忘れられた逸品 |
たろうが、自分の鞄を家の中に投げ入れながら、「おかあさん、今日も晩ごはん
まで、蓄音器のにいちゃんのところにいるからね」と言って、2階から3階へと
上がっていった。
たろうは、公団住宅の2階に住む、小学3年生。にいちゃんとの出会いは、半
年前にさかのぼる。その日たろうは高熱を出し、学校を休んだ。「今日は、遠足で
一日みんなで楽しく過ごせたのに...」口惜しくて、涙が溢れ出た。涙を隠すため
布団にくるまっていると、そのまま寝入ってしまった。目を覚ましたのは、まだ
強い日差しが部屋に残る、夕方だった。ふと耳を澄ますと、今まで聞いたことが
ない音楽が、大きな摩擦音と共に流れてきた。「この曲は何だろう。3階から聞こ
えてくる。テレビでいつも流れている曲でもないし...。そうだ、3階のにいちゃ
んはいつもあいさつを返してくれるし、今度会ったら、何と言う曲かきいてみよ
う」そして再び耳を澄ましたが、約3分程の同じ曲が2曲、交互に何度も何度も
聴き取れた。
次の日の夕方、たろうは1階の郵便受けの前でにいちゃんと会った。いつも通り
あいさつをしてから、
「きのうかかっていた曲は何ですか」と訊ねると、にいちゃんは、
「どの曲」と訊くので、たろうが、旋律を口ずさんだ。
「よく覚えたね。あれは、今から50年以上前にガリ=クルチという人が録音した
『埴生の宿』と『庭の千草』だよ。おにいちゃん、蓄音器を買ったばかりなんで、
SPレコードを1枚しか持っていないんだ。そのA面が『埴生の宿』でB面が
『庭の千草』というわけ。もう少しSPレコードを買ったら、家に招待するよ」
それから1ヶ月ほどして、たろうはにいちゃんから招待を受けた。蓄音器のある
部屋には、大きなステレオと数えきれないほどのLPレコードが置いてあった。
中央に白いテーブルがあり、その上にポータブルタイプの蓄音器が置かれてあった。
「これがこの前言っていた蓄音器だよ。ざっと説明すると、この針先で捕らえた振
動を増幅し、スピーカーから流す。ポータブルタイプの場合、このフタを開けると
スピーカーになるんだ」と言って、前面にある15センチ四方のフタを開いた。
「針は鉄か竹、竹針は溝を広げると言って不人気だけど、柔らかな音が出したいと
きは竹針、輪郭のはっきりした音を聴きたいときは鉄針のように使い分けた方が
いいと思う」
にいちゃんは、天蓋を開いてSPレコードを乗せると、はさみで先端を鋭角的に切
った竹針をアームの先端に取り付けた。そして数十回ハンドルを回すと、針を盤面
に乗せた。
「じゃあ、じっくり聴いてね」と言って、ガリ=クルチの2曲を聴かせてくれた。
次に、エルマンのヴァイオリンで『トロイメライ』を聴いた。
「最後は、おにいちゃんが一番大切にしているレコードなんだけど、さっきと同じ
エルマンが20代の時に録音した、ゴセックの『ガボット』。古い録音だけど、若き
日のエルマンの溌剌とした演奏が聴ける。晩年の演奏では忘れられがちな、節度と
品格がこの演奏にはある。と言っても、小学生には難しかったかな」
たろうは、この曲を小学校の音楽の授業で聴いたことがあったので、このレコード
はたろうのお気に入りとなった。その日から、学校から帰って、にいちゃんが帰宅
するのを待ち、夕食までにいちゃんの家で過ごすことが多くなった。
クライスラーの自作自演、ガリ=クルチの歌唱、カザルスの熱演などクラシック
のいにしえの名演を、小さな愛らしい蓄音器で飽きもせずに毎日のようにたろうは
聴いた。
ある日たろうが学校から帰ると、にいちゃんがたろうの家に来ていた。
「たろう君、今晩は。実は、おにいちゃん引っ越しちゃうんだ。田舎の両親の具合
がかなり悪いので、看病するためにね。おにいちゃん、たろう君のためにこの蓄音器と
SPレコードを置いていくから、大切に聴いてね。操作は、何度も自分でしたから
覚えているだろ。それから針は、片面で1本必ず交換するように」
そう言って、大きなダンボール箱に入ったSPレコード数十枚とポータブル蓄音器
を残していった。
最初のうち、たろうと両親は、その古めかしい飾り気のない蓄音器から出てくる
美しい調べに魅せられたが、針交換の煩わしさと同じレコードばかりを聴いている
退屈さが勝ってきた。たろうが蓄音器から遠ざかった理由は、他にもいくつかある。
友人の家で聴いたステレオの臨場感のある音に引き込まれたこと。にいちゃんの言
い付けを守らず針をこまめに換えなかったために、SPレコードを台無しにしてし
まったこと。にいちゃんのあとに引越ししてきた同い年の女の子のことが気になり
始めたこと。4年生になって、新しい友人が出来たこと。やがて、蓄音器はたろう
に聴かれることもなくなり、たろうの視界からも消えた。
数年後。ある日、たろうはそのころ流行っていた、アニメ映画を見に3階に住む
女の子と出かけた。そして、映画の一番終わりのところで、ガリ=クルチの
『埴生の宿』を聴いた。たろうは懐かしさで一杯になり、一刻も早く、蓄音器で
その曲を聴きたくなった。しかし、蓄音器は押入れの奥にしまわれてあり、SP
レコードはとても聴けるものではなかった。
頼る人は、1人しかいなかった。にいちゃんは両親の看病で故郷に帰ると言っ
ていたが、その後どうなったんだろう。今なら、来てもらえるだろうか。
「困ったことがあったら、気軽に電話してくれたらいいんだよ。ここまで、丸一
日あったら来れるんだから」とは言っていたが...。
にいちゃんと連絡がつき、次の日の夜には、SPレコードとたくさんの交換針
を持って、たろうの家に来てくれた。にいちゃんは、その後たろうが針を交換せ
ずに、SPレコードを駄目にしてしまうことを予想していたので、たろうにあげ
たSPレコードと同じものを少しずつ集めていたのだ。
「これでしばらく楽しんでもらえるね。こういった趣味の品は、生きて行く上
では、何の必要もないのさ。ひとり部屋にいて、レコードを聴いているより、友人
や恋人と楽しい時間を過ごした方が、生産的だ。また、体力作りや習い事の方が
ずっとためになる。でもね、人の心の中に闇が生じて、行き先がわからなくなっ
た時に、ほの明るい光で人を励まし、時に方向づけしてくれるのは、昔から親し
まれて来た名曲を聴くことだと思うんだ。ほんの少しの興味と忍耐力があれば、
すぐにその美しい調べが聴けるんだけど、最近は耳を貸そうとしない人が多くな
った。でも、いつかとても大切にされる日が来ると思うよ」にいちゃんはそう
言ってから、昔よく聴いたガリ=クルチの『埴生の宿』をかけてくれた。