銀色の道       

次郎は、いつものとおり考え事をしながら歩いていた。中学校からの帰りは30分余りかかり、生活排水の流れる川沿いにある道をただひたすら歩くだけだった。途中踏切があり、次郎はいつもそこで一旦眼前へと意識を戻すのだったが、しばらくしてすぐに空想の世界へと戻って行った。川に魚が泳いでいたら、魚に気を取られていたかもしれない。途中に書店でもあれば、次郎の好奇心を満足させていたかもしれない。しかし眼前にあるのは歩き続けねばならないアスファルトの道だけだった。いつものように次郎は自動車に注意しながら踏切を通過すると、先程まで考えていたラジオの深夜放送のことに考えを戻した。

次郎が好んで聴いていたのは、流行りのポップスをたくさん紹介してくれる番組や娯楽性の高い友人の間で話題になっている番組だった。昨晩彼は母親に、深夜の辺りが静かになった頃に定期試験の勉強をするからと言って夕方2時間余り熟睡したため、勉強を終えて横になった後もしばらく眠ることができなかった。次郎はそれまで午前1時以降に放送を聴いたことがなかったが、昨晩(本日の未明)は未開の領域に踏み込むことになった。午前1時から始まったその番組は、それまでの娯楽性の高い番組と違って、人生相談的な内容のものだった。高校生や大学生の悩みに真摯に対応してくれる番組だった。
「僕の悩みにも乗ってくれるのだろうか」
次郎は思わず、声に出してそれを言った。

次郎の悩みはたくさんあった。次郎の父親は公的職業に就いていたため、副業はできなかった。母親もパートをして家計を助けていたが、三人兄妹を高校にやらせるのは厳しい状況だった。そのため野菜は自給自足で補おうと、父親が裏山の幾重にも葛の葉でおおわれた土地を開墾し、大根、薩摩芋、じゃが芋、えんどう豆、胡瓜、茄子、トマトなどを作っていた。次郎は日曜日毎に手伝いをさせられた。月曜日の朝に同級生から、前日家族でどこかに出掛けたかと訊かれるといつも返答に困るのだった。

次郎の悩みはそれだけではなかった。次郎は中学2年であったが、まだ進路は決めていなかった。小学生の頃は算数が得意だったが、数学と名前が変ってからは手強い相手となった。他の教科も目立って優秀というわけでもない。スポーツも苦手で、これといった特技がない彼は、自分がこの先、高校、大学と進学していくうちに自分のやりたいことを見つけていけばいいと漠然と考えていた。そのため先日の校内の実力テストで自分の今の学力では志望校に行くことが難しいと判断された時に、次郎はどうすればよいのかわからなくなった。

次郎は本を読むことが好きだった。彼は夏目漱石が好きだったが、一般的に評判が高い「坊ちゃん」ではなく、登場人物が少なくてわかりやすい、「坑夫」がの方が好きだった。主人公が立ち直る場面も印象に残るし、長蔵、赤毛布、小僧、初さんなどの登場人物も身近に感じられた。漱石の次に日本近代文学の名作をいくつか作品を読んでみたが、最後まで読むことができなかった。とくに森鴎外の「舞姫」は、まったく歯が立たなかった。

また次郎は話しをするのが上手でなかった。次郎は映画を見るのが好きで、よく友人と映画の話しをした。ある日、学校からの帰りに前の晩にテレビで見た映画が面白かったと友人に話したところ、それを見ていなかった友人にそのあらすじを話してほしいと言われた。友人は「それから」を繰り返すだけで、次郎が一人でしゃべり続けたが、要点を掻い摘んで話すことができない次郎は、物語の三分の一を話したところで友達と別れなければならなくなった。友人は言った。「次郎ちゃんの話しはいつもいいところで終わっちゃうんだ」

