プチ朗読用台本「カートンの愛情」


       1 

手記の朗読が終わった瞬間、恐ろしい怒号がわき起こった。はっきり聞き取れるものは、ただ血という強烈な渇望の叫びだけ。とにかくこの手記は、もっとも激しい復讐心を呼び起こした。そしてその前に頭をたれないでいられる人間は全国民中に一人としていなかったろう。

 この法廷、この傍聴人たちを前にしては、なぜドファルジュ夫婦が、あのバスティーユで奪取して、凱旋行列とともに持って帰った数多くの記録とともに、公表することはしないで、この手記だけを秘密にして時機を待っていたか、説明などはほとんど必要がなかった。またサン・テヴレモンドというこの家名が、なぜ長くサン・タントアーヌの住民たちの呪詛の的になり、そのままあの死の記録の中に編み込まれていたか、その説明もまたほとんど必要なかった。この日、この場所において、こうした糾弾に抗してまで、それが弁護を貫き得るほどの有徳者、功労者は、まずこの世にはいなかったであろう。

 それに判決を受ける被告にとって、告訴人が有名な市民であり、自分自身の親しい知人であり、自分の妻の父親であることは、それだけかえって悪かった。さらに当時の民衆がいだいていた、妙な狂気じみた情熱の一つは、古代のかのいかがわしい公聴を模倣して、人民の祭壇に犠牲を捧げ自己を犠牲にすることであった。だからこそ、裁判長が、今やこのよき共和国の善良な医師は、憎むべき貴族一家を根絶することによって、いっそう共和国に貢献することになるであろうし、またその愛娘をあえて寡婦となし、その愛孫を孤児にすることによって、むしろ神聖なる栄光と歓喜とを感じているに相違ない、と発言したとき(もちろん、そうとでも言わなければ、裁判官自身の首が肩の上で危うくなったであろう)、狂乱的な興奮、愛国的な熱狂が湧き起こり、人間らしい同情は微塵もなかった。

「あれでも、あの先生、顔がきくというのかねぇ?」復讐の女鬼を顧みながら、マダム・ドファルジュが、ニヤリと笑って言った。「おい、先生、なんなら助けてみなよ!助けてみなよ!」

 
陪審員が一人投票する度に、わあっと喚く声が起った。次々と、そしてまたわあっという声、またわあっという声!

 満場一致の有罪。血統からしても生粋の貴族、共和国の敵、そして札つきの人民弾圧者。コンシエルジュリへ差し戻し、24時間内に死刑にせよ!


 こうして死刑の判決を受けた罪のない囚人の哀れな妻は、宣告を聴くやいなや、自分が致命的な打撃をでも受けたかのように、その場に倒れてしまった。だが、彼女は声一つ立てなかった。そして今となっては不幸な彼を支え、そしてそれを少しでも大きくしないようにするのは、世界中で彼女だけの責務であるという内心の声が強かったために、間もなくその衝撃をさえ克服してみずから立ち上がった。

 裁判官たちは、民衆の屋外デモに参加しなければならなかったので、法廷は一時休廷になった。法廷の人たちが、たくさんの廊下を通ってドッと退出する、その騒がしい動きがまだ続いているうちに、ルーシーは、立ったまま両腕を、夫の方へいっぱいに差し伸べた。その顔には、ただ愛情と慰めだけが現れていた。

「少しでもいい、さわらせていただけたら!もう一度だけ、しっかり抱かせていただけたら!ああ、みなさん、せめてそれだけの慈悲をかけていただけないでしょうか!」

 その時残っていたのは、獄吏が一人と、昨夜ダーニーを逮捕に来た4人のうちの2人と、そしてバーサッドだけだった。一般市民たちは、みんな街頭デモに出かけてしまっていた。バーサッドが、ほかの3人に提案した。「じゃ、抱かせてやろうか。ほんのちょっとの間だからな」みんななんにも言わないが、了承の意を表した。それで、みんなで彼女を、傍聴席から一段高い席へと移してやった。そこならダーニーが、被告席から乗り出すようにして、彼女を両腕で抱くこともできたからである。

