プチ朗読用台本「オリヴァーの危機」


 何日間というものオリヴァーはフェイギンの部屋から一歩も出ず、ハンカチの頭文字をぬき取る仕事をしたり、時には前に述べたゲームに加わったりした。そのゲームは二人の少年とフェイギンが毎朝きちんきちんと行なっていた。とうとう彼は戸外の空気が吸いたくてたまらなくなり、何度か折りをみては、ぜひ二人の友達と一緒に仕事に出かけさせて下さい、と老紳士に熱心に頼んだ。

 オリヴァーの方から進んで働きたいと願う気になって来たのは、老紳士の性格が道徳的に厳格なことを見る機会がいろいろとあったからである。ドジャーやチャーリー・ベイツが夜になって空手で帰って来ると、いつでも彼は、ぶらぶら怠け癖がつくとひどい目に遭うぞとこんこんと説諭し、生きるためには働かにゃ駄目だということを身をもって教えるために、晩飯も食わせずに寝床に追いやってしまうのだった。一度なんかは二人とも階段の上から突き飛ばしさえしたが、これは彼の道徳教育がつい行きすぎたわけである。


 とうとうある朝のこと、オリヴァーがあんなに熱心に求めていた許可が下りた。二、三日前から頭文字ぬき取りの仕事をしようにも一枚のハンカチもなく、食事もあまり充分に食べさせて貰えなかった。こんなことがあったために老紳士が許可を与えたのかもしれないが、それはともかくとして、彼はオリヴァーに、仕事に出てもよろしい、チャーリー・ベイツとドジャーの二人に監督して貰え、と言った。

 三人の少年は元気よく出て行った。ドジャーはいつものように上着の袖を折り曲げ、帽子を横っちょにかぶっていた。ベイツは両手をポケットに入れたままぶらりぶらり歩いていた。オリヴァーは二人の間にはさまって歩きながら、どこへ行くのかしら、まずどういうものをこしらえる仕事を教えて貰えるのかしら、と考えていた。

 二人があんまりぶらぶらみっともない足どりで歩いて行くものだから、間もなくオリヴァーは、この紳士は老紳士をだまして仕事をサボるつもりだな、と思いはじめた。おまけにドジャーは子供の帽子をひったくって、道端の家の地下階段の方へ投げ込むというよくない癖があり、チャーリー・ベイツときたら財産所有権についての考えがひどくいい加減で、道路の溝の側に出ている露店から、りんごや玉ねぎを頂戴してはポケットの中につっ込むのだが、そのポケットときたら驚くべき収容能力を持っていて、洋服の裏側全体の上下左右に伸びているのではないかと思うばかり。このように情勢があまり面白くなさそうなので、オリヴァーは、何としてでもぼくはひとりで帰りたい、と言おうと思ったその時、突然、ドジャーの態度が妙に変ったのを見て、その方に気をとられてしまった。

 いささかむちゃくちゃなこじつけだが「緑地」という名で現在も呼ばれている、クラークンウェルの広場からほど遠からぬある路地から出たところで、ドジャーが急に足をとめると指を口許に当て、警戒おさおさ怠らぬ様子で仲間の二人を押し留めたのである。

「どうしたの」オリヴァーが尋ねた。

「しっ」ドジャーが答えた。「あそこの本屋に爺いがいるのが見えるだろう」

「道の向こうのお爺さんのことかい」オリヴァーが言った。「うん、見えるよ」

「あいつはいけるぜ」ドジャーが言った。

「極上のかもだ」チャーリー・ベイツが言った。

 オリヴァーはびっくりして二人の顔を次々に見廻したが、何もきくわけにはいかなかった。二人はそっと道を横切ると、いま教えられた老紳士のすぐうしろに忍び寄ったからである。オリヴァーはその後から2、3歩歩き出したが、そのまま先へ進んだものか引き返したものか困ってしまい、呆然と立ち止まって見つめるばかりだった。

