プチ朗読用台本「デイヴィッドの決心」


 ロバの荷馬車を引いた若い男を追いかけるのを諦めて、グリニッジに向けて出発したときには、たぶん、ドーヴァーまでずっと走り通そうと無謀なことを考えていたのかもしれない。仮にそんなことを考えていたとしても、しばらくすると乱れた感覚が静まり正気が戻ってきた。というのも、ケント街道で休憩をとったから。そこは高台になっており、前方には池があって、池の真ん中には、水の出ない貝殻を吹奏している、大きな間の抜けた噴水の像が建っていた。これまでの猪突猛進のため、すっかり力を使い果たして、へとへとに疲れており、荷物や半ギニーをなくしたことを泣く気力も出てこなかったが、それでも、ぼくは、とある家の戸口に腰をおろすことにした。

 その頃には日は暮れていた。座って休んでいると、時計が10時を打った。幸い、夏の夜のことだったし、天気も良かった。呼吸が楽になり、喉が詰まったような苦しさもなくなると、ぼくは立ち上がって、再び歩き続けた。こんなに辛くてたまらなくても、引き返そうなどという考えは浮かばなかった。ケント街道にスイスの雪の吹きだまりが仮にあったとしても、果たして引き返そうと考えたものだろうかと首をひねる。

 だけど、全財産で半ペニー銅貨がたったの3枚きりという境遇では(そもそも土曜日の夜、ポケットの中によくもこんなに残っていたものだと不思議でたまらないが)、旅を続けるのも難行苦行だった。想像を逞しくして、一日か二日後にどこか垣根の下あたりでぼくが野垂れ死にしているのが発見されたという新聞記事なんかを、思い浮かべてみたりもした。懸命の力を振りしぼってせっせと速く歩いていたつもりだが、ぼくはとぼとぼとみじめに足を引きずっていたにすぎず、そうこうするうち、たまたま小さな店の前を通りかかることになった。そこには、紳士婦人用衣類買い取ります、の看板が掛かっていて、ぼろ、骨董品、台所用品も高価買い取り、とあった。この店の主人はワイシャツ姿で煙草をくゆらせながら、戸口のところに座っていたが、中には低い天井からコートやズボンがぎっしり吊るしてあり、ろうそくがたった2本灯してあるきりで、商品がなんとか見える程度の暗さだったから、ぼくは、この主人は自分の敵という敵を一人残らず首吊りにしてはほくそえんでいるような、実に執念深い人間なのではないかと思った。

 ぼくは、ついこの間までのミコーバ夫妻のところで学んだ経験から、しばらくのあいだ飢えをしのぐ手があったぞとひらめいた。早速、一つ先の脇道まで進んでいってそっとチョッキを脱ぐと、それを脇の下にきちんと丸めて、店の戸口へ引き返した。「ごめんください」ぼくは言った。「これを言い値で売りたいんですけど」

 ミスター・ドロビーは ― ドロビーというのは少なくとも店の戸にそう書いてあった名前だった ― チョッキを手に取ると、陶製の長パイプを逆さまにして戸口の側柱に立てかけ、ぼくを連れて店の中に入っていって、指で2本のろうそくの芯を切った。チョッキをカウンターの上に広げ、そこでじっくり吟味すると、今度は明りに透かし、そのまままたじっくり吟味して、最後にこう言った。

「このちっこいチョッキにいくら欲しいってんだ」

「そちらさんの方がよくご存知かと思いますが」ぼくは下手に出て答えた。

「売り手と買い手を一緒にはできないさ」ミスター・ドロビーは言った。「このちっこいチョッキに値を付けてみな」

「18ペンスじゃどうでしょう」― ちょっとためらってから、ぼくは匂わせてみた。

ミスター・ドロビーは元どおりにくるくるっとチョッキを丸めて、ぼくに返してよこした。「家族が路頭に迷っちまうよ」主人は言った。「こんなもんに9ペンス払ったんじゃさ」


 どうもこれは取引の仕方としちゃ、不愉快だった。なぜなら、赤の他人であるこのぼくのために、どうかご家族を路頭に迷わせてください、とでもミスター・ドロビーに頼んだかのような不愉快なことを、吹っかけられたからだった。だけど今はこのうえもなく差し迫った事態にあったから、それじゃ9ペンスでいいです、とぼくは言った。ミスター・ドロビーは多少ぶつぶつ言いはしたものの、9ペンスくれた。それじゃ、どうも、とぼくは言って店を出たが、お金を手に入れたせいで、懐は前よりもっと暖かくなり、またチョッキがなくなったせいで、もっと寒くもなっていた。だけど、上着のボタンをしてしまえば、大したことはなかった。

 実際のところ、お次は上着が消えていき、シャツとズボン姿でできるだけ急いでドーヴァーに向かわなきゃならないだろうし、そしてその格好ででもドーヴァーに着けりゃ運がいいと思わなきゃならないことぐらいは、すっかり予想ずみだった。だけど思ったほど、ぼくはこんなことに気をとられなかった。これから先の膨大な道のりだとか、ぼくのことを冷酷にあしらったロバ曳きの荷馬車の若い男のことだとかを漠然と気にかける以外、さほどこれといって差し迫った難行苦行の意識もないままに、ポケットに9ペンスを突っ込んで、ぼくは再び旅立ったように思う。

 夜を越すのに、ある計画を思いついていて、ぼくはこれを実行に移すつもりだった。それは懐かしい学園の裏手にある塀の陰で、以前は干し草が積んであった片隅をねぐらにしようというものだ。生徒たちや、物語を話してきかせたあの寝室がこんなにも自分の身近にあるのは、もちろん生徒たちの方はぼくがそこにいることなど知るよしもないし、寝室の方だって別にぼくに一夜雨露を凌がせてくれるわけでもないが、それでも旧交を温めるような感じになるだろうとぼくは思った。

 一日中きつい思いをしてきたから、やっとのことでブラックヒースの平原に登りつめたときは、へとへとに疲れ果てていた。セーラム学園を見つけるのはなかなか骨が折れた。だけどちゃんと見つけ出したし、片隅の干し草も見つけた。そして、まず塀の周りをぐるりとひと巡りし、次に窓を見上げ、中がすっかり真っ暗でしーんと静まりかえっているのを確かめてから、ぼくは干し草の許に身を沈めた。人生で初めて味わった、野宿するという心細い気持を、ぼくは決して忘れないだろう。

