リトル・ドリットについて その2

今年10月に天理大学で開催されたディケンズ・フェロウシップの秋季総会で、2人の女性に、ディケンズのどの作品が
お好きですかと尋ねたところ、おひとりは、「デイヴィッド・コパフィールド」ですと回答され、もうおひとりは、「大いなる遺産」
かなと応えられました。では、あなたはとおふたりから尋ねられた時に、私は、「リトル・ドリット」ですと答えました。
おふたりの反応は、なんで「リトル・ドリット」なのという表情でしたが、今回もう一度このディケンズの後期の代表作を読んでみて
さらにいくつかの魅力を見出したので、そのことについて述べてみようと思います。
この小池滋氏の翻訳を購入したのは私が大学生の頃なのですが、本腰を入れて読んだのは数年前です。なぜすぐに読まなかったかと
言うと、この小説は前半のほとんどが債務者監獄を舞台としていて、解説で小池氏が言われている「極言するならば、この小説の
登場人物はすべて何らかの意味での牢獄に入っており、この小説のあらゆる舞台(目に見えるもの、見えないものを問わず)は
牢獄なのだ」と解説された部分だけをそのまま受け止め、閉塞的な世界でのつまらない小説と勝手に自己評価したからでした。
しかしながら、20年余り経過してから通して読んでみて(これは4年ほど前のことです)、自分の評価が大きな間違いであることに
気づき、アーサー・クレナムの性格に共感を持ったこともあり、ディケンズの小説の中で最も好きな小説ということになったのでした。
とにかくこの小説が魅力的なのは登場人物が生き生きと描かれているところです。クレナムやエイミーのことは最後に少し
述べることにして、とりあえず善悪に関係なく存在感がある登場人物を列挙してみます。まずはやはり物語の重要な場面で登場して
物語の方向付けをする、フローラ・フィンチングとパンクス氏は際立った存在です。フローラの独特な話し方や
パンクスを蒸気機関車や蒸気船に例えて描写する件(くだり)は読者を楽しませてくれます。悪役のブランドワは極悪人ではありますが、
アーサーを苦しめたクレナム夫人の悪事を暴くところではなぜか善人に見えたりして、ディケンズの人物描写の妙味を楽しむ
ことができます。ウェイド嬢も「ある自虐者の物語」をアーサーに読ませて、自分の不幸な半生を知ってもらおうとしてるところがあり、
根っからの悪人ではないように思えてきます。ブランドワは最後に天罰が下りますが、それに比し主人公アーサーを苦しめたクレナム夫人が
懲らしめられるところが少し物足りない気がする方もおられるかもしれません。それでも自分の悪事がブランドワに暴かれて、夫人が
エイミーに会うためにマーシャルシー監獄に向かうシーンでは敗走する女王という感じがして、私はこれで十分と思っています。
その他、「(ゆっくり時間をかけなさい)25まで数えるんだよ、タティコーラム」
((Take a little time ー)count five-and-twenty,Tattycoram)と意味深な言葉を何度か口にするミーグル氏もクレナムに方向づけを
する重要な人物であると言えます。愛娘のミニーがクレナムに興味を持つように骨を折っていれば、クレナムがエイミーを愛することも
なかっただろうと思うのですが、娘の将来のことを考えてガウワンとのつき合いを優先させる。本当はクレナムとがいいのだが...。
苦悩する父親の姿がよく描かれていると思います。マードル氏を始め、マードル夫人、スパークラー、ガウワン、ガウワンの母親などの
上流階級の人々の描写はいつものように辛辣ですが、この小説ではその上流階級に憧れたが受け入れてもらえなかったエイミーの父親の姿を
シニカルに描いています。ディケンズはそうすることで人間に取ってお金よりもっと大切なものがあると仄めかしているのではと思います
(例えば、エイミーとの対話の時間がなくなり孤独感を募らせて行ったとか)。エイミーの伯父さんであるフレデリックはクラリネットを
吹くだけかと思いましたが、再読してエイミーの遺産相続に重要な役割を果たしていることがわかりましたし、クレナム夫人と共謀する
ジェレマイア・フリントウィンチに双児の弟がいてブランドワと繋がりができたのはこの弟とブランドワが知り合いだったから
ということもわかりました。このように繰り返して読むことで新しい発見があるという小説はいくつものストーリーが同時進行している
小説に多いのですが、この小説はそれが顕著で、例えば、恋愛ひとつをとっても、アーサーとエイミーだけでなく、ミニー・ミーグルと
ヘンリー・ガウワン、ファニー・ドリットとエドモンド・スパークラー、ウィリアム・ドリットとジェネラル夫人など多彩な恋愛模様が
繰り広げられるのです。
この小説では主人公が内省する場面が何度も見られ、そこでよく使われるのが、小池氏が指摘される、「リプレゼンテッド・スピーチ」
(自由間接話法)で、クレナムが破産してマーシャルシー監獄に入ってからよく見られます。この技法はその後の意識の流れを
自らの小説に取り入れる作家に大きな影響を与えたと言われますが、「デイヴィッド・コパフィールド」でストーリー展開を極めた
ディケンズがもっと主人公の内面(意識の流れ)を描いてみたいと考え、「荒涼館」のエスタの物語、「リトル・ドリット」のアーサーの
内省を経て、金字塔である「大いなる遺産」で結実することになるのですが、単に直接話法で会話をしたり、情景描写をするだけでなく、
自由間接話法によって登場人物の心の動きを描くことで登場人物を身近に感じさせ言動にリアリティーを持たせることができたように
思います。
最後にアーサーとエイミーについて少し。仲を取り持つジョン・チヴァリーのおかげでアーサーはエイミーに対する熱い感情を再燃
させるのですが、素直にエイミーと結ばれることを喜べないクレナムの気持も今回なんとなくわかった気がします。そうしてエイミー
自身からの告白があって初めて自分にとって大切なのは、財産がある女性や中産階級の女性ではなく自分のことを最も思っている
女性であることに気付き、エイミーを心から愛することになるのです。余談ですが、2009年にBBCがこの小説をドラマ化しています。
アーサー役のマシュー・マクファディンとエイミー役のクレア・フォイが私のイメージと合致しているので、DVDを購入しました。
字幕スーパーが入っていなくて理解しづらいのですが、いつかじっくり鑑賞したいと思っています。
多分、5年か10年したらもう一度この小説を読むことと思います。その時にはまた新たな興味深い発見をすることでしょう。