 その老紳士は髪の毛に白い粉をふりかけ、金縁の眼鏡をかけ、たいそう立派ななりをしていた。黒いビロードの襟のついた濃い緑色の上着を着て白いズボンをはき、しゃれた竹のステッキを小脇に抱えていた。本屋の店先にある本を一冊とり上げると、立ったまままるで自分の書斎のソファーに座っているかのように、夢中になって読みふけっていた。どうやら本当に自分の書斎にいる気らしい。本に熱中している様子から見ると、本屋も、表通りも、子供たちも、要するにその本以外のものはすべて眼中にないのだから。そしてその本をどんどん読み続けていた。1ページの最後まで来るとページをめくり、次のページの最初からまた次へ、という工合で、その熱中ぶりは大変なものだった。

 ドジャーがこの紳士のポケットの中へ手をつっ込み、そこからハンカチをひっぱり出し、それをチャーリー・ベイツに手渡し、そして最後に二人とも一目散に街角を曲がって逃げてしまうさまを、そこから数歩離れたところに立って、目をまるくして見ていたオリヴァーの驚きと恐怖はどんなだったろう。

 その途端に、あのハンカチや時計や宝石類やフェイギンの秘密が全部頭の中でぱっと解けた。一瞬彼は立ちすくんだまま、恐怖で全身の血管がひりひりして、まるで燃えている火で焼かれているような感じがした。それからおびえうろたえたあまり、自分でも何をしているかわからぬ間に、足も地につかんばかりに逃げ出していた。

 これらはすべて一瞬のうちに起こり、オリヴァーが駆け出した途端に老紳士はポケットに手を入れ、ハンカチがなくなっているのに気づくと、はっとうしろをふり向いた。すると一目散に逃げ去って行く子供が見えたので、当然のことながらこの子が犯人だと決めてかかり、「泥棒だ、つかまえろ」と精一杯の声で叫ぶと、本を手にしたまま追いかけた。

 ところが、つかまえろと叫んで追いかけたのはその老紳士だけではなかった。ドジャーとベイツは表通りを駆け出して人目をひいてはまずいと思って、角を曲がったすぐの家の玄関先に隠れていただけなのであったが、叫び声を聞きオリヴァーが逃げて行く姿を見ると、とっさに事態を正しく見抜き、急いで通りに飛び出して来た。そして「泥棒だ、つかまえろ!」と叫びながら、善良な市民らしく追跡に一役かったのである。

 オリヴァーは救貧院の諸先生に教育されたのであったが、自己の生命を守ることこそ自然界の第一法則である、という立派な原理を理論として知っていなかった。もし知っていたならば、おそらくそれに対する心構えもできていた筈なのである。ところが心構えができていなかったものだから、彼はますますもっておびえうろたえてしまった。というわけで、わめき叫ぶ老紳士と二人の少年に追われて、彼は疾風のように走った。

「泥棒だ、つかまえろ!泥棒だ、つかまえろ!」この声には魔法の力がこめられている。商人は店を、車ひきは車を、肉屋は皿を、パン屋は籠を、牛乳屋は桶を、使い走りの子供は包みを、小学生はおはじき玉を、道路工夫はつるはしを、子供は羽子板をほうり出す。そして、一同しゃにむに、めくらめっぽうに駆け出すのである。わめき、叫び、角を曲がりざま通行人をつき倒し、犬を吠え立たせ、鶏を驚かせ、通りに、広場に、路地に、その叫び声をこだまさせながら、つっ走る。

「泥棒だ、つかまえろ!泥棒だ、つかまえろ!」何百という声がこの叫びに和し、街角に来るたびに野次馬の数が増える。泥をはね上げ、歩道を踏み鳴らして韋駄天走り。窓が開き、人が家から走り出る。群衆はただひたすら、前へ、前へ。道端のパンチ人形劇の見物人は、いちばんいい所というのに芝居をそっちのけ、追っ手の群れに加わり、叫び声はますます高まり、ますます勢いを増すばかり ― 「泥棒だ、つかまえろ!泥棒だ、つかまえろ!」