 その夜、家の戸口から閉め出しを食い、飼い犬には吠えられる世間相場のたいていの宿なしと同じように、ぼくも眠りに誘われた ― そこでぼくは、懐かしい学園のベッドに寝ていて、自分の部屋の仲間たちと話している夢を見た。すると寝言にスティアフォースの名が口をついて出てしまい、思わずバサッと起き上がって背筋をぴんと伸ばすと、ぼくは、頭上にきらきら、ちらちらと光輝く
満天の星をとりとめもなく眺めることになった。こんな時ならぬ時、こんな場所にぼくはいるんだと思いだすと、ぼくは不意に起き上がり、なぜか分からないけれども空恐ろしくなって、あたりを歩き回らずにはいられない、そんな気分に襲われたのだった。けれども、ちらちらする星明かりは少しずつかすみ始め、朝が近づいている空もおぼろげに白みだすと、ぼくは安心した。するとまぶたがまた重くなって、もう一度横になって眠りこんだ ― 眠りながら寒いなあと感じてはいたが ― そして、やがて暖かいお日さまに照らされ、セーラム学園の起床の鐘が鳴って、ぼくは目覚めたのだった。あるいはスティアフォースがまだここにいてくれさえしたら、一人きりで出てきてくれるまで、こそこそとあたりで待ち伏せしていたかもしれない。だけど、きっともうずっと前に卒業してしまったはずだ。トラドルズはたぶんまだいるだろうが、これもまったくもって怪しい。それに、あいつが人一倍お人好しなのには太鼓判を押せたところで、それじゃ、今ぼくが置かれている立場を打ち明けてみようかというのには、どうもあいつの慎重さといい、運の強さといい、いま一つ信用が置けなかった。そんなわけで、クリークル校長先生のところの生徒たちが起き出そうとする頃、そっと塀を離れて、遠くまで通じるほこりっぽい小道を歩き始めたのだが、そういえば、ここがドーヴァー街道だと初めて知ったのは、自分も学園の生徒の一人だった頃のことで、まさかあの頃は、今こうして旅人となってここを歩いているのを人目にさらそうとは夢にも思わなかったのだ。

 なにしろこの手の骨折りは初体験だったから、そう楽なものじゃなかったけれど、その日は、まっすぐな道をぼくは23マイル歩き通した。夕闇が迫ってくる頃には、足はずきずき痛むし、くたくたになってロチェスターの橋の上にさしかかり、そこで夕食にと買っておいたパンを食べていた自分の姿が、今でも目に浮かんでくる。「宿屋」の看板が掛かった1、2軒の小さな家には、ぼくもふらふらと誘われかけたけれども、持っていたわずか2、3ペンスのお金を使ってしまうのが不安だったし、それよりもっと不安になったのは、これまで実際に出逢ったり、追いついては追い越してきた浮浪者たちの敵意に満ちた顔つきだった。だから野天の他には宿は一切望まないことにした。それで、とぼとぼとチャタムまで足を引きずっていき ― その夜、目にした景色といえば、白亜の岩肌と跳ね橋と、泥だらけの川につながれた、マストのないノアの方舟みたいな幾艘もの屋形船といった、夢と見紛うものばかりだった ― やがて、小道の上に突き出ていた、草の生い茂る砲台のような
ところへ忍び込んでいったが、そこでは歩哨が行ったり来たりしていた。大砲を間近にして、ぼくはここで休むことにしたが、セーラム学園の生徒たちが塀のそばで寝ていたなんて知るよしもなかったように、歩哨も自分の頭上の砲台にまさかぼくがいるなんて知るはずもないわけだけれども、ぼくは歩哨の足音を友として、朝までぐっすり眠らせてもらった。

 朝起きると、足は動かすとすごく痛いし、触れるとずきずきして、細長い通りに降りていったらいったで、軍隊の行進やら太鼓を打つ音やらで意識がぼーっとなり、四方八方から取り囲まれてしまったような気がした。目的地まで旅を貫徹する体力を貯えようとするなら、今日のところはあんまりたくさんは進まない方がいいなと思い、とりあえず上着を売ることを今日の主な務めにしようと、ぼくは決めた。それで、上着はなきゃないで大丈夫なように慣らそうとばかり、脱いで小脇にかかえ、出来合いの安服をあれこれと売る洋服屋を見て廻るのに取りかかったのだった。

 ここはいかにも上着を売るにはもってこいの土地柄だった。というのも、古着屋が掃いて捨てるほどあったうえ、大抵は店先に立ってお客はいないかと目を光らせていたからだ。それでも、どの古着屋でもあらまし在庫品が吊るしてあるなかには、肩章やなんかが全部ついたままの将校のコートも1、2着混じっていたので、扱っている商品はさぞ高級品なんだろうなあと気後れし、ぼくは長い間、自分の手持ち品をどこの店にも持ち込めずに、うろうろ歩き回っていた。

 こんな風に自分の方から遠慮してしまい、きちんとした古着屋よりも、むしろ中古船具店とかミスター・ドロビーのところみたいな店に、ぼくは狙いを定めてみることにした。とうとううす汚い小道の一角に、見込みのありそうな店を見つけたのだが、その小道は突き当たりが刺草のうっそうと生い茂った空地になっていて、その柵に向かって、店の中に入りきれなかったのか、ズックの吊り床やら、錆びついた鉄砲やら、防水加工の帽子やら、それと世界中のドアを一つ残らず全部あけられそうなほどいろんなサイズの古びて錆びた鍵がどっさり山盛りになっているお盆やらがはみ出しているなかに混じって、古着の水夫の制服が何枚かひらひらとはためいていた。

 天井は低いし、狭くて、おまけに光が入るはずの小さな窓にも洋服が吊るしてあるから滅法暗く、中に入るには2、3段ステップを降りてからという店に、ぼくは胸をどきどきさせながら足を踏み入れたのだけれど、ほっと胸をなでおろすというわけにはいかなかった。つまり、顔の下半分が隅から隅まで白髪まじりの不精ひげという醜い老人が、いきなり奥のうす汚い住まいから飛び出してくるなり、ぼくの髪の毛をひっ掴んだからだ。この男は汚らしいネルのチョッキを着て、ラム酒のにおいをひどくぷんぷんさせた、見るのもぞっとするような老人だった。この男が出てきた住まいには、皺くちゃでぼろぼろのつぎはぎの布がベッドにかかっており、そこの小さな窓からは足を引きずったロバが一頭と、たくさんの刺草が見えていた。

「おい、お前、何か用があるのか」まるで犬の甲高い鳴き声みたいに喧嘩腰で一本調子に、この老人は歯をむき出して言った。「ああ、おいらの目ん玉や手足ときた日にゃ、ちくしょうめ、何の用だと言ってるだろが。ああ、おいらの肺と肝臓ときた日にゃ、ちくしょうめ、何の用だ。何度も言わせるな。ガルー」

