プチ朗読用台本「メアリーと愛息」


       1 

 鍵屋はその日の仕事が終わるとすぐに、ひとりで怪我人を見舞いに出かけ、回復の状態を確かめた。紳士を託しておいた家はロンドン橋からほど遠からぬ、サザックの裏通りにあった。彼はできるだけ早く家に帰って寝たいものだと思いながら、全速力で急いだのであった。

 この晩もひどい吹き降りで ― 前夜とあまり変わらなかった。ゲイブリエルみたいに太った男は、街角で足を踏みしめていたり、烈風に逆らって進むのにとても難儀した。風は彼を打ち負かしてあべこべに2、3歩後戻りさせたりするので、いくら頑張っても、時にはアーチの下か玄関口で、風が小休みになるまで待たねばならなかった。時折帽子とか鬘とか、あるいは両方が狂ったように飛んで来る。またもっと物騒な瓦やスレート、漆喰で固めた煉瓦の塊や、塀の笠石やらが近くの歩道に落ちて来て粉微塵に砕けたりして、歩行は愉快でも楽しくもなかった。

「わしみたいな人間がこんな夜に歩かにゃならんとは、辛いこったなあ!」未亡人の家のドアをそっと叩きながら、鍵屋が言った。「ジョン爺さんの宿屋の炉のそばに座っていたいものだ、まったく!」

「誰なの」中から未亡人の声がした。名前を告げると急に声は愛想よくなり、扉が開いた。

 彼女は四十くらい ― たぶん四十二、三だろう ― で、快活で、かつては美人であったろうと思われる顔立ちだった。悲嘆と心労の跡が残っていたが、それもずっと昔のことで、時がそれを和らげてくれた。バーナビーをひと目でも見たことがある人なら、彼の母であることがすぐわかっただろう。それほど顔は似ていたが、息子の顔に空ろな狂気があらわれているように、母の顔には長いこと辛抱しておとなしく諦めた忍耐と平静の色が読みとれた。

 その顔にはひとつだけ奇妙な、恐ろしい点があった。どんなに朗らかな気分の時でもそこには何か恐怖を表現する力が潜んでいるように感じられた。それは表面に現れ出ているのではない。ひとつひとつの目鼻立ちの中にでも見えているわけではない。目とか口とか頬の皺とかを見て、これがなければ違って感じられるだろう、というのでもない。常にどこかに隠れている ― いつもぼんやりとだが見えていて、一瞬たりとも消えることがないのだ。ほんのかすかな、影のような表情、強烈かつ言語に絶する一瞬の恐怖のみが生み出すことのできるものだ。ぼんやりとした弱々しいものであったが、どのような表情であるか察しがつき、まるで夢に魘された時のように見る人の頭の中にこびりついて離れないのだ。

 同じ刻印が息子の顔に見られたが、こちらは濁った理性のためであろうか、もっと弱い形で、いわば力と意志に欠けているようだった。それが絵に描かれていたものだったら、そこに何か表題が伴っていて、眺める人の頭にこびりついて離れなかったであろう。メイポール亭での
物語を知っていて、夫とご主人様が殺される以前あの未亡人がどういう人であったか憶えていた人なら、それが理解できたのである。いかにしてその変化が現れたか、まさにあの惨劇が発見されたその日に彼女の息子が生まれた時、子供の手首に半分消しかけた血の汚点(しみ)のようなものが見られたかを思い起こしたのであった。

「やあ、元気らしいね」鍵屋はそう言うと彼女の後についていかにも旧友といった様子で、陽気な炉の火が燃えている小さな居間に入って行った。

「あなた様も」彼女は微笑みながら言った。「またお出かけくださいまして、ほんとうにご親切に。おもてに手助けや慰めの必要とする友がいる時は、家の中で黙っていられない方だということは、昔からよく存じておりますよ」

「やれやれ」鍵屋は手をこすって温めながら、「女っていうのはまったくおしゃべりだなあ。怪我人はどうかね」

「いま眠っていらっしゃいます。明け方ごろはひどく落ち着かなくて、何時間も苦しそうに寝返りばかり打っていらしたけど、熱が引いて、お医者様の話では、じきになおるけど、明日まで動かしてはいけないとのことです」

「今日おそらく見舞客があったろう ― ええ?」ゲイブリエルは遠回しに尋ねた。

「はい、チェスターの老旦那様が、お迎えを出したらすぐいらして、つい2、3分前までおられました」

「ご婦人は?」ゲイブリエルは眉を上げて、がっかりした顔だった。

「手紙がまいりました」

「まあ、何も来ないよりましだ!誰が手紙を持って来た」

「もちろんバーナビーですよ」

「バーナビーは役に立つなあ!ずっと利口だと思っているわしらがどじばかり踏んでいる時に、あの子はやすやすと行き来しているんだから。いまはまた外をうろついているのかね」

「いい塩梅と寝ています。昨夜ずっと起きていて、今日は一日歩き回っていましたから、すっかり疲れ切って。いつもあんなふうで居てくれればいいのですがねえ ― あの子の落ち着きのない心をもっと静めることさえできたらねえ ―」

「じきによくなるさ」鍵屋はやさしく言った。「じきにね ― 悲観しちゃいけない。日に日に利口になって来るような気がする」

 未亡人は頭を振った、でも、鍵屋の言葉が本心からではなく、自分を元気づけようとしてであることはよくわかってはいた。

「あの子はいまに利口ものになるよ」ヴァーデンは言葉を続けた。「気をつけなよ。わしらが老いぼれて馬鹿みたいになった時、バーナビーに顔向けできなくなるかもしれんぞ。でも、もうひとりの友達は」テーブルの下やあたりの床を見回しながら、 ― 「目から鼻へ抜ける利口ものの中の利口ものはどこへ行った」

「バーナビーの部屋にいます」未亡人はかすかに笑いながら言った。

「そうかね!あいつはたいした切れものだ」ヴァーデンは頭を振りながら、「あいつの前で秘密をしゃべったら後悔するぞ。いや、まったくすごい知恵者だ。その気になりゃきっと字も読み書きできて、計算もできるだろうよ。おや、何だろう。あいつが部屋の戸を叩いているのかな」

「いいえ。おもてかららしいですよ。しっ!そらまた!誰かがそっと鎧戸を叩いているんですよ。誰かしら」

 二人はこれまで小声でしゃべっていたのだった。病人が上の部屋で寝ていたし、壁や天井が安物で薄かったから、大声を出せば眠りの妨げになったことだろう。おもてにいる人間は誰かわからなかったが、鎧戸のすぐ外に立ってても中の話し声は聞こえなかったはずである。隙間から明りが洩れ、しんと静まり返っていたので、ひとりしかいないと思ったのかもしれぬ。

「泥棒か悪党かもしれない」と鍵屋は言った。「明りをかしなさい」

「いけません、いけません」彼女があわてて言った。「こんな貧乏人にそんなのが入ったことはこれまでありません。ここにいてください。危険なことになっても、あなたが声の届くところにいらっしゃるのですから、わたしが行きます ― ひとりで」

「どうして」彼はテーブルから取り上げた燭台をしぶしぶ手渡した。

「なぜって ― わかりません ― ただ是非ともそうしたいから」彼女は答えた。「それ、また叩いている。わたしを行かせてください、お願い!」

 いつもはあんなにおとなしい女が、こんなにつまらぬことでこんなに興奮したので、ゲイブリエルは驚いて彼女の顔を見た。女は部屋を出るとドアを閉じ、玄関の錠に手をかけて一瞬ためらっているようであったが、この間にまたもや鎧戸を叩く音がして、窓のすぐ外から声 ― 鍵屋がどこかで聞いた憶えがありそうな、しかも何か不快な連想を伴うような ― がささやいた。「早くしろ」

 低いはっきりした声で、眠っている人間の耳にでも届けば、ぎくりとして目をさまさせそうな声だった。鍵屋ですら一瞬びくっとして、思わず窓のそばから身を引くと耳を澄ました。

 煙突の中でがたがた鳴っている風のおかげで、物音はよく聞こえなかったが、玄関の開く音、きしる床板の上を踏む人間の足音、それから一瞬の沈黙があった ― と、次の瞬間、悲鳴とも呻き声とも助けを呼ぶ叫びともつかぬ、しかし全部合わせたような声がし、「ええっ!」聞き手の血も凍らんばかりの声がした。

 途端に彼は外に飛び出した。あの恐ろしい表情が ― よく知っているように思えながら、以前一度も見たことのない、あの表情が、とうとう彼女の顔に浮かんでいた。彼女が地面に凍りついたように立ちすくみ、顔じゅうをこわばらせ、頬を鉛色にして、おびえた目つきで見つめている男は、鍵屋が昨晩暗闇で出逢った男だ。彼の目とヴァーデンの目があった。ほんの一瞬のひらめきのようであった。磨いた鏡にかかった息のようにして、男の姿は消えた。

 
こんなに荒々しく、また一瞬のうちに過ぎ去った異常な出来事に、口もきけぬほどびっくりしてしまった鍵屋は、椅子に座って震えている女を呆然として眺めていたが、憐れみの情とやさしい気持でやっと口がほぐれて来た。

「あんたは気分が悪いらしい。誰か近所の人を呼んで来よう」

「いけません、絶対に」彼女は震える手で止めながらも顔をそむけたままだった。「あなたがそばにいて、これをごらんになってしまっただけで充分です」

「いや、充分以上だ ― それとも以下かな」

「どっちでもお好きなように。わたしにものをお尋ねにならないでください。お願いです」

「ねえ」しばらくしてから鍵屋が言った。「これは筋道のとおった、あんた自身にとって正しいことかね。昔からわしのなじみで、あらゆることでわしの忠告を求めて来たあんたらしからぬことじゃないか ― 娘の頃からしっかりした強い心の持主だった、あんたらしからぬことじゃないか」