「さようなら、わたしの心の宝。これが愛するおまえに対する別れの祝福なのだ。またきっと会おうね、疲れはてたものがやすむ場所でね」

 彼は、しっかり妻を抱き締めながら、言った。

「ええ、わたし、堪え忍びますわ。神さまが
支えてくださると思うの。わたしのことはお案じにならないで。それから、あの子供に対してもお別れの祝福を、ね」

「そう、おまえからよろしく言っておくれ。代わりにおまえに接吻をしておく。それから、さよならも」そして彼は、身を振り切って彼女から離れようとした。

「あなた、いけませんわ!もうちょっと!でも、きっとお別れは長くはありませんわ。なんだかわたしも、このために身が張り裂けるようなような気がしますもの。でも、生きてる限りは、義務はつとめますわ。そしてあの子を残して死ぬ時には、きっと神さまがよいお友だちを与えてくださると思いますの、ちょうどわたしにしてくださったようにね」

 父親も彼女の後からついてきていた。そして二人の前にひざまずこうとすると、ダーニーは手を伸ばして、彼を止めた。

「だめ、だめ!どうしたとおっしゃるんです、わたしたちの前にひざまずこうなんて?昔、あなたがどんなにお苦しみになったか、わたしたち、今初めてわかりました。わたしの素性にうすうすお気づきになって、しかもそれがほんとうだとわかったとき、どんなにお苦しみになったか、それもよくわかりました。当然のお憎しみを、ただこのルーシーのために、闘って打ちかってくださったのです。よくわかりました。ほんとに心から、そしてまた愛と義務との心をこめて、お礼申し上げます。神さまがあなたをお護りくださいますように」

 だが、父親の答えは、ただ両手で真っ白な髪の毛をかきむしり、苦悶の声を上げてうめくだけだった。

「こうなるより仕方なかったのです」囚人は言った。「何もかもすべてがいっしょになって、こんなことになるように作用してきたんでしょうね。わたしはただ母から言われていた頼みを果たそうという一心で、すべてをやってきたんですが、もちろん、みんなそれはむだでした。だが、ただそれが、不幸にして初めてあなたとお近づきになる機会になったわけなんですね。もともとこんな誤ったことから、いいことが生まれるはずはなかったのです。こんな不幸な事情で始まったことに、幸福な結末が来るなんてことはありえない。どうか元気を出してください。そしてわたしのことはお許しください。どうかあなたに神さまの祝福がございますように!」

 いよいよ引き立てられて行くことになったので、ルーシーも夫の身体を放したが、その後はまるで祈りでもする時のように、両手を合わせていつまでも後ろ姿を見送っていた。が、その顔はむしろ明るい光に輝き、口もとにはゆるやかな微笑さえ浮かんでいた。ダーニーが囚人用出口から出て行ってしまうと、彼女は振り返って、甘えるように頭を父親の胸によせかけ、何か言おうとしたらしいが、そのままバタリと足もとに倒れてしまった。

 その時だった、今まで人目につかずに片すみに隠れて、ついに動こうとしなかったシドニー・カートンが、つと出て来たかと思うと、彼女を抱き起こした。付き添っているのは、彼女の父親とロリー氏だけだった。カートンは、震える腕で彼女を抱き起こし、頭を下から支えてやった。だが、彼の様子には、ただあわれみというだけでなく ― さっと閃いた誇りの色があった。

「馬車まで、お嬢さまをお連れしましょうか?重いことなんか、ちっともありませんよ」

 彼は、軽々と彼女を戸口までかかえて行き、馬車の中にそっと寝かせてやった。彼女の父親とロリー氏も、馬車に乗り、カートン自身は御者の隣にすわった。

 車はやがてルーシーたちの仮寓の戸口に着いた。そこはつい数時間前、彼が暗がりの中に立って、この街のどの敷石を彼女の足が踏んだものか、そんなことをひそかに想像していたところだったが、そこでまたルーシーを抱きかかえると階段を上って、彼らの部屋へ運んで行った。そして寝台の上に静かに寝かしつけたが、たちまち小ルーシーとミス・プロスとが、取りすがって泣き出した。

「起こしちゃいけないよ」彼はミス・プロスに小声で言った。「このままの方がいいんだ。ほんのちょっと気を失っただけなんだから、無理に起こそうとしちゃいけない」

「ねえ、カートン小父さま!ねえ、小父さま」小さなルーシーが、悲しみにもう堪えられないかのように、大きくとび上がって、激しく彼にしがみつきながら、叫んだ。「小父さまがいらしたんだから、なんとかママを助けてくださるわねえ。それからパパも救ってくださるわ。ねえ。ねえ、小父さま、このママをご覧になって!小父さまもママを愛していてくださるんでしょう。それなら、このママを黙って見ていられる」