 こういう物言いには、それにとりわけおしまいの、喉を鳴らすような感じの聞いたこともない言葉を繰り返されたのには、あわてふためくばかりで、ぼくは返事のしようもなかった。するとまだぼくの髪の毛を掴んだままの老人は繰り返した。

「ああ、何の用だ。
ああ、おいらの目ん玉と手足ときた日にゃ、ちくしょうめ、何の用だ。ああ、おいらの肺と肝臓ときた日にゃ、ちくしょうめ、何の用だ、さあ話せ、ああ、ガルルー」 ― 顔から目ん玉を飛び出させようとでもするかのように精いっぱい力を振りしぼって、老人はこう言ったのだった。

「お伺いしたのは」ぼくは震えながら言った。「ひょっとして上着を買ってもらえないかと思って」

「ああ、それじゃあ上着を見てみようじゃねえか」老人は大きな声をあげた。「ああ、おいらの心臓にゃ火がついていやがる、上着を見せてみろ。ああ、おいらの目ん玉と手足ときた日にゃ、ちくしょうめ、上着を出しやがれ」

 こう言いながら、巨大な鳥の爪みたいな、小刻みに震える両手をぼくの頭からはずし、眼鏡をかけたが、あの血走った目じゃ、どうも馬子にも衣装とはいかなかった。

「ああ、上着でいくら欲しいんだ」吟味してから、老人は叫んだ。「ああ ― ガルー ―上着でいくら欲しいってんだ」

「半クラウン」落ち着きを取り戻して、ぼくは答えた。

「ああ、おいらの肺と肝臓ときた日にゃ、ちくしょうめ」老人は叫び声をあげた。「馬鹿な。ああ、おいらの目ん玉ときた日にゃ、ちくしょうめ、だめだ。ああ、おいらの手足ときた日にゃ、ちくしょうめ、絶対だめだ。18ペンスだ、ガルー」

 不意にこの叫び声をあげるたび、今にも目ん玉が飛び出しそうになったし、話す台詞も歌うような声の出し方をして、いつも決まってそっくり同じで、つまり低い音で始まって、徐々に高まっていき、もう一度すうっと収まるといった、むしろ一陣の強い突風のようなものとしか、たとえようもなかった。

「それじゃ」取引が成立したのを喜んで、ぼくは言った。「18ペンスで結構です」

「ああ、おいらの肝臓ときた日にゃ、ちくしょうめ」上着を棚の上に放り投げて、老人は叫んだ。「店から出て行け。ああ、おいらの肺ときた日にゃ、ちくしょうめ、店から出て行けって言ってんだろ。ああ、おいらの目ん玉と手足ときた日にゃ、ちくしょうめ、 ― ガルー ― 金なんか払わねえぞ。物と交換だ」

 生まれてこの方、またこれ以降も、これほどぞっとしたことはなかった。けれどぼくは下手に出て、お金が入り用なんです。それに他の物じゃ、ぼくには何の役にも立たないもんですから、お望みどおり、外で待ちましょう、別に急き立てる気もありませんから、と言ってやった。そんなわけでぼくは外に出て、隅の日陰に腰をおろした。それから何時間もそこにじっと座っていると、日陰が日向になり、その日向が再び日陰になったが、それでも相変わらずぼくはお金を待ち続けてそこに座っていた。

 いくらこの筋の商売でも、これほど破天荒な酔っぱらいにお目にかかることはあり得なかっただろう。実は、近所ではこの男のことは誰ひとり知らぬ者がなく、悪魔に身を売り渡したとの評判にも、本人は滅法気をよくしているのだということを、やってきた子供たちからほどなく聞かされた。子供たちはずっと店の周りをぐるぐる取り巻いては、この噂を大声で叫び、金を出せ、とこの男にわめいていたのだった。「貧乏と違うよな、チャーリー、そんな素振りをしたって。金を出せ。悪魔に身を売ってせしめた金を出せ。さあ、マットレスの裏側にあるんだろ、チャーリー。ちぎって開けて金くれよなあ」裂くのにナイフを貸してやろうか、などといった言いがかりに、老人はカッと腹を立て、だから、こんな風に一日じゅう老人がぱっと飛び出しては追い散らし、子供たちは一目散に逃げ回るということを、果てもなく繰り返していた。老人は時おり、怒り心頭のあまり、ぼくを子供たちの一味と勘違いし、ぼくのところに向かってきて、おまえを八つ裂きにしてやるとでも言わんばかりの剣幕だったが、かろうじてうまい具合に、ぼくのことに気がついては店の中に取って返し、ベッドの上にごろりと寝転がって、声の響きから察するに「ネルソンの死」を狂乱した様子で、例の突風じみた節づけをしてわめき立てるのだった。まずどれも「ああ」で始まり、数えきれないほど「ガルー」が間にはさまるのだった。

 なんとかぼくが物々交換に応じるようにと、四苦八苦この男は骨を折っていた。一度は釣竿を持ち出してきたし、それがヴァイオリンのこともあれば、三角帽だったり、フルートだったりした。だけど、ぼくは持ちかけられたものはどれも残らず頑として撥ねつけ、そして毎回決まって目に涙を浮かべ、お金か上着かどっちかを下さいと頼んで、藁をもすがる思いでじっと座り続けたのだった。とうとう根負けしたこの男は、出てくるたびに半ペンスずつ払ってくれるようになり、1シリングまでゆっくりゆっくりつり上げていくのに、たっぷり2時間はかかった。

「ああ、おいらの目ん玉と手足ときた日にゃ、ちくしょうめ」店の中からぞっとする面相を覗かせ、やおら間をおいてから老人は大声をあげた。「あと2ペンスで、とっとと出て行ってくれねえか」

「できません」ぼくは言った。「飢え死にしてしまいますから」

「ああ、おいらの
肺と肝臓ときた日にゃ、ちくしょうめ、あと3ペンスで出て行ってくれねえか」

「できるものなら、ただでも出て行きたいんです」ぼくは言った。「けど、どうしてもお金が必要なものですから」

「ああ、ガー 〜〜〜〜〜 ルー」(ずる賢い老いぼれ顔だけを覗かせて、戸口の柱のあたりからぼくの様子をうかがいながら、身をよじらせ、この絶叫を絞り出したところは、実際のところどうにも言葉で表現のしようがない)「あと4ペンスで出て行ってくれねえか」

 ぼくは、ふらふらしてきたし、へとへとに疲れてもいたので、これで打ち留めとすることにした。ぼくはわなわなと震えずにはいられなかったが、鳥の爪のような手からともかくお金を受け取ると、お日さまがもう少しで沈む頃、これまで味わったことがないほどお腹をペコペコに空かせ、喉もカラカラなまま、そこを離れていった。だけど3ペンスを奮発して腹ごしらえをすると、じきにすっかり生き返った気分になり、元気倍増で行程7マイルを、ぼくは足を引きずりながらだけれど、ちゃんと歩いたのだった。

