが、むっとする空気の中でいや増しになるかのようだった。ずきずきする頭と失意の心をいだいてクレナムは、情けない夜が明けるのをじっと見つめていた。庭の敷石の上に落ちる雨の音に耳を傾けながら、田舎の大地の上に降る雨はもっと優しい音を立てるだろうに、と考えていた。空には太陽の代わりにぼんやりとした黄色の輪が広がり、その光が監獄の壁に当たったところは、ぼろを繕ったように見えた。門の開く音が聞こえ、外で待っていた粗末な履物がおずおずと入って来る音が聞こえた。掃除の音、ポンプの音、歩きまわる足音が、監獄の朝のはじまりを告げた。顔を洗おうとした彼はひどく気分が悪くふらふらなので、途中で何度も休まねばならず、やっとのことで開いた窓際の椅子まで辿り着いた。椅子に座ってうとうとしていると、彼の部屋掃除をしてくれる老婆が朝の仕事にとりかかった。

 時間を数える力もないままに夢見心地にまどろんでいると、1時間が1分のように思え、1分が1時間のように思える。その間何か庭園のような印象がずっと続いて彼の上にとりついていた ― 花園の香りが湿った温かい風に乗って揺れ動いている。これが一体何なのか、いや、何かがここにあるのか、確かめようとして頭を上げるのが実に辛いので、この印象が随分前から自分に取り憑いているように思いながら、あたりを見回した。するとテーブルの上の茶碗の傍に満開の花束、この上もなく美しく立派な花束が見えた。

 彼の目にこれほど美しく見えたものはこれまでなかった。それをとり上げて匂いを嗅ぎ、熱っぽい額にのせ、また下ろし、冷たい手を開いて炉の火の温かみをつかまえようとするように、かさかさになった手を開いてその上にかざした。しばらく花束に夢中になって喜んでから、一体誰がこれを贈ってくれたのだろうと思った。ドアを開けて、きっとこれを届けてくれたはずの老婆に、誰から頼まれたのかときいてみようとした。しかし老婆の姿はなかった。テーブルの上に残してくれたお茶がすっかり冷めているところを見ると、大分前に帰って行ったらしい。お茶を飲もうとしたが、その臭いが我慢できなかった。そこでまた開いた窓際の椅子に辿り着いて、古い小さな丸テーブルの上に花束を載せた。

 動き回った疲労から来る最初のふらふらした気持ちが消えると、またさっきの状態に戻った。夜に聞こえた歌がまた風に乗ってやって来る。すると彼の部屋のドアが誰かに軽く押されてすっと開いたようだ。一瞬の後、誰か黒いマントを着た人影がそこに黙って立っているようだ。マントを脱いで床の上に落としたようだ。すると、昔のみすぼらしい服装のリトル・ドリットのようだ。身体を震わせ、両手を握り合わせ、笑顔を浮かべ、それからわっと泣き出したようだ。

 彼も身を起こして泣き出した。するとまるで鏡に映したように、あのやさしい、愛と憐れみと悲しみにあふれた顔の中に、自分がどれほど変わり果てたかを見た。彼女がこちらにやって来た。立ち上がらないように彼女の片手を彼の胸に置き、彼の足許の床に跪き、彼女の唇を上げて彼にキスをした。彼女の流す涙が、天からの雨が花の上に降り注ぐように、彼の顔の上に落ちた。リトル・ドリット、まさに現実の生きた彼女が、クレナムの名を呼んだ。

「おお、わたしの大切なお友達、クレナムさん、お泣きにならないで。嬉し泣きなら、いいのですけど。きっとそうですわね。あなたと遠く離れていた女性が戻って来たんですから」

 いつまでもやさしく、忠実で、金の力に毒されていない彼女!彼女の声音も、彼女の目の輝きも、彼女のやさしい手も、まさにまことと安らぎの天使そのものだ!