「この頃ではそうじゃなくなってしまったのですよ。年もとるし、気骨で老い込んでしまうし、そのうえあんまり苦労が多すぎて昔ほどしっかりしなくなってしまいました。どうかわたしに話しかけないでください」

「あんな光景を見て、どうして黙っていられるものか。あの男は誰だ。どうしてあいつが来ると、あんたはそんなに人が変わったみたいになるんだ」

 彼女は答えずに、椅子にしがみついたままだった。まるで倒れ落ちるのを防いでいるかのように。

「メアリー、昔なじみだからこそ、こんな立ち入ったことまできいているのだよ。わしはあんたのことが好きだったし、できればそれを行動で証明できた男だからね。あのいやらしい男は誰だい、あんたと何の関係があるのだい。真っ暗闇の夜とか荒天候の時にしか姿を見せない、あの幽霊は誰だい。どうしてあいつはこの家を知っていて、この家にとりついているんだ。戸の隙間や割れ目からささやいたりして、まるであんた方二人の間には、声に出して話せない秘密があるみたいに」

「あの男がこの家にとりついているとは、うまいことをおっしゃいましたわ」未亡人は弱々しい声で言った。「あの男の影がこの家とわたしの上にさしていたのです。明るい時も暗い時も、昼も夜も。そうしてとうとう今、生身の人間となってやって来たんです!」

 一瞬彼の方を見つめてから、彼女はドアから出て行き、後には彼だけが残された。

 どう考えたらよいのかわからないゲイブリエルは、驚きと困惑にみちた顔でドアを見つめたままだった。いま起った出来事を考えれば考えるほど、好意的に解釈することが難しくなって来た。何年もの間寂しくひっそりと暮して来たと思われ、辛抱強いおとなしい性格のゆえに、彼女を知る人すべてから称賛と尊敬をかち得ていたこの未亡人が、あの不吉な男と秘密の関係を結んでいて、その男が現れたことで恐怖を覚えながらもその逃亡を助けたとは ― 彼にとって驚きであると同時に苦痛でもあった。彼女に秘密を守ってくださいますねとすがられ、無言のうちに承知してしまったことが、彼の痛みを倍増させた。もしあの時思い切って口をきき、しつこく質問し、彼女の立ち去ろうとした時それを止め、何とでも抗議していれば、自分はもっと気が楽でいられるだろうし、自分を危うい立場に置くこともなしですんだだろうに。

「とはいうものの」手を休めて、「何でもないことかもしれない。酔っぱらいが家に入れろとわめいただけでも、彼女みたいなおとなしい女は怖がってしまうだろうからな。だがしかし」 ― ここで困惑してしまう ― 「それがあいつだというのはどうしたわけだ。どうしてあいつが彼女にこんなに強い圧力をかけられるのだろう。どうして彼女はあいつがおれから逃げる手助けをしたのだろう。そのうえ特に、どうして彼女は、あれが一時の恐怖に過ぎないとは言わなかったのだろう。おれが昔から知っている女、しかも昔恋人だった女を、一瞬にして疑わなきゃならんとは悲しい話だけれども、こういったことを考え合わせてみると、疑わずにいられようか ― おや、外にいるのはバーナビーかい」

「そうだよ!」と言いながら彼が覗き込んだ。「ご名答、バーナビーさ ― どうしてわかったの」

「影が映っていたからさ」

「なあーるほど!」バーナビーは後ろを振り返りながら叫んだ。「影って奴は愉快な奴だなあ。いつもそばにくっついているんだ。一緒にふざけたり、歩いたり、駆けたり、草の上で跳ねたりするんだ!あいつは教会の塔の半分くらい高くなる時もあるし、一寸法師みたいになる時もある。おいらの前に立って歩く時もあるし、後ろからついて来る時もある。こっちの側に隠れたかと思うと、あっち側にも行く。おいらが止まるとあいつも止まる。あいつはおいらにゃあいつが見えないと思ってるんだ。実はちゃーんと見てるんだけどな。まったく、あいつは愉快な奴だよ。いつまでもあきずにおいらをからかって、1日じゅうでもやってる。ねえ、どうして来ないのさ」

「どこへ」

「2階へさ。あの人が会いたいって言ってるよ。ちょっと待った ― あの人の影はどこにいるの。ねえ、おじさんは頭いいんだろう。教えておくれよ」

「あの人のそばにさ。すぐそばにいると思うよ」

「違うんだ!」彼は頭を振りながら言った。「も一度あててみな」

「じゃあ、散歩にでも出かけたんだろう」

「女と影を取りかえちゃったんだよ」バーナビーは老人の耳許でささやくと、得意満面になって身をひいた。「女の影がいつもあの人のそばにいて、あの人の影が女のそばにいるのさ。こりゃ面白いねえ」

「バーナビー」鍵屋が真面目な顔をして言った。「こっちへおいで」

「おじさんの言おうとしてることなんか、おいらちゃんと知ってるよ。ちゃんと知ってるさ!」彼はそう言うと近寄ろうとはしなかった。「でもおいらは隅におけないから、言わないよ。これだけしか言わないよ ― さあ、行こうよ」こう言いながら彼は燭台を取り上げ、けらけら笑いながら彼は燭台をとり上げ、けらけら笑いながら頭の上で振り回した。

「バーナビー、下の表通りに何がいたんだね」ヴァーデンはこの夢と現実に起った出来事との間に、何か関係があるらしいと思って尋ねた。

 バーナビーは彼の顔を見つめ、何かわけのわからぬことをぶつぶつつぶやき、また燭台を頭上で振り回すと、組んでいた腕をいっそうぎゅっと引っ張りながら、黙って
2階へ案内した。

二人は質素な寝室に入って行った。家具といったら、ひょろ長い脚で年代のわかる椅子とか、その他安物ばかりだが、きちんと清潔にしてあった。炉のそばの安楽椅子にもたれかかっていたのが、血を失って蒼白い弱々しそうな青年、エドワードだった。彼は鍵屋の方に手をさしのべ、あなたは命の恩人であり友人でもあると言って歓迎の挨拶をした。

「コンニチハ!」鍵屋の耳許でしゃがれ声が叫んだ。「コンニチハ、コンニチハ、コンニチハ!ワン、ワン、ワン。どうしたの!コン・ニチハ!」


 声の主 ― おかげで鍵屋は何か超自然的なお使いか何かと思ってぎくりとした ― は大きな烏(からす)で、彼もエドワードも気がつかぬうちに、安楽椅子のてっぺんに止まって、これまでの二人の話をたいそうおとなしく、一言一句わかったような様子で聞いていたのだった。話し手の一人一人に次々に視線を向け、まるで二人の申立てに裁きをつけるのがおれの仕事だから、絶対に一言も聞き漏らしてはならんのだ、といった仕草だった。

「こいつを見てごらんなさい!」称賛とも恐怖ともつかぬ口調で、ヴァーデンが言った。「こんなもの知り顔の化物ってありませんね!何と恐ろしい奴だ!」

 烏は一方に首をかしげ、目をダイヤモンドのように輝かしながら、数秒考え込んだように黙っていたが、口からというよりは厚ぼったい羽根の中から聞こえて来るみたいな、しゃがれ声で答えた。

「コンニチハ、コンニチハ、コンニチハ!どうしたの!元気出せ!弱音吐くな!ワン、ワン、ワン。おれは悪魔だぞ、おれは悪魔だぞ、おれは悪魔だぞ。バンザーイ」 ― それから悪魔の役柄がすっかり気に入ったみたいに、口笛を吹き出した。


「こいつが本当のことを言っていると、半分以上真面目に信じたくなってくるのですよ」ヴァーデンが言った。「ごらんなさい、まるでわたしの言葉がわかるみたいにわたしの方を見ているでしょう」

「もう年寄りですか」

「まだほんの子供です。百二十才かそこいらですよおいバーナビー、烏を呼び寄せておくれ」

「あいつを呼び寄せるだって!」バーナビーは床の上にまっすぐに座り、髪の毛を顔から払いのけながら、空ろな目つきでゲイブリエルを見つめた。「あいつに命令できる人間なんていやしないよ!あいつがおいらを呼び、好きなところへ行かせるんだ。あいつが先に行き、おいらは後からついて行くんだよ。あいつが主人で、おいらは家来なんだ。そのとおりだろう、
グリップ」

 烏はいい気持そうに、いかにも内緒話をしているように、一声短くカアと鳴いた ― まことに表情豊かな鳴き声で、まるで「こいつらにおれたちの秘密を知らすことはないぞ。おれたちはお互いに気持が通じ合っているんだから、それでいいさ」とでも言っているようだった。

「おいらがあいつに命令するなんて」バーナビーは烏をさして叫んだ。「あいつは眠りもしなけりゃ、目をつぶることだってしないんだぜ! ― 一晩じゅう、いつ見ても、暗闇の中で目がふたつの火花みたいに光っているんだ。毎晩、一晩じゅう目をさまして、明日は何をしようか、どこへ行こうか、何をくすねて隠して埋めようかって、独り言を言ってるんだ。そんなあいつに命令するなんて!ギャッ、ハッ、ハッ!」

 烏は思いなおして自分から飛んで来る気になったらしい。あたりをひとわたり見回し、天井とここにいる人間どもを順々に横目で眺めてから、床の上に飛び下りるとバーナビーのところへ行った ― その行き方たるや跳ぶのでも、歩くのでも、走るのでもなく小心な紳士が格別に窮屈な靴をはいて砂の上を歩こうとしているような足どりだった。バーナビーの拡げた手の中に入り、伸ばした腕の先に偉そうに鎮座ましましてから、続けざまに声を発したが、その声たるや百個か百二十個くらいコルク栓を抜くような音で、それからまたもやおれは地獄生まれの悪魔であることを、はっきりと宣言した。