そんな考え事を続けていると、次郎の住む官舎の入口にやってきた。ここから左手の坂を登ると次郎の家に行く。まっすぐ行くと水源地がありそこには虹鱒の養魚場があった。右手には次郎がよく行く駄菓子屋やお使いで走らされるパン屋や酒屋があった。駄菓子屋を過ぎ、坂を越えると鉄道の駅に出た。右手を見ていると、頬っぺたの赤い痩身のおじさんが手を振るのが見えた。おじさんは言った。
「この前、うちの畑に侵入してきた子だな。今帰りかい。あの小屋を整理したから、いつでもおいで」

次郎は、この前の日曜日に以前からどうしても踏み込めないでいた場所に行くことにした。特に目的ができたわけではない。もやもやしたものをそのままにしておきたくないといったことからだった。虹鱒の養魚場近くのこんもりとした森のようになった場所で、その場所に行くためにはその畑を通ることになり人の家の敷地内に侵入しなければならないことは承知でいた。しかしものごころがついてから自分の町の至るところを徘徊してまわった次郎にとって、その場所がどんなところであるかを確かめたかった。畑に踏み込みしばらく進むと、鍬を持って仁王立ちした頬っぺたの赤いおじさんがいた。おじさんは大声で言った。
「お前らがじかじかと畑に入るから、野菜が育たないんだ。さあ、早く帰った、帰った」
次郎は最初、突然のおじさんの出現にたじろいだが、すぐに言った。
「ぼくは、畑の野菜を踏みつけるために来たのではありません。その向こうに何があるか知りたいからここを通ろうとしただけなんです」
おじさんは鍬を持ち上げ一旦は威嚇したが、次郎が立ち去ろうとしないので、次郎の言い分を少し聞こうと考え直し次郎に側に来るよう促した。口調も変っていた。
「きみは今、中学生かい」
次郎がうなずくと、おじさんは続けた。
「中学生が好奇心旺盛なのは、よくわかる。でも人に迷惑をかけるのはよくないな。きみが勝手に人の土地に侵入してそこで事故が起きたら、例えばそこの池できみが溺れたら、わたしの管理責任が問われるんだよ」
次郎がごめんなさいと言い、なぜおじさんの畑に入ったか何とか伝えようとすると、おじさんは笑った。おじさんは次郎の頭をなでると、
「わかった。よろしい。じゃあ今から行きたいところに連れて行ってあげよう」
と言った。

そのあと次郎はおじさんの案内でおじさんの家の敷地内を見てまわったが、敷地内にある木造の小屋については触れられなかった。次郎が以前から行くことができなかった場所のすべてがおじさんの家の敷地であった。敷地内を歩いてまわる際に、次郎はおじさんに学校生活のありふれたことだけを話し、普通の中学生であることを装った。次郎が悩みの多い思慮深い中学生であることがわかれば、おじさんは相談に乗ってくれたかもしれないが、年配の男性の前で神妙に話しを聞くのは、慣れないことでできれば避けたいと思った。
ひととおり案内した上でおじさんは次郎に訊いた。
「何か訊いておきたいことはあるかい」
「あの小屋には何かあるんですか」
おじさんはしばらく考え込んでいたが、時計を見ながら言った。
「もう少ししたら来客があるから、日を改めておいで。その時は玄関の呼び鈴を鳴らすんだよ」