 彼が彼女を抱きしめると、彼女は、「ご病気だとは聞いていませんでしたわ」と言いながら、やさしく彼の首のまわりに腕を投げかけ、彼女の胸元に彼の頭を抱き寄せ、彼の頭を手で撫で、その手に彼女の頬を寄せて、愛情をこめて彼を慰めた。自分がほんの赤ん坊だった頃、他の人たちから面倒を見てもらいながら他の人たちの面倒を見ていた頃、この部屋の中で父を慰めていた時と同じ、無邪気な姿だった。

 彼がやっと口がきけるようになると尋ねた。「ぼくのところに来てくれたのですか。その服で」

「この服がお気に召すと思いましたから。わたしはこれまでずっと大事に持っていたのです。昔を思い出すために。でも忘れたことなんかありませんから、思い出す必要もありませんでしたわ。ほら、わたしは一人じゃありませんのよ。昔のお友達と一緒に来ました」

 首を動かすと長いことかぶっていない昔の大きな帽子をかぶったマギーが、昔の頃のように腕にバスケットを抱え、大喜びで笑っているのが見えた。

「わたしが兄とロンドンに着いたのは、つい昨晩のことでした。着くとすぐにプローニッシュさんのところに使いを出しました。あなたの消息を聞き、あなたにわたしの帰国をお知らせしたいと思ったのです。それでここにいらっしゃると知ったのです。昨晩ひょっとしてわたしのことをお考えになりませんでして?きっとわたしのことを少しでも考えてくださっているのではないかという気がしてならなかったのですの。あなたのことが心配で心配で、朝までがとても長く感じられましたわ」

「あなたのことを考えていました ― 」彼は彼女を何と呼んだらいいか迷ってしまった。すぐに彼女がそれに気づいた。

「まだわたしのことを、あの素晴らしい名前で呼んでくださいませんのね。あなたが何とわたしを呼んでくださっていたか、ご存知でしょう」

「あなたのことを考えていましたよ。リトル・ドリット。ここに入ってから毎日、毎時間、毎分のように」

「本当ですか。本当ですか」

 彼女の顔がぱっと明るく輝き、ぽっと赤らむのを見て彼は恥ずかしい思いがした。破産して、一文なしになって、病の淵に沈んだ、このみっともない囚人のおれ!

「今朝門が開く前からここに来ていたのです。でも、真っ直ぐにここに来るのが恐ろしかったのです。最初からここに来ていたら、わたしはあなたをお慰めできるどころか、逆に心配をおかけしてしまったことでしょう。なにしろこの監獄は見慣れた場所でありながら複雑な思いをさせますし、かわいそうなお父さんや、あなたのこともいろいろ思い出されて来ますので、はじめのうちは胸が一杯になってしまったのです。でも、ここに来る前にチヴァリーの家に寄りましたので、チヴァリーさんがわたしたちを中に入れてくださって、ジョンさんの部屋 ― 昔のわたしの部屋ですわね ― を使わせてくださいましたので、そこでしばらく待っていました。わたしが花束をドアのところまで持って来たのですが、お耳に入らなかったようですね」

 彼女はこの前ここの門を出て行ったあの時よりも少し女らしく成長したように見えた。イタリアの太陽のお陰で彼女の顔が色どりよく熟したことは、目に見えてはっきりしていた。しかし、その他の点では前と全然変わっていない。内気で真剣な彼女の様子は、昔見ているといつも彼に感動を与えるものだったが、いまでも見受けられる。もし彼の心を引き裂くばかりの新しい変化があったとしたならば、それは彼女が変わったのではなく、彼の目が変わってしまったことだ。

 慎ましやかな頭が屈み込むようにして縫物に打ち込み、すばしこい指が忙しく針を動かしている ― といっても、彼女は完全に針仕事だけに没頭しているわけではない。同情にあふれた目がしばしば彼の顔の方に上げられ、そしてまた縫物の方に落ちる時、その目には涙が一杯溜まっていた ― のを眺めていても、落ち着きと慰めを受けても、このやさしい魂のすべてが逆境にあるおれに捧げられ、無尽蔵の誠意を注ぎ尽くしてくれるのだとわかっていても、クレナムの震える声と手がしっかりしたわけではないし、彼に元気が湧いて来たわけではない。しかし、彼の内心にある力を吹き込んでくれて、それが彼の愛情とともに昴まって来たことは事実である。いまや彼が彼女をどれほど愛していたか、それはとうてい言葉で語り尽くせるものではない!

