プチ小説「名曲の名盤 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ編」
「鼻田さんのベートーヴェンのピアノ・ソナタの聴き始めというのを教えていただけますか」
「わしは最初はベートーヴェンのピアノ・ソナタに興味がなかったんやが、スヴャトスラフ・リヒテルの「熱情」は鍵盤を思いっ切り打つので打楽器をひいているようだとどこかで読んで、RCAの廉価盤を購入して聴いてみた。それは物凄く面白い演奏だったし、裏面の「葬送行進曲付き」も心に沁みたので、しばらくはその世界に浸っていた。しかしそれからしばらくして、フリードリッヒ・グルダのアンコール集が気に入って、グルダと言えば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタとこれもどこかで情報を得て、当時、キングから出ていた廉価盤を購入するようになった。三大ソナタは特に魅力を感じなかったんやが、第15番の「田園」ソナタを聴いて、自分が田園を散策しているような気分になり、クラシック音楽の新しい魅力に触れた気がした。それと最後の第32番のピアノ・ソナタも物凄く感動して、当時は何度も何度も聴いたものやった。第15番はグルダに尽きるんやが、第32番は、アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリもええし、ウィルヘルム・ケンプもええんとちゃう」
「そのケンプの全集はどうですか」
「昔は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタと言えば、ケンプとウィルヘルム・バックハウスやったが、今はどうなんやろ。やっぱり音質より名演を取る人なら、この2人の大家となるやろ、ケンプは長年かかって作り上げた彼独自の演奏が見られる。即興的ファンタジーとか言うやっちゃ。その頂点が第23番「熱情」やが、どの演奏も素晴らしいので全集をいい音で聴き始めるといつまでもベートーヴェンのピアノ・ソナタの世界に浸っていたくなるのは間違いない。バックハウスは、「鍵盤の獅子王」と異名を取ったくらいやから、力強い演奏をしたんやが、リヒテルを聴いてしまうとバックハウスが普通の演奏に聞こえてしまいよる。わしはバックハウスでは、第21番「ワルトシュタイン」が好きやな」
「ウラディミール・アシュケナージやアルフレッド・ブレンデルも全集を出していますがどうですか」
「多分、水準以上の演奏で発売当時はブレンデルのベートーヴェンの三大ソナタはよくFMの番組でかかっていた記憶があるけど、グルダの「田園」ソナタやベネデッティ=ミケランジェリの第32番のような強烈な印象は残さんかった。そやけどここ10年でNHKの音楽の泉で、皆川達夫さんが解説されていた頃のことや、2回ブレンデルの「ワルトシュタイン」とアンダンテ・ファヴォリがかかって、ブレンデルって素晴らしいピアニストやったんやなぁ、今からでも遅くないから、アナログ盤を蒐集しよと思ったもんやった」
「では第1番からいいのを仰ってください」
「第4番からになるんやが、これはベネデッティ=ミケランジェリの名盤がある。若々しく明るい曲でしかもベートーヴェンらしさがある。ベートーヴェンの明るい曲がないですかと言われたら、まずこの曲を薦めるやろな。第8番「悲愴」は長年ルドルフ・ゼルキンがお気に入りやったが、最近はケンプやブレンデルもええなと思うようになった。ビリー・ジョエルが、This
Night という曲で第2楽章のメロディを取り入れていて、ポップスを歌っている人の中にもクラシック音楽ファンがおるんやなと認識したもんやった」
「This Nignt もいいですが、ぼくはジョン・デンバーの Annie's Song の方が好きですね」
「第14番「月光」はブレンデルの演奏がよくクラシックの番組で掛っとったけど、ええなと思わんかった。この曲は素人の人でも人を感動させる演奏ができる人はいくらでもおるからあえてと思うわ。そやけど、ミンドゥルー・カッツのは、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」とカップリングされていたということもあって、よう聴いたわ」
「「田園」はグルダですか」
「そうやなあ、ケンプのんも何回か聴いたんやけど、あの独特のゆったりした感じは聴けんかったわ。ケンプは、第17番「テンペスト」、第26番「告別」、第28番が一緒に入っているLPレコードがあって、これはよく聴いた」
「どこが良かったんでしょうか」
「「テンペスト」はケンプの代名詞となっている、幻想的ファンタジーが遺憾なく発揮されとる。「告別」は心にじんと来るええ演奏や」
「第28番はどうですか」
「わからん、わしはそこで針を上げてたからな。ほんでー、次は第29番「ハンマークラヴィーア」なんやが」
「えらい飛びますね」
「第24番や第28番が有名なソナタというのは分かっとるが、残念ながら、わしにはわからんかった。そやから、次は「ハンマークラヴィーア」なんやけど、ベートーヴェンはこの曲に、あらゆるピアノの技巧を盛り込んだと言われていて、確かに最初の2楽章はそれが楽しめるんやが、それに比べてあとの2つの楽章が物足りない。物足りないまま曲が終わるという感じや。普通クラヴィーアだけのところあえてハンマーというのをつけたのは、打楽器のイメージの曲を作ろうとしたんやと思う。そやけどこの頃、ベートーヴェンはかなり耳の病気が深刻やったみたいやから酷使でけんかったのかもしれん。健康な状態やったら、もっとすごい曲になっていたんやないかと思う」
「第30番、第31番、第32番は最晩年の曲として、昔は同じレコードに入っていました」
「どの曲も魅力的な曲で、暗くて重いイメージ、そやけど感動的な第32番は技巧が難しいからあんまり演奏されてないと思う。その代わり最晩年の曲でよく演奏されるのは第31番や。終わり方がちょっと物足らんけど、明るくて馴染みやすい曲や。ベートーヴェンの最晩年の境地は第32番なんやろけど、第31番のようなこともわしはできるんや、暗いだけとちゃうんやでと第31番でみんなに聴かせたかったんとちゃうんかな」
「そうですね」