「泥棒だ、つかまえろ!泥棒だ、つかまえろ!」人間の心の奥底には、何かを追っかけたい、という熱情が漲っているのだ。一人の可哀想な子供が、息も絶え絶えにあえぎながら、顔に恐怖の色を浮かべ、目に苦悶の色をうかべ、顔からは大粒の汗の玉をしたたらせ、全身の神経を張りつめて追っ手から逃れようとしている。後に続く群衆は刻一刻と近づき、相手の力が弱まるのを見て、さらにいっそう歓声をあげ、うれしそうな金切声で叫びたてる。「泥棒をつかまえろ!」そうだ、後生だから、捕えてやるがいい。ただもう慈悲という点からだけでも!


 とうとうつかまえた。見事な一撃。子供は石畳の上に倒れ、わっと人の輪ができる。後から来た連中は一目見ようと押し合いへしあい。「どけどけ!」「そう押しちゃ子供が可哀想だ!」「馬鹿言え!あんなやつ可哀想なもんか!」「旦那はどこにいる」「ほら来たぞ、あそこだ」「旦那に道をあけろ!」「旦那、こいつがその子ですかい」「そうだ」

 オリヴァーが泥と埃にまみれ、口から血を出して倒れたまま、まわりの人垣を荒々しい目つきで眺め廻しているところへ、追っ手の先頭に立っていた連中がお節介にも老紳士を引っぱって来て、人の輪の中へ押し込んだ。

「そうだ。気の毒なことをした」紳士がやさしい口調で言った。

「気の毒だって!冗談じゃねえぜ!」野次馬がぶつぶつ言った。

「可哀想に。怪我をしているじゃないか」紳士が言った。

「このあっしがやっつけたんでさあ」一人の大柄なのそっとした男が進み出て言った。「あっしもこいつの口にぶつかって、ひどく手を切っちまいましたぜ。このあっしがつかまえたんでさ、旦那」

 その男は自分の骨折りに対してどうにかしてほしいというように、にやにやしながら帽子に手をやって挨拶したが、老紳士はその男をいかにも苦々しげに睨んだだけで、心配そうにあたりを見廻していた。まるで自分が逃げ出したい、とでも思っている様子であった。いや、実際逃げ出そうとして、またもう一つの追っかけっこがはじまることになったのではないかと思うが、ちょうどそこへ一人の警官が人ごみをかき分けてあらわれ、オリヴァーの襟首をつかんだ。

「こら、立て」警官は荒っぽく言った。

「ほんとにぼくじゃないんです。ほんとです、他の二人の子なんです」オリヴァーは一所懸命両手を組み合わせて、あたりを見廻した。「どこかこの辺にいる筈です」

「そんなものはおりゃせん」警官としては皮肉のつもりでこう言ったのだが、実際その通りだったのである。ドジャーとチャーリー・ベイツはすぐ手近の路地に逃げ込んでしまっていたのだから。「さあ、立て!」

「手荒なことしないで下さい」気の毒に思った老紳士が言った。

「大丈夫、手荒なことなんかしませんよ」警官は言うと、その証拠として子供のジャケツの背中を半分ほど引き裂いた。「おいこら、ちゃんとわかっとるぞ。そんなふりをしても無駄だ。ちゃんと立て、この小僧め!」

 ろくに立ってもいられないオリヴァーは、何とか身体を持ち上げようとしたところを、ジャケツの襟をつかまえられて、通りをどんどん引きずられて行った。紳士は警官と並んで歩いて行った。野次馬の中の有志は少し先を進み、時々オリヴァーの方を振り向いた。二人の少年たちはばんざいを叫びながら家路を急いだ。