 二人は壁の蔭に並んで座っていたので、影は彼の上に光のようにかかっていた。彼女は彼にあまり口をきかせたがらないので、彼は椅子にもたれたまま彼女を見つめていた。時々彼女は立ち上がって、彼にグラスを差し出したり、頭を休める枕の皺を伸ばす。それからまた傍の椅子に座って、針仕事に身を屈める。

 太陽とともに影も動く。しかし彼女は、彼の世話をやく時以外は彼の傍から動かない。太陽は沈んだが、彼女はまだそこにいる。針仕事は終わったが、彼女の手はさっき彼の世話をしてからずっと彼の椅子の肘に置かれたままで、もじもじしている。彼は自分の手を彼女の手の上に置いた。すると彼女の手がわななくようにして彼の手を握りしめた。何かを懇願するように。

「クレナムさん、お暇をする前に申し上げねばならないことがあります。これまで1時間伸ばしにして参りましたが、いまは申さねばなりません」

「ぼくもです、リトル・ドリット。ぼくも言わねばならぬことを伸ばして来たのです」

 彼女はそれを言わせまいとするかのように、おずおずと手を彼の口のところへ持って行ってから、また震える手をもとの場所に下ろした。

「わたしはもう外国には参りません。兄は行くといっておりますが、わたしは参りません。兄はこれまでいつもわたしを愛してくれました。いまではわたしにとても感謝してくれるのです ― 兄が病気の間たまたまわたしが一緒にいただけのことなのですから、あんなに感謝してくれなくても、と思うくらいなのですが ― それで兄はわたしに、好きなところにいて、好きなことをしていい、と言ってくれるのです。わたしが幸せになってくれさえすればそれでいい、と言ってくれるのです」

 空に一つだけ明るく輝いている星があった。彼女は話しながらそれを仰ぎ見ていた。まるで彼女の心からの切なる願いが頭上で輝いているかのように。

「わたしが申さなくてもおわかりいただけると思いますが、兄がこちらに来ましたのは、父の遺言状を見つけて、遺産を相続するためなのです。兄の話では、もし遺言状があれば、わたしは金持になれるのだそうです。遺言状がなければ、兄がわたしを金持にしてくれるそうです」

 彼は何か言おうとしたが、また彼女が震える手を上げたので、黙ってしまった。

「わたしにはお金はいりません。お金など欲しくはございません。あなたのためにお役に立てるのでなければ、何の値打ちもないのです。ここにあなたがいらっしゃる限り、わたしはお金持ちにはなれません。あなたがここで苦しんでおられる限り、わたしは貧乏よりもっとひどい状態に落ち込んでしまうにきまっています。わたしの全財産をお貸しできませんか。あなたに差し上げるわけにはいきませんか。これまで一度も忘れなかったご恩、これから一生忘れることのできないご恩、ここがわが家だった時にわたしを庇ってくださったご恩のお返しをさせてください。クレナムさん、イエスとおっしゃって、わたしを世界一の幸せものにしてください。今晩は何もおっしゃらないで、好意的にお考えくださるという希望だけをわたしに与えてわたしを帰してくだされば、わたしは申し分のない幸せ者になれるのですから、しかもそれはわたしのためにです ― あなたのためではありません。わたしのため、わたしだけのためにです! ― わたしに世界最大の喜びをくださることになるのです。わたしがあなたのためにお役に立てた、わたしの大きな敬愛と感謝のほんの僅かでもお返しできたと知る喜びです。申し上げたいことをうまく口では言えません。わたしがあんなに長いこと暮らしていたここにあなたがいらっしゃると思うと、充分落ち着いてお慰めすることができなくなってしまうのです。涙がひとりでに流れ出て来て仕方がないのです。でも、お願いです、お願いです、お願いです、お苦しみになっていらっしゃるいま、あなたのリトル・ドリットの願いを斥けないでください!お願いです、お願いです、わたしの張り裂けんばかりの心からのお願いです ― どうか、わたしの持ちものを全部お受け取りになって、わたしを幸せにしてください!」

