穂高を愛して二十年について
穂高縦走の核心部、大キレットと涸沢槍、涸沢岳の中間に位置する北穂高小屋(山頂直下3100メートルに建つ)を戦後間もなく立ち上げられた小山義治氏の著作で、登山をされる方は一度は読んでおきたい本である。1961年に新潮社から刊行され、その後1982年に中公文庫から出版された。私は、中公文庫を神田の小宮山書店で400円(定価340円)で購入した。
小山氏は、1920年に東京の山村(現在は八王子市)に生まれる。幼い頃から山登りをされ、1943年、24才の頃に始めて乗鞍岳に登られた。それから1ヶ月余りして穂高に入られ、地域の人と深く関わりを持つようになられる。また穂高(特に北穂高近くの滝谷の岩場)の魅力に引かれ、戦後、自分で北穂高岳山頂に小屋を建てることを決められる。念願の山小屋建設の認可は下りたが、横尾谷近くで伐採した木をヘリコプターなどによる運搬ができないので、すべて人力による運搬をされ、中には長さ5.5メートル、重さ130キロの梁を3人掛かりで横尾木谷橋近くから北穂高山頂まで上げられた。1948年10月には小屋を完成させ、登山者に安全な避難所を提供すると同時に自身の生活の拠点とされる。このことは、1980年頃に心疾患のため小屋を離れることを余儀なくされるようになるまで続けられる。2007年に小山氏は他界され、現在、小屋はご子息の義秀氏が管理されているようである(2002年発刊の槍・穂高のガイドブックに記載あり)。
小屋の近辺での出来事や小山氏の交友関係(松濤明氏、足立源一郎画伯の話は特に興味深い)などについては、著書を読んで楽しんでいただくとして、後は自分も登山を楽しむものとして少し穂高のことを書いてみたい。私が始めて穂高を訪れたのは2004年7月である。その前年、ただ槍・穂高への強い憧れから体を鍛えて、何とか雨中、槍ヶ岳の登頂を果たした私は、今年こそ穂高縦走(南岳から大キレット、涸沢槍、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳、岳沢を経由して上高地に至る)を完遂しようと意気込んで出かけたものだった。しかし山の天候は変わりやすく、朝方、快晴だったにもかかわらず、一緒に北穂高小屋直下の急傾斜を登り、北穂高小屋の喫茶室で一緒にコーヒーを飲んだ、斉藤さんとテラスで話していると午前11時頃に急に雷が鳴り出し大粒の雨が降り出した。私は縦走を取りやめ、斉藤さんとともに南稜を下ることにしたが、途中、木の根っこが露出し軒のようになったところなどに避難しながら(なにせそこらの山に落雷していたので身の危険を感じた)、何とか滝のような雨になる直前に涸沢小屋に辿り着いた。その後2回(2シーズン)、北穂高小屋の前を通り、涸沢岳方面に向かったが、どちらの時もそれから2、3時間して豪雨となった。このように穂高の天候は変わりやすい。そのような気候の中で、長年暮らされたことは驚嘆に値する。
私も穂高を愛してはいるが、未だに穂高縦走を完遂していないし、もちろん滝谷の岩登りなどとてもできないだろう。それでも小山氏がこの本の中で、「私は年齢的に老いても、厳しいものから眼をそらしたくないと思っている。幸福とは安易や逸楽ではなく、努力と探求の中にこそ、まことの幸いがあるのではなかろうか」と述べられており、私も大いに共感するところであるので、穂高縦走を完遂し時間ができたら、滝谷での岩登りにも挑戦したい気もするのだが...。