孤独の対話 ー ベートーヴェンの会話帖 ー について

この本を風光書房で今年(2013年)の6月に購入した。山根銀二氏の文章は改行が少なく、最初は遅々としか読み進めなかったが、第2章の「病因は何か」のあたりから興味がわき、それから2週間ほどで読み終えた。
ベートーヴェンと言えば、音楽家としては致命的な耳の疾患を克服し「英雄」「運命」「合唱」などの苦悩を突き抜けて歓喜に至る名曲をたくさん残したことはよく知られているが、この本では彼と彼と対話した人物との間で交わされた対話メモにもとづいての確証や類推から、ベートーヴェンの実像を浮かび上がらせている。最初に目を引くのは、ベートーヴェンの耳の疾患が出始めたのは1796年から98年頃(山根氏は悲愴ソナタを書いた頃と書かれている)のことで、30才を前にして既に作曲の大家となり前途有望だった音楽家を絶望の淵へと追いやったと記述しているところ。しかしベートーヴェンはそれを克服し、1800年には立ち直り、第1交響曲、1801年にはバレー曲「プロメテウスの創造物」、ヴァイオリン・ソナタ「春」、ピアノ・ソナタ「月光」、1802年にハイリゲンシュタットの遺書を書いた後に気持の整理がついたベートーヴェンは、ピアノ・ソナタ「テンペスト」の後に、1803年には第2交響曲を、1804年には英雄交響曲を作曲し、その頃に田園交響曲、ピアノ・ソナタ「ワルトシュタイン」、ピアノ・ソナタ「熱情」、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー第1番」、第4ピアノ協奏曲、三重協奏曲の作曲に取りかかっている。
山根氏は、「ハイリゲンシュタットの遺書」を死者が遺族に残す「遺書」というものではなく、弟たちに見てもらおうと考えた「遺書」にすぎないとしている。以下、長い引用となるが第1章の最後の段落から記す。「なお、このプロメモリア(「ハイリゲンシュタットの遺書」のこと)は、終わりにつけられた追記がきわめて悲観的で絶望のひびきに溢れているためか、このプロメモリアそのものが、その中に指摘されている自殺に具えて書かれたものであるかのように、そして自殺は思い止まって遺書だけが残ったように思い違いをしている人が多いが、それは正しくない。なぜなら思い止まった自殺のために書いている遺書などというものはありえぬからだ。自殺の考えはこれを書いているときはすでに克服された過去の思い出であって、このプロメモリアはベートーヴェンが病弱の身として早死にするだろうと予想したときに、弟たちに見てもらおうと考えた「遺書」にすぎないのである。死にたくなっているような絶望の気分は、もうこれより前に過ぎ去っていることは、この「遺書」の書かれた同じ時期の諸作品、例えば第2交響曲や作品31の3ソナタが、いずれも明るい人間謳歌の情緒(省略)に溢れていることから証明できる」
その後もベートーヴェンは耳の疾患が悪化してゆくが、同時に彼を死に追いやった内臓疾患(消化器疾患)も悪化してゆく。そんな多くの苦悩を背負いながらも、彼は田園交響曲、第7交響曲を完成させるが、山根氏はほとんど耳が聞こえなくなったベートーヴェンの晩年の偉業として、山根氏はピアノ・ソナタ「ハンマークラヴィーア」、「荘厳ミサ曲」「第9交響曲」の大曲を1818年から1924年にかけて順番に完成させたことを上げておられる。ベートーベンは、弟カスパル・アントン・カール.ヴァン・ベートーヴェンの死後、甥カールの親権をめぐってカールの母親ヨハンナと争奪戦を繰り広げる。小さい頃から可愛がって来たカールを失いたくないと思ったベートーヴェンはなんとかして親権を手に入れるが、カール自身はむしろベートーヴェンが親権を手に入れたことが気に入らな様子で、わがままな行動をとったり自殺未遂を起こしたりして、ベートーベンを精神的に滅入らせてしまう。そんな中、ベートーヴェンは風邪をこじらせ、内臓疾患を悪化させ、帰らぬ人となってしまう。亡くなる3日前に、「諸君御喝采を、劇は終わったよ」という言葉を残して。
この本のタイトルにもある会話帖は、ベートーヴェンの死後、弟子のシンドラーが管理することになったが、彼の独断でその3分の2が破棄されている。会話帖に残されたベートーヴェンの言動が彼の死後に思わぬ波紋を起こすことを恐れたという理由からのようだが、シンドラーの著作の整合性が失われるから発覚を恐れて処分したという話もある。いずれにしてもシンドラーが破棄した会話帖が残っていたら、もっとベートーヴェンという偉大な音楽家を身近に感じることができただろうと考えると惜しい気がする。
ベートーヴェンは、芸術は短く(その息吹は一瞬の恵みに過ぎない)、人生は長いと言っていたそうだが、彼は終生偉大な芸術家で、耳の病気を発症してから後も、ずっと人々の心に残る音楽を作曲し続けた。