 彼は身をかがめるようにして、花のようなルーシーの頬を彼の顔に押しあてた。そして優しく押しやると、こんどは気を失っている母親を見た。

「小父さんはね」と彼は言いかけて、ちょっと言葉を切った。「帰る前に、ちょっとママにキスするけど、いい?」

 彼が身体をかがめ、自分の唇が彼女の顔に触れた時に、二言三言呟いたことが、後になって思い出された。彼の一番近くにいたその子供は、彼が「あなたの愛する生命のために」と言ったのを聞いたと、後になって皆に言った。また、自分が美しい老婦人になってからも、自分の孫たちにそう言って聞かせたのだった。

 やがて彼は次の部屋へ来ると、突然送って出たロリー氏とルーシーの父親を顧みて、言った。

「あなたはほんの昨日までは大変な信望がありましたね。だから、少なくとももう一度やってみてください。裁判官たちも、それから今権力を握っている連中も、あなたには非常に好意を持っていますし、またあなたの功労は十分に認めているんですからね。そうじゃありませんか」

「シャルル関係のことは、みんな残らずわたしには話してくれていたのですし、助命については絶対の確信を持っていたんですが。それに実際一度は成功したんですからね」彼は非常に思い悩んでいるらしく、ひどくのろのろと答えた。

「だから、もう一度やってみてください。今から明日の午後までといえば、いくらも時間はありませんが、とにかくやってみてください」

「やってみよう、さっそく。時を移さずにね」

「よろしい。あなたのような精力家の手で、ずいぶん大きなことができた前例なども、わたしは知ってますからね。もっとも」と彼は、微笑と溜息とを一緒にもらしながら言い足した。「これほどの大事でというのは知りませんがね。だが、とにかくやってみてください。人間の生命なんてものも、へたに使えばつまらんものですが、この場合は少なくともやりがいのある仕事ですよ。そうでなければ、生命なんて幾ら捨てたって仕方がないでしょう」

「じゃ、わたしは」とルーシーの父親は言った。「さっそくまず検事と裁判長を訪ねてみよう。それから、今名前は言わない方がいいが、ほかの連中にも会ってみよう。ついでに手紙も書こう ― だが、ちょっと待てよ。今日は街でお祝いがあって、晩にならないと、誰にも会えないんじゃないかな」

「なるほど、だが、いいでしょう。どうせ最後の希望なんだ。晩まで遅れたからって、とくに悪くなるってこともないでしょう。ところで、ただどんなふうになったか、それだけは聞かせていただきたいですね。いいですか。別に期待をかけているって訳じゃありませんがね。いったいあの恐ろしい権力者たちにお会いになれるのは、いつごろという見込みでしょうかねえ」

「日が暮れたらすぐというつもりだがね。今から1時間か2時間以内ですね」

「4時を過ぎたらすぐに暗くなりますからね。まあ、その1、2時間というのを、できるだけ長くに見て、じゃ、9時にロリーさんのところへ行きますからね。そうしてロリーさんからか、それとも先生ご自身からか、事の結果を伺わせていただきます。いいですか」

「そりゃ、もちろん」

「では、ご成功を祈ります」

 ロリー氏が、戸口までカートンを送ってきた。いよいよ別れる時、カートンの肩に手をかけて、彼を振り返らせた。

「だが、わたしはもう見込みはないと思いますね」ロリー氏は、低い、悲しそうな声だった。

「僕だってないと思いますよ」

「仮にあの連中の誰か、いや、あの連中の全部が、チャールズを助けたいと思ったところでですよ ― まあ、これだけでもずいぶん甘い推測なんだが。だってあの連中にとっちゃ、チャールズだけじゃなく、誰の生命だって、塵芥みたいなもんですからね ― 果たしてあれだけ法廷でのデモがあったあと、助けるだけの勇気がありましょうかな?」

「僕もそう思いますね。だから、僕は、あの騒ぎが起ったとき、まるでギロチンの斧が落ちる音が聞こえた気がしました」

 ロリー氏は、戸口の柱に片腕をかけると、そこに顔を伏せてしまった。

「気を落しちゃいけません」カートンは、優しく言った。「悲しまないでくださいよ。僕があんなふうにマネット先生を力づけたのはね、これが将来いつかは、あのルーシーさんの慰めになると思ったからなんですよ。それがなきゃ、あのひとは、ダーニー君の生命はまるで塵芥のように捨てられた、とでもいうふうに考えてしまうかもしれない。そしてそのことが彼女を苦しめるかもしれませんからね」

