諧調のある風景


 
    彼は、古い木造の公営住宅を通り抜け桜並木のある少し広い道に出た。11月も
   終わりに近づき夕方になって辺りが暗くなると、寒さが身に染みた。桜もすっかり
   葉を落とし、しばしば吹く強い風を遮ってくれなかった。彼は、身震いすると独り
   言を言った。
  「何かを掴もうと家を出たけど、収穫なしで家に帰るか...」

   彼の名は、二郎と言った。彼は大学受験に失敗し、アルバイトをしながら浪人生
   活をしていた。思うように受験勉強ができず暗礁に乗り上げていたため、小金と
   寝袋と着替えと携帯ラジオを持って気ままな旅に出たのだった。旅は本来、観光で
   あるとか、人との出会いを求めて出かけるものだが、彼の場合これと言ったあては
   なかった。ただ、今後の生活を豊かにする手懸りが得られればと思い、はじめて
   両親と一週間以上離れて暮らすことにしたのだった。最低限の食費しか持たないで、
   移動は徒歩、寝るのは寝袋という旅行に、最初両親は反対したが、彼が強くそれを
   望んだので、10日たったら必ず帰るという約束で許可したのだった。父親から
   借りた大きめのリュックに10日分の着替えをつめ、その上に寝袋を乗せ、背負った
   時、彼は支えきれないで足元をふらつかせた。

   次の朝の早朝に家を出た。家を出る時、母親は、
  「無理しないでね。もし何かあったらすぐに電話ちょうだいね。あなたが無事に帰る
   ことを祈っているわ」
  と言って、小遣いと携帯ラジオを渡してくれた。
  「夜、寂しくなったら、ラジオを聴くといいわ。お金は、帰りの電車賃に取っておい
   て。絶対無理しちゃだめよ」

   彼は家を出ると、ひたすら国道沿いを西へと向かった。今の時期に北へ向かうのは
   寒さに対する準備が十分でなく、山里に入るのは野生の動物に襲われると考えたため
   だった。昼は、国道の歩道を一日中歩き続け、夜は駅の待合室を利用した。早朝に
   出発し、朝食昼食夕食を間にはさみ歩き続け、夕食後風呂屋を利用したあと、寝袋に
   入って早く眠る。彼は、これを一週間続けた。未成年の彼は世間に疎く、話し方も
   粗野だった。彼が道をきくと、最初親切に接していた人も、彼が大した目的もなく
   徘徊しているだけにすぎないことがわかると遠ざかっていった。

   人が困っているのに、なぜ助けてくれないんだろう。実際彼は重たい荷物をかつ
   いで無理をして長距離を歩いたため、足にまめができ、足を引きずりながら歩いて
   いた。一日の運動量に比べ食事は最低限のものしか取らなかったため、華奢だった
   身体がさらに痩せて見えた。そんな彼を見て最初は気の毒にと思い声をかけてくれ
   たが、彼と話して不快な思いをすると、皆彼から離れていった。

   8日目の昼食を取った後、国道沿いをしばらく歩いていると自分の背丈より20
   センチも高い男性が、彼の顔を覗き込んでから、彼の横を追い抜いて行こうとした。
   彼は、自分に興味があると思い、挨拶もせずに背の高い男性にあなたはどこに行く
   のですかといきなり尋ねた。背の高い男性はにっこり笑って答えた。
  「この近くにある病院に帰るところさ。その向こうに見えるだろ。さっき君のいた
   食堂で昼食を食べていたんだ」
   彼は、思い切ってきいてみた。
  「僕を雇ってもらえないですか。何でも一所懸命やりますから」
   背の高い男性は、微笑みを絶やさなかったが、きっぱりした口調で言った。
  「残念ながら、今の日本で希望すればすぐに就職できるようなところはないね。私の
  ところでも国家試験に合格した人や学校の推薦を受けた人が就職している。君もうち
  に来たいのなら...」
  彼は、背の高い男性の回答が不服で話しの途中でそこから離れようとした。背の高い
  男性はすぐに追いつき、話しを続けた。
  「なぜ君は、最後まで私の話しを聞かないんだ。話しを最後まで聞くことは相手の
  ことを理解する第一歩だし、以外と最後に本音を漏らすものなんだよ」
  「それじゃあ、続けて...」彼は、促した。
  背の高い男性は、にっこり笑うと言った。
  「君を雇うことはできない。仮に国家試験に合格したり、学校の推薦を受けたとして
  もだ。私の仕事のようにチームで仕事をする場合、速やかに仕事ができなくなるよう
  なものは排除される。君が、異端であるとは言わない。異端にもなれないだろう。
  ただ、円滑な営みを疎外するものにすぎない。君の人生を豊かにしたいのなら、もう
  一度出直すといい」
  背の高い男性は続けた。
  「君はまだ若い。修正はいくらでもできる。でも、気持ちが今のままなら駄目だろう。  
  すばらしいものやすばらしい人との出会いが、人生を大きく変える。君が望むのなら
  ば ...」
  彼は背の高い男性に泣いているところを見られたくなかったので、駆け出した。