 これまで星が彼女の顔を照らしていたが、いまや彼女の顔は彼女の手と彼の手の上に崩れ落ちた。

 彼が彼女を腕で抱き起こしてやさしく答えた時、外はすでに暗くなっていた。

「それはできない、リトル・ドリット。残念だが、やさしいひと。そのような犠牲に耳を貸すわけにはいきません。それほど高い代価を支払って自由と希望を手に入れたとしても、その重みにぼくは耐えきれないでしょう。でも、こうは言っていますが、ぼくの心の中では感謝と愛が赤々と燃えています。これは神に誓って本当ですよ!」

「それなのにあなたは、苦しんでいらっしゃるあなたのために、わたしが真心を捧げることを許してくださらないのですか!」

「ねえ、愛するリトル・ドリット、それなのにぼくがあなたに真心を捧げようと努めているのです、と、こう言ってください。もしもあなたが不運な状況にある時にぼくが、あなたを愛し尊敬しているということに、しかもそれは、当時ぼくがよく呼んでいたようにかわいそうなお嬢さんとしてではなく、ぼくをより高い地点にまで昴めてくれて、より幸せな、より立派な人間にしてくれる一人の女性として、あなたを愛し尊敬しているということに気づき、それをあなたにはっきり言っているとしたら、もしも当時のぼくが、いまでは取り戻すすべもないあの機会を逃さずに掴んで ― ああ、掴んでおけばよかった、掴んでおけばよかったと後悔しています! ― いたとしたら。これらの「もしも」が成り立っていて、それがなおかつ、ぼくがささやかな金持で、あなたが貧乏だったために、二人の間が裂かれたのだとしたら、ぼくはいまあなたの高貴な財産の申出を、このようなことを言わずにお受けできたかもしれません。それでも、顔を赤らめながらお受けしたかもしれません。しかし、現実にこのような「もしも」はあり得ないことなのですから、ぼくは絶対にお受けしてはいけないのです。絶対にいけないのです」

 彼女は彼に向かって小さな手で嘆願した。それはどのような言葉を使うよりも、もっと真剣で痛々しい嘆願となっていた。

「ぼくのリトル・ドリット、ぼくはすでに充分落ちぶれてしまったのです。あなたの好意に甘えるほど、そしてあなたを ― こんなにやさしく、寛大に、親切にしてくれているあなたまでを ― 一緒に奈落の底に引きずり落すほど落ちぶれるわけにはいきません。お気持ちには深く、深く感激していますが、もう過ぎ去ったことなのです」

 彼は彼女をまるで娘のように抱いた。

「ぼくはいつもあなたより年寄りで、無情で、人間の名に値しないものなのですから、昔のぼくさえぼくたち二人で忘れてしまわねばなりません。いまのぼくだけを見てください。ぼくはこのお別れのキスをあなたの頬にします ― あなたはぼくにとってもっと近い人になったかもしれなかったけれども、ぼくはいまほどあなたを愛していることはないのですよ ― ぼくはいまあなたからずっと遠く離れて落ちぶれた人間、永遠にあなたと別世界の人間、あなたの人生は始まったばかりだけど、ぼくの人生はすでに終わってしまったのですよ。ぼくのような情けない人間は、忘れてくださいとお願いすることさえ僭越なのですが、いまのぼくだけを憶えていてください、とお願いしたいのです」

 面会人に閉門時刻を知らせる鐘が鳴り出した。彼は彼女のマントを壁から取ると、やさしく着せかけた。

「ぼくのリトル・ドリット、もう一言だけ。ぼくにとっては辛い言葉だけど、言っておかなくてはいけないことです。あなたとこの監獄との間に何か共通のものがあった時代は、とうの昔のこととなったのです。おわかりですか」