「ほんとにそうですね、あなたの言うとおりだ」ロリー氏は、涙をふきながらこたえた。「が、それにしても、ダーニー君は助からないだろうね。これといって希望がある訳じゃない」

「そのとおり、彼にはこれ
といった希望はない」おうむ返しのように、カートンも答えた。そして、しっかりした足どりで、階段を降りて行った。



       2

 12時も永久に去った。
 
 最後の時刻は3時だということを告げられていた。だからきっと呼び出されるのは、その少し前であろう。なにしろ道を行く護送馬車の進みは、ひどく重苦しく、またのろのろとしていたからだ。したがって、彼はほぼ2時をその時刻と決めて、なんとかその間まず自分の心を強くし、そのあとはほかの人々をできるだけ力づけてやりたいと思った。

 相変わらず両腕を胸に組んだまま、同じ歩調で歩き続けていたが、それはもうあのラ・フォルスの監房を歩き回っていた時の彼とは、まるで別人のような姿だった。そしてその時、また一時が鳴って過ぎるのを聞いたが、心は平静そのものだった。今まで聞いた多くの時間と、なんら変わりはなかった。再び護られた心の平静を、彼は心から神に感謝した。そして「あともう1時間だ」と思うと、再びくるりと向きを変えて歩きだした。

 扉の外の石の廊下に足音がした。彼は足を止めた。

 錠前に鍵が差し込まれて、回された。扉があくか、あかないかに、誰か低い声で英語をしゃべるのが聞こえた。「わたしはね、ここじゃあの人に会ったことはありません。わざと避けるようにして来たんです。あなただけではいってください。わたしは近くで待っています。さあ、早く!」

 すばやく扉があいて、そして、閉った。見るとすぐ目の前に、満面明るい笑みを浮かべながら、唇には用心でもするように指を当てて、あのシドニー・カートンが、じっと彼を見つめて立っていた。

 彼の顔には異常なまでに明るい表情が浮かんでいる。瞬間ダーニーは、もしや彼の想像が生んだ幻影ではないかしら、と疑ったほどだった。だが、口をきかれてみると、確かに彼の声だ。そして彼は、ダーニーの手を取ったが、それは明らかに生身の握手だった。

「まさか僕に会えようとは思わなかったろうね」

「そう、君だとは信じられなかった。今だって、ほとんどそうだ」そして急に何か疑惑でもわいたものか、「だが、まさか君はつかまったんじゃなかろうね」

「そうじゃない。だが、僕はね、ある偶然なことで、ここの番人の一人を手なずけることができたんだ。おかげで、こうして君の前にも来られたわけさ。ねえ、ダーニー君、僕はあのひと ― 君の奥さんのところから来たんだよ」

 ダーニーは、相手の手を握り締めた。

「実は奥さんからの頼み事を君に伝えに来たんだよ」

「どんなことです?」

「いや、実に切なるお願いなんだ。君には忘れられないなつかしい声のはずだが、あの声でほんとうに悲しそうに訴えられた」

 ダーニーは、思わず半ば顔をそむけた。

「ところで、なぜそんな言伝を持ってきたか、またそれはどういうことなのか、そんなことは、君、もう聞いている暇はないんだ。僕も説明している暇はない。とにかく聞いてくれるんだな ― さあ、その靴を脱いでね、この僕のをはくんだ」

 カートンの背後には、壁に寄せかけた椅子が一脚置いてあった。彼は歩み出ると、あっという間にダーニーをすわらせて、おおいかぶさるように、裸足のままでその前に立っていた。

「僕の靴をはくんだ。さあ、手に持って。もっと気を入れてやるんだよ。早くったら!」

「カートン君、ここから逃げるなんて、そんなことができるもんか。だめだよ、君もいっしょに生命を落すだけさ。狂気の沙汰だよ」

「そりゃ、逃げろなんて言や、狂気の沙汰
だろうさ。だが、そんなこと言ったかい?あの扉を出て行けなんて言や、断ればいい、狂気の沙汰だって言ってね。それよりも、このネクタイを変えたまえよ、この僕のと。それから、その上着も。君が着替えている間に、その頭のリボンは、ぼくがとってやる。そして僕みたいに、髪をくしゃくしゃにするんだよ」