 この犯罪は首都ロンドンのたいそう評判の悪い警察署の管内、しかもそのすぐ近所で起ったものだった。だから野次馬はオリヴァーのお供をしてもせいぜい通りを二つか三つ抜け、マトン・ヒルと呼ばれるところまでしか行けず、その先彼は低いアーチの下をくぐり、汚らしい路地を通って、裏口からこの簡易即決の裁きの庭へと連れ込まれた。石畳を敷いた小さな中庭へ一同が入って行くと、そこで頬ひげを生やし手に鍵束を持った大男に出会った。

「どうした」その男が無造作な口調で言った。

「ちんぴらの手ふきすりさ」オリヴァーを護送して来た男が答えた。

「旦那が盗られた方ですか」鍵束を持った男が尋ねた。

「ええ、そうですが」と老紳士が答えた。「しかしこの子が本当にハンカチを盗んだかどうかは、はっきりわからないのです。私は ― その、私はどちらかと言うと、無理に告訴したくないのですが」

「ここまで来ては、判事殿の前に出頭しないわけにはいきませんな」男が答えた。「判事殿はすぐお手すきになります。さあガキめ、こっちへ来い」

 役人はオリヴァーにこう歓迎の挨拶を贈ると、石造の留置場に通ずる
入口の鍵を開けた。中でオリヴァーは身体検査をされたが何も所持品が見つからないので、そのまま拘留された。

 留置場の入口の鍵がぎいと鳴った時、老紳士もオリヴァーと同じくらい悲しい顔になった。彼はため息をつくと、こうした面倒ごとの種をまいた罪のない本をじっと見た。

「どうもあの子の顔には」老紳士はそうひとり言を言うと、もの思いに沈んだように本の表紙で顎を叩きながら、ゆっくりと歩き出した。「どこか気になるところがある。ひょっとするとあの子は無実なのではあるまいか。あの子を見てると ― 待てよ」老紳士は急に足を止めると、天を仰いで叫んだ。「はてな!以前どこかであの子に似た顔を見たことがあるが、どこだったろう」

 数分間考え込んでから老紳士は、またもの思いに沈んだ顔で、中庭から通じている裏側の控え室に入って行った。それからその部屋の隅の方に退くと、これまで長年の間ほの暗いとばりに隠されていたいろいろな顔を、記憶の中によみがえらせようとした。が、結局首をふって言った。「違うかな。きっと気のせいだろう」


 老紳士は、オリヴァーの顔の上に面影を残しているような顔は、一つとして思い出すことができなかった。そこで甲斐のない追憶にほっとため息をついたが、彼自身にとっても幸いなことに、すぐに気がまぎれてしまう人間だったので、昔の顔をもう一度かびくさい本の中に閉じ込めてしまった。

 さっきの鍵束を持った男に肩を叩かれ、法廷について来るようにと言われて、彼ははっとわれに返った。彼は急いで本を閉じると、有名なファング判事殿の堂々たるお姿の前に案内された。

 法廷というのは壁に鏡板が張ってある正面の広間で、ファング判事殿はその上手の奥の手すりの向こうに座っていた。戸口の一方の側に一種の木の檻のようなものがあって、その中には既にオリヴァーが入れられて、可哀想にこのおそろしい光景を見てぶるぶるふるえていた。

 ファング判事殿は中肉中背で、髪の毛は薄く、わずかに頭の横とうしろの方にしか残っていなかった。いかめしい顔はひどく赤味がさしているので、もし彼が適量以上に少々酒を飲みすぎる癖の持ち主でなかったなら、自分の顔を相手どって名誉毀損の訴訟を起こし、多額の賠償金がとれた筈である。

 老紳士は丁寧におじぎをすると、判事殿の机に歩み寄って名刺を差し出しながら、「これが私の住所氏名でございます」と言ってから数歩さがって、もう一度礼儀正しくおじぎをすると、相手の尋問を待った。