鍵屋は頭を振った 本当にこいつがただの鳥なのかどうか怪しくなったのだろう ― あるいはそれを腕に抱いたまま一緒に床の上を転げ回っているバーナビーを憐れんでのことかもしれない。彼が床から目を上げると、彼の母親と視線が合った。彼女はさきほど部屋に入って来て、無言のままこの光景を見ていたのであった。

 彼女は唇まで蒼白であったが、気持は完全に落ち着いて、いつものとおりのもの静かな顔つきだった。ヴァーデンは彼女がわざと視線を合わせるのを避け、そのために怪我人の看護を忙しくやっているような気がしてならなかった。

 もうお休みになる時刻です、と彼女が言った。明日はご自宅にお戻りにならなくてはいけないし、もう一時間もおやすみ時刻を過ぎています。鍵屋は意味を察して腰を上げた。

「ところで」エドワードは握手をしながら、彼とラッジ婦人を交互に見ていたが、「さっきの下の物音は何ですか。あなたの声もそれに混じって聞こえましたが。もっと前にお尋ねしようと思っていたのですが、他の話をしているうちに忘れてしまいました。あれは何ですか」

 鍵屋は彼女の方を見て唇を噛んだ。彼女は椅子にもたれたまま目を伏せた。バーナビーも聞き耳を立てていた。

「きっと酔っぱらいですよ」ヴァーデンはじっと未亡人を見すえながら、やっと答えた。「家を間違えて、むりやりに入ろうとしたのです」

 彼女の呼吸はややらくになったが、やはり身動きしなかった。鍵屋が「おやすみなさい」と言い、バーナビーが下まで案内しようと燭台を持ち上げた時、彼女はそれを息子から取り上げ ― こんな些細なことにしてはおかしいほどあわてて、しかしきつい調子で ― ここに残っていなさいと命じた。下が安全であることを自ら確認するために、烏が二人について下りて来て、二人が玄関口のところまで来ると、一番下の踏段に立って何度も何度もコルクの栓抜きをやった。

 彼女は震える手で鎖をはずし、鍵を回した。手が閂に触れた時、鍵屋が小声で言った。

「メアリー、わしは今日嘘をついてしまった。あんたのために、昔のことを思って、昔のよしみでですよ。自分のためだったら、いさぎよしとはしなかったことだ。わたしのやったことが悪いことでないように、また悪いことを生み出さないように望みます。あなたに押しつけられた疑惑を拭い去ることができない。だからはっきり言うと、エドワード様をここに残して行きたくない。あの方に危害が及ばぬよう気をつけておくれ。どうもこの家は安全でないような気がする明日にもここを出られるのは結構なことだ。さあ、わしを出しておくれ」

 一瞬彼女は両手で顔を被い、泣いていた。何か返事をしようとする様子が明らかに見られたが、彼女はそれを押し止め、玄関を ― 彼の身体がやっと通れるだけ ― 開き、行けという合図をした。彼が外の踏段に足を下ろした時、ドアには錠が下り鎖がかけられ、この戸締まり用心に輪をかけるように、烏が番犬みたいな声でやかましく吠えた。

「あの絞首台からひきずり下ろされたみたいな形相の野郎とぐるになって ― あいつはここに隠れて聞き耳を立てているし ― バーナビーが昨夜現場に着いたのだし ― いつもあんな清らかな名声を浴びていた女が、こっそりこんな罪深いことをやるなんて!」鍵屋はこう言って、考え込んでしまった。「もしわしの考えが間違っていたら、神様どうかお許しください。そして正しい考えをお恵みください。でも、あの女も貧乏だし、大きな誘惑があったのかもしれぬし、こういう奇怪なことは毎日のように耳にすることだ ― さあさあ、いくらでも吠えてくれ、もし何か行なわれているとすれば、あの烏もぐるだぞ。絶対に間違いあるものか」



       2

 底冷えする晩で、未亡人の居間の炉は火勢が弱かった。見知らぬ男は彼女を椅子に座らせ、半分消えかかった灰の前に屈み込むと、それを掻き立てて帽子であおいだ。時々後ろを振り返って彼女がそこにおとなしくしていて、逃げようとしていないことを確かめているようだったが、大丈夫だとわかると、また一心に火を起こしにかかった。

 男がこんなに骨を折るのも無理はなかった。なにしろ彼の衣類は雨でぐっしょり濡れていて、寒さで歯ががちがちと鳴り、全身震えていたのだから。前の晩からその日の朝にかけて大雨が降っていたが、正午頃から晴れていた。暗い間どこで過ごしていたかはともかく、彼の様子はかなり長く野天にいたことを充分に物語っていた。泥にまみれ、ぐっしょり濡れた衣服はべたべた手足にくっつき、髯はそらず顔も洗わず、もともと痩せている頬はげっそりこけ ― 未亡人の家の炉端で屈み込み、血走った目でちょろちょろ燃える炎を見つめているこの男以上に、惨めな人間はありそうもないと思われるくらいであった。

 女は両手で顔を覆い、彼の方を見るのを怖がっているみたいであった。このようにして二人はしばらくの間黙ったままでいたが、とうとう男がまた振り返ると尋ねた。

「ここはお前の家か」

「そうです。いったいどうしてあなたはここに暗い影を落すのですか」

「肉と飲み物をよこせ」男はむっつりと答えた。「さもないともっとひどいことをするぞ。おれは雨と飢えとで骨の髄まで凍っちまったんだ。身体を温めて食い物を入れなきゃならんのだ。それもここでだ」

「街道で追剝をやったのはあなたでしょう」

「そうだ」

「相手をあやうく殺してしまうところでした」

「殺す気もなかったわけじゃねえ。おれに出くわして、泥棒だ捕まえろと怒鳴りやがった。奴がすばしこくなかったら、おだぶつになってたろうよ。突きをくれてやったんだ」

「あの方を刀で突き刺したんですって!」未亡人はそう叫ぶと上を仰いだ。「この男の言うことを聞きましたか!聞きましたか、見ましたか、この男を!」

 彼女が頭を後ろにそらし、両手をしっかり組み合わせて、苦しみのあまり誰かに訴えかけるようにこう叫んだので、男はその方を見、彼女が立ち上がると同時に立ち上がり、その方に近寄った。

「気をつけて!」彼女が押し殺したような声で叫んだその勢いにのまれて、男は中途で立ち止まった。「わたしに指一本でも触れてはいけないよ。そんなことをしたらお前はおしまいだよ。身体も心も、全部おしまいだよ」

「おい、よく聞け」男は脅かす手つきをしながら言った。「おれは人間の形をしているが、追いつめられた獣のような生活を送る、身体をもったこの世の亡霊なんだぞ。あの世の呪われたものだけはおれにとり憑いて離れねえが、他の人間は皆おれが来ると逃げちまう ― おれは今夜やけくそになって、毎日生きているこの世の地獄の他はもう何もこわいものなしだ。叫んだり、助けを求めたり、おれを叩き出してみろ。おれはお前に怪我はさせねえ。しかし生きながら捕えられるようなまねはしねえぞ。お前が声をあげておれを脅かすつもりなら、必ずここで死んでやる。おれがここに撒き散らす血が、お前とお前の一族にふりかかるよう、人間を誘惑して破滅させる悪霊の名において呪ってやる!」

 そう言いながら男は懐中からピストルをとり出し、しっかりと手に握った。

「神様、この男をわたしから引き離してください!」未亡人が叫んだ。「お慈悲とお恵みによって、この男に一瞬の悔悟を与えて、それから殺してやってください!」

「神様はそんなつもりは持ってねえ」男は彼女をなだめた。「神様なんか何も聞いてくれねえよ。おれに食い物と飲み物をくれ。おれが止むを得ぬ仕打ちをやっちまうといけねえからな。しかもお前にゃやりたくねえからな」

「それだけのことをしてやったら、帰ってくれるかい。二度と再び戻ってくるようなことをしないかい」

「おれは約束はしねえが」そう言いながら彼はテーブルの前に腰をかけた。「これだけは言っとくぜ ― もしおれを裏切るようなことをしやがったら、脅しを実行に移すぞ」

 女はやっと立ち上がると、部屋の押入れというか食料入れに行き、冷肉とパンを取り出すとテーブルに置いた。男はブランデーと水をよこせと言った。女はそれも持って来た。男は飢えきった犬のようにがつがつ食べたり、飲んだりした。

 彼の食事 ― と呼んでいいものかどうか。それはただ飢えの要求をがつがつ満たしたにすぎない ― が終わると、男はまた椅子を炉の方に寄せ、いまは明々と燃え上がっている炎の前で身を温めながら、また女に話しかけた。

「おれは誰からも除け者にされた一匹狼で、頭の上に屋根があるだけで大変な贅沢だと思うことがよくあるし、人が食べられる物なら、ご馳走なんだ。お前はここで安楽に暮らしているな。ひとり暮らしか」