 驚くほどの敏捷さ、そしてまた超人的と思えるほどの強い実行力で、彼はたちまちダーニーの着替えをさせた。まるで親の手にかかった幼児のようにされるままになっていた。

「カートン君!ねえ、カートン君!狂気の沙汰だよ。そんなことできやしないよ。だめだよ。なんどもやった奴はいるんだけれど、みんな失敗だったんだからね。君までが死んで、このうえ僕の苦しみを加えるようなことは、後生だから、しないでくれたまえよ」

「ねえ、ダーニー、僕は一歩でもあの扉口から出ろなんて言ったかい。もし言ったら、断ればいい。卓の上にペンと紙とインキがあるね。君の手ふるえないで書けるかね」

「そう、君がはいって来るまではね」

「じゃ、もう一度元気を出して、僕の言うとおりに書くんだ。さあ、早く、大急ぎで!」

 片手を混迷した頭に押しあてながら、ダーニーは、卓に向かってすわった。カートンは、右手を胸に突っ込んだまま、彼のすぐわきに立った。

「僕の言うとおり書くんだよ」

「誰にです」

「誰にでもないんだ」カートンは、相変わらず右手を胸に突っ込んだままだった。

「日付は書くのか」

「それもいらない」

 ダーニーは、質問ごとに見上げるが、相手は相変わらず片手を胸に突っ込んだまま、まるでおおいかぶさるように見おろしていた。

「『大分前でしたが、いつかわたしたちで話した時の言葉、もしあれをあなたが覚えていてくださるならば、この手紙をご覧になる時、すぐとわかっていただけるはずと思います』」カートンの口述が始まった。「『しかも、あなたはきっと覚えていてくださると思うのです。あれをお忘れになることは、なんとしてもあなたらしくないことだからです』」

 言いながら、彼は、例の右手を胸から抜きかけた。ちょうどそのとき、ダーニーは、ペンを動かしながら、ふと気になって見上げた。そうすると何かを握っているらしい彼の手が、ぴたりと止まった。

「『あなたらしくないことだからです』どうだ、書いたかね」カートンが言った。

「そう、書いたよ。ねえ、その手、何か凶器でも持っているのかね」

「とんでもない。凶器なんか持っているもんか」

「じゃ、何を持っているんだね」

「それは、今すぐにわかる。とにかく書きたまえよ。もうほんの少しだから」再び口述が始まった。

「『ところで、ありがたいことに、あの言葉を実証できる時が来たのです。私は実証しますが、それは別に悲しんだり、悔やんだりすべき事柄ではありません』」口述を続けながら、彼の目はじっと書き手の上に注がれていたが、その時彼の例の手が、静かに、そしてゆっくりと降りて、ほとんど相手の顔近くまで来た。

 ダーニーの指から、ペンがぽとりと卓の上に落ちた。そして彼は、なにか虚ろなような顔をして、あたりを見回した。

「あれはなんの煙です?」

「煙?」

「そう、何かわたしのそばをスーッと通ったのは?」

「気がつかんよ、僕は。だって、なんにもいるはずないじゃないか。さあ、それよりもペンを取って、しまいまで書きたまえ。さあ、大急ぎで!」

 まるで記憶力がどうかなったのか、それとも心の働きが狂ったのか、彼は、いかにも必死になって注意力を集中しようとしているらしかった。曇った目をし、息づかいまで妙に変わって、じっとカートンを仰ぎ見ていたが、一方カートンは、― 再びまたあの右手を胸に突っ込んだまま ― ダーニーをじっと見返していた。

「さあ、大急ぎ、大急ぎだ!」

 ダーニーは、もう一度紙の上に身をかがめた。

「『もし今それをしなかったならば』」カートンの手は、またしても、そっとうかがうように降り始める。「『今後もう二度とそんな機会は来ないでしょう。もし今それをしなかったならば』」手はもうダーニーの顔のそばまで降りていた。「『そして、わたしの責任は、それだけ大きくなるわけでしょう。もし今それをしなかったならば ― 』」カートンは、ペンの先を見た。動いてはいるが、ただもう訳のわからぬ跡をぬたくっているだけだった。