次の日曜日の朝、次郎は赤い頬っぺたのおじさんの家に行った。玄関の呼び鈴を鳴らすと、おじさんは出て来た。
「おはよう。さっそく小屋に案内しよう。きみに興味を持ってもらえるかな」
次郎は黙っておじさんのあとに続いた。
小屋に入り灯りを点けると、まず正面にあるステレオ装置と左
手の壁にぎっしりと並べてあるレコードに目がいった。右手の壁には机がふたつ並べられひとつは子供用の机だった。その机の上には、ちょうど次郎と同じ年頃の男の子の写真が入ったフォトスタンドが置かれてあった。次郎がそのフォトスタンドを見ると、おじさんは少し声を詰まらせて話した。
「わたしにもきみのように、希望に輝く中学生の息子がいた。不幸にして、幼くしてその人生を終えてしまったが。わたしから見て、きみは好奇心と知識欲が旺盛でひとりよがりのところがある子だ。あいさつも十分にできない未熟な少年だ。そんなところがわたしの息子によく似ている。息子がその優れた点を開花できなかったことは残念だが、きみにはそれができる。息子がそうだったように、きみもきっと多くの悩みを抱えているのだろう。でもね、人生がすべて自分の思い通りになるのだったら、つまらないじゃないか」
次郎はおじさんの言うことに少し反発したくなった。
「でもうちは貧しくて、休みの日は畑仕事の手伝い。夏に家族旅行には行くけど、おもちゃは今まで買ってもらったことがない。塾にも行きたいけど...」
おじさんは少し考え事をしているようだったが、ステレオ装置のスイッチを入れると言った。
「むかしは息子と一緒にレコードを聴いたものだった。わたしはモーツァルトが好きなんだが、息子はベートーヴェンが好きだった。わたしがベートーヴェンの音楽は、苦悩を突き抜けて歓喜に至るようなところがある。第九交響曲はその代表的なものだとよく言われると息子に話すと、息子はいろんな演奏家で第九を聴き始めた。フルトヴェングラー、ミュンシュ、ベーム、クレンペラー、セル。どの演奏もすばらしい。英雄交響曲、田園交響曲、第七交響曲、ヴァイオリン協奏曲、熱情ソナタなども同様の曲だと話すと、息子はうれしそうに今度かけてねと言っていた。残念ながら、息子にそうしてやれなかった。息子が病に倒れて、もうすぐ5年になる」
おじさんはレコード棚から一枚のレコードを取り出すと、にっこりと笑って言った。
「クラシック音楽の初心者に第九は少ししんどいだろうから、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でもかけようか」

ふたりは、40分余り静かにレコードに聴き入った。レコードを掛け終えると、おじさんは言った。
「協奏曲が美しいのは、ソリストが技術的にすぐれた演奏をするからだけではないと思う。もちろん一流のオーケストラが演奏する伴奏が、すぐれているからでもない。ソリストとオーケストラのこころが通じ合い、お互いによい仕事をしたいという意識が高められた時にいい演奏ができると思うんだ。社会に出て、所属する会社で仕事をする場合も同じことが言えるかもしれない。きみが主役になってソリストのような権限を与えられて仕事をするとき、きみが高い教養で持ってみんなを引っ張っていこうと思ってもみんながついてこないことはよくあることだ。日頃から心配りをしてみんなとこころを通じ合わせておくことの方が大切なのかもしれない。社会では、みんなをリードしていく高い教養を持った人が必要だ。でも一緒に仕事をする人たちとこころが通わなければ、なかなかいい仕事はできないものなんだよ」
おじさんがやさしい口調で、何か訊きたいことはあるかいと尋ねたので、次郎は思い切って訊いてみた。
「おじさんは大金持ちで何も不足はないはずなのに、なぜ畑を耕すの」
おじさんは言った。
「息子が亡くなって2年間は仕事に没頭した。仕事が忙しいことを理由にして運動をしなかったら、体調を崩してしまった。3年前のある日裏山の農道を歩いていると、畑で収穫している男性に出会った。わたしがどうしたら農作業ができるか訊いてみると、その男性は親切に教えてくれた。葛の葉でおおわれた山肌を少しずつ開墾して今のような畑にするまで、2年かかった。そういえばその男性は3人の子供がいて、中学2年生の子供もいると言っていたなあ」
次郎は父親のことを言っていることに気付いたが、知らないふりをしていた。
「レコードが聞きたければ、またおいで。でも農作業をするのはお父さんとの方が楽しいかもしれないね」

次郎にとって初めて聴くクラシック音楽は、赤い頬っぺたのおじさんのやさしい笑顔や言葉と共に次郎のこころに残った。次郎はおじさんのところで協奏曲をたくさん聴きたいなあと思いながら、おじさんに見送られ、畑の出口へと向かった

                    戻 る