 夜の寝床はまた干し草の山のわきだったが、水ぶくれの出来た足を小川で洗い、ひんやりする葉っぱの包帯をできるだけうまいこと巻くと、どうやらゆったりと安眠できた。翌朝、旅を再開してみてわかったのだが、そこはホップ畑や果樹園ではリンゴが真っ赤に色づく食べ頃の時期を迎え、数カ所で早々とホップ摘みの作業が始まっていた。ぼくは何から何までもうたまらなく綺麗だと感じた。そこで次の日の夜は、ひとつホップの中で寝てみようとの心づもりをした。見渡すかぎり、ずらりと幾本もの竿にホップの葉が優雅にからみつく眺めに、ぼくはふと、愉快な一時の道連れじゃないかと勝手に思い描いたのだった。

 その日に出逢った浮浪者はいつもより質が悪く、おっかないったらなかったので、いまだにぼくの心の中に生々しく蘇ってくる。そいつらの何人かは凶暴な面構えの悪党ぞろいで、通りすがりにぼくを睨みつけていたのだった。そしてたぶん立ち止まったのだろうが、戻ってきて挨拶しろ、と後ろからぼくに声を掛けてきた。そこでぼくはあわてて逃げ出すと、今度は石を投げつけてきた。そういえば思い出すのは、若い男が ― 持っていたずだ袋と焜炉から察するに、鋳掛け屋だろう ― 女連れで、さっきみたいにくるりと方向転換したかと思うと、ぼくをきいっと睨みつけ、身の毛もよだつような声で、おい戻ってこい、と怒鳴りつけたので、思わずぼくは足がすくみ、きょろきょろとあたりを見回したのだった。

「つべこべ言わず、こっちに来い」鋳掛け屋は言った。「さもないと、きさまの体をかっ捌いてやるからな」

 こいつは戻った方が身のためだと、ぼくは考えた。気に入ってもらえそうな顔でもして、鋳掛け屋をなだめすかそうとばかり、この二人連れに近づいていくと、女の人が目の周りに黒いあざをつくっていることに気付いた。

「どこへ行くんだ」黒ずんだ手でぼくのシャツをむんずと胸のところで掴むと、鋳掛け屋は言った。

「ドーヴァーに行くんです」ぼくは答えた。

「どこから来たんだ」もっとがっしり摑まえようとばかり、ぼくのシャツをぎゅっとひと捻りして、鋳掛け屋は尋ねた。

「ロンドンからです」ぼくは答えた。

「何して稼ぐんだ」鋳掛け屋は訊いた。「こそ泥か」

「ま ― まさか」ぼくは言った。

「本当か、天地神明に誓ってか。正直者面しやがったら」鋳掛け屋は言った。「脳味噌を叩き出してやるからな」


 空いている方の手で、ぼくをぶん殴る素振りをしてみせて脅し、それから、頭の天辺からつま先まで、じろじろとぼくを品定めしていた。

「きゅっと一杯ビールをひっかけるくらいの金はあるのか」鋳掛け屋は言った。「持っているなら、おとなしく出すんだな、力ずくになんねえうちによ」

 もちろん出すつもりだったが、その時ふと女の人の目配せにぶつかり、すると心もち、かすかに首を横に振って、唇が「だめよ」と動いているのにぼくは気づいた。

「ぼく今すごく貧しいんです」なんとかニッコリ作り笑いをしようとしながら、ぼくは言った。「だもんで、お金がないんです」

「へえ、なんだって」鋳掛け屋は言ったが、ぼくをじっと見据えていたので、ひょっとしてぼくのポケットの中のお金も見通してたんじゃないかと思えた。

「あのう」おどおどしながら、ぼくは言った。

「なんだってんだ」鋳掛け屋は言った。「おれの弟の絹のスカーフなんか巻いてやがるとは。こっちによこせ」そして、この男はたちまちぼくの首からスカーフをひったくると、女の人の方にひょいと投げてやった。

 女の人は冗談とでも思ったのか、にわかにアハハと笑い出して、ぼくにスカーフを放り返すと、前と同じように心もちかすかに一度だけ首を縦にこくりとうなずかせ、唇は「逃げるのよ」と動かしていた。けれども、ぼくがそれに従おうとすると、鋳掛け屋は荒っぽくぼくの手からスカーフをもぎとり、それでぼくは羽根みたいにひょいと突き飛ばされてしまったが、スカーフを自分の首にたらりと巻きつけた鋳掛け屋は、女の人をちくしょう呼ばわりしたかと思うと、殴り倒してしまったのだった。固い地面に仰向けに倒れ、ボンネット帽は放り飛ばされたまま、髪の毛もほこりで真っ白になって、動けなくなった女の人の姿を、ぼくは決して忘れられない。それに少し離れてから振り返ってみると、男の方はどんどん先を歩いていっているのに、女の人は
道路沿いの土手にある小道に座りこんで、ショールの端で顔についた血を拭っているところだったのも、ぼくには忘れられない光景だ。

 この経験ですっかりこわさが身にしみたので、それからというもの、この手の人間がやってくるのが見えたら、隠れ場所が見つかるまで後戻りし、連中をやりすごして見えなくなるまで、そこにじっと忍んでいることにしたのだけれども、いやこれがまたしょっちゅうのことだったから、旅はひどく遅れてしまった。でも、旅の間じゅうどんなやっかいな目に遭ったときでもそうだが、さすがにこんなやっかいな目に遭ったにしても
、どうもぼくは自分が母さんに支えられ、導かれていたように思えて仕方なかった。それは、ぼくが想像に描く、この世にぼくが生まれてくる前の若さにあふれていた母さんの姿だったのだ。母さんはずっとぼくの道連れだった。ホップの中で寝たときにもちゃんといてくれたし、朝、目覚めても一緒だったし、一日中ぼくの先に立ち、前を進んでいってくれた。それからというもの、暑い陽の光を浴びてまどろんでいるようなカンタベリーの日だまりの街や、古い家と門構えのたたずまい、威光を放つ灰色の大聖堂と、塔の周りを悠々と舞うミヤマガラスなどのことを思い浮かべると、決まってあの母さんの姿が自然と思い出されてくるのだ。とうとうドーヴァーにほど近い、草木の一本も生えていないだだっ広い丘の上に辿り着いたが、ここでも母さんは荒涼とした風景を希望で和ませてくれたのだった。そして、旅の第一の大きな目的を果たし、逃げ出してから6日目にして、実際にその町にこの足を踏み入れることになるまで、母さんは決してぼくを見捨てたりはしなかった。けれども不思議な話だが、ぼろぼろの靴をはき、ほこりにまみれ、真っ黒に日焼けして裸同然のなりをして、こんなに長いあいだ恋い焦がれた地にいざ立つとなったときに、まるで夢幻のように母さんの姿はすうっと消えていき、ひとりぽっちで打ちしおれたぼくだけがとり残されたのだった。