「いいえ」彼女はやっとの思いで返事をした。

「他に誰が住んでいるんだ」

「ひとりだけ ― 誰でもいいでしょう。もう行った方がいいでしょう。あれに見つかるかもしれないから。なぜぐずぐずしているんです」

「温まりたいからさ」男は火の前に手をかざした。「温まりたいからだ。お前は金持なんだろう」

「ええ、とっても」彼女は弱々しい声で答えた。「ええ、とっても金持ですよ」

「とにかく一文なしじゃねえ。いくらか金を持ってるだろう。今夜買物をしてたな」

「少しは残っています。数シリングですけど」

「財布をよこせ。玄関を入る時に手に持っていたな。おれによこせ」

 女はテーブルに歩み寄って、財布を置いた。男は手を伸ばして取り上げ、中身を数えながら手に移した。彼が金勘定をしている時女が一瞬耳を澄まし、彼の方に跳んで来た。

「それを全部、ほかにもあったらあるだけ持って行きなさい。でも、間に合ううちに逃げなさい。おもてをふらふら歩く足音が聞こえた。よく知っている足音です。すぐに戻って来ます。さあ、行って」

「どういう意味だ」

「何もきかないで。答えないから。あなたに手を触れるのはこわいけど、もしわたしに力があれば、玄関まで引きずって行きたいくらい。その方があなたが一瞬のうちにおしまいになってしまうよりましだから。さあ、早くここから飛び出して!」

「もし外にスパイがいるんなら、ここにいた方が安全だ」男はぎょっとして立ちすくみながら言った。「ここに居残って、危険が去るまで外に出ない」

「ああもう間に合わない」未亡人は彼の言葉ではなくて、外の足音の方に耳を澄ましていた。「道を歩く足音を聞いてごらん、怖くないのかい!あれはわたしの息子なのよ」

 彼女が荒々しくこう言った時、玄関をどんどん激しく叩く音がした。二人は顔を見合わせた。

「入れてやれ」男はしゃがれ声で言った。「寝るところもない暗闇の夜よりゃ、そいつの方がまだ怖くねえ。また叩いている。入れてやれ!」

「こんなことになりはしないかと、これまでいつも恐れていたんです。入れるのはいや。もしあなた方が向かい合えば、必ずあの子に悪いことがふりかかる。ああ、かわいそうな子!真実を知る天使たち、哀れな母親の祈りを聞きとどけて、息子にこの男を知らさないでください!」

「鎧戸をゆすってやがる!お前を呼んでいるぞ。やっ、あの声!この間往来でおれと取っ組み合った野郎だ。そうだろう」

 女は床に跪き、口を動かしたが声は出なかった。男がどうしたらいいか、どっちへ向かったらいいか決めかねて、彼女を見つめていた時、鎧戸がばたんと開いた。とっさにテーブルの上のナイフをつかみ、上着の袖に隠して押入れに隠れる ― これだけのことを稲妻のような早さでやってのけた途端、バーナビーがガラス窓を叩くと、意気揚々窓を上げた。

「おいおい、ぼくとグリップを閉め出すのは誰だ!」彼は首を突っ込んで部屋を見回した。

「なーんだ、お母さん、いたの、いつまでぼくを寒い暗闇に立たしとくつもりなのさ」

 彼女は何か言訳をつぶやきながら、息子に手をさし伸べたが、バーナビーは助けをかりずに身軽に部屋に飛び込み、母の首に両腕をまわすと何回もキスをした。

「ぼくたちは原っぱに行ってたんだよ ― 溝を跳び越えたり、生垣をくぐり抜けたり、急な土手を駆け下りたり、上ったりして走り回ったんだ。風がびゅうびゅう吹いていて、水草や若木は風に折られちゃいけないってんで、ぺこぺこお辞儀しているのさ。弱虫め!グリップは ― はっ、はっ、は! ― グリップは勇気があるからへっちゃらさ。風が渦巻いて埃でくるみ込もうとしても、男らしく立ち向かってかみついてやるのさ。勇敢なクリップはぺこぺこ頭を下げる小枝と喧嘩ばかりして ― おれを小馬鹿にしてやがるって、グリップがぼくに言うのさ ― ブルドッグみたいにいじめてやっているのさ。はっ、はっ、は!」

 ご主人が背中に背負った小さな籠の中で、何度も称賛の口調で自分の名前があげられているのを聞いた烏はそれに同意を示すために鶏の鳴き真似をはじめ、それからお得意のせりふのさまざまなレパートリーを、ひどく早口で、またいろいろな声色を交えてざっと披露して見せたので、まるで大勢の人のざわめきのように聞こえた。

「そのうえグリップはとてもよくぼくの世話をやいてくれるんだよ。とてもよくね。ぼくが眠っている間じゅう見張りをしててくれるし、ぼくが目を閉じて眠ったふりをしてると、小さな声で新しく習った言葉をおさらいして、ぼくがほんのちょっとでも笑うのを見ると、すぐやめちゃうんだ。が申し分なく上手になってから、ぼくを脅かそうというつもりなんだ。

 烏はまた有頂天になって鶏の鳴き真似をしたが、明らかにこう言っていたのだ。「確かにそりゃおいらの特技の一端さ。おいらは大したものだろう」その間バーナビーは窓を閉めて戸締まりをし、炉のそばに来ると押入れの方を向いて座ろうとしたが、母親があわてて自分がその席に座り、別の椅子に座るよう合図をしてこれをくい止めた。

「お母さん今夜はひどく顔色が蒼いね!」バーナビーが杖によりかかりながら言った。「グリップ、お母さんを心配させて、ぼくたち悪いことしちゃったなあ」

 間違いなく顔色は真っ蒼で、失神しそうだった。男が隠れ場所の戸を手で開け放しにしたまま、息子をじっと睨みつけていたのだから。そしてグリップ ― ご主人の気がつかないことにすべて敏感なのだ ― が籠から首を出して、ぎらぎらした目で男を逆に睨み返していた。

「おや、グリップが羽根をばたばたさせているぞ」バーナビーがぱっと振り向いた。間一髪のきわどいところで男の姿が消え、戸が閉まった。「まるでここに誰か知らない人がいるみたいに。でもグリップはそんな下らん空想をするほど馬鹿じゃないもんな。そら跳べ!」

 烏は彼独特の偉そうな態度でこの招待に応じ、まずご主人の肩の上、それからそのさし伸べた手、それから床の上へと飛び下りた。バーナビーが籠を肩から下ろして、蓋を開けたまま部屋の隅に置くと、グリップの最初の仕事は大急ぎでそれを閉じ、その上に乗ることだった。おれはあの男を籠の中に隠しおおせることを、もはや人力の及ばぬ不可能事にしてやったぞとばかり、彼は勝ち誇ってコルク栓を抜く音を何回も出し、同じ回数だけ万歳を叫んだ。

「お母さん!」バーナビーは帽子と杖を脇に置くと、いま立ち上がった椅子に戻りながら、「今日ぼくたちがどこへ行って、何をしていたか話そうか」

 彼女は息子の手を取り、握ったまま口で言えない意味をこめてこっくりうなずいた。

「ひとに話しちゃだめだよ」バーナビーは指を立てながら言った。「ぼくとグリップとヒューだけしか知らない秘密だからね。ぼくたちは犬を連れていたんだ。でもこの犬は利口だけど、グリップほどじゃないから、まだ ― お母さん、どうしてぼくの後ろばかりそんなに見つめているの」

「おや、そうかい」母親が弱々しい口調で言った。「自分で気がつかなかったよ。もっとこっちへお寄り」

「お母さん、怯えているじゃないか!」バーナビーは顔色を変えて言った。「見えないの?」 ―

「何が」

「その辺にこれがいるんじゃないだろうね」彼は小声でこう言うと、母親の方にすり寄り、彼の手首の痣をしっかりと握った。「どこかにいるような気がする。ぼくの毛が逆立って、身体じゅうがぞうっとするんだ。お母さんどうしてそんな顔するの。夢の中で天井や壁を赤く染めているのをぼくが見たやつがこの部屋にいるの?ねえ、教えて。そうなの?」

 彼はこう尋ねながら全身をわなわな震わせた。手で明りを遮りながら、手足をぶるぶる震わせて座っていたが、やがてそれがおさまり、頭をあげて周囲を見回した。

「いなくなった?」

「ここには何もいなかったよ」母親は子供をなだめながら言った。「何もいなかったよ、バーナビー。見てごらん!お前とわたししかいないじゃないか」

 彼は母親の顔をぽかんと見つめていたが、次第に安心して来ると狂ったように笑い出した。

「でも、おかしいな」彼は考え込みながら言った。「ぼくたち話していたの?お母さんとぼくだけが?どこにいたの」

「ここにいたのよ」

「ああ、そうだね。でもヒューとぼく ― つまりね、メイポールのヒューとぼくと、それからグリップのことさ ― ぼくたちは森の中の道端の木の間に寝転がって、夜になるとカンテラをともして、犬を輪の形した罠に仕掛けて、あいつが来たらぐっと締めようと ― 」

「あいつって誰」

「追剝さ。星が見つめていたあいつさ。ここ毎晩暗くなってからあいつを待ち伏せてたんだ。いまにつかまえてやるから。千人の中でだってあいつはすぐわかるよ。お母さん、見てごらん!これがあいつさ。見てごらん!」

 彼はハンカチを頭のまわりに卷き、帽子をぐっと目深にかぶり、上着で身体をくるみ込むと、母親の前に立った。そのもの真似が実物そっくりだったので、彼の背後の押入れから覗いている黒い人の姿は、彼自身の影といってもよかったほどだ。

「はっ、はっ、は!いまにつかまえてやる」彼は扮装を身に着けた時と同じように素早くかなぐり捨てると叫んだ。「いまにあいつの姿を見せてやるよ、お母さん。手足を縛られて馬の腹帯にくくりつけられてロンドンに連れて来られるところを。ぼくたちの運がついてりゃ、あいつがタイバーンの処刑場の木に縛りつけられるニュースを聞かせてやるよ。そうヒューは言ってるんだ。お母さん、また顔が蒼くなって、震えてるね。どうしてそんなにぼくの後ろばかり見つめてるの?」

