マーティン・チャズルウィットについて

最近、「リトル・ドリット」「荒涼館」「デイヴィッド・コパフィールド」を続けて読み、この小説をその後で読んだが、
その違いが余りに大きく、オーバーな言い方になるが、愕然としている。前の3つの小説はいずれも主人公が成長して
幸せな家庭を築き、ハッピーエンドで幕を閉じる。ところが、この小説は病床で臥せっていた老マーティン・チャズル
ウィット(この小説には 二人のマーティン・チャズルウィットが出て来て、祖父と孫の関係である)が突然回復して偽善者
のペックスニフを杖で殴りつけ少しスカットさせ、若マーティン・チャズルウィットがずっと老マーティンの世話をしていた
美人のメアリーと結婚するくらいで、大団円に向かって盛り上がって行くことがない。そこで、私なりにこうだったら名作
と言われるディケンズのいくつかの小説に肩を並べるような小説になっただろうにということを、誠に烏滸がましいことで
あるということを知りながらも、あえて指摘してみたいと思う。
1.やはり、一番の悪役であるペックスニフの描写がどっちつかずなところ。この小説にはもう一人の悪役、殺人鬼のような、
老マーティンの甥のジョーナス・チャズルウィットがいる。こちらは追いつめられて服毒自殺するが、いろんな悪事を働いた
後なので懲らしめられて当然と思う。ところがペックスニフの場合、そこまで徹底しなくてもよいのにと思ってしまう。確かに
あいまいな言葉遣いで多くの人を翻弄させお金や仕事を奪ったりするが、その反面、投機でお金を失ったり、二人の娘には
愛想を尽かされているという気の毒なところがあり、老マーティンが、「偽善者め、口の回転のいい悪人め、浅薄な犬め」と
罵って打擲を加えるところを読むと、心情的には打ちのめされている人にそこまでしなくてもと思ってしまう。
2.主人公の若マーティンの性格が悪すぎること。前半のところでわがままに生きて来たというのはよくわかったが、ディケンズの
小説の主人公は、普通は成長する。しかし若マーティンはどうしょうもない馬鹿者(すいません言い過ぎました)のままで最後まで
走ってしまう。彼がまともな人間になるチャンスは何回かあった。アメリカに行った時ももっと事前に計画して行っていれば、成功
していたのかもしれない(もしかしたら、ディケンズはこのような無計画な渡米を戒めたかったのかもしれない)。アメリカで疫病
にかかりマーク・タップリーに命を助けられペヴァン氏の経済的な援助もあって帰国できたにもかかわらず 、最初に訪れたのが
ペックスニフのところで 、過去に自分が設計した(若マーティンは建築家)建築物の設計図がペックスニフに奪われたとマークに
訴えている。つまりアメリカから帰ってすぐに後ろ向きなことをしている。トマス・ピンチとの再開を果たした後にしばらくして
若マーティンはトマスの自宅を訪問するが、いきなり、「きみのひどい仕打ち」などと訴え始める。自分が好意を寄せているメアリー
を奪われるのではないかと恐れたためである。友情のために諦める方が潔くて良いと思うが、自分の愛を優先させて恋敵となった
トマスを充分に説明もしないまま攻撃する。なんて嫌なやつなんだろう。
3.トマス・ピンチがこの物語の中で要所要所に登場して、最後のところでも作者から賛美されるが、ペックスニフの長女の結婚式が
結婚の相手であるオーガスタスの逃走のため取りやめになってしまった後で、取ってつけたように賛美されるのである。このあたりも、
堅牢な建築物のように物語を構成して行くことが多いディケンズらしくないとも言える。全体を通してトマス(トム)は何のために
出て来ているのかと思う。ペックスニフを誰かと一緒になって懲らしめるわけでもなく、若マーティンを正しい道に導くわけでもなく、
メアリーと結婚するわけでもなく、マーク・タップリーに感化されて陽気に行こうと決心するわけでもなく...。
以上、気になった点を取り上げたが、さらに言うなら、前に上げた3つの作品の最後のところは愛情込めて登場人物のその後を語る
ところがあり私も好きなところなのだが、この小説にはそれがない。作者が愛情込めて後半生などを語りたくなる登場人物がいない
小説、と言えるかもしれない。