 まず、船頭さんたちにおばさんのことを訊いてみたのだけれども、返事はまちまちだった。南フォアランド灯台に住んでいて、そのせいで頬ひげを焦がしちまったぜ、と言う者もあれば、港の沖の大きなブイに縛られてるから、半潮のときしか会えないよ、と言う者、子供をさらって、今はメイドストンの監獄の檻の中さ、と教えてくれる者、この前の強風のときに箒に乗って、カレーの方にまっしぐらに飛んでいくのを見たぜ、証言する者もいたのだった。次に訊いてみた貸馬車の御者にしても、同じようにそろいもそろってみんなふざけた失礼な連中ばかりだった。店屋の主人となると、ぼくのなりを嫌がって、こっちが訊こうとするはなっから、耳を貸すどころか、おまえなんぞに用はないと、だいたい口をそろえて答えるのだった。これまで逃げてきた旅の間で、この時ほどみじめで、困りきったこともなかった。お金はすっからかんに底をつき、売り払うものも何ひとつ残っていなかったから、お腹はペコペコ、喉はカラカラで、おまけに疲れてへとへとになっていた。だから、まるでまだロンドンにいるまんまみたいに、目的地は遠い遠い先に
思えた。

 こんな風に訊いてまわって、あっという間に午前中は過ぎていったというのに、相変わらずぼくは市場に近い通りの角にある、空き家になっている店の軒先のステップに腰をおろし、前に教えてもらっていた他の町の方へでもぶらぶら足を伸ばしてみようかなと考えていた矢先、馬車を引いて通りかかった貸馬車の御者が、たまたま馬衣を落っことしたのだった。これを拾ってあげながらふと目にしたこの男の顔には、何かこう人の好さそうなところがあって、それでぼくは気を取り直して、ミス・トロットウッドって人が、どこに住んでいるか、ご存知ありませんか、と尋ねてみた。本当はもう何遍もこの質問を繰り返しているうちに、ぼくはすっかり落ち込んで、今では唇から声にならずじまいになってきていたのだが。

「トロットウッドねえ」男は言った。「ええと、まてよ、その名前なら知っているよ。年くった女だろ」

「ええ」ぼくは言った。「まあ、かなり」

「背筋がピンと張ってるんじゃねえか」自分も背筋を伸ばしながら、男は言った。

「ええ、そうです」ぼくは言った。「思い当たる節があります」

「袋をぶら下げてるんじゃねえか」男は言った ― 「たんまり入りそうなぶかぶかのやつをさ ― そいでぶっきらぼうで、人を見りゃ食ってかかってくる、とげとげしくな」

 こうも隙なく正確に言い当てられしまえばしまったで、ぼくはどっと気が滅入ってしまった。

「うん、それならいいか」鞭で高台の方を指しながら、男は言った。「そこを上がっていって、ずっとまっすぐ行けば、海に面して何軒かの家に出くわすから、そこで訊きゃ、ばあさんのことは分かると思うよ。おれに言わせりゃ、あれはご馳走してくれるタマじゃねえからさ、ほら、1ペニーだ、取っときな」

 ぼくはありがたくこれを頂戴し、それでパンを買った。途中で腹ごしらえを済ませてしまうと、親切な人が言っていた方角へぼくは向かい、かなりの距離を歩き通したのだけれども、教えてくれた家のところにはなかなか出なかった。ついに前方に何軒か家が見えてきたので、だんだん近づいていき、そして小さな店(故郷の方では万屋と言っているような店だが)に入っていくと、ミス・トロットウッドがどちらにお住まいか教えていただけないでしょうか、とぼくは訊いた。若い娘さんのために米を計っていたカウンターの奥の男の人に、ぼくは話しかけたというのに、娘さんの方がこれを聞きつけて、すぐにくるりと振り返ったのだった。

「あら、あたしのところの奥さまのことかしら」娘さんは言った。「何かご用でも、坊や」

「ぼくは、あのう」ぼくは答えた。「もしよければ、じかにお話ししたいんですが」

「つまり、せびろうっていうのね」娘さんは言った。

「違いますよ」ぼくは言った。「断じて」だけど、実際のところぼくがやってきたのはこのためでしかないんじゃないかと、不意に思い当たり、すると今度はどぎまぎして黙りこくってしまい、顔が火照っているのにも気づいていた。

 物の言い方から察するに伯母さんのところのお手伝いさんだろうが、小さなかごに米を入れ、店から出てくると、坊や、ミス・トロットウッドがどこに住んでいるのか知りたいんだったら、あたしについてらっしゃい、と言ったのだった。これ以上もう何もお願いする必要はないのだ。もっともこの時には、びっくり仰天するわ、かあっと興奮するわで、脚ががくがく震えていたけれども、ともかくぼくは若い娘さんの後にくっついていくと、じきに感じのいい張出し窓のある、実に整然として小ぢんまりした家の前に出た。家の正面には、砂利を敷きつめた真四角の小さな庭があって、手入れのゆき届いた、花の咲き乱れるそこの花壇から、かぐわしい香りが漂っていた。

「ここがミス・トロットウッドのお家ですよ」若い娘さんは言った。「さあ分かったでしょ。もうこれでいいでしょう」こう言うと、娘さんは、ぼくがここまで来ちゃったことに対する責任をこれで払い落そうとでもするみたいに、さっさと家の中に駆け込んでしまったので、ぼくは庭の門のところに取り残されたまま突っ立って、その天辺ごしに、やるせない気持で居間を眺めてみたが、そこではモスリンのカーテンが真ん中あたりで開いており、大きな丸い緑色の衝立か扇が窓際にぴったり貼りつくように置かれ、小さなテーブルにはでんとばかりに大きな椅子があって、これがたった今にも伯母さんが厳めしい様子で座っているんじゃないかと思わせる代物だった。