「何でもないよ。気分が悪いのよ。さあ、早く寝室へ行きなさい。わたしをひとりにしてちょうだい」

「寝室だって!いやだ。ぼくは炉の前に寝転がって、燃えてる石炭の炎の中の絵を見つめていたいんだ ー 川とか山とか谷とか、真っ赤な入り日とか、変な顔とか。それにぼくおなかすいたよ。グリップは正午から何も食べてないんだ。晩飯にしようよ。グリップ!晩飯だよ!」

 烏は羽根をばたばたさせてご満悦な叫びをあげながら、ご主人の足許に飛び下りると、嘴を大きく開けて、投げてくださる食物をちょうだいしようと待ち受けた。たて続けに二十ばかり受け止めたが、平然としていた。

「お母さん」彼女が彼の傍に座るのをじっと見つめながら、バーナビーが言った。「今日はぼくの誕生日かい」

「今日だって!つい一週間かそこいら前だったじゃない。憶えていないの?これから夏、秋、冬が過ぎなきゃ、次のはやって来ませんよ」

「いままではそうだったと憶えていたけど、それでもやっぱり今日が誕生日だと思うよ」

「どうして」

「それはね、ぼくはいつも見てたけど ― お母さんには話さなかったけど、ぼくは見てたんだ ― ぼくの誕生日の晩というと、お母さんがとっても悲しくなるんだ。グリップとぼくが大喜びしている時、お母さんが泣いたり、何のわけもないのに怯えたりしたのを見たんだ。お母さんの手に触ると氷のように冷たかった ― ちょうど今みたいにね。いつだったか(やっぱり誕生日の晩だった)ぼくとグリップが2階の寝室へ行ってから、ぼくがこのことを考えていて、真夜中の1時が鳴った頃に、お母さん病気じゃないかと思ってお母さんの部屋の入口まで下りて行ったんだ。お母さんは膝をついていた。それで何と言っていたかは忘れちゃった。グリップ、お母さんは何と言ってたんだっけ」

「おれは悪魔だぞ!」

「違う、違う。でも、何かお祈りを言っていた。それからお母さんが立ち上がって歩き回っていた時、ちょうど今と同じ顔をしていたよ。ぼくは馬鹿だけど、それはわかっちゃったんだ。だからお母さんが間違っているんだよ。今日はぼくの誕生日だ ― 誕生日にきまってる。なあ、グリップ」

 烏はこれに答えてまた鶏の鳴き真似をしたが、それが実に長々と続くので、鶏一族の中でずば抜けて頭の切れるやつが、もっとも長い一日の夜明けを告げるときの声のように聞こえた。それから彼は、いろいろ考慮の結果これこそ誕生日に相応しい挨拶だ、とでも言うように「弱音を吐くな!」と何度も何度も叫び、強調のために羽根をばたばた鳴らした。

 未亡人はバーナビーの言ったことを軽くあしらい、何か新しい話題の方に彼の注意をそらそうと努力したが、これがいつもたやすいことであるのは、彼女もよく承知していた。夕飯が終わるとバーナビーは母親の頼みも柳に風で、暖炉の前の絨毯の上に寝転がった。グリップはその脚の上に止り、有難いぬくもりのうちに居眠りしたり、今日一日じゅう習っていた新しい特技を思い出そうと努めた。

 長い、深い沈黙が続いた。それを破るものは、目を大きく開いて火を見つめているバーナビーが姿勢を変える音と、グリップが時々低い声で「ポリー、やか―」と歌って、そこでつまり、残りを思い出せないで、また寝入ってしまう音だけだった。

 しばらくするとバーナビーの息が深く、規則的になり、やがて目を閉じてしまった。それでもまだ烏のせわしない心が邪魔を入れる。「ポリー、やか ―」とグリップが叫ぶとご主人がぱっと目を覚ましてしまう。

 やっとバーナビーがぐっすり眠り、烏は嘴を胸に埋め、胸を気持よさそうにふくらませ、きらきらした目が次第次第に細くなり、本当に休息の状態に入りつつあるかに見えた。時々不気味な声で「ポリー、やか ―」と言うが、いかにも物憂げで、頭のいい烏よりはむしろ酔っぱらった人間に似ている。

 未亡人は息をこらしてそっと椅子から立ち上がり、男も押入れから出て来ると燭台の火を消した。未亡人とその歓迎されない客はちょっとの間息子を見、それから顔を見合わせた。女は玄関の方を指さした。

「待て」彼が言った。「息子をなかなかよく教育してあるな」

「今晩聞いたようなことは、わたしが教育したんじゃありません。さあ、たった今出て行ってください。さもないとこの子を起こしますよ」

「勝手に起こすがいい。それともこのおれが起こしてやろうか」

「そんなことできやしますまい」

「おれはどんなことでもできるんだとさっき言ったろう。こいつはおれのことよく知っているらしい。少なくともおれはこいつの顔をよく知っておこう」

「寝ている間に殺そうっていうんですか」未亡人は叫ぶと二人の間にわって入った。

「おい」彼は女にどけという身振りをしながら、くいしばった歯の間から言った。「おれはこいつの顔をもっとそばで見たいんだ。だから見るんだ。どちらかがどちらかの手で殺されるのを望むんなら、やつを起こせ」

 そう言うと彼は進み寄って横になった青年の上に屈み込み、その頭をそっとこちらへ向け直した顔を覗き込んだ。炉の明りがまともに当たった顔は、その造作がはっきり見えていた。彼はしばらくじっと眺めてから、急いで身体を起こした。

「いいか」彼は未亡人の耳許にささやいた。「今夜までいることすら知らなかったこいつを使って、おれはお前を自由に動かすことができるんだ。おれに対する時には充分気をつけろよ。おれは金もないし飢えているし、この世の宿なし放浪者なんだ。執念深く確実に復讐を遂げることができる男だからな、おれは」

「あなたの言っていることには何か恐ろしい意味があるけど、わたしには推測がつかない」

「おれの言っていることには意味があるんだ。お前はそれを最大限に推測しているらしい。何年も前からそうなると予想していたと、自分の口から言ってたな。まあゆっくり考えてみるんだな。おれの警告を忘れるな」

 彼は別れ際に寝ている青年を指さし、そっと後ずさりすると
表に出た。彼女は息子の傍にがっくり膝をつくと、まるで石像のように身じろぎひとつしないでいたが、やがてこれまで恐怖のために凍りついていた涙があふれ出て来て、やさしく彼女をいたわってくれた。

「おお神様」彼女が叫んだ。「幸せな生活の約束のただひとつの名残りとなったこの子を、こんなに深く愛することをあなたから教えていただきました。いつまでもいつまでもこの子はわたしに頼りきり、わたしを愛してくれる ― いつまでたっても心が老いて冷たくなることがなくて、男らしい力強い大人になっても、揺り籠にいる時と同じように、わたしの世話と扶養を必要としている ― このような慰めが苦しみの中から湧き出て来ました。この子がこの悲しい世の中の日陰の道を歩むに当たって、どうかお助けくださいまし。神様のお助けがなくては、この子の運命は真っ暗闇ですし、わたしの胸も張り裂けてしまいますから!」



       3

 時が流れ、彼らの生活ぶりを邪魔したり、変えたりする出来事は全然訪れなかったが、ある6月の夏の夕べのこと、一日の仕事を終えた二人が小さな庭で休んでいた。未亡人はまだ膝の上やまわりの土の上に、手仕事の麦藁を置いていた。バーナビーは鋤にもたれながら、西の空の夕映えを見つめ、そっと鼻歌を歌っていた。

「お母さん、素晴らしい夕方だねえ!向こうのあの空に積んである金のかけらを、2つ3つでいいからポケットにちゃらちゃら持っていられれば、ぼくたちはいつでも大金持ちというわけだね」

「今のままのの方がいいわよ」未亡人は静かに笑いながら答えた。「今のままで満足していましょう。お金がわたしたちの足許に転がって光っていたとしても、そんなものは必要でないし、持ちたがる必要もないわ」

「そうだなあ!」バーナビーは鋤の上で腕を組み、入口をじっと見つめながら考え込んでいた。「それはそのとおりだね、お母さん。でも、金というのは持ってていいものだよ。金の見つかる場所がわかればいいんだけどなあ。グリップとぼくは金があればきっといろいろなことができるんだがなあ」

「どんなことをしたいの」

「どんなって、どっさりあるさ!立派な着物を着て ― お母さんと、ぼくがだぜ。グリップじゃないよ ― 馬を飼って、犬を飼って、派手な色の飾り物をつけて、羽根飾りもつけて、仕事なんかやめちゃって、気楽に上品に暮すのさ。金の使い道なんていくらでもあるさ。ぼくたちにとってためになる使い道がね。金が埋まっている場所がわかればいいんだがなあ。そしたら一所懸命になって掘り出すのになあ」

「お前にはわかるまいけどね」母親は椅子から立ち上がると息子の肩に手をやった。「人間は金を手に入れようといろんなことをやったのだけれども、いざ見つけてみたら、遠くからきらきら光って見えたものが、手にとって見たら光のないつまらないものに変わってしまった、ということがいくらでもあったのだよ」

「うん、うん、お母さんはそう言うんだね。お母さんはそう考えるんだね」息子はまだ熱心に西の方を見つめている。「でもね、やっぱりぼくは見つけてみたいなあ」

「そら、あんなに真っ赤なのが見えないかい、金ほど血で汚されているものはないんだよ。近寄ってはいけないよ。わたしたちほどその名前を憎む資格のある人間は、よそにいないのだよ。金なんて考えるのもおよし。金がお前やわたしの身の上にどれほどの悲しみと苦しみをもたらしたか、誰も知らないほどだし、わたしたちのような目に遭う人間がこれから出ないように、神様にお願いしましょう。お前が金を愛するようになるくらいなら、いっそのことわたしたちが死んじゃって、お墓の中に入った方がいいくらいだよ」

