取消された入場券  

 

   JR S駅の北側に、なだらかな丘にびっしりと戦後すぐに建てられた家がかたち
  良く並んでいるのが見える。アパートも2階建てのものが多く、高い建築物がなく、
  なだらかなカーヴがそのまま生かされているのは、調和や均衡の美しさを感じさせ、
  人をやさしく包んでくれそうな気にさせる、そんな風景である。

 

   少女も、車窓から夕陽に照らされたなだらかな丘を見て、何かすばらしいことが起
  きそうな気がして降り立ったのかもしれない。少女が、駅を出てなだらかな丘を登る
  頃には、あたりは真っ暗になり冷たい風も身に凍みるようになっていた。少女は、次  
  第に心細くなり、希望も失われつつあった。そして、絶望的な口調で言った。
  「とにかく、今晩泊めてもらえるところを探さなくては」
  少女は、秋子と言った。

 

   秋子は、高校2年生、17才になったばかりだった。一見、ごく普通の高校生だっ
  たが、小さな時から、ピアノを習い、クラリネットやオーボエなどの木管楽器も器用  
  に演奏したので、近くに住む音楽仲間と小さなコンサートを開催したりしていた。
  好きな音楽に打ち込み、入院中の母親に代わって妹のめんどうも見てくれている、
  自分の娘に、彼女の父親は、素敵な贈り物をすることを約束していた。秋子は、当然    
  彼女のアイドルである、あるピアニストのコンサートのチケットをプレゼントして
  もらえるものと思っていた。しかしながら、渡されたものは、日本人の演奏家が、
  ベートーヴェンの七重奏曲とシューベルトの八重奏曲を演奏するコンサートのチケ
  ットだった。秋子は、父親が自分の気持ちを少しも理解してくれていないと思うと
  腹立たしかった。

 

   チケットをもらった次の日、父親が、
  「父さん、来週1週間程出張するから、その間、母さんと夏美をよろしく頼む」
  と言った時に、冬休みに友人との旅行を計画し父親に了解を得ていた、秋子は怒り
  を抑えられなくなった。
  「父さんのばか。自分勝手ばかり言って。それに父さんは、私に管楽器の演奏家に
  なってほしいのかもしれないけど、私がなりたいのは、ピアニストですから。父
  さんの思いどうりになりませんから」
  父親は、最初、今までに自分に対し一度も怒ったことがない、娘が怒りを隠そうと
  しないことに驚いたが、すぐに、
  「父さんの言うことがきけないなら、出ていきなさい」
  という常套句で、自分の考えに従わせようとした。
  「さあ、もう寝なさい。明日から冬休みになるけど、遅くまで寝ていないで、家の
  手伝いをしなさい」

 

   秋子は、自分の部屋に入るとすぐに、所持金を調べた。他府県に住むおばの家に
  行くお金は十分あった。彼女は、母親とケンカした時は、しばしば黙っておばの家
  に行き、自分が来ていることを隠してもらったものだった。
  「明日の朝、父さんが仕事に出たらすぐに家を出よう。そしたら、夜にはおばさん
  の家に着くわ」

 

   秋子は、おばの家には行かなかった。ただなんとなくいいことが起りそうな予感
  がして、途中で下車して夕陽に照らされていたなだらかな丘を目指したのだった。
  所持金では、宿泊することもできなかった。半時間程前に輝いて見えたなだらかな
  丘を上ったり下ったりしながら、東へ東へと歩いていくと、丘の中腹あたりに、
  暗闇の中に十字架が輝いているのが見えた。
  「教会のようだわ。困っていることを話せば、泊めてくれるかしら」
  彼女は、教会の通用口にまわると、チャイムを押した。出てきたのは、40代半ば
  の小太りの男性だった。
  「こんな時間に何か用かね。若い女性がこんなさみしい道を独りで歩いていると、
  危ないよ。このあたりは道が入り組んでいるから、迷ったんだろう。駅の近くまで
  送ってあげよう」
  秋子は、父親とケンカして、家出をしたなどと言えば、家に帰りなさいと言われ、
  電車賃をくれるだけだと思ったので、下手な芝居をすることにした。
  「私、気が付いたら、電車に乗っていました。夕陽に照らされた丘を見たら、私を
  呼んでいるようで、電車を降りてしまったんです。あたりが暗くなると、この教会
  十字架が光っていたので、私はここに来れば救われると思って、ここに来たんです」
  牧師は、訊ねた。
  「君の家は、どこにあるの。ご両親が、心配しているよ」
  秋子は、記憶喪失者を装った。
  「私、何も覚えていないんです。気が付いたら、電車に乗っていて...」
  「何を言っているんだ。君のような少女が、年間10人はやって来る。両親とケンカ
  して家出して、同じように記憶喪失のふりをして」
  牧師は、こわい顔をして言わなければならないことを言ってしまうと、今度は一転
  にこやかな顔になって、
  「でもね、僕の妻の手料理を食べると心がなごんで、素直な子に戻るみたいだから、
  君もそうしたら。そして一晩ゆっくり休んだら、明日の昼頃に帰るといい。さあ、外
  は寒いから、家の中に入りなさい」
  牧師の言うとおり、教会の中に入るとしばらくしておいしい食事をとることができた。
  牧師夫婦との会話は楽しく、いつの間にか、床に入る時間になった。
  「君は、客間で寝なさい。何か用事があったら、僕たちはここにいるから」
  秋子は、疲れと安心感からすぐに眠ってしまった。