 ぼくがはいていた靴といえば、この時には見る影もなかった。底は少しずつ擦り切れていき、上っ側の皮も引きちぎれてしまい、とうとう靴の原形はまったく失われてしまっていた。帽子の方も(ナイトキャップの役目もしていたが)、ぺちゃんこになってつぶれていたので、底がへこんで柄の取れた、堆肥の上に野ざらしにされているような古びた鍋だって、何の臆面もなく互角に張り合えたほどだ。シャツとズボンにしても、暑かったり、露が降りたり、草の色が染みついたり、野宿したケント州の土にまみれたりで汚れ放題だったから ― そのうえあちこち裂けてもいたし ― ぼくが庭の入口に突っ立っていたとき、ひょっとしたら伯母さんの家の庭の小鳥だって、ぎょっとしたかもしれない。髪の毛ときた日にゃ、ロンドンを発ってから、一遍も櫛やブラシを入れたためしがなかった。顔も首も手も、急に戸外で日に当たったものだから、みごと焦げ茶色に日焼けしていた。頭の天辺からつま先まで、まるで石炭焼き窯からでも出てきたみたいに、ぼくは軟土の白亜とほこりとで真っ白の粉だらけになっていた。こんな有様で、しかも嫌というほどそれが分かっていながら、それでもぼくはじっと待ち構えて、あのこわい伯母さんに名乗りをあげ、ぼくの第一印象を焼きつけてもらおうとしているのだった。

 相変わらず居間の窓は静まりかえっていたので、しばらく経ってから、きっとあそこにはいないんだなあと察して、視線をその上の方に向けてみると、そこには白髪まじりで、血色のよい、やけに明るい感じの男の人がいるのが目に留まったのだが、この人、へんてこな感じでウィンクしたかと思うと何度かこくりとぼくにうなずいてみせ、それと同じ回数だけ、今度は首を横に振って笑っていたかと思ったら、すっと姿を消してしまったのだった。

 そうじゃなくたって、ぼくはそれなりに気も動転していた。だけど、そこへもってきて思いも寄らないこの行動にいよいよ動転してしまい、だからどう駒を先に進めるのが得策だろうかとぼくは思案に暮れ、もうすんでのところであわや立ち去ろうかとしていたときのこと、帽子にすっぽりスカーフをかぶせ、手には庭いじり用の手袋をはめ、ちょうど通行料金徴収員がつけているみたいな庭いじり用の物入れ袋を身につけ、そして大きなナイフを手に持った女の人が、家から出てきたのだった。この人がミス・ベッツィだとぼくはすぐにピンときた。というのも、ブランダストンはカラスの森のわが家の庭に伯母さんが大手を振ってやってきたところを、ああ可哀相に、ぼくの母さんがしょっちゅう話してきかせてくれたのと寸分たがわずに、やっぱり大手を振って家から出てきたからだった。

「あっちへお行き」首を横に振り、遠くからばさりとナイフで空を切る素振りをしてみせると、ミス・ベッツィは言った。「あっちへ行きなさい。ここは子供に用はないの」

 びくびくしながら様子をうかがっていると、伯母さんは庭の隅にとっとっとっと歩いていき、そこにかがみ込んで何か小さな根っこを掘り起こしているのだった。すると、ぼくはこれっぱかりの勇気もないくせに、ただもう自棄のやんぱちの勢いで、すっと中に入っていって、かたわらに立つと、指一本で伯母さんにちょっと触れたのだった。

「あのう、ちょっといいですか」ぼくは話し始めた。

 伯母さんはぎくっとして見上げた。

「ちょっといいですか、伯母さん」

「ええっ」伯母さんは絶叫を放ったが、あれほど驚いた叫び声っていうものをぼくはついぞ聞いたためしがない。

「ちょっといいですか。ぼく、伯母さんの甥っ子なんです」

「あらまあ」伯母さんはこう言ったきり、庭の砂利道にぺたんと座りこんでしまったのだ。

「ぼく、サフォーク州のブランダストンから来たデイヴィッド・コパフィールドです ― 伯母さんはぼくが生まれた日にそちらへ来られて、母さんに会われたでしょ。母さんが亡くなってから、ぼくはずっとみじめだったんです。構ってももらえなかったし、勉強も全然教えてもらえなかったし、自分以外にはすがるものもないようにされちゃって、それにぼくには向いていない仕事に働きに行かされたんです。それでぼく、伯母さんのところに逃げてきたんです。でも出がけからお金を取られて、それでずっと歩き通しで、だから旅に出てからというもの、ぼく、一度もベッドで寝ていないんです」張り詰めていて、なんとか自分を持ちこたえてきたものが、ここへきて、へなへなと一気に崩れてしまった。つまり、浮浪児みたいな有様を見てもらい、どんな目に遭ったかも証明しようとばかりに、両手を広げてみせたかと思うと、この1週間ぼくの中で鬱積していたらしい涙がこみあげてきて、ぼくはわっと泣き出したのだった。

 もうびっくり仰天といった表情を満面に浮かべ、砂利道に座りこんだまま、伯母さんはぼくをじっと見つめていたが、ついにぼくが泣き出すと、あたふたと立ち上がって、ぼくの襟首をひっ掴んで、居間に連れていったのだった。まず最初に伯母さんがやったことは、背の高い戸棚の鍵をはずして、壜を何本か取り出すと、ぼくの口にそのどれをも少しずつ含ませた。なに、でたらめに出したに違いないんだ。だって、アニス酒やアンチョビー・ソースやサラダ・ドレッシングの味がしたんだから。こういった気付け薬を飲ませても、なにしろまだぼくが興奮状態のままで、泣きじゃくるのを抑えられないと知ると、今度は伯母さん、ぼくをソファーに寝かせることにしたのだが、ご丁寧にもぼくの頭の下にはショールをはさみ、また自分の頭からスカーフをはずすとぼくの脚の下にすべり込ませて、カヴァーが汚れないようにしたのだった。それから、ぼくから顔が見えないようにだろうが、さっき話した例の緑色の扇だか衝立だかに隠れて腰をおろし、時どき、まるで遭難信号の分時砲みたいに、「魂消たわ」と繰り返し叫び声をあげるのだった。

 しばらくすると伯母さんは呼鈴を鳴らした。お手伝いさんが入って来ると、「ジャネット」と伯母さんは言った。「二階に行って、ディックさんにわたくしからのご挨拶を申し上げて、ぜひ折り入ってお話ししたい、と言ってちょうだいな」


 ソファーの上でぼくがいかにも窮屈そうに寝ているのを見て、ジャネットはちょっとびっくりしたようだったが(なにしろぼくは、伯母さんの気に障らないようにと、身動き一つしないようにしていたから)、使いに出て行った。両手を後ろに組んだまま、伯母さんは部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて、二階の窓からぼくにウィンクしていた男の人が、ニッコリ笑いながら入ってきた。

「ディックさん」伯母さんは言った。「馬鹿はやめにしてくださいね。その気になりさえすりゃ、他の誰より、あなたは思慮分別ってもんがあるんですからね。みんなちゃんとお見通しですよ。だから何でもいいからお願い、馬鹿はやめにしてくださいね」

