プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生38」
山形行きの普通電車に乗ってからずっと小川は今読みかけの「マーティン・チャズルウィット」を秋子の前で読んでいたが、
山寺駅の手前のところでしおりを挟んで秋子に微笑みかけた。
「いつもすまないね。新婚旅行の時くらい、ずっと話をすればいいのに...」
「いいからいいから、残り200ページになってから1ヶ月間1ページも読めなかったんだから、気持ちはわかるわ」
「でも、この小説はなんというか、本当に異色の小説なんだ。最後にどんでん返しがあるのかもしれないけれど、主役、準
主役である、老マーティン・チャズルウィット、若マーティン・チャズルウィット(老マーティンの孫に当たる)、ペック
スニフの3人はみな好感の持てない頑固者や偽善者であるし、ジョーナス・チャズルウィット(老マーティンの弟アント
ニーの息子)なんかは凶暴な性格で目的を果たすためなら殺人を平気でするような人間なんだ。準主役とも言えるトマス・
ピンチも善人ではあるけれど、どこかふわふわした視点の定まらない浮ついた若年寄のようなこれも好感の持てない人物だ。
若マーティンがマーク・タップリーとアメリカで苦労して心を入れかえて頑張ろうとしているのかもしれないけれど、相変
わらず若マーティンは頑固者で誠実さに欠ける。タップリー、トマスの妹のルース・ピンチ、青竜旅館の女将のルービン
夫人、老マーティンの世話をしているメアリーなんかはディケンズの小説に頻繁に登場する魅力ある脇役なんだが...」
「ふふ、でも、それだけ小説に没頭できるのは羨ましいことだわ」
「それはそうなんだけれど、もう少し早く読めないと...。漫画の本を読むように活字を写真で写したように脳に写し込む
ことができる人やいわゆる斜め読みができる人をほんとに羨ましく思うよ」
「さあ、それは人それぞれだと思うわ。私はじっくり味わう時には誰だって、時間をかけるものだと思うけど。降りましょうか。
私、小川さんから小説の話を聞くのが好きだから、これからもどんどん読んで聞かせてね」
山寺五大堂の展望の良いところにふたりは腰掛けた。
「でも、小川さんって、少し凝り性なのかもしれない」
「そうだね、変わっているかもしれない。この新婚旅行も開通したばかりの青函トンネルを見たいというその僕の希望が
中心で、ついでに東北の名所を回っておこうというものなんだ。秋子さんにはつまらないものかもしれないね...」
「いいえ、そんなことはないわ。人任せの旅行より、思い出に残ると思うわ」
「こうして昨日の朝からずっと君と一緒だけれど、いつまでも一緒にいてほしいな」
「それは私からもお願いしたいことだわ」
その夜、小川が眠りにつくとディケンズ先生は現れた。
「そうさ、旅行というのはお金をかければいいものになるとは限らない。そうだ、考えようによっては趣味もそう考えられる
のかもしれない。本を少しずつ読むことで、日々の生活が楽しくなるのなら結構なことじゃないか」
「でも、僕の場合、貧乏性が染み付いてしまっているので、素敵なみんなから愛されている秋子さんを自分の思い通りにして
いいものかと思うんです。それから、自分の価値観が果たして正しいのかと迷うこともあるんです」
「そう、そこでアユミさんが必要になってくるんだよ」
「えーっ」