「おお、もう二度と再びここに来るな、とおっしゃるのですか!」彼女は両手を固く組み合わせて懇願しながら、胸も張り裂けんばかりに泣いた。「そんな風にわたしを見すててしまわれるのですか!」

「できればそう言いたいのですが、この懐かしい顔を完全に閉め出して、永久に戻って来る望みを捨てる勇気はぼくにはありません。ですが、しばらくの間は来ないでください、たびたびは来ないでください!いまやここは汚れた場所、この場所の汚れがぼくにしみついていることをよく承知しています。ぼくのリトル・ドリット、あなたはもっと明るい、もっとよい世界の人なのです。ここを振り返って見てはいけません。別の、もっと幸せな人生の道に目を向けなければいけません。もう一度心からお礼を言います。お元気で!」
 アーサーはもう一度やさしく彼女にマントを着せかけると腕を組み、(彼女が訪ねて来てくれなかったら、弱りきってとても歩けそうになかったろうが)リトル・ドリットを階段の下まで送って行った。彼女が門番小屋を通って出て行く最後の面会人で、門が重々しく無情に閉ってその姿は見えなくなった。

 その音がアーサーの心の中に、まるで葬式の鐘の音のように響くと、またがっくり弱ってしまったように感じた。自分の部屋まで上がって行くのは辛かった。真っ暗な一人ぽっちの部屋にまた入ると何とも言えぬ惨めさに襲われた。

 真夜中近くであろうか。大分前から獄内は静まり返っていた、こっそり階段を上がって来るきいきいいう音。彼の部屋のドアを鍵でこっそり叩く音。ジョン青年だった。靴をはかずにそうっと中に忍び入ると、ドアをしっかりと閉め、小声でささやいた。

「これは規則違反なのですが、かまわんです。ぼくはやり抜くことに決心して、やって来たのです」

「どうしたのですか」

「どうもしません。ドリットお嬢さんが出て来た時、ぼくは門の前で待っていたのです。あなたが彼女を安全に送り届けてもらいたがっているだろうと思いましたので」

「ありがとう、ありがとう!ジョン君が送ってくださったのですか」

「ホテルまでお送りしました。彼女のお父さんが泊まっていたのと同じホテルです。お嬢さんはそこまで歩き通しで、道々ぼくにとってもやさしく話してくださいました。ぼくは胸が一杯になってしまいました。どうして彼女は馬車に乗らずに、歩いて行かれたのだと思いますか」

「わかりませんねえ」

「あなたのことを話すためですよ。彼女はぼくにこう言われました。『ジョンさん、あなたはいつも名誉を重んじる方でしたわね。ですから、わたしがここに来ない間あの方のお世話をやいて、手助けと慰安にこと欠かぬようにするって約束してくだされば、わたしは安心できますわ』ぼくは約束しました。ですからぼくはあなたの味方です」ジョン・チヴァリーが言った。「どこまでも、いつまでも」

 クレナムはすっかり感動して、この健気な青年に手を差し出した。

「握手をする前にもう一言」ジョンは彼の手を見つめながら、まだドアの傍に立ったままだった。「お嬢さんがぼくにどんな伝言を託したかおわかりですか」

 クレナムは首を振った。

「『あの方に』」ジョンはわななく声で、しかし、はっきりと復唱した。「『リトル・ドリットはいつまでも愛しておりますと、伝えてください』さあ、これでお伝えしましたよ。ぼくは名誉を重んじる男ですね」

「そうですとも!」

「お嬢さんに、あの男は名誉を重んじる男だとおっしゃってくださいますか」

「もちろん言いますとも」

「では、握手しましょう。ぼくはあなたの味方です。どこまでも、いつまでも」

 心をこめて握手すると、ジョンは同じようにこっそりと靴をはかずに階段を下り、庭の敷石の上を忍び足で歩き、正門を抜けて鍵をかけてから、靴をはいて外に出た。かりに途中の道が燃えさかる鋤板で敷きつめられていたとしても、おそらくジョンは同じ目的のために欣然として歩んだことだろう。