 すると男の人はすぐに改まった顔つきになり、ぼくを見つめたが、それはまるで例の窓の話は何もしてくれるなと頼んでいるような感じだった。

「ディックさん」伯母さんは言った。「以前デイヴィッド・コパフィールドのことを話したの、憶えてるわよね。ほら、忘れた振りしちゃいやよ。あなたもわたくしもそんなお馬鹿さんじゃないわよね」

「デイヴィッド・コパフィールドねえ」あんまり憶えていないようにぼくには映ったが、ともかくミスター・ディックは言った。「デイヴィッド・コパフィールドっと。ああ、そうそう、そうですよ、デイヴィッド、はいはい」

「あのねえ」伯母さんは言った。「これがその倅なの ― 息子ってわけよ。母親にはさほど似てないんだから、まずは父親似ってことじゃないかしらね」

「息子さんですって」ミスター・ディックは言った。「デイヴィッドさんの息子さんですか、本当に」

「そうなのよ」伯母さんは話し続けた。「それが、ずいぶんととんでもないことを仕出かしちゃったみたいなのよ。逃げてきたんですって。あーあ、もし女の子で、ベッツィ・トロットウッドで生まれてきてりゃ、決して逃げ出したりなんかしなかったでしょうに」伯母さんは、この世にはついぞ生まれてこなかった女の子の性格と振舞いにはよっぽど自信が持てるとみえて、しっかりと首を横に振るのだった。

「へえ、女のお子さんだったら、逃げ出さなかったとでもお思いですかな」ミスター・ディックは言った。

「あらまあ、驚いた」伯母さんはきいっとして、叫び声をあげた。「なんてこと言い出すのかしら。逃げ出さないとはあながち言い切れないとでもおっしゃるの。いいえ、ちゃんと名付け親であるこのわたくしと今頃は一緒に暮らしていましたよ、しかもよく心が通い合ってね。ベッツィ・トロットウッドって女の子がいったいどこを逃げ出して、どこへ行っちゃうっていうのかしら、まったく驚き、桃ノ木、山椒の木ね」

「ございませんね、どこへも」ミスター・ディックは言った。

「そう、それじゃ」この答えに気も和らぎ、伯母さんは言った。「外科医のメスみたいに実はよく頭の切れる人なのに、ディックさん、どうしてそうぼんやりした振りができちゃうものなのかしらね。ところでね、ほら、子供の方のデイヴィッド・コパフィールドをご覧になったでしょ。伺いたいことってのは、わたくし、この子をどうしたらよろしいのかしら」

「どうしたらよろしいか、ですか」困って頭を掻きながら、頼りなげにミスター・ディックは言った。「ああ、どうしたものでしょうね」

「ええ、そうなの」深刻な顔つきをして、人差し指を突き上げながら、伯母さんは言った。「ねえお願い。これぞごもっともっていうアドヴァイスをしてちょうだいな」

「そうですね、もしもそちらの立場なら」考え込み、そしてぼくの方をぽかんと見ながら、ミスター・ディックは言った。「私なら ―」このぼくをじっと見たことで、不意に何かを思いついたみたいで、そこでミスター・ディックは、はきはきと付け加えたのだった。「私なら、お風呂に入れますね」

「ジャネット」その時、ぼくは何なのか分からなかったが、内に秘めた得意の色を顔に浮かべて、くるりとふり向くと、伯母さんは言った。「ディックさんは頼もしいわね。さあ、お風呂の準備をして」

 ジャネットはお風呂の用意をしに行って、いなかったのだけれども、すると、これには思わず呆気にとられたのだが、急に伯母さんが憤りのあまり一瞬、血相を変え、かろうじて「ジャネット、ロバだわ」と絶えだえに叫んだのだった。

 これを聞きつけたジャネットは、まるで家中が炎に包まれでもしたかのように、地下から階段を駆け上がり、正面の小さな芝生に出てくると、蹄の足をかけようとした女の人が乗っている2頭のロバを追い払ったのだった。一方、伯母さんの方も、家からぱっと飛び出してきたかと思うと、子供が跨いで乗っている3頭目のロバの手綱をぐいとひっ掴んで、神聖なる芝生からつまみ出したのだが、ついでにこの霊場の神聖を汚そうとした、ついてないお供の小僧の横っ面をぴしゃりとひっぱたきもしたのだった。

 今もって、伯母さんが例の芝生に何らかの法律上有効な権利があったんだか、ぼくには分からない。だけど、伯母さんはあるものと心に決めてかかっているんだから、どっちみち同じことなんだ。伯母さんとしては何が何でも仕返ししないではいられない、自分を傷つける人生最大の不埒な行為というのが、ロバがこの汚れのない聖地に足を踏み入れることなのだ。何をしていようが、おしゃべりがどんなに面白かろうが、ロバがたちまち伯母さんの頭の中を一変させてしまい、そっちへまっしぐらに向かっていくのだった。水差しやじょうろがこっそり隠してあって、侵略する小僧めがけてすぐに浴びせかけられる準備が万端ととのっていたし、ドアの後ろには棍棒も忍ばせていたから、いつ何時でも奇襲が掛けられたし、要はひっきりなしに闘争が行なわれていたのだ。おそらくこれはロバ追いの小僧にはわくわくする痛快なことだったろうし、それに形勢がどんなものだか百も承知の、ロバでも利口な奴には、もっと痛快だったろう。もって生まれたしつこさで懲りもせず、わざわざそこに邪魔しにやってくるのが面白くてたまらないのだから、実際、お風呂の用意が出来るまでに3回も騒然となったし、一番おしまいのなんかそれこそ死に物狂いであって、伯母さんが女の細腕ひとつで、十五才の砂色の髪の毛の小僧とがっぷり四つに組んで、相手にいったい何が起きたのかが分かる前に、もう砂色の髪の毛の奴の頭を門にがつんとぶつけているのをぼくは見たんだ。こういう邪魔者がいっそう滑稽に思えたのは、その時、伯母さんがぼくにスープをスプーンで飲ませてくれていたからだ(現実問題として、このぼくが飢え死にしそうだから、まずほんのちょっとずつ栄養を取らせなきゃいけないと、伯母さんは堅く信じ込んでいた)。それで、ぼくがあんぐり口を開け、いざスープを飲もうとしているというのに、伯母さんはひょいとスープを皿に戻してしまって、「ジャネット、ロバだわ」と叫んで、攻撃をしかけに出て行っちゃったのだ。