 さてその時、たまたまファング判事殿はその日の朝刊の論説を読んでいたところであったが、そこで彼の最近の判決をとり上げて、前から同じようなことが三百五十回もあったが、内務大臣はいったいこれを黙ってほうっておいてよろしいのか、と書いてあった。というわけで判事殿大いにご機嫌ななめで、苦虫を噛みつぶしたような顔を上げて廷内を睨めつけた。

「お前は誰だ」

 老紳士はいささか驚いて自分の名刺を指さした。

「係り官!」判事殿は名刺を軽蔑し切った態度で新聞で払い落しながら、「こいつは何者だ」

「私の名は」老紳士はいかにも紳士らしく礼儀を守って、「ブラウンローと申します。然るべき身分の人間に対し、裁判官の地位をかさに着て、横暴にもいわれなき無礼を加えられる判事殿のお名前をうかがいたいものです」こう言いながらブラウンロー氏は、自分の問いに答えてくれる人がいないか探すように、廷内を見廻した。

「係り官!」判事殿は新聞を横に放り出しながら言った。「こいつの容疑は何だ」

「判事殿、この方は容疑者ではありません」係り官が答えた。「この少年の告訴人として出頭されたのであります」

 判事殿はそんなこと百も承知だったのだが、愉快な、しかも自分には何の危害の及ばないいやがらせにふけっていたのである。

「少年の告訴人だと」ファングは馬鹿にしたようにブラウンロー氏を、頭のてっぺんから足の爪先までじろじろ眺めた。「宣誓させろ」

「宣誓の前に一言言わせていただきたい」ブラウンロー氏が言った。「つまり、私は身をもって体験するまでは、よもやこのような ―」

「黙れ!」判事殿が横柄な口調でどなった。

「いや、黙りませぬ」老紳士が答えた。

「たったいま黙れ、さもないと退廷させるぞ!生意気な無礼者め、よくもよくも判事に脅迫がましい」

「何ですと!」老紳士が顔を真っ赤にして叫んだ。

「こいつに宣誓させろ!」ファングが書記に言った。「これ以上一言も聞きたくない。宣誓させろ」

 ブラウンロー氏はかんかんに怒ってしまったが、その怒りをここで爆発させては、かえってあの子に迷惑を及ぼすだけだと思ったのであろう、ぐっと自分の感情を抑えてすぐ宣誓した。

「さて」ファングが言った。「この子供に対する容疑は何だ。お前の申し立ては?」

「私が本屋の前に立っておりましたところ ―」ブラウンロー氏が言いかけると、

「黙れ!」ファング判事殿が言った。「おい。警官はどこだ?警官に宣誓させろ。さあ警官、これはどういうことだ」

 警官はいかにも平警官らしく腰を低くして、容疑者を捕えた次第や、オリヴァーを身体検査したが何も発見できなかったことを述べ、自分の知っているのはそれだけでありますと言った。

「証人はいるか」判事殿が尋ねた。

「おりません」警官が答えた。

 ファング殿はしばらくの間黙っていたが、それから告訴人の方を向くと、ものすごく威丈高になって、

「おい、お前はこの子に対する告訴を申し立てるつもりなのか、それとも申し立てぬつもりなのか?お前は宣誓したんだぞ。いいか、もしお前がそこに立って証拠を出さぬと言うんなら、法廷侮辱罪で処罰するぞ。わかったな、このバ ―」

 バの次に何と言ったのか誰にもわからない。ちょうどその時に書記と看守とがたいそう大きな咳をしたからである。その上書記は大きな本を床の上におっことしたので、その音であとの方の言葉が聞こえなかったのである ― もちろんこれは偶然の出来事だろうが。

 何度も何度も途中で邪魔が入ったり無礼な扱いを受けたりした後に、やっとブラウンロー氏は自分の訴えを述べることができた。子供が走り去るのを見たので、その時驚いて自分も後を追いかけてしまっただけなのです、その子が実際の犯人でないとしても、もし犯人に関係ありと判事殿がご判断なさるなら、どうか法の許すかぎり寛大なご処置をお願いしたいと述べた後、老紳士は最後にこう言った。

