心にともしび               


わがうちに憂いは満ちぬ

生まれた時から今まで北摂で暮らして来た須藤にとって、いにしえの都、京都は小さな頃からあこがれの地であった。彼は高校時代、写真部に所属していたが、その頃から月に一度は京都に足を運んで、名刹を訪ね写真を撮っていた。彼は失った時間を取り戻すために、浪人の頃と大学の頃は勉学に勤しんだため写真を撮るのを中断していたが、就職してしばらくしてから再開した。また、彼は一時、仕事が思うように行かなかったり人間関係で悩んだりした時があったが、彼はその時から願掛けのためいくつもの神社にお参りするようになった。彼は多くの神様に願い出れば出るほど、多くのご利益があると真剣に考えていた。事実、彼がそれまでと違って、年始に京都の複数の神社にお参りした最初の年は、配置替えされた職場で重宝され、生涯の友もできた。それと同時に、おみくじでその年の運勢を占うこともその頃から始めた。京都には多くの神社があったが、京都市の中心部にある5つの神社(北野天満宮、上賀茂神社、下鴨神社、平安神宮、八坂神社)を、大晦日の夜に家を出て、元旦の朝にかけて巡るのが須藤の正月の恒例となっていた。おみくじはたいてい吉や末吉で、たまに大吉が出ると須藤は、「ほう、今年はいい年になるかな」と言って顎を撫でるのだった。

試練に耐えうる人は幸いなり

今年も大晦日の午後11時30分に阪急西院駅に着いた須藤は最初、北野天満宮を目指して歩いた。西大路通では初詣に行く人を余り見掛けなかったが、鳥居の近くまで来ると通りは人で一杯だった。北野天満宮にお参りすると次は上賀茂神社を目指した。堀川今出川から北へと向かうが、深夜でもあり、ここはいつも人通りが少ない。突然うしろから自転車がやって来て、すぐそばを通り過ぎると須藤ははっとして身をかがめるのだった。午前2時に上賀茂神社に到着した。上賀茂神社の境内にはいつも焚火があり、今日も20人ほどの人が暖をとっていて須藤もそこで一息ついた。上賀茂神社を出てからは、賀茂川沿いを歩いて北山通まで行き下鴨本通を経由して下鴨神社に行くのがいつもの行程だった。下鴨神社のお参りの後、糺の森を通って再び賀茂川沿いを歩き、河合橋に差し掛かった時に、須藤はひとりの青年がいるのに気が付いた。

われらに救いの来たれるは

須藤はしばらくその青年の様子を見ていたが、青年は突然背中に担いでいた鞄を下ろすと中から何かを取り出した。青年はしばらくそれを眺めていたが、思い出を振り切るように二度首を振ると意を決して橋の上からそれを川に投げ込もうとした。須藤はそれを見て、声を掛けながら走りよった。
「きみにとって大切なものじゃないの。わけを聞かせて」
須藤の声にはっとして、その青年は腕を下ろした。青年の手の中を見ると、彼が以前使っていたのと同じ型のカメラがあった。
「少し話をしないか。ここに来る途中の中華料理店が深夜営業をしていたなあ」
青年はうつろな顔をしていたが、須藤の話に頷くと彼の後を付いて行った。

泣き、嘆き、憂い、怯え

須藤が自分の分を注文しても青年がだまりこんだままなので、須藤は、自分と同じものを持って来るようにと注文した。須藤は話のとっかかりを掴みたいと思い、青年を観察した。20才くらいの中肉中背でどちらかというと太っていた。無精髭が長く伸びていて顎髭は2センチほどあった。不潔な様子はなく、ほのかに安い香水の香がした。そのため須藤は、何度もくさめをした。何か共通の話題はないものかと須藤は考えていたが、これで行こうと決めて青年に声を掛けた。

わがため息、わが涙は

「おじさんも、今、カメラを持っているんだ」
そう言って、須藤は鞄の中から、ライカを取り出した。
「前は君と同じOM−1を使っていたんだが、最近思い切って買ったんだ。実際、OM−1は小型軽量で、シャッターの音も軽やかだし、長年愛用していたんだが...。これがライカで写した写真なんだけど、どうだい、なかなかよく撮れていると思わないか。こういったシャープで色合いの良い写真を見ると、やる気が起こるもんさ。おじさんのような素人でも...」
青年は少し写真を見ていたが、やがて少し微笑みを見せて話し始めた。
「これは大徳寺の龍源院高桐院、それから天竜寺常寂光寺、あっ、西芳寺(苔寺)の写真もある。じつはぼくも、以前は京都のお寺の写真を彼女と撮り歩いていたんです。でも...」
少し悲しそうな様子を見せたが、青年は話し続けた。
「でも、それは高校時代のことで浪人している今は、とてもそんなことはできない...」
「そうか、きみ、話してくれたね。こんな私でも、きみの役に立てるんだね」
注文していた料理がきたので、ふたりの会話はしばらく途絶えた。