 ある気持ちのよい秋の日、マーシャルシー監獄で一人の囚人が本を読んで聞かせてくれる声に聴き入りながら座っていた。まだ弱っている様子だがその他の点ではすっかり病気から回復しているらしい。ある気持ちのよい秋の日、黄金色の野では刈り取りが終わって、再び耕されている。夏の果物がすでに稔ってしおれ、果てしなく広がった緑のホップはすでに摘みとられて地面に落ちかかり、林檎園でたわわになった果実は赤茶色となり、山のトネリコの実は黄色くなった葉の間で真っ赤に染まっている。森の中ではすでに迫りつつあるつらい冬の前兆が、木々の隙間から窺われる。夏の間だったら、ちょうどプラムの実にうっすらと白い粉がふりかかるように、大気がぽっと霞んで眠たげに見えたものだが、いまでは木の隙間から遠くまではっきり見渡せるからである。同じように海岸に行っても、大気はもはや暑さの中でのたりのたりと眠っているのではなく、何千という輝く目がちかちかと光り、涼しい海岸の砂から水平線に秋の色に染まった落葉のように漂っている小さな船の帆までの海原全体が、嬉しそうに生き生きと躍動している。

 監獄の中は、貧困と心労でやつれたまま変わることのない顔で春夏秋冬の別を知ることなく眺めているのだから、このような四季の移り変わりの美しさの一つといえども目にすることなく、単調不毛のままである。かりに花が咲き匂ったとしても、ここの煉瓦と鉄格子がいつも同じ生気のない実りしか与えてくれない。

 しかし、本を読んで聞かせてくれる声に聴き入っているクレナムは、その声の中に大きな自然の営みを聞くことができた。その中に自然が人間に歌ってくれる慰めの歌を聞くことができた。彼が子供の時母親の膝に抱かれて未来の希望の夢とか、奔放な空想とかにふけったことはなかった。自然が母親の代りをしてくれたのだった。早くから芽を出した想像力の種の中にひそんでいた愛情と謙虚さの収穫も、子供の種の中からその力強い根を生み出し冷たい厳しい風を防いでくれる巨大な樫の木も、すべて自然が与えてくれた賜物だった。しかし、彼に本を読んでくれている声音の中には、こういった昔の感情を思い出させてくれる何かがあった。これまでの一生を通じてそっと忍び寄ってくれた慈愛と同情の囁きを思い起こさせてくれる何かがあった。

 読んでくれる声が止まると、彼は目の上に手で影を作って、光が強すぎますねとつぶやいた。

 リトル・ドリットは本を置くと、そっと立ち上がって窓にカーテンを引いた。光が和らぐと、リトル・ドリットは座っていた椅子を彼の方に近づけた。

「クレナムさん、もうすぐこれも終わりになりますわ。ドイスさんからのお手紙が友情と激励にみちあふれていただけでなくて、ラッグ弁護士のお話ですと、弁護士に寄せられたドイスさんのお手紙が大層役に立って、いまでは(昔の一時の怒りがおさまって)皆さんがクレナムさんに思いやりと賞賛を寄せてくださっているので、これはじきに終わってしまうとのことですわ」

「ありがとう。やさしい、ぼくの天使」

「それは褒めすぎですわ。でも、あなたがそんなに心のこもったお言葉でおっしゃってくださるのを聞いていると、そして ― そして」リトル・ドリットは目を上げて彼を見た。「深い深い誠意をこめておっしゃってくださるのを聞いていると、わたし何とも言えぬほど嬉しくなってきますので、やめてくださいとは申せませんの」