「あの子は既に怪我をしています。その上」ここで特に言葉を強めて手すりの方を見た。「あの子は重病ではないかと思います」

「ふん!そうであろうともな!」ファング殿がせせら笑った。「おいこら小僧、ここではそんなごまかしはきかぬぞ、わかったな。名前は何と言うか」

 オリヴァーは答えようとしたが口がきけない。顔が真っ青になって、部屋全体がぐるぐる廻っているような気がした。

「おいこら、しぶとい奴め、名前は何というか」判事殿が雷のような声でどなった。「おい係り官、こいつの名前は何というんじゃ」

 こう呼びかけられたのは手すりのそばに立っている、縞のチョッキを着た朴訥そうな老人だった。彼はオリヴァーの方へ身をかがめるとその問いをくり返した。ところが相手がとうてい何も理解できないような状態にあるのを知ったが、これで答えなければ判事がいっそう激昂して、刑の宣告を重くするばかりだと思ったので、いい加減に当てずっぽうを言った。

「判事殿、名前はトム・ホワイトと申しております」この心やさしい係り官が言った。

「はっきり答えんと申すのじゃな。よろしい、住所はどこだ」

「住所不定であります」係り官はまたオリヴァーの返事を聞いたふりをして答えた。

「両親はいるのか」

「赤ん坊の時に死んだと申しております」係り官はいつもよくある返事を当てずっぽうに答えておいた。

 尋問がここまで進んだ時、オリヴァーは頭をあげて、何か訴えるような目であたりを見廻しながら、消え入るような声で、水を下さいと言った。

「ふざけるな!」判事殿が言った。「馬鹿も休み休み言え!」

「判事殿、本当に病気らしいのであります」係り官がたまりかねて口をはさんだ。

「わしがそんな手にのるものか」ファング殿が言った。

「手当をしてやってください、お役人さん」老紳士は思わず両手を上げながら言った。「倒れそうですよ」

「そばに寄るな、係り官」ファングが乱暴にどなった。「倒れたけりゃ倒れさせろ」

 この親切なお許しを受けたのでオリヴァーは気を失ってどたりと倒れてしまった。役人たちは顔を見合わせたが、敢えて身動きしようとするものはいなかった。

「気絶のふりをしとるんじゃ。ちゃんとわかっとる」ファングはこれこそ動かしがたい証拠であるというような口ぶりで言った。「ほっとけ。すぐに芝居にあきるじゃろう」

「判事殿、この事件をどう処置なさいますか」書記が低い声で尋ねた。

「即決だ」判事殿が答えた。「三ヶ月の刑に処す ― もちろん重労働だ。一同退廷」

 退廷のためドアが開かれ、二人の役人が気を失った少年を留置所へ運んで行こうとした時、古ぼけた黒い服を着て、上品だが貧しそうななりの一人の初老の男が、急いで法廷に駆け込むと判事席の方に進み寄った。

「待って、待って下さい!その子を連れて行かないで!お願いです、ちょっと、待って下さい!」駆け込んで来た男が息を切らしながら言った。


 このように法廷でのさばり返っている悪魔の親玉は、女王陛下の臣民、特に貧乏人の自由、名誉、名声、時には生命すらを左右する横暴な力を即決で振るい、この厚い壁の中では、天使が見たら熱い涙で目もつぶれるばかりの途方もない不正行為が、毎日行なわれているにもかかわらず、この法廷の内側は毎日の新聞を通じて報道される以外には、一般市民に開放されていないのである。そこでファング判事殿は、呼ばれもしないのにこのようにずかずかと勝手に入り込んで来た怪しからんお客を見て、大いにむかっ腹を立てた。「これは何事だ。こいつは何者だ。たたき出せ。一同退廷だ!」彼はどなった。

