歌劇「ばらの騎士」について

今から6年程前、私は1960年以降に出版されたディケンズの翻訳書を探し回っていた。書名をあげると、『荒涼館』『バーナビー・ラッジ』『ピクウィック・クラブ』『ニコラス・ニクルビー』『ドンビー父子』であるが、それらを探し求めたのは、当時ディケンズに興味を持ち始めていた私がまずディケンズの長編小説をすべて読もうと決心したためだった。幸いなことにすでに田辺洋子氏が『ニコラス・ニクルビー」と『ドンビー父子』を出版されていたので、ディケンズの14の完成した長編小説のすべてを読むことが可能だった。それで神田の古書街を何度か散策すれば、入手できると考えたのだった。その時も今も私は大阪に住んでいるので年に4、5回しか神田の古書街には行けないが、半年ほどしてようやく、やはり西洋文学を専門的に取り扱っている古書店に行かなければ、目当ての本は見つからないのではと気が付いた。それで古書街マップを頼りに風光書房を見つけたのだったが、ここにもディケンズの古書は置かれていなかった。その代わり店主が大学の頃から興味をお持ちのフランス文学、ドイツ文学の名作がたくさん陳列されていて、幅広く、深い知識も購入の時に授けてもらった。フランス文学はヴァレリー、ランボー、ヴェルレーヌなど専ら詩人の著作の話だったので消化できなかったが、ドイツ文学なかでもシュティフタ-、ブロッホの著作についての話は興味を持って聞かせていただいた。
話は変わるが、私は大学時代にドイツ語の先生から、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を読むように勧められていたが、なかなか読めないでいた。というのもほとんど改行しないので読みづらく、内容も難解であったので、敬遠していたのだった。それでも風光書房の店主がジョイスやウルフに興味があるのなら、一度読んでみたらと言われたので、読んでみることにした。ローマの詩人ウェルギリウスが死の直前に思ったことを意識の流れの手法を使って描いた小説で非常に面白く、その後の自分の小説にこの手法を取り入れることにした。ドイツ語の先生は、この意識の流れの手法を使えば、人間の心の中も大自然の風景のように描けると言われたと記憶している。私はまだこの手法に習熟しているとは言えないが、いつかは極めたいと思っている。
ところでその風光書房も今年(2015年)の11月で閉店となり、私は文学についての貴重な情報を得ることが難しくなったが、ブロッホの作品を他にもいくつかこの店で購入した。『夢遊の人々』『誘惑者』『ホフマンスタールとその時代』それからリュツェラーの評伝『ヘルマン・ブロッホの生涯』であるが、先日、この中の『ホフマンスタールとその時代を読み終えた。副題に「二十世紀文学の運命」とあり興味を持ったのと風光書房の思い出にと思い読むことにしたのだが、案の定、ブロッホの文章は難解でどれほど理解できたかわからないが、いくつかのことが心に残った。
第一次世界大戦が勃発する以前のウィーンはパリと並び称される、芸術の都であった。音楽だけでなく幅広い分野の芸術を当時のウィーンでは受け入れられていたが、芸術至上主義という考えが優先され、倫理的な面を無視しがちであった。またパリに比べて政治的に不安定で、第一次世界大戦の頃から政治的に窮地に立ち、それに伴い芸術の都としても機能を失っていくといったことが書かれている。そのウィーンの終末期に小説よりもすぐれた表現手段としてホフマンスタールは演劇を考えていたが、それをさらに完成されたものにするために音楽を取り入れた歌劇を表現手段として選んだ。そうしてリヒャルト・シュトラウスと組んで、『エレクトラ』『影のない女』『ばらの騎士』などの歌劇を創作したが、その中で最も成功を収めたのが『ばらの騎士』である。
今から20年程前に、私はカラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団の歌劇『ばらの騎士』のCDを購入して聞いたことがあるが、管弦楽で魅力的な旋律に乏しく、口ずさみたくなる独唱がないこの歌劇に興味が持てず、すぐにCDはお蔵入りとなったのだった。そういうこともあったので、今回は画像必見と考えて、1960年のバイロイト音楽祭で上演されたものを収録したDVDを購入し、コンサートを聞くようにしてではなく、劇を見るようにして楽しむことにした。シュワルツコップ(元帥婦人)、オクタヴィアン(ユリナッチ)、ゾフィ(ローテンベルガ―)、オックス男爵(エーデルマン)の4人の歌手が素晴らしい歌唱をしていることもあり3時間余り一貫して楽しめたが、楽しめたのは音楽付きの劇としてであった。
この歌劇は全3幕で構成されていて、それぞれ魅惑的な場面が連続するが、特に最初の元帥婦人とオクタヴィアン(男役の女性歌手)がベッドの上で語り合うところやオクタヴィアンがゾフィに愛を語るところはまるで宝塚歌劇のようで、当時としては斬新な作品だったんだろうなと思った。またこの作品は元帥婦人が主役の、老いて行くことの悲しみを描いたものと思っていたのだが、それよりもむしろオクタヴィアンとゾフィが発散するエネルギーが物凄いので、そのエネルギーが悪人オックス男爵の奸計を打ち壊し、オクタヴィアンとゾフィが結ばれるというハッピーエンドの喜劇とする解釈もありかなとも思う。それは歌劇の場合、総監督となる指揮者が解釈をするのだが、カラヤンはこの公演では、元帥婦人を際立たせることはせずに、オクタヴィアンとオックス男爵の対決を楽しく描いているように思う。ドイツオペラはワーグナーのような重厚長大なものばかりと思っていたが、ユーモアセンスに溢れるこんな作品もあるんだなと認識を改めた。