 彼は彼女の手をとって唇に当てた。

「リトル・ドリット、君はぼくの気がつかない時でもここに来てくれたことが、何度も何度もあったのでしょう」

「ええ、ここに来てお部屋に入らない時も何回かありました」

「しょっちゅう」

「ええ、まあ」リトル・ドリットは恥ずかしそうに答えた。

「毎日?」

「少なくとも」リトル・ドリットがしばらく黙っていてから答えた。「毎日二度はここに来ました」

 彼は彼女の軽やかな手にもう一度熱いキスをしてから、その手を離そうとしていたのかもしれなかった。しかし手の方がやさしく留まって、いつまでも握ってもらいたいようなそぶりを示した。そこで彼はその手を自分の両手で抱くと胸元へそっと引き寄せた。

「ねえ、やさしいリトル・ドリット、もうじき終わるのはぼくの監獄生活だけじゃない。君の犠牲も終わりにしなくてはいけない。ぼくたちはまた別れ別れになって、全然違った道を歩き出す覚悟をしなくてはいけないのだよ。君がはじめてここに来てくれた時、一緒に話し合ったことを忘れてしまったわけではないでしょう」

「ええ、忘れてはおりませんわ。でも、ある事情が ― あなたは今日は気持がしっかりなさっていらっしゃいますか」

「大丈夫、しっかりしているよ」

 彼女の手が少し彼の顔の方へにじり寄った。

「わたしの財産がどれほどあるかお聞きになっても平気でいられますか」

「喜んで聞かせてもらいたいものだね。リトル・ドリットにはどれほど大きな財産だって、ちっともおかしくないから」

「このお話をしようと大分前から待ち遠しく思っていたのですよ。お話ししたくてたまらなかったのです。どうしてもわたしのお金をお受け取りになりませんか」

「絶対に!」

「半分でもですか」

「絶対に受け取らないよ」

 黙って彼を見つめているリトル・ドリットのやさしい顔には、彼のどうにも理解できないような何かがあった。一瞬にして泣き顔になってしまいそうだが、それでも歓喜と誇りに満ちあふれているような何かがあった。

「ファニーのことをお話ししなくてはいけないのですが、気の毒なことになりました。かわいそうにファニーは財産を全部なくしてしまったのです。夫の収入しか残っていないのです。結婚した時にパパが持たせたお金は全部、あなたのお金と同じように消えてしまったのです。同じ人に預けてあったので、全部消えてしまいました」

 アーサーはこれを聞いて驚きというより、ショックを覚えた。

「そんなにひどいとは思ってもいなかった。彼女の夫とあの男との関係を知っていたから、相当の損失があるだろうと思ってはいたけれども」

「ええ、全部消えてしまいました。ファニーがかわいそうでたまりません。とっても、とっても、とってもかわいそうなファニー。兄もかわいそうで」

「兄さんも財産を同じ男に預けたの」

「ええ。ですから、これもなくなってしまいました ― わたしの財産がどのくらいあるとお思いですか」

 アーサーの心に新たな不安が湧いて来て、彼女に何かを問うような視線を投げかけた時、彼女は彼の胸から手を引くと、その後に顔を埋めた。

「わたしは世界中に何一つ財産がないのです。わたしはここに住んでいた時と同じように、一文なしなのです。パパがイギリスに来た時財産を全部同じ人に預けたのです。ですから全部消えてしまいました。ああ、あなた、いまになっても、本当にわたしと運命をともにしてくださらないのですか」

 彼の腕でしっかりと彼の胸に抱きしめられ、彼の男らしい涙で頬を濡らした彼女は、小さな手を彼の首のまわりに回して、そのうしろで両手をしっかり組んだ。

「わたしの愛するアーサー、もう二度と別れないわ。死ぬまで二度と別れないわよ!わたしはこれまで一度もお金持ちになったこともないし、誇りに思ったこともないし、幸せになったこともなかったの。でも、いまわたしはあなたのものにしていただいて大金持ちになれたわ。お金持ちのわたしをあなたははねつけてくださったから誇りに思っているのよ。この監獄の中にあなたと一緒にいられるから幸せなのよ。もし神さまの思し召しならば、わたしはあなたと一緒にここへ戻って来て、わたしの愛と真実で慰め尽くすのが、わたしの幸せなのよ。どこへ行っても、わたしはあなたのものよ!わたしは心からあなたを愛しているわ!数えきれない世界最大の財産を持って、世界最高の貴婦人として崇められるよりも、あなたと一緒にここで暮らして、毎日パンを稼ぎに働きに出る方が嬉しいわ!おお。パパが長年苦しんだこのお部屋の中で、わたしがとうとう幸せになれたこの姿を一目でいいから見せてあげたい」