 カートンの手は、もう胸のところへは戻って行かなかった。いきなりダーニーが、色をなして、激しく立ち上がったが、カートンの手は相手の鼻孔のところをぴったりと堅く押さえ、左腕でグイと腰を抱いた。2、3秒間ダーニーは、彼のために生命を捨てに来てくれた男に対し、かすかな抵抗を示していたが、やがて1分とたたぬうちに、気を失って床の上に長くなっていた。

 すばやく、そしてまた心同様、目的には実に忠実に動くその両手で、カートンは、相手の脱ぎ捨てていた服を、みる間に身につけた。そして髪を後ろに撫でつけ、これもダーニーがつけていたリボンで結んだ。やがて、「さあ、はいっていいよ。はいって来い」と小声に呼んだ。ヌッと顔を出したのは、例のスパイ、バーサッドだった。

「おい、わかってるだろう」カートンは、気を失って倒れている友のそばに片膝をつき、今の紙片をその胸のところにねじこみながら、つと見上げて言う。「ところで、君の危険はそんなに大きいのか」

「カートンさん」と、スパイは、おびえたように指を鳴らしながら、答える。「わたしの危険というのはね、そんなことじゃないんですよ。つまり、ここでの仕事にあるんじゃないですよ。あなたが例の約束を終始ちゃんと守ってくだされば、大したものじゃありませんよ」

「そのことなら心配するな。僕は死ぬまで約束は守るから」

「そりゃ、そうしていただかなくちゃ、ねえ、カートンさん、仮にも52という数を動かさないために、あなたがそんなふうに変装して、数さえ変えないでくだされば、わたしはなんにも心配することはありませんよ」

「心配することはないって!そりゃ、そうだとも、僕はもうすぐいなくなって、そうなれば君に迷惑をかけることはいっさいなくなるだろうし、ほかの者だって、神の御心にかなったらじきに遠くへ行っちまう。さあ、早く手を貸して、僕を馬車まで連れてってくれ」

「あなたをですって」急にびくっとしたように、スパイが聞く。

「なに、この人、つまり僕が身代りになったこの人だよ。ねえ、君、僕を入れてくれたあの門から帰るんだろう」

「もちろん、そうですがね」

「君が案内して通してくれた時、僕はすっかり弱ってたろう。ところが、今いよいよ帰る段になって、もっと弱っているんだ。別れの会見で、がっくりまいっちゃったんだな。そういうことは、今までもここじゃ、ちっとも珍しくない。ありすぎるほどあった。さあ、君の生命を握っているものは君なんだ。さあ、早く!だれか手助けを呼ぶんだ!」

「じゃ、きっと約束は守ると誓言してくださいますね」最後の一瞬までためらっているのか、ぶるぶる震えながら、スパイは言う。

「おい、君、君!」とカートンは、地だんだを踏みながら、叫んだ。「なんだ、今になって、まだこの大事な時にぐずぐずしてるのか。あれだけおれは、堅い誓約をしてやったじゃないか、このことはきっとやり通すからって。さあ、君も知っているあの中庭まで、君自身もいっしょに行くんだぞ。そして馬車に乗せて、あのロリーさんにちゃんと顔を見せる。そして風にあてるくらいはいいが、ほかに気つけ薬なんぞ飲ましちゃ絶対にいけない。それから昨夜僕の言ったこと、またその時してくれたあの人の約束、それは絶対にお忘れにならないように。わかったら、さっそく出発してくださいって、これだけのことをよく伝えるんだ。もちろんみんな、君自身でやるんだぞ、いいか!」

 バーサッドは出て行った。カートンは、卓にすわって、じっと両手に顔を埋めていた。バーサッドは、男を二人連れて、すぐ戻ってきた。

「どうしたってんだね、これは?」一方の男が、倒れた男をつくづくながめながら、言った。「ははあ、聖女ギヨティーヌさまの富籤に、見事友だちが大当たりをとったってんで、すっかり動転しちまったってわけだな」

「そうだ、よく貴族に空籤が当たったてんで、忠実な市民が悔し泣きしたもんだが、それにしても、こう卒倒するほどのことはなかったろうになあ」もう一人の男が受けて、言った。