「私は断固として申し立てます」その男が叫んだ。「たたき出そうったってそうはいきません。私はすっかり見ていたのです。私は本屋です。宣誓させて下さい。黙らせようったってそうはいきません。判事殿、私の申し立てを聞かなくてはいけません。いやとはいわせませんよ」

 この男の言う通りだった。彼は断固たる態度だったし、ことここに至ってはうやむやにもみ消すことは不可能になって来た。

「その男に宣誓させろ」判事殿はしぶしぶどなった。「さあ、お前の申し立ては何だ」

「こういうことです」その男が言った。「私は3人の子供を見ました。2人の他の子と、ここにいる被告の3人です。この旦那が本を読んでおられる間は道路の向こう側をぶらぶらしていました。すり取ったのは別の子でした。私はその現場を見ました。この子がそれを見てびっくりしてぽかんとしていたのを、私は見ました」ここまでしゃべると呼吸がかなり楽になって来たので、感心な本屋の主人はその先はもっと筋道正しく、窃盗の状況を正確に述べることができた。

「なぜもっと早く来なかったのじゃ」ちょっと間を置いてから判事殿が言った。

「店番が一人もおりませんでしたもので」男が答えた。「私の代わりに店番をしてくれそうな連中は、みんなあの子を追っかけて行ってしまいました。つい5分前まで代わりが誰もいませんでした。だから店からここまで走り通しで来たんです」

「告訴人は本の立ち読みをしとったんじゃな」また少し間を置いてからファングが尋ねた。

「そうです」本屋が答えた。「いま手に持っていらっしゃるあの本です」

「ふうん、あの本か。金は払ったか」

「いいえ」本屋が笑いながら答えた。

「しまった、すっかり忘れていた!」うっかり者の老紳士が正直に叫んでしまった。

「そういう男が哀れな少年を泥棒呼ばわりして、訴えるとは呆れたものだ!」ファングは人情家らしく見せようと滑稽なくらい努めながら、「お前は極めて疑わしく、かつ、怪しからぬ状況にあ
ってその本を占有したのである。その財産の所有者がお前を告訴しないのが幸運だと思うがよい。いいか、これにこりて以後つつしむのだぞ、さもないと法の手により処断することがあるからな。少年は釈放する。一同退廷」

「うーんこの野郎め!」老紳士はこれまでこらえにこらえていた怒りを爆発させてしまった。「なんたることだ!今に見てろ ―」

「一同退廷だ!」判事殿が言った。「係り官聞こえんのか?一同退廷だ!」

 一同命令に従い。片方に例の本、片方に竹のステッキを持ち、今に見てろと怒り狂っているブラウンロー氏は、外に連れ出された。ところが彼が中庭に出ると怒りはたちまちに消えてしまった。オリヴァー・トゥイストがシャツのボタンをはずされ、こめかみを水で濡らされたまま、仰向けに石畳の上に倒れていたからである。顔は死人のように土気色で、寒さで全身がたがたふるえていた。

「かわいそうに、かわいそうに」ブラウンロー氏はそう言いながらその上にかがみ込んだ。「誰か馬車を呼んで来て下さい。急いで!」

 馬車が来ると、オリヴァーを一方の席に丁寧に寝かせてから、老紳士も乗り込んでもう一方の席に座った。

「手前もご一緒してよろしゅうございますか」本屋の主人が中をのぞき込みながら言った。

「やあ、君でしたか。さあ、どうぞどうぞ」ブラウンロー氏が早口で言った。「君のことを忘れていましたよ。ややっ!まだこのいまいましい本を持っていた。早く乗って下さい。可哀想な子だ。ぐずぐずしてはいられないから」

 本屋の主人が乗り込むと、馬車は走り去った。






この台本を作成にするにあたり、小池滋訳「オリヴァー・トゥイスト」(講談社文庫)、中村能三譯「オリヴァ・ツィスト」(新潮文庫)から多くの引用をさせていただきました。  

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