 二人は隣にあるセント・ジョージ教会の石段を上がって祭壇に進むと、そこには父親代りのダニエル・ドイスが待っていた。それから、いつか枕のかわりに埋葬記録簿を貸してくれたリトル・ドリットの昔の友達もいた。やっぱり結婚式のためにここに戻って来てくれたねと、賞賛の目を輝かしていた。

 そして二人は、ステンドグラスの主イエス像越しに射し込んで来る日光を浴びながら結婚式を挙げた。それから二人は、いつかリトル・ドリットのパーティの後で眠ったあの部屋に入って、結婚記録簿に署名した。パンクス氏が、今日は過激分子から一人のおとなしい友人に豹変して、ドアから覗き込んでいた。片方の腕でフローラ、もう片方の腕でマギーを支えて、まさに堂々たる騎士ぶりである。そのうしろにはジョン・チヴァリー、その父親、他の門番たちが、親であるマーシャルシー監獄を一時見棄てて、その子供の幸せな姿を見に駆けつけていた。フローラはつい先日、自分一人の侘び住まいに隠れ住むつもりと宣言したはずなのに、それらしい様子は全然見られない。それどころか驚くほどおしゃれな格好をして、そわそわしていたけれども、楽しそうに式を見物していた。

 リトル・ドリットが署名をする時、彼女の昔の友達がインク壷を持っていた。そして教会書記も牧師の祭服を脱がしかけた手を休め、他の証人一同とともに特別の関心をもって見つめていた。

「そりゃー、そうじゃろう」リトル・ドリットの旧友が言ったものだ。「このお嬢さんはわが教会の珍宝秘宝のひとつで、いまやわが教会記録簿の第3巻に移ったわけじゃもの。その誕生がわしの言う第1巻に記載されている。それからまさにこの床の上で、わしの言う第2巻の上に可愛い頭を載せて眠ったことがある。そしていまや、わしの言う第3巻に花嫁として可愛い名前を書いているんじゃからな」

 書名が終わると一同が道をあけたので、リトル・ドリットと新郎とは二人きりで教会から外へ出た。玄関の石段の上で一瞬足を止めて、秋の朝日の明るい光を浴びてみずみずしく輝いている大通りを眺めてから、階段を下りて行った。

 幸せと奉仕のつつましい生活の中へと下りて行った。いつか時至らば、自分たちの子供にもファニーの子供にも、わけ隔てなく母親として世話を焼いてやるために、そして姉に今後一生思う存分社交界で羽を伸ばさせてやるために。あと数年ティップのためにやさしい看護婦と友人の役を努めてやるために。兄は財産を相続したらお前にどっさりあげるよ、と言っていたのに、事実はその反対に彼女にどっさり負担をかけてしまうことになった。しかし彼女はそれに対しても腹を立てず、数年後彼がマーシャルシー監獄やその生み出す諸悪に永遠の別れを告げた時、やさしくその目を閉じてやることになる。

 二人はいまや切っても切れぬ祝福された伴侶となって、騒々しい町の中へと下りて行った。二人が日向と日影の中を歩んで行くと、やかましい人びと、夢中になった人びと、傲慢な人びと、片意地な人びと、虚栄心の強い人びとなどが、いらいらせかせかしながら、いつものように狂奔していた。


この台本を作成にするにあたり、小池滋訳「リトル・ドリット」(集英社)から多くの引用をさせていただきました。

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