 彼らは、気を失っているダーニーを抱き起こし、戸口まで持ってきてあった担架に乗せると、身をかがめて担ぎ上げにかかった。

「サン・テヴレモンド、もう時間はないぞ」警告でもするように、バーサッドが言った。

「ああ、わかっている。お願いだ、その男のことは、よく面倒を見てやってくれたまえ。じゃ、さよなら」

「さあ、おまえたち、行こう。しっかり担いで、出て行くんだ」

 扉が閉まって、カートンは、ただ一人残された。何か不審、そして異変を告げる物音が起こりはすまいか、極度に耳を澄ませていたが、なんの物音もしなかった。鍵を回す音、扉の閉る音が幾度かして、やがて足音は、長い廊下を遠ざかって行った。異常を告げる叫び、あわただしい人の動きなどは、一向になかった。しばらくして、やっと彼はホッと息をつくと、再び卓に向かってすわり、じっとまたきき耳を立てていると、時計が2時を打った。

 果たして新しい物音が聞こえ出した。だが、彼はもはや恐れなかった。すでにその意味は、知りすぎるほど知っていた音だったからである。次々と幾つかの扉があいて、最後にいよいよ彼の独房の扉があいた。名簿を手にした獄吏が一人、顔を出して、ただ一言、「サン・テヴレモンド、ついてくるんだ」と言った。彼は、あとについて、少し離れた大きな暗い部屋に導かれた。暗い冬の日だった。部屋の中の暗さ、さらには暗い外の光線のために、すでに多くの仲間が集められていて、両腕を縛られているらしかったが、とてもよくは見えなかった。立っている者もいれば、腰掛けている者もいる。悲しみのあまりか、絶え間なく動き回っている者もいたが、それはむしろごくまれで、大多数の者は、ただ黙々として、じっと床の上を見つめていた。

 彼は暗い片すみの壁ぎわに立っていた。52人の残りの者が、彼のあとからもぞくぞく連れられてきたが、その中の一人の男が、ダーニーを見知っていたためか、ふと足を止めて、彼を抱擁しかけた。一大事、発覚しないかと、思わずはっとなったが、男はそのまままた行ってしまった。それからほんのちょっとしてからだったが、ほっそりとまだ小娘のような容姿の若い女が一人、美しいが、こけ落ちた顔には血の気一つなく、ただじっとすべてを堪え忍ぶかのように、大きな目をいっぱいに開いたのが、その前から彼は気がついていたのだが、つと席から立ち上がると、彼のそばへ来て話しかけた。

「市民サン・テヴレモンドさま」ひどく冷たい手を彼にかけて言った。「わたしは、ラ・フォルスでもいっしょでございました貧しいお針娘でございます」

 彼は、つぶやくように、口の内で答えた。

「なるほどそうでしたねえ。なんの罪でおられたのかは忘れましたが」

「陰謀罪なんでございますの。でも、きっと神さまだけは、わたしの無実をご存知でいらっしゃいますと思いますわ。そんなことが、いったいあるはずのもんでございましょうか。わたしみたいな、貧しいつまらない弱い人間と一緒に陰謀を企むなんて誰がお考えになるのでしょうね」

 言いながら、まるで消え入りそうなその寂しい微笑は、心の底から彼を動かした。思わず涙がこぼれ落ちた。

「サン・テヴレモンドさま、わたくし、何も死ぬのがこわいわけじゃございませんの。でも、ただ、わたくし、なんにもしていませんのにねえ。わたくしたち貧しい人間のために、いろいろいいことをしてくださるという共和国ですもの、もしわたくしが死ぬことで、少しでもよくなるというんでございましたら、何も死ぬのをいやだとばかりは申しませんわ。でも、テヴレモンドさま、そんなにいいことが起ろうなどとは思えませんの。ほんとに貧しい、つまらない、弱い人間なんですものね」

 この世で最後に彼の心を温め、和らげたこの少女に彼は心ひかれた。

「あなたさまは、確か釈放になられたと伺ったのですが、ほんとうじゃなかったんでしょうか」

「いいえ、ほんとうだったんです。ところが、また捕まって有罪になったんです」

「サン・テヴレモンドさま、もし車がごいっしょでございましたら、その間でもお手を握らせていただけませんでしょうか。わたくし、決してこわいなどとは申しませんけれど、なんといっても弱い、小さな人間なんですの。そうしていただければもっと勇気が出ると思うんです」

 言いながら、忍耐強いその目が、彼の顔を仰ぎ見た時、彼は、ふとその目の中に、突然の疑惑と驚きの色が浮かぶのを見た。飢えと仕事とにやせ細ったその指を、彼は、やにわにぐっと握り締めると、強く唇に押し当てた。