しりぞけ、もの悲しき影

人心地付くと、青年は話し始めた。
「こうして両親以外の人と話をするのは、久しぶりです。彼女とも、ここ1年会っていません。高校時代、勉強ができなかったぼくは、クラブ活動に明け暮れました。それが写真だったんです。ばかだったぼくは、どこかの大学に入って、大学生活のモラトリアムの間に就職先を探せばよいと安易に考えていたんです。ところが2度の受験失敗。今では家でも肩身が狭く、起床するとすぐに身支度を整えて外出します。今年の4月からそんな生活を続けているので、ほとんど受験勉強はしていません。今になって考えると高校時代に勉強していれば、クラブ活動にのめり込まずに地道に勉強していれば、大学に入れただろうし、今のようになっていなかったのではと思うんです。さっきは自分のうまくいっていないのをカメラのせいにして、ぼくはなんてばかなんだろう」
青年の話を聞いている須藤の顔が、しだいに驚きの表情へと変わって行った。心が落ち着くまで少し待って、須藤は話した。
「私は、きみの話を聞いて驚いている。きみの境遇が約30年前の私の境遇に似ているからだ。私も数学が全くできずに苦労した。きみと同様に勝手な思い込みをしていて、いつの間にか高校時代が過ぎ去った。成人式には恥ずかしくて出席できず、自宅でひとりやけ酒を飲んでいた。でもね、あることがきっかけで生活を改めることにしたんだ」

各々に各々のものを

須藤がなかなか話さないので、青年は話し出した。
「ぼくの友人の多くは、大学生活を送っている。ぼくと違って裕福な家のひとが多い。人生のスタートラインで少し差があるような気がするんですが...」
須藤は青年の話を継いで話した。
「環境や持って生まれた容姿、これはどうにもならない。でもよく考えると、金持ちや容姿端麗であることが必ずしも幸福に繋がるとは限らないことがよくわかる。だっていつかは自立しなければならないのだから。人生、落ちるところまで落ちたと感じたその時に、力が発揮できるかどうかが大切なんだ。さっき成人式の日にみじめな気持ちでやけ酒を飲んでいたと話しただろう。そしてそれからが大切なんだ。もうこんなことはごめんだ。明日からは、自分で頑張って道を切り開くんだと思ったのさ。当時は早い時期だと大手の予備校にも入学できた。次の日から勉強を始めて、なんとか予備校に入ることができ、翌年には大学に入学することができた」

汝はいずくに行くや?

ふたりが中華料理店を出て賀茂川の堤防まで来ると、東の空が白み出した。
「さっききみがいた河合橋の付近からだと初日の出がきれいに見えるから、行ってみないか」と須藤が言うと、青年は頷いた。
しばらくすると朝日が昇り、須藤はしばらく手を合わせてなにかつぶやいていたが、それが済むとすぐに今までにないやさしいが力強い口調で話し始めた。
「日の出は毎日あることで特に取り立てて言うほどのものではないと考えているうちは、初日の出の有り難みは感じないだろう。その中にどのような意味を込めるかが大事だと思う。年の初めに気持ちを一新して物事に取り組もうと考えるのなら、元旦に朝日を望むのは大きな意味を持つだろう」
高揚した気持ちを抑えようと、須藤は少し黙っていたが、また話し始めた。
「日本人は一見無価値に見えるものを価値のあるものに変えるのが上手だと思う。例えば、この初日の出だってそうだし、おみくじも外国にないものだと思う。心の持ちようであるものがとても大切なものになったり、習慣となる。さっききみは人それぞれスタートラインが違うと言っていたが...」
須藤は柄にもなく自分が説教していることに気が付いて、顔を赤らめた。それでもこの自分によく似た青年が、次の言葉を待っているように思えたので、
「心の豊かさというのも、人それぞれだ。でも渇望の多い人の方が、物質的なものより精神的なものを追い求める人の方が、心を豊かにするものを吸収する力が強いのではないかと思う」
と諭した。

待ちこがれし喜びの光

太陽が東山の上に完全に出た時に、我に帰ったかのように須藤は話した。
「しまった、日の出のシャッターチャンスを逃してしまった」
須藤はしばらくそのことを悔やんでいるような素振りを見せていたが、
「また来年がありますよ」
と青年に言われると、気を取り直して、
「それはそうときみはこれからどうするの。ぼくは3つの神社で凶がふたつと平がひとつだったので、平安神宮と八坂神社で吉を引いて、気分を良くして帰ろうと思うんだが」
と言った。
「ぼくも京阪四条駅まで歩くんで、ご一緒しますよ。ぼくの方は今のところ大吉が3つなので、おみくじを引くのは気が進まないのですが」
青年は、そう言って明るく笑った。

 

 

※  OM−1  オリンパスOM−1  昭和47年発売  筆者は昭和50年購入
※※ ライカ  ここではM6を想定  M6は昭和59年発売  筆者は平成10年購入

                                                  

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