ドンビー父子について

このディケンズが34〜35才の頃に書かれた小説の翻訳は、今のところ田辺洋子さんのものしかなく、私も
それを読ませていただいた。通して読んでみて誰もが思うことは、「なんでドンビー氏とその息子(Dombey and
Son)というタイトルなの?」ということになるだろう。確かに第16章で息子が亡くなるまでは、息子が物語の
中心であるが、病弱で繊細なこの少年は厳格な寄宿学校の生活に耐えられずに早世してしまう。「そういうこと
だったら、ディケンズはドンビー父子商会の物語を書きたかったのだろう」という考え方もあるが、支配人の
ジェームズ・カーカー、その兄で下っ端事務員のジョン・カーカー、後にドンビーの娘と結婚するウォルター・ゲイ
などの商会の社員が出て来るが、これらの人物は商会と関係ないところで活躍(ジェームズは暗躍? )することになる。
ではなぜドンビー父子なのかと言われると、正直言って私にもわからない。明らかにこの物語の中心に来るのは、
父ポール・ドンビーの父親らしい感情を引き出すために、その娘のフローレンス・ドンビーはいかに素直に生き、
苦しい時でも笑顔を忘れずに周りの人に接したかということで、明らかにタイトルとしては、どう考えても、
「ドンビー父娘」あるいは「フローレンス・ドンビー」あたりがわかりよいと思うのだが、きっと私にはわからないような
深い意味をディケンズは込めているのだと思う。
田辺洋子さんが下巻の解題「ドンビー父子」で興味深い分析をされているが、私はこの小説については、ジェームズ・カー
カーの奸計で人間らしい感情を失ってしまったドンビー氏が、後妻の愛情を失い、商会が破産し、周りにいた部下が去って
しまったのを機に、常に愛情を持って接してくれていた娘のことを思い起こす。その刹那、偶然家にやって来た娘が「おお、
パパ!いとしいパパ!」という声掛けをすることによって人間らしい感情を取り戻す。言葉を変えて言うと極限まで人間
不信になるように追いつめられた一人の人間が肉親に暖かい一言を掛けられることで人間らしい感情を取り戻して行くという、
家族愛の大切さを物語にしたものと解釈したいと思う。
興味深い登場人物もたくさん登場するが、一際目立つのが、カトル船長とドンマイ(It's of no consequence.)が口ぐせの
トゥーツ氏で、ややもすれば暗くなりがちなこの物語を明るく愉快なものにしている。そんなトゥーツ氏は恋いこがれた
フローレンスに振られてしまうが、最後の方でフローレンスのメイドだったスーザン・ニッパーと結婚して明るい家庭を
持つことになる。
最後に、この物語でまさに息をのんだ場面があり思わずそれってホントと言ってしまったところを引用させていただいて
この小文を終わりにしたい。みなさんは果たしてどのように思われるだろうか。長い文章だが、田辺さんの訳文をそのまま
掲載させていただくことにする。場面設定は長くなるので実際に図書館などで田辺さんの訳を見ていただきたいが、第40章の
最後のところに出て来るアリスのつぶやきである。
「あんた、えらく器量よしだけど」(中略)「あたいら、おかげでバカ見るだけさ。であんた、えらくお高くとまって
やがるけど。あたいら、おかげでバカ見るだけさ。ああ、今度会ったら、ただじゃおかないからね!」