 一瞬の間バーナビーは目をこちらに向けると、驚いたように母親を見つめていた。それから夕焼け空から自分の手首の痣に目を移し、まるで二つを見比べているような様子で、母親に何か熱心に問いかけようとした時、新しいものに気をとられ、移り気な彼は質問をすっかり忘れてしまった。

 それは着物も足も埃まみれになったひとりの男で、庭と外の小道の境になっている生垣の向こう側に立ったまま、帽子をとっておとなしく身を乗り出し、話に加わりたくて自分が口を挟むきっかけを持っているような様子だった。彼も顔を太陽の方に向けていたが、明るく照らされた顔を見ると、彼が盲目で太陽を見られないことがわかった。

「ああ、あのお声に神様のお恵みがありますように!」この旅人が言った。「あのお声を聞くと、夜の美しさがいっそうはっきり感じられます。わたしにとって目の代わりをしてくれます。もう一度口をきいて、哀れな旅人の心を元気づけてくださいませんか」

「あなたの手を引いてくれる人はいないの」未亡人はしばしの間をおいてから尋ねた。

「これしかありません」彼は持っていた杖を太陽の方に向けながら、「時には夜になるともっとやさしい導きの手である月が出てくれますが、今はまだ遊んでいて、来てくれません」

「遠くからやって来たの」

「長い道のりでしたよ」旅人は頭を振りながら答えた。「辛い、辛い道のりでございました。今ちょうどお宅のバケツに杖がぶつかりました ― 奥様、お水を一杯飲ませていただけませんでしょうか」

「どうしてわたしを奥様なんて呼ぶの。わたしだってあなたと同じ貧乏人なのよ」

「お声がやさしくて上品ですから、それでわかるのでございます。粗末な布も最上等の絹も ― 触ってみれば別ですが ― わたしにとっては同じなのでございます。わたしは着物で人を見ることはできません」

「こっちへお出でよ」バーナビーは庭木戸からおもてに出ると、彼のすぐそばに行った。「さあ、手をお出しよ。お前はいつも真っ暗闇なんだろう。暗闇の中でこわくならないかい。顔がどっさり見えていないかい。それがにたにた笑いながら、ぺちゃくちゃおしゃべりしていないかい」

「何にも見えないんですよ。起きていても眠っていても、何にも見えませんや」

 バーナビーは不審そうに相手の目を見つめてから、よく子供がやるように指でそれに触ってみた。それから彼を家の方に案内した。

「あなたは遠くから来たというけれど」母親は入口で彼を迎えながら言った。「どうやってそんなに遠くから道がわかるの」

「よく言いますでしょう、慣れと必要はよい教師だって ― まったく最高の教師ですな」盲人はそう言いながら、バーナビーが案内した椅子に腰掛けると、帽子と杖とを赤タイルを敷いた床に置いた。「奥様も息子さんもそんな先生の教育を受けないですむことをお祈りしますよ。こわい先生ですからなあ」

「街道から迷い込んでしまったのね」未亡人は憐れみをこめた口調で言った。

「そうかもしれませんな。そうかもしれませんな」相手は溜息をつきながらも、何か笑いのようなものを浮かべて、「そうらしいですな。道しるべも里程標もわたしには口をきいてくれませんからなあ。休ませていただいて、そのうえこのおいしい水までいただいて、ますます申し訳ございませんですねえ」

 そう言いながら彼は水の入ったコップに口に当てた。きらきら輝いたきれいな冷たい水だったのに、彼の口に合わなかったのか、あるいはそれほどのどがかわいていなかったらしい。ほんの唇を湿しただけで、コップをまた下に置いてしまったからである。

 彼は首のまわりから長い紐で、食物を入れる袋かカバンのようなものをぶら下げていた。未亡人がパンとチーズを出してやったが、彼はお礼を言いながら、情け深い方のご親切で朝から一度ご飯をちょうだいしておりますから、まだ腹は空いておりませんと答えてから、カバンを開けて、全財産と思える銅貨を2、3枚とり出し、バーナビーの方を向いて言った。

「こんなお願いをして失礼でございますが、目のお見えになる方、これで道中の飢えをしのぐパンを買ってきていただけませんでしょうか。目の見えない情けない人間をお助けくださって、若いお元気な脚を使ってくださる方に、どうぞ神様のお恵みがありますように」

 バーナビーが母親の方を見ると、母親はよろしいとうなずいたので、すぐにこの慈善のお使いに飛んで行った。その遠ざかる足音が母親の耳に聞こえなくなった後まで、盲人はじっと耳を澄まして聞き入っていたが、それから突然がらりと口調を変えて言った。

「後家さんや、盲目にもいろいろな種類や度合があるもんでねえ。夫婦の間の盲目ってのがある。これはあんたも自分の体験で知ってるかもしれねえが、自分から好んでわざわざ自分を縛る盲目さね。政党とか政治家の盲目がある。これは真っ赤な制服を着た兵隊の一連帯に囲まれた気違い牛の盲目だ。若者の盲目の信頼ってやつがある。これは猫の赤ん坊の盲目で、まだ世の中に目が開いていないんだ。それから身体上の盲目。おいらは不本意ながらそのもっとも見事な実例になっちまった。さらにそれから知恵の盲目ってのがある。あんたの愉快な息子がその見本で、時々明りがほのかに射したり見えたりすることはあるが、完全の暗闇とほとんど同じで当てにはならねえ。というわけでおいらご免をこうむって、あんたと話をするちょっとの間だけ、やっこさんを追っ払うことにしたんだ。この用心はあんたの気持を察したやさしい心づかいから出たことだから、もちろん許してもらえるだろうね」

 身振り手振りをさまざま交えながらこの大演説をすますと、彼は上着の中から平べったい石の徳利を取り出し、歯でコルクを抜くと、コップの水に中の酒をどっさり注ぎ込んだ。そして丁重な態度で彼女と、他の奥様方の健康を祝して乾杯すると、さもうまそうに唇を鳴らしながらコップを下に置いた。

「息子はいろんなことに見どころのありそうな青年だ」盲人は考え込んだような口調で言った。「それに今晩あんたと話していたのを聞いたところから判断してよいならば、少しばかり境遇の変化があっても、あわただしい世の中に出て運試しをしてみたいつもりらしい。― さあ、簡単に言うと、おいらの友人はどうしても20ポンド入用なんだ。奴のためにそのくらい用立てられるだろう。あんたに迷惑をかけるのは気の毒だ。ここはたいそう住み心地がよさそうだから、そのくらいの犠牲を払ってもここに住み続けた方がいいぜ。20ポンドなんて、穏当な金額さ。誰に頼んで出してもらえばいいかは、よくご存知のとおりだ。手紙一本で届くんだからな ― 20ポンドだぜ!」

 彼女が何か言おうとすると、また彼が遮った。

「早まったことは言わない方がいいぜ。後悔するかもしれないからね。少しの間考えたらいい。20ポンド ― しかも他人の金だぜ ― 実に簡単なことさ! よく胸の中で思案したらいい。おいらは急いじゃいないから。夜になりかけて来た。おいらがここで泊まらないとしても、すぐ近くに帰りゃいいんだから。20ポンドだぜ!20分ばかり考えてみな。1ポンド1分の割でね。こりゃかなりの割当だな。その間おいらは外の空気を吸って来る。この辺は空気がおいしくて、楽しいなあ」

 こう言いながら彼は椅子を持ったまま、手探りで玄関まで出て行った。枝を差し伸べている忍冬の下で、誰かが通れば必ず気がつくように敷居を遮るように脚を投げ出して腰を下ろすと、ポケットからパイプと、火打石と、鉄と、火口箱をとり出し、煙草を吸い出した。穏やかな素敵な夕方で、黄昏がもっとも美しい季節だった。時々ふかすのを止めては渦を巻く煙がゆっくり消え去るのを眺め、花の香を嗅ぎながら、彼はすっかりくつろいで、未亡人の返事とバーナビーの帰りを待っていた ― まるでここが自分の家で、生まれてこれまで誰にも文句を言われずに占有していたかのように。

 バーナビーがパンを買って戻って来ると、年老いた信心深い巡礼がすっかりくつろいだ様子で煙草をふかしている姿が見えたので、さすがの彼も驚いたようだった。そしてこの御仁がいかにも希少な貴重品であるかのように、パンを大事にカバンにしまい込むのかと思いのほか、ぽいとテーブルの上に放り投げると、徳利をとり出しながら、彼に座って一杯やれと言ったので、ますます驚いてしまった。

「このとおりわしは慰めの品を持って歩いているのだ。飲んでごらん。うまいか」

 あまりに強い酒なので、バーナビーはむせ込むと涙を流しながら、うんと答えた。

「もっとお飲み。怖がることはない。こんなものはそうちょいちょいは飲めんだろう」

「ちょいちょいだって!一度もないよ」

「貧乏だからね」盲人は溜息をついた。「そりゃ気の毒だ。おまえのかわいそうなおっ母さんだって、もっと金持ちになりゃ、もっと幸せになれるのに」

「ぼくもそう言っていたのさ ― 今晩おじさんが来るちょっと前、空いっぱい金になった時に、ちょうど同じことをお母さんに話していたのさ」バーナビーは自分の椅子を相手に近寄せ、熱心にその顔を見つめた。「ねえ、金持ちになれる方法で、ぼくでも見つけられる方法があるかね」