   彼が、桜並木のある道に出たのは、背の高い男性から遠ざかるために国道から離れ
   住宅街に入ったからだった。真っ暗になる前に今日眠るところを探そう、電車が走る
   音が聞こえたので近くに駅がある、と彼は思った。坂道を上がると川に出た。左手
   に鉄橋がかかり、右手に堤防が川沿いに続いていた。数百メートル先には橋がかか
   り、車や人が多く通っていた。その向こうには群青色の空が広がり、下方には今沈
   んだばかりの夕陽の残り陽が地平線に広がりオレンジ色のグラデーションを作った。
   橋の上の空には、金星が輝いていた。明るく辺りを照らしていた陽が沈み、それに
   変わって星がまたたく刻となった。全天で1、2を争う明るさの金星は群青色の空
   では輝いて見えたが、それは地上を照らす光にはほど遠かった。彼は、今この1つの
   星明かりを頼りに歩かねばならない、刻に来ているのかなと思った。

    彼は、朝のこの景色を見たくなって、鉄橋の下で一夜を過ごすことにした。今ま
   では、駅の待合室で夜を過ごしたために、人通りもあり、話しかけてくれる人も
   いたが、橋の下では夜間だと声をかけてくれるどころか人通りもなかった。寂しさ
   から、彼はラジオのスイッチを入れ、耳を傾けた。クラシック音楽がかかっていた。
   彼は、今までに一度もクラシック音楽を聴いてみたいと思ったことはなかった。
   ただ、今日はなぜか寒さが身に染み、心を暖かにするものを渇望していたので、
   何かを期待してラジオを聴き続けた。

    その曲は最初整然とした力強い旋律で始まり、重々しい緊張した雰囲気が 続いた。  
  一度曲が途切れると、一転して明るいおだやかな旋律に変わった。ソロヴァイオリン
  の音はやさしくて、不覚にも彼は目頭が熱くなり涙を流した。再び曲が途切れ、
  心はずむ楽しい調べ、そしてフィナーレへと移って行った。最終楽章は、何度も打ち
  のめされながらも、研鑽し、再び挑む。やがて栄光のゴールへと進んで行く。そんな
  イメージがあった。曲が終わると、音楽評論家がこの曲の解説をした。その中で、
  ブラームスのシューマンの妻クララに対する愛や交響曲第1番はブラームスが40才
  を過ぎた円熟した頃の作品で随所に巨匠の熟練した作曲技法が見られることなどが
  語られた。彼は、ブラームスが十分な準備をした上で最初の交響曲を作曲したこと、
  クララの生活を支えるために決して報われないと判っているクララへの愛に一生を
  捧げたことを知った。振り返ってみて、自分はなんて小さい人間なのかと思った。
  自分の成功やものを獲得することに腐心し、人のことは微塵も考えなかった。すぐに
  良い結果が出ないといらいらして人に八つ当たりをした。自分は、自分のことしか
  考えない、最低の人間だと思った。と同時に、最低ならば向上するしかないと考え、
  気力が充実して行くのを感じた。

   次の日、朝日の昇るのを見てから、帰途についた。昨日話しをした背の高い男性
  の勤務する病院の前を通りかかると、偶然、男性が建物の中から出て来た。
  
「ああ、いい顔してる」
  開口一番、背の高い男性は言った。
  「君が、何を体験して迷いを振払ったか、私は問わない。人それぞれ生まれ育った
  環境も違えば、資質も違う。努力ではどうしようもないことも出てくる。そんな時
  にどのように行動するかで、その人の人生が決まる。夢にいつまでも固執し、道を
  失った人を多く見て来た。私は、夢を持つなと言っているのではない。私が言いた
  いのは、ひとつの夢を追うことだけで人生を終わらせることは本当にもったいない
  と言うことだ。迷いが生じたらいつでも相談に乗ってあげるけど、今の君なら、
  自分で難局に当たり解決の道を探す力があると思うよ」
  そう言って、背の高い男性は手を差し延べたので、ありがとうございますと言って、
  二郎は心を込めて笑顔でその手を握った。