 

   次の日、秋子は、楽器の音で目を覚ました。ヴァイオリン2台とクラリネット、
  ホルン、ファゴット、ヴィオラ、チェロ、コントラバス各1台が、狭い礼拝堂で
  心地良い音を奏でていた。やがて、美しい旋律が突然途絶えた。
  「やっぱり、今日は練習を休もう。主役のクラリネットが体調不良だから。本番
  までには、回復しといてもらわないといけないし」
  「どうもすみません。2、3日休めば、回復し、コンサートには間に合うと思うん
  です」
  「でも、それまでクラリネットなしで練習するんですか」
  「何を言っているんだ。本番になって、クラリネットなしでは困るだろ。さあ、
  君は帰ってゆっくり休養を取るんだ。そして元気になったら、たっぷり練習しよう。
  頼むよ」
  クラリネット奏者が、楽器を片付けて帰ろうとした時に、秋子は言った。
  「私、クラリネットなら出来ます」

 

   秋子はいつも携帯している、自分のクラリネットを大きな布鞄から出すと、それを
  組み立てた。
  「それじゃあ、シューベルトの八重奏曲(オクテット)から第4楽章のテーマを吹き
  ます」
  秋子が吹き始めるとしばらくして、ヴァイオリンが続いた。そしてコントラバスが。
  やがてすべての楽器が鳴り始めた。

 

   「君が、こんなにすばらしい演奏家だとは思わなかったよ。勝手なお願いだけど、
  ご両親には、僕からお願いするから、今度のコンサートに代わりに出てくれないか
  な。若い、未知の可能性を持っている演奏家と一緒に演奏することは、僕たちに
  とっても有意義なことだし、君にとっても将来のためにいいことだと思うよ」
  秋子は、同意し、父親に許可を得るために電話を入れた。ホルン奏者でもある牧師は、
  秋子が昨日からのいきさつを話し、ごめんなさいと謝るのを聞くと、すぐに受話器を
  そっと受け取って、
  「すばらしい娘さんをお持ちですね。もちろん、まだまだ未熟ですが、一緒に演奏し
  ている者に溶け込む術を心得ている。それに小さい時から音楽を習っているので、
  基本的なことは全て知っているし、リズム感も良い。もう少し時間があればとも思い
  ますが、少ない時間でも、コンサートで恥ずかしくない程度の演奏ができるように
  なってくれるでしょう」
  秋子が再び電話に出ると、父親は言った。
  「秋子、牧師さんはコンサート当日までの全てのめんどうを見ると言って下さって
  いるが、奥さんを手伝ってあげないとだめだぞ。家のことは心配しないでいいからな。
  今度のコンサート、秋子とは行けなくなったけど、夏美と客席から見ているから、
  頑張れよ」
  「父さん、何て言ったの...」
  「だから、今度秋子と2人で行こうと言っていたのは、秋子が今度一緒にコンサート
  をしようとしている演奏家たちの演奏会なんだよ。話しは変わるけど、秋子の好きな
  ●●●●のコンサートのチケットも買ったけど、これはキャンセルしておくから。
  だって、練習中にコンサートがあるんだから」
  「父さん、でも次回の演奏会は、一緒に見に行こうよ」
  「ああ、約束するよ」
  「父さん、ありがとう」

 

 翌日から、本格的な練習が始まった。秋子は、コンサートで演奏する、ベートー
ヴェンの七重奏曲とシューベルトの八重奏曲が好きな曲なので、しばしばクラリネ
ットのパートを以前からひとりで練習していた。また、クラリネットの音色に小さ
な頃から魅せられていたので、いかに良い音を出すかを日頃から研究していた。
もちろん、全てのパートがそろって全曲を演奏するのは、初めてであった。最初
とまどう事も多かったが、みんな親切でやさしい先生で、しかも彼らの子供である
かのようにかわいがってくれた。演奏会の前日には、クラリネットのパートの人が、

全快したと言って練習にやって来た。彼は、秋子が自己流で吹いていて問題がある
点を指摘し、コンサートに間に合うように無理なく改善できる方法を教えてくれた。

 

 舞台に演奏者が並び一礼をした時に、明らかに緊張している秋子を見て牧師は言った。
「何を恐れているの。君が少しくらい音をはずしたって、僕たちは怒ったりしないよ。
君のおかげで、演奏ができるんだから。お客さんたちも、何も君が音をはずすのを
聴きにきたんじゃない。君のいいところを聴きたいからきたんだ。自分の持っている
技術を存分に披露しなさい。そしたらあとできっといい反応があるから」
そういって、ウインクした。

 

 「父さん、どうだった」
コンサートのアンコール曲の演奏を終え、何度かのカーテンコールの後、花束を妹
と一緒に持ってきた父親にきいた。
「すばらしかったよ。実は、秋子には内緒にしていたけど...。来ていたんだよ」
そう言って、会場の一角を指さした。母親は、前に会った時よりもやせていたが、
自分の娘が立派な演奏をしたことに満足し、満面の笑みをたたえていた。
「私には、音楽はわからないから」
と、娘の演奏会に顔をだすことは今までなかったのだが...。
「母さん、来てくれてありがとう」
と言って、秋子は思いっきり手を振った。