「あの方の身代りになっていらっしゃいますの」そっと彼女が耳もとでささやいた。

「そしてあの奥さんと子どものためにもね。シーッ!そうなんです」

「まあ、どなたか存じませんが、なんという勇気のある方、その手を取らせていただけます」

「シーッ!いいですとも、可愛そうに、最後までね」




       3

 その夜
、パリではあちこちで、それはかつてあの刑場で見られたもっとも平和に満ちた静かな顔であった、という噂が流れていた。まるで予言者にも似た崇高な顔だった、と言った者も多かった。

 これより少し前の話だが、やはり同じ斧の下に立たされた有名な犠牲者の一人 ― それは婦人だったが、この同じ処刑台の下に立って、その時ふと浮かんだ感想を、ぜひ書き留めておきたいと願い出たという。もし彼もまたその感想をもらし、しかもそれが予言的なものであったとすれば、おそらくそれは、次のようなものであったろう ―

「わたしは、バーサッドも、クライも、ドファルジュも、復讐の女鬼も、陪審員たちも、裁判官たちも、いわば旧圧制者たちの没落に乗じて台頭したこの新圧制者たちのおびただしい一団が、やがて今この報復的処刑器械の使命が終わるまでもなく、やはり同じこの器械によって滅んでゆく姿が見えるように思う。そしてその深淵からこそ、美しい都市と輝かしい国民とは生まれでるのである。これからもまだ久しきにわたるであろう真の自由を得るための闘い、その勝利と敗北、それらの中においてこそ、現在の諸悪、そしてまたそれが当然の母胎だったともいうべき前代の諸悪はみずからその罪の償いを支払って、滅んでゆくのであろう。

「またわたしは、わたしがそのために生命を捨てた人々が、わたしとしては再び見るよしもないあのイギリスで、平和に、幸福に、そして世のために役立ちつつ、富み栄えている姿が、目に見えるように思う。わたしの名をとった子どもを胸に抱いているあのひと、そしてまた年こそとって腰は曲がっていようが、その他の点ではすっかり回復して、医者としてすべての人に誠実であり、心静かに暮しているその父親、さらにまた彼らの一家にとって長い間のよき味方であったあのロリー老人、10年間にわたり彼の持っているいっさいのものを、彼らの父娘のためにささげ尽くしたこの老人も、今は静かにその報償の日を待っていることであろう。

「彼らの胸の奥に、そしてまた彼らの子孫の胸に、今後何十年か、わたしの記憶は聖所として残されて行くことだろう。そして今日の年忌の日を、今は年老いたる彼女が、わたしのために泣いてくれることであろう。そして彼女も夫ダーニーも、この世の旅路を終えて、地下の最後の床に並んで横たわっている。そしてわたしは知っている。彼らほど互いに心の底から尊敬し合い、あがめ合った男女もなかろうが、それにも増して、二人の魂の中に、神聖な、そして尊敬に満ちた思い出を残していたものは、きっとこのわたしに相違ない。

「そういえば瞼に浮かぶのは、わたしの名を負った、あの彼女の胸にいだかれていた幼児、彼もまた今は成人し、かつてはわたしのそれであった同じ人生行路を進んでいるに相違ない。順調に成功の道をたどる彼、したがってわたしの名もまた、彼の名声の反映を受けて、より一層の輝きをおびることであろうし、わたしがわたしの家名に印した汚点は、あとかたもなく拭われる。彼は、みずから公正な裁判官と栄誉ある名士たちの先頭に立ち、これもわたしの名を負うたひとりの少年、わたしもよく知るあの前額と、そして金髪をした少年を、この場所に連れてくる ― ここもその時は、今日この日の醜さはもはや一点もとどめず、美しい場所になっているはずだが ― そしてその少年に、わたしのことを、言葉もとだえがちだが、優しく話して聞かせるに違いない。わたしにはその光景が見え、その声が聞こえるような気がする。

「今わたしのしようとしている行動は、今までわたしのした何よりも、はるかに立派な行動であるはず。そしてやがてわたしのかち得る憩いこそは、これまでわたしの知るいかなる憩いよりも、はるかに美しいものであるはずだ」




この台本を作成にするにあたり、中野好夫訳「二都物語」(新潮文庫)、佐々木直次郎訳「二都物語」(岩波文庫)、松本恵子訳「二都物語」(旺文社文庫)、本多顕彰訳「二都物語」(角川文庫)から多くの引用をさせていただきました。  

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