「あるかだって!いくらだってあるとも」


「ほんとかい。どんな方法だい、そりゃ ― 違うんだよ、お母さん。お母さんのためにぼくは尋ねているのさ。ぼくのためじゃない ー 本当に、 お母さんのためにさ。どんな方法だい」

 盲人はどんなもんだいというような笑顔を、母親が苦しみもだえて立っている方に向けてから、答えた。

「そうだな、出不精の人間には見つからんよ」

「あなたと他の場所でお話ししましょう」彼女は男を案内して玄関の外へ出て、小さな庭で立ち止った。

「さあ、お聞き」彼女は二人の傍のベンチの上に、お金を数えながら置いた。「いくつある?」

「6枚」盲人はじっと耳を澄ましながら答えた。「これだけかい」

「これは5年間貯めたお金なのよ。6ギニーあるわ」

 彼は手を伸ばして1枚の金貨をとり、注意深く触ってみてから、歯の間に挟んで噛んでみたり、ベンチの上に叩き付けて音を鳴らしてみたりしてから、うなずいて相手をうながした。

「病気や死によって息子とわたしが離ればなれになるのに備えて、苦しい中からひねり出して貯めたお金なのよ。何度もひもじい思いをして、ろくに休みもせずにあくせく働いて、やっと得たものなのよ。もしこのお金を持って行けるというのなら ― 持って行きなさい ― ただし、たった今ここを立ち去って、息子がお前の戻るのを待って座っているあの部屋に、二度と足踏みしないという条件付きで」

「6ギニーは確かに間違いなく本物の金貨だけれど」盲人が頭を振りながら言った。「20ポンドには全然足りないぜ」


「残りの額を調達するには、遠くまで手紙を出さなくてはいけないことは、わかっているはずでしょう。手紙を出して返事をもらうには、時間が必要よ」

「2日かね」

「もっと」

「4日かね」

「1週間、来週の今日、同じ時刻にまた来なさい。でもこの家に来てはだめ、小路の角で待っていなさい」

「もちろん」盲人はこすっからそうな目つきをしながら、「そこまで来てくれるんだろうね」

「わたしが逃げ隠れする場所がどこにあるというの。この家を守るために苦労して貯めた貯えを全部犠牲にしたのに、まだ足りないというの」

「ふうん」盲人はしばらく考え込んでから言った。「あんたの言う場所の方におれの顔を向けて、道の真ん中までおれを連れ出してくれ。ここだな」

「そうよ」

「来週の今日の日没だな。あの家の中にいる息子のことを考えるんだな ― では、今日のところは、あばよ」

 彼女は返事をしなかったし、彼も別に返事を待ってはいなかった。彼は時々左右に顔を向けたり、立ち止って耳を澄ましたり、まるで自分が誰かから見張られているか知りたいようなふりをしながら、ゆっくり歩み去って行った。夜の帳がぐんぐん落ちかかって来て、間もなく彼の姿は暗闇の中に消えてしまった。しかし彼女は小路を端から端まで歩いてみて、彼が本当に行ってしまったことを確かめてから、やっと家の中に入り、急いでドアと窓に閂をかけた。

「お母さん!」バーナビーが言った。「どうしたのあいつはどこにいるの」

「帰ったわ」

「帰っちゃったって!」彼はびっくりして立ち上がった。「ぼく、もっと話があったのに。どっちの方に帰ったの」

「知らないわ」彼女はそう言いながら両腕で息子を抱いた。「今夜は外へ出てはだめ。おもてにお化けや怪物がいっぱいいるわ」

「ほんとう?」バーナビーはこわそうに小声で言った。

「いまおもてを歩くのは危険よ。明日ここを出て行かなくては」

「ここを!この家と ― この庭をかい!」

「そうよ!明日の日の出の頃にね。ロンドンへ行って、広い都会にまぎれ込んでしまってから ― 他の町ではわたしたちの通った跡が残るでしょうからね ― また旅をして、どこか新しい住処を見つけなくてはいけないわ」

 目先が変わることだったから、別にバーナビーに納得させるのに手数はかからなかった。彼はすぐに有頂天になったかと思うと、またすぐに仲よしの犬たちとの別れを思って悲しがった、かと思うとすぐにまた有頂天になった。それから母親が彼の夜の外出を止めようとして言ったことを怖がり、びくびくしながら奇妙な質問を何度もした。しかし結局は彼の陽気な心がすべて他の気持に打ち勝ち、明日の朝の仕度のためにと着替えもせずに横になると、貧しい泥炭の火の燃える炉の前でぐっすり寝込んでしまった。

 母親は一睡もせずに息子のそばに座ったまま、じっと見守っていた。風がそよと吹くたびに、彼女の耳にはそれが玄関に恐れていた足音がしたか、戸の掛金に手がかけられたかのように聞こえ、静かな夏の夜が恐怖の一夜と化した。やっと待ち望んでいた夜明けの光が見えて来た。旅に必要な僅かな仕度を整え、跪いて涙にくれながらお祈りを捧げてからバーナビーを起こすと、彼は元気よくとび起きた。


 彼の衣類といっても僅かだし、グリップを背負うのは楽しい労働というものだ。朝日の最初の光が地上に射しはじめた頃、人っ子一人いなくなった小屋の戸を閉めてから、そこを後にした。空は真っ蒼に晴れていた。空気は爽やかで幾多の香にみちていた。バーナビーは空を見上げると、心から楽しそうに笑った。

 しかしこの日はいつも彼が遠出をするはずの日だったので、一匹の犬 ― 中でも一番醜い犬だった ― が転がるようにやって来ると、嬉しそうに彼のまわりを跳びはねた。彼はこわい声でお帰りと叫ばねばならず、そうした時胸がしめつけられるほど痛んだ。犬は逃げ出したが、半分は信じられないというふうに、また半分は哀願するように振り向くと、少し戻ってから立ち止った。


 昔なじみの忠実な犬が ― 見捨てられようとした時の最後の哀願だった。バーナビーはもうたまらなくなって、首を振り手を振って友達を帰しながら、わっと泣き出した。

「ああ、お母さん、お母さん!あいつが玄関の戸を引っ掻いて、いつも閉っていると知ったら、どんなに悲しむだろうねえ!」

 そう言われてみれば、今さらながらわが家が恋しく思われて来て、彼女は目が涙ですっかり霞んでしまいながらも、自分の心からも息子の心からも絶対にこのわが家の思い出を掻き消すまい、と思った。この世の富全部と引き替えでも、絶対に、と。


 神様が人間にお与えくださったご慈悲は、とうてい数えきれないほどのものであるけれど、最悪の逆境の中にある慰めの萌芽を見つけ出せる人間の能力こそ、まさにその中でも第一に数え上げるべきものである。われわれがもっとも支えを必要とする時に、われわれを支え助けてくれるからばかりではなく、この慰めの種のうちに神の性質の幾分かを見出し得るからでもある。人間自身の悪行のうちにすら、こうした善性の幾分かが発見され、人間の救いとなってくれる。われわれの本性は堕落したとは言いながら、まだ天使と共通した点、天使がこの地上に降り立った昔に生まれて、今に至るまで憐れみという形で消えずに残っている何ものかを待っているのであるから。

 バーナビーの知恵が失われているがゆえに、その愛情と快活さが生まれて来たのだ、と未亡人が思い当たって、感謝の念が心に満ちあふれたことが、二人の旅の間で何度あったことだろうか!そうでなかったら、きっと息子は不機嫌になり、ふくれっ面になり、不親切になり、母によそよそしくなり ― おそらく意地悪になり、残忍にもなったことだろう、と思ったことが何度あったことだろうか!
彼の力、希望、素直な性質の中に彼女の慰めの種を見出したことが、何度あったことだろうか!過去のことを、時々ちらっとしか思い出せない彼 ― それすらが今では慰めとなった。彼にとって全世界は幸せでみちみちている。あらゆる木、草、花、あらゆる鳥、獣、夏のそよ風にさえ吹き飛ばされて地面の上に落ちてしまう小さな虫ですらが、彼の喜びの源であった。彼が喜べば母親も喜べた。いかに利口な息子がたくさんいても母が悲しみにくれることもあろうが、この哀れにも陽気な息子は母親の胸を感激と愛でいっぱいにしてくれたのである。

 二人の持ち金は僅かであったが、彼女が盲人に金貨を渡す時、ギニー金貨を1枚手元に置いておいたのだ。これに彼女が持っていた数ペンスを加えれば、質素な暮らしに慣れている二人にとっては、かなりの貯えとなる。そのうえ二人にはグリップというお伴がいた。ギニー金貨をくずしてしまわねばならない羽目になった時には、酒場の玄関前とか、村の通りとか、立派なお屋敷の庭か敷地で彼に芸を披露させればよかった。慈善のためなら何にもくれそうにない連中が、このおしゃべり鳥の芸当と引き替えなら、喜んで何でも無料でくれた。



       4

 これからどちらへ向かったらいいか心が決まらず、こんな早くから歩き回っている群衆の雑踏に肝をつぶしてしまった二人は、橋の上にある凹みの中に腰を下ろして休んでいた。やがて気がついたことなのだが、人ごみの流れは常に一方に向かっており、おびただしい数の群衆がいつになく足早に、見るからに興奮した様子で、ミドルセックス州側からサリー州側へと河を渡っているのだった。2、3人ずつか、時には6人くらいの群を作り、ほとんど口をきかず ― まったく無言で、誰も彼も何かある目的のために夢中になっているかのように、せかせかと通り過ぎた。