 お風呂は極楽だった。ぼくは野宿ばかりをしていたため、手足にひりひりと痛みを感じ出しており、今はもうへとへとに疲れ、元気もなくなっていたので、五分と目を開けていられなかったからだ。お風呂から出てくると、みんな(つまり伯母さんとジャネットのことだが)は、ミスター・ディックのワイシャツとズボンをぼくに着せ、その上に2、3枚の大きなショールを巻きつけたのだった。いったい全体、何の束に見えたのかは分からないけれども、ものすごく暑くてたまらない包みには違いなかった。それに加えて、意識が朦朧として眠くなってきたので、もう一度ぼくは、じきにソファーの上に横になると眠りこんでしまった。

 もとはと言えば、長いこと心に引っかかっていた空想から芽ばえた、ほんの夢だったのかもしれない。それでも、伯母さんがやってきて、ぼくの上にかがみ込み、顔にかかった髪の毛を払って、頭の位置をもっと楽にしてくれ、なおもじっと立ったままぼくのことを見つめているという気配を感じて、ぼくは目覚めた。「可愛い子」とか「可哀相にね」といった言葉がすっと耳に入ってきたような気がしていたけれど、目を覚ましてみると、伯母さんが本当に口に出していたと思い当たる節はどこにもなかった。なにしろ。自在に回転する台の上に載っかっている例の緑色の扇の奥に、伯母さんは相変らずでんと座り、弓形張出し窓の際から海をじっと眺めていたのだから。

 起きるとすぐに食事をしたが、ローストした鶏肉とプディングというご馳走だった。食卓についたときのぼくときた日にゃ、あながち串刺しにした鳥に似ていなくもなくて、両手を動かすのだってえらく骨の折れる有様だった。でも、ぐるぐる巻きにしたのが伯母さんだったから、嫌だと不平は言えなかった。この間ずっと、ぼくのことをどうするつもりなのか内心知りたくてうずうずしていたのだけれども、伯母さんは黙りこくって食事をし、ただ向かい側に座っていたぼくのことを時おりじっと見ては。「神様、お慈悲を」と言っていたきりで、これじゃ、一向にぼくの不安が解消するはずもなかった。

 食後の後片づけも済み、シェリー酒がテーブルの上に置かれると(ぼくも一杯ご相伴にあずかったが)、伯母さんがもう一度呼びにいかせて、ミスター・ディックは早速一座に加わることになったが、伯母さんが根掘り葉掘り質問を重ねるうちに、どんどんふくらんで引き出されていくことになったぼくの身の上話を、どうかディックさんよく聞いてちょうだい、と伯母さんに頼まれると、ミスター・ディックはこのうえもなく賢そうに見えてくるのだった。ぼくが事細かに話している間、伯母さんがミスター・ディックのことをじっと見据えていたからよかったものの、もしそうでもしていないと、ミスター・ディックは居眠りしていただろうし、ついニヤッと微笑みでもしようものなら、伯母さんにこわい顔でじろりと睨みつけられて、そこではっとしてやめてしまうのだった。

 お茶の後で、ぼくらは窓辺に座った ― 伯母さんの鋭い顔つきから察するに、これ以上侵入者が現れまいかと見張りながら ― そしてとうとう黄昏て、ジャネットがろうそくやバックギャモンの盤をテーブルの上に準備することになり、やがてブラインドを下ろしたのだった。

「ねえ、ディックさん」真面目なまなざしで、もう一度人差し指を立てて、伯母さんは言った。「もう一つ訊きたいんだけど。この子を見てちょうだい」

「デイヴィッドさんの息子さんですね」一所懸命気を配りながらも困ったような顔つきをして、ミスター・ディックは言った。

「そのとおりよ」伯母さんは返事をした。「この子、あなたなら、どうするかしらね」

「デイヴィッドさんの息子さんをどうするか、ですか」ミスター・ディックは言った。「そうですね。どうしますか ― ベッドに寝かせましょうか」

「ジャネット」前に言ったのとまったく同じく、悦に入った得意げな態度で、伯母さんは大きな声を上げた。「ディックさんのおかげで何もかも片づきましたよ。ベッドの用意が出来次第、早速連れていって寝かしつけてやりましょう」

 用意がととのいました、とジャネットが告げると、ぼくはベッドに連れていかれたが、親切には違いないけれど、ちょっと囚人みたいだった。なにしろ、伯母さんが先達になって、ジャネットがしんがりを務めていたのだから。唯一希望が生まれるとしたら、それは伯母さんが階段の途中ではたと立ち止まって、あたりにぷんぷん立ちこめていた焦げたようなにおいのことを訊いたことで、それに答えてジャネットは、下のキッチンでぼくの着古したシャツを燃やして火口をつくっていますと言ったことだ。けれども部屋には、ぼくが着ていた雑多なものが丸めてひと山に積んであるきりで、他には何も着るものはなかった。そして、きっかり5分で消えますからね、とあらかじめ伯母さんから申し渡されていた短いろうそく1本きりで、ぼくは部屋に独りぽっちで
取り残され、外側からドアにカチッと鍵をかけている音を聞いていた。こういったことをあれこれ心の中で思いめぐらしてみると、ぼくのことなどからっきし知るはずもない伯母さんだから、どうもぼくには逃げ出す習性ありとにらんで、そこでちゃんと捕まえておこうとばかり用心したんだろうと、ぼくは見当をつけた。

 家の最上階にあった部屋は快適で、海を見晴らし、天高く月が海を鮮やかに照らしていた。就寝の祈りを済ませ、ろうそくの火も消えてしまってから、まばゆく光る本とでもいった感じに水面を照らす月あか
りをじっと見つめて座りながら、そこからぼくの運勢を読み取れたらいいのに、それとも、最後に母さんが優しいまなざしを見せてくれたときと同じように、子供を抱いた母さんが、ぼくのことを見守ってやりましょうと、その月あかりの小道を通って天国から舞い降りてくるのが見えたらいいのにと思ったことを、今でもぼくは憶えている。荘厳な気持のまま、ようやくぼくは目をそらし、するとそれが、ありがたい、休めるんだという気持に変わってゆき、白いカーテンで仕切ったベッドを見るにつけ ― ましてやベッドの上にそっと寝ころんで、雪のように真っ白なシーツにくるまるにいたっては、いっそうこの気持がにじみ出てくるのだった。これまで野宿をした夜空の下の侘しいところをどれもすっかり思いめぐらし、もう二度と宿なしはご免ですから、それに決して宿なしの体験は忘れませんから、とお祈りしたのを憶えている。それからまたぼくは、海の上のもの哀しい月あかりの小道を漂い、夢の世界へと誘われていったように憶えている。



この台本を作成にするにあたり、石塚裕子訳「デイヴィッド・コパフィールド」(岩波文庫)、平田禿木譯「デエヴィッド・カッパフィルド」(國民文庫刊行會)から多くの引用をさせていただきました。  

          戻  る