 後から後からやって来て少しも数が減ることのないこの群衆の中の、ほとんど全員が帽子に青い花形のリボンをつけているのを見て、二人は驚いてしまった。たまにはそれをつけていない通行人がいたが、彼らはじろじろ見られたり喧嘩を売られたりするのを避けたいようなおずおずした様子で、一般群衆におもねるみたいに、歩道の車道側の緑によけて道を譲った。しかしこれも至極当然だった。何しろ数の上から見ると明らかに劣勢なので、青い花形リボンをつけている者と、普通のなりをしている者の割合は、少なくとも四十ないし五十対一だったから。しかし喧嘩は起らなかった。青い花形リボン組はできる時には互いに追い越し合い、このような雑踏の中で、出せる限りのスピードを出して歩き続け、自分のグループでない通行人と出会っても、せいぜい会釈を交わすだけか、それすらしないものもかなり多くいた。

はじめは人の流れは左右2本の歩道だけだったが、何人かが熱心のあまり車道を歩き出した。30分かそこらもすると、車の往来は完全に人ごみで止められてしまい、群衆の間に狭まった馬車や荷馬車に邪魔されて、まったくのろのろの動きとなったり、5分か10分ほど立ち往生してしまうことも時々はあった。

 ほぼ2時間もすると人の数は目に見えて減りはじめ、少しずつ空いて来た橋の上は、やがてすっかり空っぽになった。しかし時々帽子に花形リボンをつけた連中が上着を脱いで肩に担ぎ、汗と埃にまみれながら、遅刻しては大変とばかり息を切らして通りかかった。また時には立ち止って、仲間はどっちに行ったかと尋ね、それを教えられると、一息入れた人のようにまた足早に立ち去る者もいた。さっきのあれほどの人ごみの後で、このように比較的人気がなくなったのは奇妙にすら見えたので、その時になってはじめて未亡人は、やって来て隣に腰を下ろした老人に、この大変な人ごみは何ですかと尋ねる機会を得た。

「おや、あんた方はどこからやって来た人じゃ」老人が言った。「ジョージ・ゴードン閣下の大連盟の噂を聞いたことがないとは。今日は閣下がカトリック反対の請願をお出しになる日なんじゃよ。

「あの人ごみはそれと何の関係があるのですか」

「何の関係があるか、じゃと!まあ、呆れたことを言う人じゃ。閣下が少なくとも4万人の善良忠誠な信徒が入口まで同行しないなら、国会への請願には行かん、とおっしゃったのをご存知ないのかな。大した人ごみだよ!」

「人ごみだって!」バーナビーが叫んだ。「お母さん、聞いたかい!」

「噂によると向こうには10万人近くが集まっているそうじゃ」老人がまた口を開いた。「もっともジョージ閣下おひとりだけで充分じゃよ。閣下はご自分の力をご存知じゃから。あそこの3つの窓の内側にゃ」河を見渡す議事堂を指さしながら、「今日の午後勇敢なジョージ閣下が立ち上がれば、顔が真っ蒼になるような連中がたくさんいるし、それも当然のことじゃ!そうとも、そうとも、ジョージ閣下おひとりだけで充分じゃ。充分じゃとも。よくご存知じゃから!」老人はそうぶつぶつ言いながら、くつくつ笑い、人差し指を揺らせながら杖の助けをかりて立ち上がると、よたよた歩き去った。

お母さん!」バーナビーが言った。「大した人ごみだと言っているよ。さあ、行こうよ!」

「まさか仲間に入るつもりでは」

「そうだよ、そのつもりだよ」彼は母親の袖を引っ張った。「いいだろう。さあ、行こう!」

「お前にはわからないのだよ。どんな迷惑を及ぼすか、お前をどんな目に遭わすか、どういうつもりでいるのかが。バーナビー、お願いわたしのためを思って ― 」

「お母さんのためを思って!」彼は母親の手をやさしく叩きながら、「そうなんだよ!お母さんのためを思ってなのさ。さあ、行こう。でなけりゃ、ぼくが帰って来るまでここで待っててね ― そうだ、ここで待っていてね」

 彼女は心配のあまりから出た熱心な口調で、何とか息子を思い止まらせようと努力したが、駄目だった。彼が屈んで靴の留金を締めようとしていた時、貸馬車がかなりのスピードで通り過ぎた。が、中から馭者に止めろと声が掛かった。

「おい、若いの」中の声が言った。

「誰だい」バーナビーが上を向いて叫んだ。

「このリボンをつけるかい」見知らぬ男が青い花形リボンを手にして言った。

「お願いですから、やめてください。この子にやらないでください!」母親が叫んだ。

「人のことにお節介をやくな」馬車の中の男は冷ややかな口調で言った。「若いのに自分で決めさせればいいだろう。もうそれができる年頃だ。あんたは自分のエプロンの紐でも結んでいればいい。あんたにとやかく言われなくてもこの男は忠誠なイギリス人のマークを付けるかどうかわかっとるさ」


 バーナビーは苛々身震いしながら叫んだ。

「ください、ください、ください!つけますよう」

 実はすでにさっきから十遍も叫んでいたのである。男は花形リボンを投げつけると、「急いでセント・ジョージ広場へ行くんだ」と叫んでから、馭者に急いで進めと命じ、行ってしまった。

 バーナビーはその安もののリボンを帽子につけようと、熱心のあまり手を震わせて、どうにかこうにかやってのけ、それから急いで母親の涙ながらの哀願に応えようとした時、二人の紳士が向こう側の歩道を通りかかった。こちらの姿を見つけ、バーナビーの仕草を見てとると、二人は足を止め、ちょっとの間小声で話し合っていたが、こちらを向くと車道を渡ってやって来た。

「君たちはどうしてここに座っているのかね」飾りのない黒の上下を着、髪の毛を長く垂らして、大きな杖を持ったひとりが言った。「どうして他の人たちと一緒に行かなかったのかね」

「これから行くところです」バーナビーはリボンをつける仕事を終え、得意そうにその帽子をかぶりながら言った。「すぐ行きますよ」

「おい若いの、『閣下』と言うんだ。閣下がありがたくもわざわざお声を掛けてくださったのだからな」もうひとりの紳士が穏やかな口調で言った。「ジョージ・ゴードン閣下のお姿を拝しても知らないのだったら、今からでも是非憶えておくのだな」

「ガッシュフォード君、いいんだ」バーナビーが帽子をとって丁寧にお辞儀をすると、ジョージ閣下が言った。「すべてのイギリス人が喜びと誇りとともに記憶することになる今日のような日には、そんなことは些細なことだから。君、帽子をかぶって、われわれと一緒に来たまえ。君は遅れてしまっているからね。もう10時を過ぎている。集合時刻が10時であることを知らなかったのかね」

 バーナビーは首を振ると、ぽかんとした目つきで相手を一人一人見やった。

「当然知っていていいはずなのだが」ガッジュフォードが言った。「通知は完全に行き渡っていたはずだ。どうしてそんなに無知なのだろう」

「この子は答えられないのでございます」母親が口を挟んだ。「この子に尋ねても無駄でございますよ。わたしどもはつい今朝遠い田舎から着いたばかりで、こうしたことを全然知らないのでございます」

「われわれの大義は深く根を張った上に、遠くまで広く枝を広げているのだなあ」ジョージ閣下が秘書に言った。「これはよいことを聞いたものだ。神様に感謝を捧げよう!」

「アーメン!」ガッシュフォードが真面目くさった顔をして叫んだ。

「閣下はわたしの申す意味がおわかりになっていらっしゃらないのですわ。失礼でございますが、残酷な思い違いをしていらっしゃるのでございます。わたしどもはこのことについては、何も存じません。皆様方がこれからなさることに加わるつもりも、またその資格もございません。これはわたしの息子、かわいそうな息子、わたしの生命よりも大事な息子でございます。どうぞ閣下、お慈悲でございますから、ご勝手にお出かけくださいまして、息子を危険に誘惑なさらないでください!」

「これ、ご婦人」ガッシュフォードが言った。「何ということを申されるか ― 呆れ果てたものだ! ― 危険だの、誘惑だのとどういうつもりだ。閣下が吠える獅子のようにうろつき回って、むさぼり食うものを探しているとでも考えているのか。とんでもないことだ!」

「違うんです、閣下、どうかお許しください」母親は両手を彼の胸元に当て、哀願に熱したあまり自分の動作も言葉もほとんど気づかぬほどだった。「でも、わたしの真心からの母の祈りをお聞きくださって、この子をわたしの許に残しておいてくださらねばならぬわけがあるのでございます。どうぞお願いです!」


「最近の世相が悪くなった一つの兆候だ」ジョージ閣下は彼女の手から身を引き、顔を真っ赤にしながら言った。「母親として実の息子のことを、よくもそんなふうに言えるものだな。この人でなしめ!」

「まったく驚いたものだ!」ガッシュフォードは穏やかなうちに厳しさをこめて、「これこそ女の堕落の嘆かわしき典型というものだ」

「君はこの偉大なる連盟の一員に加わりたいかね」ジョージ閣下が彼に向かって言った。「加わるつもりだったのだろう」

「そうです ― そうです」バーナビーは目を輝かせて答えた。「もちろん、そのつもりでした。そうお母さんに言ってたところなんです」

「わかった」ジョージ閣下は不幸な母親をじろりと睨みつけながら言った。「そうだろうと思っていた。ではわたしとこちらの紳士について来なさい。君の望みを叶えてあげるから」

 バーナビーはやさしく母親の頬にキスをしてから、ぼくたち二人の運が今や向いて来たのだから、元気をお出しよと励ましの言葉をかけてから、命令どおりにした。哀れな母親も息子の後からついて行った ― どれほどの不安と苦しみを胸に抱いていたかは、とうてい言葉で語ることができない。



この台本を作成にするにあたり、小池 滋訳「バーナビー・ラッジ」(集英社)から多くの引用をさせていただきました。  

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